休暇を取らせていただきます
何がなんだか解らない。いつもの店でいつものように夕飯を食べて帰るだけだったのに、なぜか店が吹っ飛んで、は警察署にいる。一緒にいた店主は別室で事情聴取中らしい。
『赤べこ』は何処にでもある普通の飲食店だ。客層も良く、何か問題を抱えているようには見えなかった。店主家族も恨みを買うような人間ではない。
ただの通り魔的な犯行なのだろうか。しかしそれにしては、凶器はアームストロング砲と思われる大掛かりなものだ。誤爆だったのか、それとも本当に『赤べこ』が狙われたとしか考えられない。
しかし一体誰が―――――
扉を叩く音がして、斎藤が入ってきた。
「………警部補」
斎藤が来るとは意外だった。心配してわざわざ駆けつけるような性格の男ではない。
斎藤の手には調書の一式がある。の聴取担当は斎藤ということか。
「あれ? 何で………?」
基本的に、直属の上司が部下の聴取をすることは無い。それ以前に、事件担当者以外の者が聴取する事があり得ない。
もしかして、今回の事件は斎藤が追っている事件と同じ者なのだろうか。しかし彼が追っているのは武器密売組織だ。武器密売組織と『赤べこ』を繋ぐものは何もない。
にはますます訳が分からなくなってきた。『赤べこ』が吹き飛んだことも、斎藤が出てきたことも、何かおかしな夢を見ているようだ。
「飯、まだだろ? 何か食うか?」
椅子に座りながら斎藤が尋ねる。
「いえ………」
あれほど腹が減っていたのに、今は何も食べる気になれない。あの爆発で胃が縮こまってしまったようだ。
「そうか。まあ、あんなことがあった後じゃな。
『赤べこ』はよく行くのか?」
「ええ、割と」
「今日行くことは誰かに話したか?」
「いえ、思いつきで行ったんで誰にも―――――」
そこまで言って、は恐ろしいことを思いついた。
あのアームストロング砲は『赤べこ』を狙ってのではなく、を狙ったものだったのだろうか。一人の人間を狙うにはあまりにも大掛かりすぎるが、店ごと吹っ飛ばすことで組織の力を見せつけるのと、警察に対する脅しにはなる。
もしも狙いがだとしたら、『赤べこ』はとんだとばっちりだ。自分のせいで妙たちは店も住まいも失ったのだと思うと、全身から血の気が引いていく。
「まさか……私が………」
「いや、まだそうと決まった訳じゃない」
真っ青になって震えるに、斎藤は即座に否定する。
けれど斎藤のあの訊き方では、が狙われたと疑っているようだ。『赤べこ』にこれといった原因が無いのだから、当然の流れである。
「でも私が狙われたのだとしたら………」
まだ決まったわけではないけれど、もしそうだとしたらは何処にも行けなくなってしまう。今回はと妙の父親しかいなかったが、もしも他の客もいるところでアームストロング砲を撃ち込まれたら、今度こそ死傷者が出てしまうだろう。
警察関係者は何かと狙われやすいものだと聞いていたが、そういうのは斎藤のような警官だけで、のような事務員には関係無い話だと思っていた。指揮者である斎藤が放置されて、自分が狙われるなんて理不尽だ。
「どうして私なんですか? 私を狙ったって、捜査には何の影響も無いじゃないですかっ」
考えれば考えるほど、狙われる恐怖よりも理不尽な攻撃に対する怒りの方が強くなった。
捜査を妨害するなら、斎藤を攻撃するのが一番手っとり早い。を狙うのは彼女が一番弱くて攻撃しやすいからなのだろうが、それはあまりにも卑怯ではないか。非合法集団に正々堂々を求めるのはおかしな話だが。
「ま、俺に対する脅しだろ」
怒るに対して斎藤はあっさりとしたものだ。こういうことは想定内というか、案外慣れているのかもしれない。
斎藤の下に就いた部下が長続きしなかった本当の理由が解ったような気がした。仕事がきついとか斎藤の態度が悪いとか生易しい問題ではなく、本気で命の危険を感じていたのかもしれない。
「ひょっとして、今までもこういうことがあったんですか?」
恐る恐るは尋ねる。もしも過去にもこんなことがあったのなら、今この場で辞表を書いてやるつもりだ。
「現場の奴らが殉職することはあるが、お前みたいなのが襲われることはなかったなあ。だから不思議なんだ。お前、今の案件のことを誰かに話したか?」
「そんなことしませんよ。守秘義務くらい知ってます」
さらりと凄いことを言われたような気がしたが、今はどうでもいい。
斎藤は何か考えるような顔をした。の口から漏れていないとなれば、警察の中に内通者がいるとしか考えられない。怪しそうな人間を考えているのだろう。
内通者がいるかどうかは兎も角として、敵にの情報が漏れているとしたら恐ろしくて外も歩けない。できることなら事件が解決するまで家に籠もっていたいくらいだ。
「―――――そうだ」
には有給が殆ど残っている。これを全部使って家に籠もっていれば良いではないか。相手に捜査から外れたと思わせれば、きっと狙われることは無い。
そう思ったらは清々しい気持ちになった。このところずっと仕事仕事で、休日も溜まった家事に追われて休日が休日になっていなかった。これを機会にゆっくり休みたい。
「休暇を取らせていただきます」
「は?」
の突然の宣言に、斎藤は間抜けな声を出した。構わずには続ける。
「落ち着くまで仕事から離れます。そうすれば向こうも捜査とは無関係だと思うでしょうし」
「うーん………」
斎藤は腕を組んで考え込む。“落ち着くまで”となると殆ど無期限の休暇だ。即答は難しい。
「私が狙われているのだとしたら、動き回らない方がいいと思います。『赤べこ』みたいにまた誰かを巻き込むことは避けたいですし」
