他に誰がいるんですか
ひどく不機嫌な顔で斎藤が戻ってきた。彼の場合、上機嫌な時は殆ど無いのだが、今回は特別だ。まあ、上に呼び出されたのだから、碌でもない話だったのだろう。また出張なのかなとは予想した。
この前の出張の時は、も巻き込まれて大変だった。仕事の段取りは狂うわ、食事中に大砲を撃ち込まれるわで、本気で死ぬかと思った。今回はそういうことが無ければ良いのだが。
「お茶でも淹れましょうか?」
どうせ断られるだろうが、義理で訊いてみる。
「いらん」
案の定、不機嫌に断られてしまった。
とりあえず茶を淹れる手間は省けた。一応義理は果たしたのだから、後は自分の仕事に専念するだけである。
と思っていたら、もわもわと煙が漂ってきた。苛々するのは解るが、もの凄い勢いで煙草を吸うのは止めていただきたい。
今更煙草の煙如きで騒ぐほども繊細な女ではないが、これはひどい。あっという間に部屋の空気がくすんできた。
よくもまあ、これだけ吸って胸が悪くならないものである。次々と煙草が消費されていく様を観察しながら、は心底感心した。
煙草を吸わないには分からないが、煙草には苛々を和らげる効果があるらしい。今を斎藤を見ていると、あまり効果は無さそうであるが。それどころか逆に苛々は増幅されているようだ。体に悪いわ、精神衛生に悪いわ、も煙草臭くなるわで、こうなってくると斎藤の存在自体が害悪である。
「あのー、煙草吸うなら外でやってもらえます? 臭いんで」
「うるさい!」
無駄だとは思っていたが、やっぱり吐き捨てるように拒否されてしまった。『臭い』とはっきり言ったのがいけなかったのかもしれない。あれはなかなか破壊力のある言葉である。この男に“傷付く”感性があるのか知らないが、意外と地味に傷付いたのかもしれない。
それにしても、斎藤がこんなに不機嫌なのは珍しい。仏頂面が地顔のような男であるが、ここまで不機嫌なのは初めて見た。
一体、上と何を話してきたのだろう。無茶な出張も危険な仕事も粛々と受けてきた男である。そんな斎藤がここまで怒るなんて、余程のことを言われたに違いない。
上層部の話など全く気にしないだが、今回ばかりは気になった。案外つまらない理由なのかもしれないが、それでも気になる。
「何かあったんですか?」
できるだけ斎藤を刺激しないように、にしては珍しく柔らかい口調で尋ねる。
「転勤だ」
心底忌々しげに斎藤は吐き捨てた。
「あー………」
それは不機嫌になるはずだ。この様子だと地方に飛ばされるのだろう。
しかし、斎藤に都落ちするような失態があったのだろうか。この前の事件は主犯には逃げられたものの、武器密輸組織の壊滅には成功した。逃げた主犯も海上で行方不明になったというから、“逃亡”というより“自殺”だったのだろう。
主犯の自決を許してしまったのは、失態と言われれば失態なのかもしれないが、勝手に死んだものは仕方がない。裁判の手間と監獄での経費が削減されたのだから、かえって良かったのではないかとは思うのだが。
「何処に行かれるんですか?」
「北海道だ」
「あらら………」
これは流石のもかける言葉が無い。
が想像する北海道は、一言で言うと“未開の地”である。しかも冬は露西亜のように寒いと聞く。どちらか片方だけならまだしも、極寒の未開の地だなんて、左遷どころか流刑ではないか。
斎藤は良い上司とは言い難いが、これにはも同情した。人間性は兎も角、仕事はできる人なのに、凶悪犯が自殺したくらいで極寒の地に飛ばされるなんて、あんまりだ。
「そうか………。警部補から屯田兵になっちゃうんですね………」
「何を言ってるんだ、お前は?」
「違うんですか?」
の中では、北海道といえば屯田兵である。原生林を開拓したり、羆を撃ったりする仕事をさせられるかと思っていたが、どうやら違うようだ。
「露西亜って国があるだろ。その関係でだ」
「随分とまた話が大きくなりましたねぇ」
斎藤は言葉を濁しているが、要するに工作員の摘発なのだろう。あるいはその逆か。国際的なお仕事とは、予想外の大出世である。
露西亜が危険な国だというのは、新聞が盛んに書いているからも知っている。それなら軍の諜報部に任せておけばよさそうなものだが、国内の治安は警察の仕事だから、こっちにも振ってきたのだろう。
大きな仕事を任されたのだから喜べばいいのに、こんなに不機嫌なのは何なのだろう。露西亜語ができないからとか、そんな初歩的な理由ではない気がする。
「北海道、嫌なんですか?」
「ああ」
斎藤の表情に翳りが見えたような気がした。苦い過去でもあるのだろう。
「北海道、行ったことがあるんですか?」
「無い。だから―――――まあ、いい。お前には関係無いことだしな」
口が滑ったと思ったのか、斎藤は誤魔化すように煙草に火を点けた。
