また○○ですか……
斎藤は無類の蕎麦好きのようだ。昼食はいつも行きつけの蕎麦屋でかけ蕎麦を食べているらしい。残業で夜食を出前で取る時も、かけ蕎麦だ。此処に配属されて以来、は斎藤がかけ蕎麦以外のものを食べているところを見たことが無い。金が無いのだろうかと疑いたくなるが、役職もあり危険手当も出るはずの斎藤がよりも貧乏なわけがない。借金があるのかただのケチなのかとも考えてみたのだが、それもどうも違うようだ。多分本当に蕎麦が好きなのだろう。
蕎麦が好きならそれはそれで良いのだが、毎回かけ蕎麦というのは如何なものか。具入りの蕎麦を食べなければ必要な栄養が補給できないのではないかと、他人事ながらは心配になる。斎藤はより身体が大きいのだから、毎度の食事がかけ蕎麦一杯というのはどう考えても足りていないと思う。実際、斎藤は同年代の他の職員に比べて痩せている。
「警部補、お夜食何にします?」
今日もいつもの如く残業である。帰りは遅くなりそうだから、職場で夕飯だ。夜食の手配をするのもの大事な仕事である。
「かけ蕎麦」
書類に目を通しながら斎藤が答える。
「またかけ蕎麦ですか………」
いくら好きとはいえ、毎回毎回飽きないものだとは呆れた。確か今日の斎藤の昼食もかけ蕎麦である。昼とは違う店に出前を頼むとはいえ、昼も夜も同じものというのは気分が悪くなりそうだ。
食べるのは斎藤なのだから、昼も夜も同じものでもが口出しすることではない。部下が上司の食生活に口出しするというのも、本来は憚られるものだろう。しかしかけ蕎麦に異常とも言える執着を見せられると、としては口出しせずにはいられない。
斎藤がかけ蕎麦ばかり食べてがりがりに痩せ細ろうとの知ったことではないが、彼女は今夜は奮発して天丼を取りたいと思っているのだ。斎藤は勝手にしろと言うだろうが、上司がかけ蕎麦で部下が天丼というのは対外的に具合が悪い。出前持ちは実に当たり前のように斎藤の前に天丼を置くだろうし、たまにやって来る他所の部署の者も二人の夜食を見て微妙な顔をするのだ。
かといって斎藤に合わせた安いものを取ろうとすると、素うどんくらいしか選択肢が無い。病人ではないのだから素うどんは勘弁してもらいたいものだ。
「好きなんだよ。悪いか?」
の方を見もせずに、斎藤は不機嫌に応える。彼が不機嫌なのはいつものことだから、別に怒っているわけではないだろう。
「悪くはないんですけど、たまにはもう一寸良いものを食べてくださいよ。警部補がかけ蕎麦で私がそれより高いものっていうのは、一寸調子が悪いんですよ」
「何がだ?」
「ほら、部下が上司より高いものを食べるのを良く思わない人もいるでしょうし」
「気にするな」
「いや、でも―――――」
「お前が金を出して食うものだから、他人がとやかく言う筋合いは無いだろう」
「まあ……そりゃそうですが………」
これでは全く話にならない。斎藤は周りの目を気にしない性質だからどう思われようと構わないのだろうが、はまだそこまで割り切れないのだ。
確かに斎藤の言うことは正しい。夜食代を出すのはなのだから、彼女の好きな物を食べるのが道理だ。それはその通りなのだが、やはり周りからどんな目で見られるか気になる。は斎藤ほど自分を貫ける人間ではないのだろう。
たかだか夜食で自分を貫くなど大袈裟だが、食べ物のことは大事である。天丼を親子丼に落とすべきか悩むと同時に、今後どうしたものかとは真剣に悩んでしまうのだった。
結局その日は天丼を取ったのだが、やはり他の部署の者が来た時は気まずかった。斎藤のように周りの目を気にしない強靭な精神力を持ちたいものだが、まだまだには修業が必要のようだ。
しかし周りの目を気にしない強靭な精神力を手に入れてしまうと、天丼は食えるとしても素敵な出会いは更に遠ざかりそうな気がする。昨日、二人の夜食を見た警官は非常に微妙な顔をしていた。もし「藤田警部補の部下は、上司がかけ蕎麦なのに天丼を食ってた。図々しい」なんて言い触らされでもしたら一大事だ。
たかだか天丼如きで自分の評判を落としたくはない。かといって素うどんは嫌だ。たかが夜食といえど、残業が当たり前のにとっては十分に悩ましい案件だ。