は畳みかけるように訴える。身の安全が懸かっているのだから必死だ。
「それはそうだが………。長期休暇となるとすぐに返事はできん。とりあえず明日は休みということにして、後で返事することにしよう」
いつもは即断即決の斎藤だが、今回は歯切れが悪い。危機感が無いのか何なのか判らないが、そんなことではが困る。
「どっちにしても捜査本部からは外してください。お願いしますよ」
強い口調では念押しした。
結局、有給が無くなるまでは休暇扱いの許可が出た。その代わり期間中は官舎で過ごし、外出は不可ということだ。本当に密輸組織に狙われているのだとしたら、これくらいしないと守りきれないのだという。
かなり不自由な生活を強いられることになるが、身の安全には代えられない。は快く承諾した。
しかし安全は確保されたものの、何もしないというのは退屈なものだ。一日がひどく長く感じられる。初めのうちは持ち込んだ本を読んでごろごろしていたが、それにも飽きてしまった。
今までが忙しすぎたせいで、余暇の使い方というのを忘れてしまったのだろう。あんなに好きだった読書も手芸も、今一つ気分が乗らない。
代わりに気になるのは仕事のことだ。次に出勤する時には恐ろしいことになっているだろうと想像する。特にしたいことが無いなら、此処で書類整理でもするようにすれば良かった。
「………………」
ごろんと横になり、天井を見上げて考える。
一度仕事から完全に離れたいと思っていたけれど、いざ離れてみると寂しいものである。忙しいだの残業続きだの文句ばかり言っていたけれど、意外とは“忙しく働く自分”というのが好きなのかもしれない。
ということは、常に仕事を持ってくる斎藤は相性の良い上司なのだろうか。それについては眉間に皺を寄せて考えて込んでしまう。
斎藤のことは悪い人間ではないと思う。書類仕事を溜め込むことを除けば、出来る上司だろう。実際、あの捜査本部は彼の指揮で上手く回っている。縄張り意識の強いこの組織で余所者が指揮を執るのは大変なことだ。
そういう上司の下でそれなりに仕事を任されているというのは、一応は評価されているのだろう。此処の警官も、斎藤はのことを信頼していると言っていた。自分の仕事を評価されるというのは嬉しい。
部下の仕事を全く評価しない上司もいるのだから、そういう意味では斎藤は良い上司だ。今の仕事はお茶汲みや雑用よりはやり甲斐がある。そんな仕事を与える斎藤と、それにやり甲斐を感じているは、上司と部下としては相性が良いのかもしれない。
と、玄関の戸を叩く音がした。
「はーい」
ぴょんと起き上がって、は玄関を開ける。
「よう」
そこにいたのは斎藤だった。手には紙袋を持っていて、昼食を持ってきたらしい。
「昼飯を一緒に食おうと思ってな。一人で退屈だろう」
「何もやることが無いですからねぇ。あ、どうぞ」
一人ではぼんやりするくらいしかできないのだから、話し相手が出来るのはありがたい。は上機嫌に招き入れた。
「それにしても、こう毎日出来合いのものだと飽きますね」
官舎の台所は茶を沸かす程度のもので、料理は出来ない。単身者向けの造りだから、自炊はしないと想定しているのだろう。
買ってきたものもたまには良いが、これが毎日となると結構辛い。味が単調なのか、すぐに飽きてしまうのだ。おまけに胸焼けまでする。
「ああ、その件だが、もう家に帰れるぞ。奴らの狙いはお前じゃなかった」
「はい?」
斎藤の口調はあまりにも軽く、は思わず聞き返してしまった。
密輸組織の狙いがでなかったとしたら、『赤べこ』が狙われたのか。しかしただの飲食店が外国の組織に狙われる理由が判らない。
斎藤は食べながら、
「一寸ややこしい事情で詳しくは話せないんだがな。お前もあの店も巻き添えを食らったってことだ」
「はあ………」
にわかには信じられないが、斎藤がそう言うのならそうなのだろう。とりあえず自分が原因でなくて良かった。
が標的ではないと判ったら、有給は終わりだ。家にだって帰れるし、外出も自由だ。
「じゃあ、これ食べたら帰って良いですか?」
そうと決まったらの声は弾む。一刻も早く家に帰って、溜まった洗濯物を片付けたり、自分の手料理を食べたい。
「ああ。何なら午後からでも仕事に戻ってもいいぞ」
「いやあ、ははははは………」
斎藤は冗談めかして言うが、全く冗談に聞こえない。この様子ではきっと書類が溜まっているのだろう。想像したら少しげんなりした。
さっきまで仕事に前向きになりそうだったのに、いざ仕事に戻るとなるともう少し休みたいと思う。斎藤の下にいる限り、こんなまとまった休みなんか無いのだ。
「それは明日からにします」
翌朝出勤すると、の机には書類が積み上げられていた。予想していたとはいえ、実際に目の当たりにすると、何もしないうちから疲れてしまう。
斎藤はというと、素知らぬ顔で煙草を吸っている。諸悪の根元のくせにこの態度はひどい。
休暇中は、悪い人ではないとか、相性の良い上司なのかもしれないとも思ったが、撤回だ。斎藤は悪い人で、最悪の上司だ。
「あああああもうっっ!! 何なんですか、これはっっ?!」
荷物を叩きつけるように置いて、は叫んだ。
仕事のこととかいろいろ見詰め直す時間が出来たようですが………相変わらずのようですな(笑)。
長期の休みって最初は嬉しいんですけど、あんまり長くなると退屈になるものです。毎日が仕事漬けなら尚更。
でも復帰すると溜まった仕事にがっくりきたりして、社会人の長期休暇って碌なもんじゃねぇなあ(笑)。