お疲れ様です

 が所属している部署はには、“同僚”というものがいない。他所の部署との交流も殆ど無い、いわゆる離れ小島的なところである。
 此処に配属された時は、自分もついに肩叩きかと、がっくりきたものだ。上司一人、部下一人の島流しのような部屋で、しかもそこに配属された女性職員はすぐに辞めてしまうという曰く付きの物件である。きっと、いつまでも辞めない女性職員を処分するための部署に違いないと思っていたのだ。
 だが、実際に働いてみると、どうやら自分の認識は間違っていたらしいということが解った。上司一人、部下一人という、一見閑職のように思わせながら、その内情はあり得ないほどの激務である。毎日毎日残業で、休日出勤も当たり前。お茶くみと書類整理が主な仕事で、終業時間五分前から帰る準備をしている他の部署とは全然違う。これでは、男性職員の花嫁候補として採用された女性職員が逃げるはずである。
 これまで年季の入った女性職員ばかりが配属されていたのは、肩叩き的な意味ではなく、要するに結婚を諦めたのだと上から勝手に判断されていたのだろう。結婚を諦めた女は仕事に生きるしか道は無いわけで、そうなると男並みに働くだろうと解釈されて配属されていたわけだ。ちなみには、婚期は逃しつつあるが、別に結婚を諦めたわけではない。
 とはいえ、同僚もおらず、こうも仕事漬けの毎日では、素敵な出会いは遠ざかる一方だ。これでは本当に仕事に生きるしか道が無くなってしまう。同僚がいないなら、せめて上司だけでも何とかならないものか、とは窓際の席に座っている男をちらりと見た。
 の上司は、藤田五郎という警部補だ。が、奇妙なことに、時折此処にやって来る幹部は大抵、彼のことを“斎藤君”と呼んでいる。多分、“斎藤”というのは、上司の昔の名前なのだろう。幕末から明治へと変わった時に、自分の名前を変えた者は結構いたらしい。まあ、は“警部補”としか呼ばないから、上司の名が“藤田”だろうが“斎藤”だろうが、どちらでも良いのだが。
 男の上司に女の部下一人となると、流行小説では恋が芽生えそうな環境だが、この男相手では絶対に無理だろうとは思う。いつもつまらなそうな顔で煙突みたいに一日中煙草をふかして、会話なんか殆ど無い。当然、毎日残業している部下に対して労いの言葉なんか無いし、下手をすると部下がいるということすら忘れ去っているかのようだ。これでは歴代の部下ともうまくいかないはずである。今のところ、が在籍最長記録更新中だ。
 せめて目の保養でもできればと思うのだが、これも難しい。不細工とか生理的に無理とか、そういうことは無いのだが、とにかく致命的に人相が悪いのだ。あれは人殺しの目だと思う。凶悪犯を連行したら、斎藤が留置所にぶち込まれそうなくらいの犯罪者面である。歴代の女子職員がすぐに辞めて行った理由の一つに、この凶悪な顔も含まれているとは睨んでいる。
 本当に、この環境で最長在籍記録を更新し続けている自分は大したものだと、自分を褒めてやりたいくらいだ。この健気さを斎藤が全く理解していないのは、大変残念なことである。は小さく溜め息をついた。
「何だ?」
 煙草を吸いながら書類を見ていた斎藤が、じろりとを見た。不機嫌に睨みつけているように見えるが、これが地顔のようなものなのでは気にしていない。
「いえ、別に」
 無表情で応えると、は書類に視線を戻した。
 の仕事は、書類の整理と作成だ。現場仕事は得意らしいが事務は苦手な斎藤のために、印鑑を捺すだけの状態までに御膳立てをしてやるのだが、これがなかなか難儀なものである。稟議書も申請書も、果ては任務終了後の報告書まで、全ての代筆なのだ。斎藤の仕事が忙しいのは解るが、報告書くらいは自分で書けと、いつも思っている。
 そして今は、申請書を作成している。今回の任務では他所の所轄の応援が必要らしく、それについての許可を求めるものだ。
 そんなもの、斎藤が相手の所轄に一言言えば済みそうなものであるが、そういうわけにはいかないらしい。書類も、形式として出せばいいというわけではなく、相手を納得させるだけの文章を書かねばならないものだから、の腕の見せ所である。
 筆の尻でこつこつと額を叩きながら文章を考えているに、斎藤が珍しく話しかけてきた。
「そういえばお前、此処に来てからどれくらいになる?」
「もうすぐ四ヶ月ですが、何か?」
「そうか……思ったより続いたな」
 斎藤が感慨深げに唸った。
 感慨深いのは、も同じである。異動してきた時は、まさか自分がそんなに此処にいることになるとは思わなかった。
 四ヶ月も、よくこの環境に耐えてきたと思う。毎日毎日こうやって遅くまで書類と格闘して、それなのに上司からの労いの言葉一つ無く、よくもまあ辞めようと思わなかったものだ。忙しすぎて、辞めようという発想すら出てこなかったのかもしれない。