「おい、今日の夜食だが―――――」
「今日はお弁当を持ってきました」
出前の催促をする斎藤に素っ気なく応えると、は机の下に置いていた風呂敷包みを出した。
上司より高いものを食べて微妙な顔をされるなら、最初から出前を取らなければいいのである。変な噂は立てられたくないが、好きなものを食べたいとなったら、弁当持参が一番だ。これなら好きなものが食べられて節約にもなり、ついでに家庭的なところも見せられると、良いこと尽くめである。
「ああ、そうか………」
まさか弁当持参で来るとは思わなかったらしく、斎藤は少し驚いた顔をした。しかしそれ以上に驚いたのは弁当箱の大きさだろう。
が出した風呂敷包みは、とても女が一人で食べる量ではなかったのだ。どう見ても二段重ねの重箱くらいはある。
「………そんなに食うのか?」
大抵のことでは驚かない斎藤も、これには流石に引き気味である。
「一人分なわけないでしょう。一寸作り過ぎちゃったから、警部補もよかったらどうぞ」
「ああ、そういうことか………」
相変わらずはにこりともしないが、斎藤は安心したような顔をした。これを目の前で平らげられたりしたらどうしようかと思っていたのだろう。そんなわけがあるかとは思ったが黙っている。
一寸作り過ぎたとは言ったが、一人分を作り過ぎてこんな量になるわけがない。ちゃんと最初から二人分作っておいたのだ。
毎日かけ蕎麦では、いつか絶対栄養失調になるに決まっている。斎藤が身体を壊すのは勝手だが、彼に倒れられてはの仕事に支障が出るのだ。一人分作るのも二人分作るのも手間は大して変わらないのだから作ってみた。
「お口に合うか分かりませんが」
取り皿と箸を出すと、は弁当を広げた。
中身は家にあったものを適当に詰めただけの色気も可愛げも無いものであるが、かけ蕎麦よりはマシだとは思っている。斎藤は独り身で、どうせ碌なものは食べていないに決まっているのだから野菜が中心だ。精進料理のようだが、彼にはこれくらいで丁度良い。
意外とちゃんとしている中身に驚きつつも斎藤は自分の椅子を持って来ると、と対面に座って箸を取った。
「ちゃんと自炊してるんだな」
斎藤なりに何か言わなければと思ったのだろう。しかし失礼な言い草である。
も一応、忙しいなりに料理を作っている。毎日かけ蕎麦で良いと思っている斎藤とは違うのだ。
「まあ、それなりには」
もう少し可愛げのある返事をすれば良かったかと思ったが、今更に可愛げを出されても斎藤も困るだろう。はそのまま食事を始めた。斎藤も無言でそれに続く。
二人で一つの弁当を食べているのだから何か会話があっても良さそうなものだが、二人とも無言である。今まで碌に話らしい話をしたことが無いのだから、今になって話すようなことは何も無いのだ。
沈黙は慣れているから苦痛ではないが、人が作った弁当を食べているのだから何が言うことはないのかとは思う。この男が相手だから褒めちぎられるのは始めから期待していないが、多少は何か言うことがあるだろう。こういう気配りができないから、歴代の部下たちにすぐ逃げられる羽目になるのだ。いい歳して独り身なのも、その辺りが原因に違いない。いい歳して独身というのはも他人のことを言えた義理ではないのだが。
斎藤が何も言わないならから話を振るべきなのかもしれないが。こちらから話しかけるのは負けのような気がする。こんなことに勝ち負けがあるのか分からないが、要するに癪なのだろう。そういう変な意地を張るところが縁遠くしているのだろうと自身も思うが、性分だから仕方がない。
黙々と食べ続けて中身が残り少なくなった頃、漸く斎藤が口を開いた。
「料理が得意だとは思わなかった。これならいつでも嫁にいけるんじゃないか?」
「まあ、素敵な出会いがあればですねぇ。今の状態では無理でしょうけど」
「うーん………」
の素っ気ない返答に思うところがあるのか、斎藤は何やら考え込むように低く唸った。
素敵な出会いが転がり込んでこないのは自分にも原因があるとは思うが、斎藤も理由の一つだとは思っている。斎藤がやるべき事務処理までがやっているから、ほぼ毎日のようにこんなに遅くまで残業なのだ。こんな生活では友人に素敵な出会いを斡旋してもらうこともできない。奇跡的に素敵な出会いがあったとしても、それを持続させることは難しいだろう。
