何か淹れましょうか?

 斎藤が出勤しなくなって数日が過ぎた。あれから何の音沙汰も無く、彼が何処で何をしているのか、には全く判らない。
 とりあえず、斎藤がいなくてもの仕事に何の支障も無いことは判った。そもそも彼女の仕事は、斎藤が持ってきた領収書を整理して経費を算出したり、事件に必要な資料を揃えたりと、斎藤がいないと発生しない作業ばかりなのだ。斎藤がいない時は、はっきり言って暇なのである。
 お陰で、これまで後回しにしていた経費の計算ができる。ずっと経理課に頭を下げて待ってもらっていたから、斎藤がいない今のうちに片付けてしまいたい。
 ついでに部屋の中も整理したい。斎藤がいる時は、なかなか手をつけられなかったのだ。
 そう考えると、斎藤がいなくてもはそれなりに忙しいらしい。というより、暇な中にも何かしら用事を見つけて、常に忙しくしていたい性分なのだろう。
 算盤をパチパチ弾いていると、警部が入ってきた。
「暇そうにしているかと思っていたが………忙しそうだな」
 警部も、斎藤がいなければは暇だろうと思っていたらしい。少し意外そうな顔をした。
「まあ、それなりにですね」
 算盤を弾く手を止め、は応える。
「忙しいなら断れば良かったか………」
 何を引き受けてきたのか、警部は少し困った顔をした。
「何をですか?」
「済まないが、今から藤田警部補の所へ出張してくれ。人手が足りないそうだ」
「出張?」
 意外な指示に、は頓狂な声を出した。
 のような女子の事務員が出張など、聞いたことが無い。しかも今からとは。今やっている仕事はどうするのか。
「今、経理に出す書類を作ってるんですけど………。締め切りをずっと待ってもらってるんです」
「それよりこっちが優先だ。経理には私から話しておこう」
 何だか分からないが、またの仕事は後回しにされるらしい。警部の口ぶりではの仕事を誰かが代わってくれるようでもなく、帰ってきたらまた経理に厭味を言われそうだ。
 しかし、業務命令となったら仕方がない。平職員のには断る権利は無いのである。
「どれくらいの出張ですか?」
「藤田警部補の任務が終わるまでだ」
「えー………」
 何とも頼りない返答である。どんな任務なのか知らないが、には迷惑な話だ。
 まったく、斎藤はいてもいなくてもの仕事を増やしてくれる。これは謝礼でも貰わなくてはやってられない。そんなことを言っても、どうせ何も出はしないだろうが。
 うんざりとした顔では溜め息をついた。





 斎藤が出向していたのは、東京府内の警察署だった。の家から通勤できる場所だったため、特に準備する必要が無かったのは幸いだ。
 警部がやたら勿体ぶるから地方にいるかと思っていたのに、こんな近くにいたのなら、こちらにも顔を出せとは言いたい。斎藤の決裁印待ちの書類がいくつかあったのだ。
「なんだ、早かったじゃないか。暇だったのか?」
 の顔を見た斎藤が意外そうに言った。自分で呼び出しておきながら、ふざけた言い草である。
「すぐに来いって言ったの、そっちでしょうが。私も忙しいんですよ」
 は憮然として応える。
「荷物、何処に置けば良いですか?」
「そこに置いておけ。お前の席だ」
 斎藤が指したのは、部屋の片隅に置かれた小さな机だ。随分古いもののようで、のために倉庫から引っ張り出してきたらしい。
 一応雑巾掛けはしてあるようだが、触ると少しざらついている。掌で軽く払って、は荷物を置いた。
 斎藤の任務は特殊だから、また二人だけの仕事だと思っていたが、此処は一寸した捜査本部のようだ。ひっきりなしに人が出入りしていて、こんな環境に慣れないには落ち着かない。極秘任務といっても、大人数で取りかかるものもあるらしい。
「早速だが、これの整理を頼む」
 その声と同時に、斎藤が書類の山を置いた。
 が来るまで溜め込んでいたのか、整理が追い付かなくなって呼びつけられたのか判らないが、見ただけでげっそりするような量だ。毎度のことながら、よくもまあここまで放置していたものである。
 書類を見てみるに、今回の事件は武器密売組織に関することらしい。開国して以来、武器や麻薬の密売が増えている。にはよく分からないが、ああいう組織にとって、日本は魅力的な市場なのだろう。
