さっき言ったじゃないですか!
は相変わらず出向中である。いつになったら帰れるのだろうと思うのだが、斎藤の任務が終わらない限りは戻れないのだ。出向中とはいえ、本来の仕事もこなさなくてはならない。こちらの仕事もして、あちらの仕事も、となると仕事量は二倍。それでいて給料は殆ど変わらないのだから、理不尽としか言いようがない。本当に何とかならないものか。
「あー、もうっっ!」
算盤をがしゃがしゃと引っ掻いて、は癇癪を起こした。
相変わらず領収書は片付かない。処理しても処理しても斎藤が次々持ってくるのだから当然だ。捜査に経費は付きものとはいえ、どうしてこうも次々湧いて出てくるのか。斎藤がわざとやっているとしか思えない。
しかし癇癪を起こしたところで領収書が減るわけではない。かといって一人でやったところで終わる目処も立たず、は頬杖をついて溜め息をついた。
こうやって毎日毎日書類と領収書に追われ、貴重な花の時代を徒に過ごしているのかと思うと、何だか虚しくなってくる。同年輩の者は素敵な出会いを求めて西へ東へと奔走しているだろうに、自分は一体何なのだろう。眉間に皺を寄せて領収書と格闘して、若さを擦り減らしている場合ではないのである。
それもこれも全部、斎藤のせいだ。あの男がやたらと仕事を抱えるものだから、がいらぬとばっちりを受けているのである。これでが嫁き遅れでもしたら(既に遅れているのだが)、斎藤に責任を取ってもらわなくてはならない。
「戻ったぞ」
が苛々していると、元凶が暢気な様子で戻ってきた。そして彼女の気も知らず、ひらりと領収書を出す。
「これも頼む」
「………………」
危うくキレそうになるのを、は何とか堪えた。大きく深呼吸をして、できるだけ落ち着いた声を出すように意識して言う。
「よくもまあ、毎日毎日持って来られますね」
「その都度持って来いと言ったのはお前だろう」
斎藤はしれっとして応える。
確かにその都度持って来いと言ったのはだが、ものには限度というものがある。こんなに毎日持って来られるのは予想外だ。
ひょっとして経費を私的に流用して領収書が増えているのではないかとも疑ってみたこともあったが、どうやらそれは無いらしい。悪どそうな顔をしているが、意外とそういうところはきちんとしている。
不正が無いだけに、いくら領収書の数が多くてもには文句の付けようが無い。粛々と処理をするしかないのだ。
は盛大に溜め息をついた。
「ああもう、ちっとも片付かないんだから。今日も残業ですよ」
「………少し手伝おうか?」
不機嫌なの様子に少し悪いと思ったか、斎藤が控えめに提案してきた。
斎藤に手伝ってもらったところで、慣れない作業で余計に手間取ってしまいそうな気がする。最近になっても漸く気付いたが、斎藤は本当に机に向かう仕事に向かない性格なのだ。短時間ならそうでもないが、長時間になると集中力が続かなくなるらしい。
しかし、折角そう言ってくれるのなら、一寸は手伝ってもらうべきか。一度自分でやらせてみたらの苦労が解って、少しは考えてくれるようになるかもしれない。
「そうですね。じゃあお願いします」
殊勝な態度で頼んでみると、斎藤は一瞬意外そうな顔をした。の様子が意外だったのか、本当に頼まれると思っていなかったのか。斎藤の表情を見ると、どうやら後者のようだ。
だが、今更「さっきのはナシ」は無しである。斎藤の表情の変化に気付かない振りをして、は領収書の束を渡した。
領収書の整理をしてる斎藤の姿を見て、出入りする警官たちがぎょっとした顔をする。強面の警部補が難しい顔で算盤を弾いている姿は異様に映るのだろう。
確かにの目から見ても、斎藤の顔は鬼気迫っている。それほどの量を渡しているわけではないのだから、そこまで必死になることもないだろうと思うのだが、慣れない作業では目も吊り上がるものなのかもしれない。