「素敵な出会いとやらを用意してもらうように他の課に声をかけてやろうか?」
「結構です!」
斎藤の申し出をはきっぱりと撥ねつける。
斎藤なりに親切で言っているつもりなのかもしれないが、そんなことを触れ回られた日には恥ずかしくて他所の課に書類を届けに行けなくなってしまう。一緒に仕事をしているうちに何となく………という流れで付き合うのなら職場恋愛も抵抗が無いが、紹介を頼んで回るなんて余程がっついているようではないか。そういう微妙なところが判らないから、この男は困る。
「そんなことより、警部補がご自分で事務処理をしてくだされば全て解決なんですよ。そしたら私ももっと早く帰れて、自力で出会いを探せますから」
「その辺は………まあ……うん………」
そこを突っ込まれると痛いのか、斎藤は困った顔でもそもそ呟く。一応、に仕事を押しつけているのは悪いと思ってはいるらしい。
「とにかく、私がお嫁に行けるかどうかは警部補次第みたいなものですから。ちゃあんと考えてくださいね」
どうせ言っても無駄だろうと思いつつそう言うと、は弁当を片付け始めた。
予想通り、翌日も相変わらずは斎藤の事務仕事を処理している。も期待してはいなかったので、それについては何も思わない。
斎藤はというと、朝から外回りに出ている。何処に行っているのかは知らないが、この分では昼も外で済ませてくるのだろう。
そういえばもそろそろ昼食の時間である。丁度切りの良いところであるし、何を食べようかと考えながら机の上を片付けていると、斎藤が戻ってきた。
「やる。昨日の礼だ」
いきなり斎藤が小さな紙袋を投げてよこしてきた。礼をくれるならもっと愛想良く出来ないものかとは思ったが、この男にそんなものを期待するのが間違っていると思い直す。
中を開けると、斎藤が買ってきたとは思えないほど可愛らしい包装をされた箱が入っていた。どうやら菓子箱らしい。この男がどんな顔でこれを買ってきたのかと想像すると、は可笑しくなる。
礼を貰えるとは思っていなかったし、貰えるとしてもその辺で買ってきたような煎餅くらいしか想像していなかっただけに、こんな可愛らしい箱に入ったものを持ってきたのは驚きだった。斎藤なりに色々考えていたのだろう。色々問題のある男ではあるが、意外と可愛いところもあるものだ。
「ありがとうございます」
「ついでに昼飯も一緒にどうだ? 奢るぞ」
「あらまあ………」
菓子の次は昼飯とは、随分と気前が良いものだ。一体どういう風の吹き回しだろうとは驚いた。
だが、斎藤が連れて行ってくれる所といったら、多分行きつけの蕎麦屋だろう。となると当然斎藤はかけ蕎麦であるはずだから、もそれに合わせることになってしまう。奢ってもらう身分だから贅沢は言えないのだが、かけ蕎麦は微妙だ。
どうしたものかとが考えていると、斎藤が付け足すように言った。
「折角だから鰻を食いに行くか」
「えぇっっ?!」
これにはも大袈裟なくらいびっくりしてしまった。そんな豪勢なものを奢ってくれることより、斎藤がそんなこってりとしたものも食べるのだということに驚いた。
大袈裟な反応にむっとしながらも斎藤は言葉を続ける。
「いつも世話になってるからな。その礼だ」
「はぁ………」
昨日言ったことを少しは気にしていたのだろうか。気にしているのなら、仕事面にも反映されると良いのだが。
しかしまあ、部下を労わるということを覚えたのは大きな進歩である。無愛想だし仕事は押し付けるしで困った上司ではあるけれど、悪い人間ではないのだろう。判りにくかったりズレていたりするだけで、本当は良い人間なのかもしれない。
「じゃあ、遠慮なく御馳走になります」
ひょっとして鰻は今後の賄賂ではないかと一瞬思ったが、は素直に頭を下げた。
上司の食事が質素過ぎると、部下が気を遣うんだよなぁ。
ずっと気になってたんですけど、斎藤って外ではかけ蕎麦以外のものは食べないのかなあ。よく身体がもつものだ。っていうか、よく飽きないものだ(笑)。