 自分でも意外だが、斎藤からそれを言われると少しむっとする。これまでの部下が短期間で辞めていったのは、労働環境も大きいだろうが、この男が醸し出す雰囲気も要因の一つだと思うのだ。勤務を継続し難い原因の一つのくせに何を言っているのかと、突っ込みたくなる。
 しかし、そんなことよりも今は、目の前の書類作成の方が重要だ。これが終わらなければ、帰るに帰れない。
「そうですね。自分でもびっくりです」
 素っ気なく答えると、はさらさらと筆を走らせた。
 そのまま会話が途切れてしまった。これも毎度のことなので、は全く気にしない。
 は沈黙を苦痛と思わない性格だ。変なところで会話が途切れても、気まずいとは全く思わない。上司は友達ではないのだから、自分の仕事の邪魔さえされなければ、一日中置き物のように座っていようが、煙突のように煙をふかしていようが、どうでもいいと思っている。
 歴代の女性職員は上司と良い関係を築こうと努力していたようだったが、この男にそんなものを求めても無駄なことだ。ただでさえ忙しい職場なのに、そんな無駄なことにまで労力を割いて、揚句に心身ともに疲れ果てて職を失っては馬鹿みたいである。良い人間関係を構築しようとする気遣いは世間では美徳だろうが、此処では一文の得にもならない。それに早くから気付いていたから、は今日までこの男の部下を務めることが出来たのだろう。
 しかし、考えようによっては、そんな気遣いをしなくていい上司というのは楽なものなのかもしれない。仕事さえきちんとしていれば、うるさいことは何も言われないのだ。上司が気持ち良く仕事ができる雰囲気を作れとか、つまらない話の相手をしろとか、が苦手とする気遣いを全く求められないのは、気楽といえば気楽である。
 もしかしたらこの男が自分にとって相性の良い上司なのだろうかと思ったら、は微妙な気分になった。快適とは言えないまでも、自分の仕事に没頭できる環境で、成果さえ上げていれば煩いことは言われない。仕事の後の付き合いも無く、職場と私生活をきっちり分けられるというのは、にとっては非常に良い職場環境だ。しかし斎藤が“非常に良い上司”かと考えると、首を傾げたくなる。
 良い上司かどうかは兎も角として、これまで全く部下が居付かなかったこの職場でこれだけ続いたということは、多分と斎藤の相性は悪くはないのだろう。歴代の部下と比べて、という条件付きではあるが。
 しかし、こんな問題のある上司と相性が悪くないというのは、どんなものだろう。人間関係というのは、似たような者同士がうまくいきやすいのだという。ということは、こんな部下がすぐ辞めるような変な上司の下で、ぶっちぎりで在籍記録を更新している自分は、他所の部署では問題のある部下だったのだろうか。思い当たる節が無いわけではないだけに、は悩んでしまう。
「今回は難しそうか?」
 眉間に皺まで寄せ始めたに、斎藤が尋ねた。いつもなら止まりながらも何とか書き進んでいるの筆が、完全に動かなくなってしまったのが気になったらしい。
「あ、いえ。大丈夫です」
 は慌てて書類に意識を戻した。
 今回の案件は簡単ではないが、これくらいのものはいつもやっている。いつも通り書けば、問題無く通るだろう。頭の中で大体の文章を作り上げると、は一気に筆を走らせた。
 此処に来て気付いたが、はどうやら文章を組み立てるのが得意らしい。だから斎藤も彼女に書類作成を丸投げするのだろう。書くことは決まっているのだから、時間が空いた時にでも文例集を作って、斎藤に書かせるようにしようと、は考えている。
 文章を書き上げ、は筆を置いた。全体をざっと見なおしたが、まあ問題は無いようだ。多分これなら問題無く通るだろう。
「出来ました」
「ああ」
 書類を受け取り、斎藤はじっくりと内容を読む。そして感心したように小さく唸ると、印鑑を捺した。
「毎回よくこんなにすらすら書けるものだな」
「大体書くことは決まってますんで。警部補にもすぐ書けるように、そのうち文例集を作りますよ」
「いや、いい」
 の親切な申し出も、斎藤は即行で断る。どうやら自分が書けないからに丸投げしていたのではなく、単に面倒臭かっただけらしい。
 面倒臭いのは解らないでもないが、自分がやるわけでもない仕事の申請書を書かされるのは、も困るのである。仕事の内容が判っている時は良いが、斎藤の任務は特殊なものが多いから、にも一部しか知らされていないこともある。そういう時の書類作成は、本当に骨が折れるのだ。
 それに、いつかも此処を辞めるかもしれないではないか。今はまだ辞める気は無いが、そのうち激務に耐えかねて辞める日が来るかもしれない。その時になって後任を一から仕込むよりは、誰でもすぐに使えるように文例集くらいあった方が良いと思うのだ。
「でも、私が辞めたらどうするんですか? 辞めなくても、長期で休んだりとか。そういう時にあったら便利ですよ?」
「それはそうだが………」
 斎藤はそのまま考え込む。何とか自分に仕事が回って来ない方法を考えているのだろう。
