これを一体どうしろと?
警察に仕事に盆も正月も無いが、事務系は一応年末進行らしきものがある。今年の仕事は今年のうちに、というわけで、今から捜査資料の整理である。が、目まぐるしく担当が変わるこの部署のこと。書類整理も一筋縄ではいかないようで―――――
「これを一体どうしろと?」
顔を軽く引き攣らせ、が低く呟く。
目の前にあるのは棚一杯の書類だ。斎藤が担当する事件は複雑なものが多く、書類の量も膨大である。しかも整理しなければならないのは、この棚だけではない。
こんなことになるまで、前任者たちは何をしていたのだろうか。どうせ逃げることしか考えていなかったのだろうが、せめて自分の仕事をこなしてから去って欲しかった。
「これを事件ごとに時系列に綴って、地下の資料室に運び込む。さっき説明しただろう」
まるっきり他人事だと思って、斎藤は涼しい顔だ。
が訊きたいのは仕事の手順などではなく、この惨状をどう考えているのかということだ。こうなるまで放っておいた斎藤も斎藤である。几帳面に見える男であるが、自分の仕事以外のことはかなりどうでもいいのだろう。
事件ごとに時系列に綴る、と口で言うのは簡単だが(実際、子供でもできる作業だが)、問題はこの量である。通常作業に加えてこの作業もとなると、年内には確実に終わらない。
「この山が片付くまで、警部補の書類はご自分で作ってくださいね」
「えっ………?!」
突き放すようなの言葉に、斎藤がぎょっとした。この状況でもに書類作成を押し付ける気でいたらしい。
薄々予想はしていたが、斎藤の書類嫌いには、は心底呆れた。普段なら兎も角、こんな状況でもに仕事を押し付けようとは。実務ではもの凄く有能なのだろうが、これは人としてどうかと思う。
「当たり前でしょう。私を殺す気ですか」
自分の仕事に書類整理に斎藤の仕事までこなしたら、冗談ではなくは死んでしまう。素敵な出会いも無く、結婚もできないまま過労死というのだけは避けたい。
「とにかく、今月は今までと状況が違います。今年の仕事は今年のうちにというのなら、自分のことは自分でやってください。いいですね?」
「………………」
斎藤は不服そうであるが、そんなことはの知ったことではない。上司といえど、他人に構っている暇は無いのである。
そして業務時間終了後、は黙々と書類を綴っている。
過去の書類を見て気付いたが、が来る前は斎藤が自分で書いていたようだ。彼が事務仕事をしなくなったのはが来てかららしい。
それまで自分の書類は自分で作っていたくせに、が来てから丸投げというのはどういうことなのか。軽く首を絞めてやりたくなる発見である。
そして斎藤はというと、不本意そうな顔で報告書を書いている。不本意も何も、自分の仕事なのだが。
斎藤だって、やろうと思えば書類の一つや二つ、軽いのである。が引き受けてしまっていたからやらなくなっただけで、やればできるのだ。
これからは自分のことは自分でやらせようとが考えていると、斎藤が筆を置いた。
「仕事、交換してやろうか? ずっとそればかりでは飽きるだろう」
偉そうに言っているが、自分が仕事に飽きてしまったに決まっている。まだ一時間も経っていないというのに、飽きるのが早過ぎだ。
交換して欲しいならもう少し下からものを言えばいいものを、それは出来ないらしい。下手に出たら負けだと思っているのかもしれない。
もう少し可愛げのある言い方だったら考えないでもなかったが、こんな態度では交換する気にもならない。否、交換することを考えてもいいというの隙が、斎藤に書類仕事をしなくても良いと思わせていたのかもしれない。
斎藤が自分の仕事をしなくなったのは、が甘やかしていたせいだったのだ。仕方が無いと諦めていたことが斎藤を駄目にしていたのだと、は深く反省した。
作業の手を止め、は真っ直ぐに斎藤を見る。
「結構です。私のことはお気になさらずに、ご自分の仕事をなさってください。さっきから全然進んでないじゃないですか」
いつもなら仕方なさそうに交換するところを取りつく島も無く断られ、斎藤は意外そうな顔をした。そんな顔もには気に入らない。
「警部補、私が来る前は自分で書類を書いてらしたじゃないですか。今までは警部補は出来ない人だと思ってたから代筆してましたけど、できるんだったら自分でやってください」
出来ないことを押し付けられるのは、納得できなくても仕方ないと割り切れる。だが、今までやってきたことをが来た途端に押し付けられるのは、どう考えてもおかしい。だって忙しいのだから、他人の仕事に手を貸している余裕は無いのだ。
いつになく強く拒否されて、斎藤は少ししょんぼりしているように見えたが、そんなことはの知ったことではない。斎藤に構うのは時間の無駄だとばかりに、は作業を再開させた。
山積みの書類をさくさくと整理しながら、はそっと斎藤の様子を窺う。斎藤は不機嫌な様子で、相変わらず手許は動いていない。本当に書けないのか書く気が無いのか判らないが、この分では一時間経っても一枚も書き上がらなそうだ。
と、二人の視線がぶつかった。まずい、とは慌てて下を向いたが、逃がすものかと斎藤が話しかけてくる。
「何だ、俺の仕事が気になるのか?」
「いいえ、別に」
「その顔は気にしている顔だ。そんなに気になるなら代わってやろう」
は全力で拒否しているのだが、そんなことは斎藤には全く気にならないようだ。やっと仕事を押し付けられると思っているのか、心なしか声が弾んでいる。