「おい、これの仕訳は何になるんだ?」
斎藤がに領収書を見せる。それをちらりと見て、
「これは“捜査費”です」
「じゃあ、これも捜査費か?」
「それは“通信費”です」
「それならこれは―――――」
「これは交通費、こっちは通信費、こっちは雑費! さっき説明したでしょう!」
次々やってくる質問に、は怒り気味に説明する。
仕訳については、一番最初に説明した。斎藤は飲み込みが早いようだから大丈夫だと思っていたのだが、予想外に質問が多すぎる。これではの仕事が捗らない。
間違わないように質問する姿勢は評価する。変な意地を張って間違った帳簿を付けられるよりは、遙かに良いことだ。ああ見えて斎藤は真面目な性格なのだろう。
それは解っているのだが、どうしても苛立ってしまうのだ。きっとは、他人に教えることに向いていないのだろう。心が狭いのかもしれない。
部下に質問できる斎藤は多分、器が大きいのだろう。年の功といえばそうなのかもしれないが、これはも見習うべきところだ。
深く反省し、は穏やかな声で言う。
「すみません、興奮しすぎました。とりあえずこれはそういうことなんで、お願いします」
「そうか。解った」
怒っているかと思いきや、斎藤は案外あっさりしている。普通なら怒鳴られそうなものだが、器の大きな男だ。“大人の男”というのはこういうのを言うのかもしれない。
意外なところで斎藤を見直すことになってしまった。同時に自分の不出来なところにも気付いてしまったわけだが。あまりカリカリしないで斎藤に優しくできる心の余裕を持とうと、は思う。
珍しく反省していると、斎藤が思い出したように言った。
「あんまりカリカリすると皺になるぞ」
「〜〜〜〜〜〜っ」
その一言が無ければ、斎藤を見直していたものを。余計な一言で全てを台無しにしてしまう男だ。
誰のせいでカリカリしているのかと言いたいところをぐっと堪え、は無言で算盤を弾く。
こうやって領収書を見ていると、斎藤の外での行動が何となく見えてくる。どれだけ移動して、どんなところに出入りしているのか。一ヶ所に留まっている日もあれば、驚くほど移動している日もある。捜査の内容までは見えないが、外では大変なようだ。
此処に来てからというもの、斎藤の仕事ぶりには驚かされるばかりだ。も反省して、警視庁にいた頃よりは労ろうと心掛けている。心掛けてはいても、こうやって一寸したことで爆発してしまうのが未熟なところなのだが。
もう少し仕事に余裕ができれば、心にも余裕ができるのだろうと思う。心に余裕ができれば、斎藤を労るのも自然にできるようになるだろう。そのためにもさっさと目先の仕事を減らしたいものだ。
幸い、今日は斎藤が手伝ってくれる。二人で今日一日残業して頑張れば、かなり片付くと思いたい。
気合いを入れ直してもう一頑張り、というところで、斎藤が再び声をかけてきた。
「おい、これは雑費でよかったか?」
今度は優しく教えようと思っていただったが、領収書を見た途端、その気持ちも吹き飛んでしまった。
さっき教えたのと同じ内容の領収書である。さっきは一体何を聞いていたのか。もしかして、覚える気が無いのではないではないかと疑ってしまう。
「これは捜査費! さっき言ったじゃないですか!」
斎藤を労ろうと決心した直後だというのに、これである。の人間としての器は、まだまだ大きくなりそうにない。
前回で斎藤の凄さを理解して、優しくなろうと思った主人公さんですが………やっぱダメじゃん(笑)。斎藤の方が遥かに大人だよ。
まあ、自分も仕事を抱えながら人にも教えるっていうのは、心に余裕が無いと難しいですけどね。自分にも言えることです、はい。
しかし主人公さん、どうしていつもこんなに忙しいんだ? 斎藤は斎藤で忙しく働いているようだし、そういう部署なんだろうか(←何を今更)。