納得出来ません!
『自分のことは自分でやりましょう』を、今年の目標に設定した。書き初めで書いた半紙を執務室の壁に貼り、斎藤の意識改革を促している。仕事始めの日、、半紙を見て斎藤は一寸渋い顔をしたが、何も言わなかった。一言言えば、から怒涛の反撃を食らうと思ったのだろう。
いい歳をした大人二人が働く部屋に貼られているのがこんな言葉とは、間抜けな感じだ。たまにやって来る他の部署の職員も、張り紙を見て微妙な顔をしている。ひどいのになると、にやにや笑いを噛み殺しているくらいなのだ。
そんな感じで今年は始まり、嵐のような年度末も何とか乗り越えることが出来た。そして夏を迎えたのだが―――――
「………これっておかしくないですか?」
我慢の限界とばかりに、は低く唸るような声を出した。
「何がだ?」
対する斎藤は、夏だというのに涼しい顔で書類に印鑑を捺している。この男には夏の暑さもの不機嫌も関係無いのだろう。
斎藤のこの態度はいつものことで、も軽く流しているのだが、今日は癪に障る。この暑さのせいで怒りの沸点が低くなっているのかもしれない。
「自分のことは自分でしましょう、って決めたのに、相変わらず私が警部補の仕事をやってるじゃないですか」
の半紙も空しく、未だに書類仕事は彼女の役割なのだ。斎藤は実務で忙しいと言うが、目の前の様子を見る限りでは、煙草なんぞ吹かして暇そうである。
斎藤は有能な密偵だと周囲は言うが、はその仕事ぶりを知らない。彼女の知る斎藤は、いつも煙草を吸っている暇そうなオッサンなのだ。有能だの忙しいだの言われても、には納得できない。
「人間には向き不向きがあるんだ。前から言ってるだろ」
「そんなの、納得できません!」
毎度お馴染みの遣り取りであるが、は毎回苛々する。
向き不向きで仕事が割り当てられるのが当然なんて、負担の割合がそれぞれ大幅に変わってしまうではないか。実際、二人で執務室にいる時は、ばかり必死で仕事をしている。斎藤も遊んでいるわけではないのだろうが、外回りの時は何をしているのか判らないのだし、には自分ばかり苦労しているようにしか思えない。
だって、仕事をしたくないわけではないのだ。今の仕事は一人で完結できるものが殆どだから、団体行動が苦手な彼女には向いていると思う。
しかし、いくら向いている仕事とはいえ、他人の仕事まで押し付けられるのは困るのだ。だってそろそろ残業無しの生活に戻って、素敵な出会いを探したい。
「向いてるとか向いてないとか関係無く、やらなきゃいけないんです! それが仕事なんです!」
斎藤ものような小娘にこんな説教をされたくないだろうが、それでも言わずにはいられない。自分のやりたいことだけをやっていては、仕事は回らないのだ。
案の定、斎藤は渋い顔をする。
「………ちょっと出かけてくる」
いたたまれなくなったのか、斎藤は日本刀を掴んで出て行った。
「………ったく、何処ほっつき歩いてんだか………」
もうすぐ終業時間なのだが、まだ斎藤は戻ってこない。ほとぼりを冷ますための外出だからすぐに帰って来ると思っていたのだが、一体何をしているのだろう。
斎藤がふらっと出て行くのはいつものことなのだが、大体二、三時間後には帰って来ていた。こんなに遅いのは初めてのことだ。外出先で何かあったのだろうか。
しかし何かあったにしても、何の連絡も無いのはおかしい。出先で用事が出来た時は、最寄りの交番から連絡が入るようになっているのだ。
「困ったなぁ………」
斎藤が戻らないと、は帰るに帰れない。書類に印鑑を貰わないといけないのもあるが、明日以降の伝達事項もある。書き置きをして帰ろうかとも考えたが、斎藤がそれをきちんと見てくれるかも心配だ。
まったく、帰らないなら帰らないで、出て行く前に一言言っていけばいいのに。斎藤の仕事は特殊だから、任務終了までは部下にも話せないこともあるのは、も理解している。だが、基本的な連絡くらいしていってくれてもいいではないか。
このまま連絡があるまで待機するか、知らぬ振りして帰るか。斎藤のことだから、が勝手に帰ったところで何も言わないだろうが、何となく気になる。