確かに斎藤の仕事は気になるが、別にがやりたいわけではない。本当にこの調子で終わるのだろうかと心配しているだけだ。代わってやろうだなんてとんでもない。
「その調子で本当に終わるのか心配しているだけです。それ提出できないと、正月早々出勤ですよ」
他人事であることを強調するようなよそよそしい声で言う。
斎藤が作っている書類は、本当ならもう提出していなければならないものなのだ。それを仕事始めの日まで延ばしてもらっているのだから、今日仕上げなければ休日出勤確定である。
が、斎藤も他人事のように、
「俺は別に構わんが、お前は嫌だろう」
「はい?」
一体何を言っているのかと、は頓狂な声を上げた。
「俺が元旦から仕事なら、お前も当然そうだろうが。誰が資料を揃えるんだ?」
「自分でやってくださいよ、子供じゃあるまいし」
「俺が揃えるのは構わんが、書庫が大変なことになるぞ」
「〜〜〜〜〜どんな脅迫ですか、それは」
確かに斎藤の言う通り、彼に資料を触らせたら滅茶苦茶にされそうである。此処の捜査資料は全ての管理になっていて、何が何処にあるのか斎藤は全く知らないのだ。来年の初仕事が書庫の整理というのは勘弁してもらいたい。
自分がいなければ斎藤は資料一つ出せないのかと思うと、は絶望的な気分になってきた。それでよく今まで仕事が成り立ってきたものだ。訳のわからぬ威圧感を放つ上にこの調子では、前任者たちが逃げ出すはずである。
こうなってしまっては仕方が無い。正月早々斎藤と顔を突き合わせることだけは避けたいのだ。
は立ち上がると、無言で斎藤の書類を取り上げた。
「やっとその気になったか。じゃ、頼んだぞ」
苛々全開のの様子など全く気にも留めず、斎藤の声は弾んでいる。普段なら五分で投げ出してしまいそうな書類綴りの作業も楽しそうだ。
これからは斎藤に書類を書かせようと決めたばかりなのに、もうこれだ。せめて来年からでも書かせるように躾け直したいものだとは思う。
資料の管理といい、書類作成といい、がいないと何ともならないというのは問題だ。斎藤は現場の人間だから事務ができなくても問題視されないのだろうが、全くできないというのは的には大問題なのだ。
「まったく、前の人たちの苦労が解りますよ。なんで私が警部補の書類を作ってあげなきゃならないんだか」
筆を走らせながら腹立ちまぎれに呟くに、斎藤は書類にひもを通しつつ、
「前の奴らはお茶汲みと資料の整理くらいだったから、楽だったと思うぞ」
「………え?」
予想外の答えに、の手が止まった。
そういえば、が来る前は斎藤が自分で書類を書いていたのである。経費の計算などの細かいことは前任者たちがやっていたようであるが、斎藤の言うことが本当ならばの代になってから仕事が激増したことになる。
「何で私からこんなことになってるんですかっ?!」
あまりのことに、思わず筆を机に叩きつけてしまった。
が、斎藤は平然として、
「仕事を任せられる奴には任せる。今までの奴らには安心して任せられなかったが、お前なら大丈夫だと判断した。冬の賞与も上がっていただろう。来年度から男並みに昇給するように口利きしてやったから感謝しろ」
「………………」
何と返していいのやら、には言葉が出ない。
確かに冬の賞与は何かの間違いではないかと思うような金額だった。来年度から男並みの給料になるというのも、実家から出て独り暮らしをしている身には有難い。仕事振りを認められたというのも、喜ぶべきことだろう。
しかし、これから先もこの調子というのは困る。非常に困る。これでは素敵な出会いなんか夢のまた夢ではないか。は男のように仕事に生きるつもりはさらさら無いのだ。
「そんなの困ります! 私は―――――」
「お前のことは信頼している。来年も期待してるぞ」
血相を変えて反論しようとするに、いつも面白くなさそうな無表情の斎藤にしては珍しく笑顔で言う。
そんな顔で信頼しているだの期待しているだの言われると、は何も言えなくなってしまう。それが斎藤の作戦で、このまま黙っていては来年も引き続き男並みに働かされるのは分かっているのだが、それでも何も言えない。
の予定では三年くらい前に結婚退職して、今頃は二人目が腹にいるはずだったのだが、この調子では来年も素敵な出会いが無いまま独り身を通してしまいそうである。「仕事が恋人」とは言いたくないし、「頼りになるのは男よりお金」なんてもっと言いたくないけれど、この調子ではそうなってしまいそうだ。
女学生の頃に思い描いていた未来予想図とは大きくかけ離れ過ぎている現在にがどんよりしていると、斎藤がにやにやしながら書類の束を持ってきた。
「ついでにこれも宜しくな」
一体何処に隠し持っていたのか、これもまた今年中に提出しなければならないもののようである。自分の仕事もこなしつつこの書類まで処理しようとなったら、大晦日まで出勤になるだろう。仕事納めの後はのんびり年末年始を過ごそうと思っていたのに、最悪である。
というか、どうせ押し付けるなら、どうしてもっと早く持って来ないのか。どうせ忘れていたのだろうが、こんなものを忘れるなと言いたい。明日、締め切りを延ばしてもらうために各部署に頭を下げに行くのはなのだ。
「………これを一体どうしろと?」
この調子で来年は一体どうなるのだろうと、は頭を抱えるのだった。
上司に信頼されるのは悪い気はしないけど、仕事が増えるのはちと困る、ってところですかね。っていうか部下さん、厭々ながらも完全に女房役ですな。
しかし部下さん、斎藤の世話をし続けているうちに“素敵な出会い”を見失ってしまいそうだ。大丈夫か?(笑)