行ったことが無い北海道に嫌な思い出があるなんて、訳が分からない。北海道から来た女に振られたのか、北海道に行く女を追いかけられなかったのか、の貧弱な想像力ではそれくらいしか思い浮かばない。
斎藤くらいの歳になれば、いろいろ過去もあるだろう。詮索しないのが優しさというものだ。
「それにしても北海道とはねぇ………」
露西亜だの昔話だのを抜きにしても、北海道は辛い。大雪と羆の恐怖に晒されて生きていかなければならないのだ。しかも斎藤の性格では、頼れる友人知人を作るのも難しいだろう。
そんなところで斎藤は生きていけるのだろうか。何となく、ひっそりと凍死している姿が想像してしまえるのが困る。
「………ともかく、体だけは大事にしてくださいね」
斎藤の悲惨な未来しか想像できなくて、にしては珍しく優しい言葉をかけてしまうのだった。
斎藤が北海道に行くということは、は別の部署に移ることになるのだろう。きっと定時に帰れるようになるし、訳の分からない書類と格闘することも無くなると思う。
それはがずっと望んでいたことのはずなのに、何故か嬉しくない。嬉しくないのは多分、斎藤の今後が気になるせいだろう。
北海道の誰かが斎藤の部下になるとして、とても長持ちするとは思えない。今までだって、以前の部下たちは次々と辞めていったのだ。北国育ちは根性があると聞くが、アレに耐えられるかどうか………。
「よしっ!」
北海道警には何の義理も無いが、彼らを救えるのはしかいない。東京より北は行ったことは無いが、内地からの移住者も沢山いると聞くから、何とかなるだろう。
「一寸人事課に行ってきます」
「は?」
突然鼻息を荒くして立ち上がったを、斎藤はぽかんとして見上げた。
「北海道警を救えるのは私しかいないんです! 人事課と直接話をつけてきます」
「おい………俺を何だと思ってるんだ?」
斎藤は苦々しげな顔をした。この男の苦々しい顔はいつものことだから、は気にしない。
おそらく斎藤は、自分が北海道警の平和を乱す悪者と思われていると解釈したのだろう。大体当たっているからも否定はしないが。
「お前が何を言ったところで決定は覆らんぞ」
「そりゃそうでしょうよ。だから私の転勤をお願いするんです」
「………え?」
煙草の灰を落とすのも忘れ、斎藤は固まった。予想外の展開すぎて頭がついていかないのだろう。
女性職員の転勤というのは前例が無い。そもそも結婚して辞める女を、転勤させてまで働かせるという発想がないのだ。それを自ら志願するというのだから、物好きどころの騒ぎではない。
「大丈夫か、お前?」
今度は心配されてしまった。転勤、しかも北海道行きを志願するのだから当然だ。
勿論、はとち狂ってなどいない。考えた時間は短いが、自分なりによく考えて出した結論だ。
「どうせ独り身ですからね。何処に行っても大して変わらないでしょ」
結婚したい結婚したいと常日頃から思っているが、何処にでも簡単に行けるというのは独身者の特権だ。結婚していたら、こんなことも即決できなかった。
考えてみたら、新天地に行けば新しい出会いが待っているかもしれないではないか。北海道には日本中から入植者が来ているという。不義理をして内地にいられなくなった者もいるだろうが、新天地で一発当てようという冒険家もいるはずだ。そんな冒険野郎は東京の男よりも魅力的に思える。
斎藤は少し考えた後、何とも微妙な顔をした。
「まさかお前、俺のこと―――――」
「それだけはありませんから!」
そこは力一杯否定した。
の決断はそういう誤解を受けても仕方ないものだろうが、それだけは絶対に無い。婚期は逃しても、まだには選り好みする権利は残っているはずだ。一生ものなのだから、どうせならもう少し若い男から選びたい。
「そんなんじゃなくて、警部補の相手できる人間なんて、他に誰がいるんですか? また部下に逃げられる日々なんて、警部補だって嫌でしょう?」
「〜〜〜〜〜〜」
予想できる事実なだけに、斎藤も返す言葉が無いようだ。ばつの悪そうな顔をして煙草を揉み消した。
「じゃ、そういうことなんで。いってきま〜す」
勝ち誇ったようににやにや笑って、は足取り軽く出て行った。
主人公さんの脳内北海道って、一体どんなところなんだ?(笑)
三毛別羆事件はこれよりずっと後の事件なんで、主人公さんが熊の恐ろしさを知ってるのは一寸不自然ですが、まあいいや。子供の頃に阿蘇くま牧場(今はカドリードミニオンっていうんですっけ?)で見た羆は可愛かったんだけどなあ。餌を投げてやると両手でキャッチしたり、「ちょうだい」の仕草をするんですぜ。
野生の羆は本当にヤバいみたいです。“三毛別羆事件”とか“福岡大学ワンダーフォーゲル部事件”で検索したら、えらいものがでてきた(閲覧注意!)。羆怖すぎるだろ。ツキノワグマさんはお人好しだったんだな。
そんなわけで、斎藤も主人公さんも“試される大地”で試されまくりの生活でしょう。超頑張れ!