斎藤に限って、出先で事故や事件に巻き込まれたということは無いだろう。あの男は殺そうとしても死なないだろうし、大けがを負っても気合いで帰ってきそうだ。そういう方面ではは全くしていない。しかし、そういう相手だからこそ、何の連絡も無いのは気になる。
悶々と考えているうちに、終業のベルが鳴った。
今日は珍しく時間内に仕事が片付いたのだから、さっさと帰りたい。待っていても斎藤がいつ戻るか判らないのだから、先に帰っても誰にも文句を言われることは無いだろう。
そう思いながらも、はいつもより時間をかけて片付ける。意味も無く棚を整理してみたりして、何だかんだ言っても斎藤の帰りを待たずに帰るのは気が引けるのだろう。
そんな感じでダラダラと片付けていると、扉を叩く音がした。
「はい」
やっと斎藤から連絡が入ったらしい。は扉を開けた。
立っていたのは使い走りの若手職員ではなく、斎藤の上司になる警部だった。
「あ、お疲れ様です。警部補は外出中なんですけど………」
言伝かと思っていたから、警部の登場は意外だった。
「その件だが、藤田警部補は暫くこちらに出勤しないことになった。今後何かある時は私の方まで持ってきてくれ」
「あ、そうですか」
どうやら出先で任務が入ったらしい。それとも最初から任務のために出て行ったのか。何にしても、はもう帰って良いらしい。
「警部補、今どちらにいらっしゃるんですか?」
「それに関しては極秘事項だ」
「いつ頃戻られるんでしょう?」
「任務終了までは戻らない予定だ」
「任務って、今抱えている分ですか?」
「それは君が知る必要は無い」
何を訊いても警部は取りつく島も無い。
斎藤が担当する任務はのような平職員に教えられるものではないのだろうが、彼女はその任務に関する書類を作っているのだ。斎藤がどんな任務についているかにも知る権利はあるはずだ。
「でも、私が警部補の書類を作ってるんですけど。必要な書類があれば揃えなければいけませんし………」
「そんなことは君が心配することではない」
が事情を話しても、警部の答えは素っ気ない。
警部にしてみれば、極秘任務の内容を知る人間は出来るだけ限られたものにしたいのだろう。斎藤が処理する事件は、公になっては困るものが多いのだ。だからも警部の考えは理解できる。
しかしは、そんな任務に関することを一部とはいえ任されているのだ。これまで仕事上で知った事は誰にも話したことは無いし、これからも話すつもりは無い。それに関しては、斎藤も信用していると思う。
「まあ藤田警部補が心配なのは解るが、君は君の仕事だけに集中していればいい。警部補が戻るまでは定時で帰れるぞ。良かったな」
いい加減に話を切り上げたくなったのか、警部は冗談めかして言うと、自分の部屋に戻っていった。
まあ警部の言う通り、定時で帰れるのはありがたい。自分の仕事だけすれば良いというのも、以前から望んでいたことだ。この状況はにとってありがたいことのはずなのだが―――――
「うーん………」
何だか分からないが、あまり嬉しくない。胸がもやもやするというか、釈然としないのだ。
警部は冗談で言ったのだろうが、本当に斎藤が心配なのだろうか。あんな男を心配してやる義理は無いし、心配のしようも無いのだが。あんなのを心配するより、自分の“素敵な出会い”を心配するのが先である。
もやもやするのは、任務の内容が気になるせいだろう。何を訊いても極秘事項の一点張りでは、大した内容でなくても気になるというものだ。
「………ま、いっか」
自分でも納得できないが、考えていても仕方がない。とにかく暫くは定時で帰れるのだ。帰れるうちに帰っておかなくては。
斎藤のことは忘れることにして、は帰り支度を始めた。
相変わらずの二人ですが、斎藤の急な任務で一寸変化があったようです。
部下さん、心配なんかしてないなどと言っていますが、斎藤の様子は気になるようで………。面倒臭いと思いつつも、頼られてるって自負しているようですし。
この話、次回に続きます。