 外国の物が沢山入って来てお洒落を楽しめるようになったのは良いことだが、こういうものが入ってくるのは困る。の仕事を増やされたら、せっかく買ったリボンも日傘も披露する機会が無くなってしまうではないか。
 書類を見る限りでは、内偵はかなり進んでいるようだ。後は突入がいつになるかというところか。には関係無いことだが、斎藤は最前線に出ることになるだろう。
 書類を見ながら、は斎藤の様子を観察する。
 広い机に地図を広げ、斎藤は警官たちと何やら話し合っている。小声だからには聞こえないが、斎藤たちの表情は険しい。
 こうやって斎藤が本格的に仕事をしている姿を見るのは初めてのことだ。の見る斎藤はいつも、煙草を吸っているか、書類に印鑑を捺しているだけの、いてもいなくてもいいような上司といった様子なのに、今の姿とは別人である。
 知らないところで斎藤はこうやって仕事をしていたのかと、は驚いた。彼女の前に座っている時は“休憩中”だったのだろうか。こうやって見ていると、本当に仕事が出来る男のようである。他の上司たちが“藤田警部補は仕事が出来る男”と言っていたのは本当だったのかもしれない。
「一寸出かけてくる」
 話が纏まったらしく、斎藤は警官たちを連れて出て行った。
 付き従っている警官たちの表情を見るに、彼らは斎藤に一目置いているようだ。此処の警官たちとでは、斎藤に対する評価は反対らしい。
さん……でしたっけ?」
 斎藤たちが出て行って暫くして、若い警官が話しかけてきた。
「はい」
 相手はの好みではないから、“素敵な出会い”は期待できないが、若い男と話すのは久しぶりだから一寸嬉しい。もしかしたらこの警官の友人を紹介してもらう機会があるかもしれないから、は愛想良く返事する。数少ない機会にはダボハゼのように食らいつくのだ。
 が、警官の言葉は意外なものだった。
「藤田警部補って、本庁ではどんな感じなんですか?」
「は?」
 のような若い女子職員がやって来たというのに、彼女ではなくあんな中年男に興味があるとは。この警官は男色家なのだろうかとは疑ってしまう。
 とんでもない疑いを掛けられているとは思いもよらない警官は、興味津々といった様子で、
「あっちでの部下はさん一人って聞いてたから。いつもあの調子じゃたまらんでしょう?」
「はあ………」
 警官の言う“あの調子”がどの調子なのかにはまだピンとこないが、まあ大変なのだろう。なりに大変だが、警官の“たまらん”は彼女とは別方向で大変なようだ。
「いや、普通ですけど………。煙草吸って、書類に印鑑捺して、外回り行って………。まあ、仕事押し付けられるのは大変ですけど」
「ええっ?! 警部補の仕事してるんですか?!」
「えっ? あ、はい」
 警官の大袈裟な驚きぶりに、の方がびっくりしてしまった。
「いや凄いなあ。うちでは絶対自分の仕事を誰かに任せたりしないのに。それどころか全部抱え込もうとするから、俺らが困ってるくらいですよ。さん、信頼されてるんですね」
「………………」
 何だか感心されているようだか、の気分は複雑だ。斎藤がに仕事を押し付けるのは、信頼しているとかそういう問題ではないと思う。単に本庁の執務室は彼の休憩所なのだ。
 何と応えるべきか悩むに、警官は尊敬の眼差しで話しかける。
「今回だって、俺らがやるって言ったのにわざわざさんを呼んだんですから。どんな出来る女が来るんだろうって、みんなで話してたんですよ」
「出来る女とか、そういうのじゃないですよ」
 随分と過大評価されているようで居心地が悪いが、褒められるのは悪い気はしない。
 しかし、こっちの署員でもできるようなことをわざわざ呼び出したというのは気になる。此処の人間には頼みづらいと思ったのだろうか。あの斎藤に“遠慮”などという上等なものがあるとは思えないのだが。
「此処の人たちで間に合うなら、わざわざ呼ばなくても良かったのに。遠慮してたんですかねぇ」
「あ、警部補に限って、それは無いですよ」
 失礼なほどきっぱりと警官は言い切った。やはり此処でも斎藤はそういう人間に見られていたらしい。は思わず苦笑してしまった。
「ですよね〜」
「そうですよ。あの人、誰にでも遠慮無しだから」
 警官も一緒になって笑う。続けて、
「やっぱり信頼してるんだと思いますよ、さんのこと」
「えー………」
 信頼と言えば聞こえは良いが、要するに何でも押し付けやすい相手なのだろうとは思う。何でも引き受けてしまうから、扱いやすい部下なのだ。
 しかし、の前までの部下たちは、殆ど仕事を任されていなかった。斎藤の怖い雰囲気に耐えられなくて退職したくらいだから、彼女たちは特別気の強い方ではなかったはずだ。どちらかというと、今日まで居座っているの方が図太い。
 気弱な前任者たちではなく、図太いにだけ仕事を押し付けていたというのは、やはり斎藤なりに思うところがあったのだろうか。それが“信頼”なのかは判らないが。
「そんないいものじゃないですよ、多分」
 信頼されていると思いたいが、やっぱりこき使われているだけのような気がする。でも、一寸は信頼してもらえているのかな、と苦笑いしては応えた。





 斎藤が戻って来たのは、日が暮れた後だった。他の警官たちはとっくに戻って帰宅したから、外では単独行動だったのだろう。此処の警官が、藤田警部補は単独行動ばかりで困ると言っていた。
「何だ、まだいたのか?」
 斎藤は驚いたように言うが、いつも仕事している時間である。周りがみんな帰って部屋ががらんとしているから、同じ時間でも遅く感じるのかもしれない。
「いつもこんな感じですよ」
「そうだったか?」
 がそういってもまだ納得できないのか、斎藤は首を傾げている。この男には時間の感覚というものがあまり無いのだろう。
 斎藤がいくら首を傾げても普段と同じ時間であるのは変わりがないのだから、は黙って自分の仕事を続ける。さっさとキリの良いところまで終わらせて帰りたいのだ。
 捜査資料を一つ一つ丁寧に見ていたせいで、余計な時間がかかってしまった。だが、そうやって見ていたお陰で判ったこともある。
 斎藤はいつも何処をほっつき歩いているのかと疑問に思っていたのだが、この捜査資料で謎が解けた。ただの見回りと思っていたのは、内偵を進めていたのだ。かなり詳しいところまで一人で調べていて、これだけやっていれば本庁で仕事はしたくなくなるはずである。これだけの資料を作るのも大変だっただろう。が気付かなかったということは、自宅に持ち帰って仕事をしていたのか。
 はこれまで自分ばかり仕事をしていると思っていたが、斎藤はそれ以上にこなしていたのだ。いつも文句を言っていたのだから、少しくらい反論してくれたらよかったのにと思う。こんなに忙しい人だと分かっていたなら、だって黙って斎藤の仕事を引き受けていたのだ。
「何か淹れましょうか?」
「………どういう風の吹き回しだ?」
 折角から茶を淹れてやろうと言っているのに、失礼な言い草である。今まで自分から茶を入れてやったことが無いから、斎藤が警戒するのも無理は無いが、
「たまにはお茶くらい淹れてあげようかと思いましてね。いらないならいいですよ」
「じゃあ頼む」
 斎藤はまだ怪訝な顔をしているが、それはの日頃の行いのせいだろう。茶を淹れるだけでそんな顔をされるなんて、余程は斎藤に冷たくしていたようだ。その辺は彼女も認める。
 知らなかったとはいえ、今までぐうたら上司と思い込んでいたのは悪かったと思う。本庁に戻ればまた置き物のように座っているだけの上司になってしまうのだろうが、外で働いているのだからそれも大目に見てやろう。斎藤だって大変なのだ。
「どうぞ」
 は湯呑を斎藤の机に置いた。
「………しかしまあ、珍しいこともあるもんだな」
 が茶を淹れたのが余程衝撃的だったのか、斎藤はまだ信じられないように湯呑をしげしげと見ている。そんな様子を見ていると、は何となく笑えてきた。
「まあ、此処に来ていろいろと思うところがありましてね。警部補も大変なんだから、一寸は労わってあげようかと」
「そりゃまあ、なぁ………」
 の優しい言葉は違和感があり過ぎて居心地が悪いのか、斎藤は困ったようにぶつぶつ呟きながら茶を啜った。
<あとがき>
 部下さん、どうやら斎藤のことを見直したようです。っていうか斎藤、主人公さんの前でどんだけ気を抜いてるんだよ?(笑)
 しかし自分の大変さを部下さんに全く悟られてないなんて、斎藤凄いな。できる男だ。
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