 だが、の意見には反論の余地は無いはずだ。一人の人間が全ての仕事を抱え込むより、誰でも判る虎の巻のようなものを作っておいた方が、何かと安心ではないか。仕事が滞って困るのは、斎藤だけではないのだ。不測の事態に備えておくのも仕事のうちである。
 まだ言い訳を考えているのか、斎藤は難しい顔で黙っている。そこまで書類仕事をやりたくないのかと、は呆れてしまった。そんなことだから、歴代の部下に逃げられまくっているのだ。
「ま、明日いなくなるって話じゃないですから。いきなり警部補に書けなんて言いませんし」
「当たり前だ。お前に辞められたら困る」
 何故か偉そうに斎藤は応える。普通ならこういう時は、もう少し腰を低くしても良さそうなものだが、この男にはそういう配慮は無いらしい。そういうことだから部下に逃げられるのだと、は改めて思った。
 しかし、部下に対する気遣い一つ出来ない男がこんなことを言うというのは、本当にに辞められては困るのだろう。書類の処理能力もさることながら、今日まで勤め上げたという実績だけでも貴重な人材なのだ。そのにまで辞められたら、もう斎藤のところには事務処理用の部下は回されないに決まっている。
 それならもう少しに対して配慮してもらいたいものだが、それを斎藤に望むのは厳しすぎるか。日常的な気遣いは無理でも、たまには感謝の言葉の一つも欲しいところである。
「辞めるか辞めないかは、警部補次第じゃないですかね。多少仕事がきつくても、それが何かの役に立ってるんだって思えれば、大概は我慢できますから。だけど私の仕事は結果が見えにくいですからね。今はまあ続ける気ではいますけど、そのうち急に辞めたくなるかもしれません」
 これでは脅しだな、とは心の中で苦笑した。斎藤の今後の出方次第では辞めるかもしれないなんて、自分でも驚くほど強気だ。
 けれど、これがの今の本音だ。仕事に関係の無い気遣いを求められないのは楽だが、ただ機械のように書類を処理するだけの毎日というのも、ふと虚しくなってしまう。仕事だけしていれば良いのは気楽と思う反面、やはり上司に自分の頑張りを評価してもらいたいのだろう。
 斎藤のように現場にいれば、自分のやったことの結果が目に見えるのだから、誰に評価されなくても達成感を得ることができる。けれど、執務室に籠りきりのには、自分の仕事の結果がどうなったのか、全く見えないのだ。最後に書く報告書で、自分が関わった仕事の流れを見ることはできるが、文章ではやはり実感が薄い。
 の言葉に、斎藤は少し驚いた顔をした。淡々と仕事をしている部下が、そんな事を考えていたとは思っていなかったのだろう。それどころか、部下には人格が無いと思っていたのかもしれない。
 何か言ってくるかと思ったが、斎藤は何も言わない。何も言わないまま、再び考え込んだ。
 さっきから斎藤は考え込んでばかりである。これまでとまともに会話することが無かったから、今日は考えることが多いのだろう。
 良い機会だから、脳が煮えるまで考えればいいのである。それで斎藤の態度が変われば儲けものだ。
 とりあえず今日までに終わらせなければならない仕事は始末できたので、は帰る準備を始める。外はすっかり暗くなってしまっているが、普段に比べれば早い帰りだ。
「じゃあ、お先に失礼します」

 出て行こうとするを、斎藤が引きとめる。名前を呼ばれるのは初めてのことだ。というより、ちゃんと名前を知っていたのかとは驚いた。
 驚きはしたが、はいつもの無表情で振り返る。
「何でしょう?」
「あ、いや……何だ、その………」
 何を言おうとしているのか、斎藤は困ったような顔でもそもそと呟く。この男がこんなに歯切れが悪くなるなんて珍しい。
 が怪訝な顔で待っていると、斎藤は非常に言いにくそうに口を開いた。
「―――――いつも感謝している」
「………え?」
 意外な言葉に、は耳を疑った。本当に斎藤の口から出た言葉なのかと、彼の顔を凝視する。
 まさかいきなりそんな言葉が出るとは思わなかった。斎藤も言い慣れないことを言って恥ずかしいのか、気まずそうに視線を逸らしている。
 こういう顔をしているということは、に脅されて仕方なく言った言葉ではないのだろう。多分、本当にいつも感謝してくれていたのだと思う。
 その一言をもっと早くから言っていたのなら、きっと今までの部下たちからも逃げられることは無かっただろうに。悪い人間ではないのだろうが、そういう表現をするのが非常に苦手なのだろう。それとも、言わなくても伝わると思っていたのだろうか。どちらにしても不器用な人なのだなと、は残念に思う。
 だが、今までの部下が言ってもらえなかったであろう言葉を言ってもらえたというのは、素直に嬉しいかった。も単純なもので、その一言でこの四ヶ月が報われたような気さえしてくる。
 凶悪犯みたいな顔をしていて、仲良くできるような雰囲気の男ではないけれど、たかだかこれだけのことを言うだけなのにこんなに恥ずかしそうにするなんて、可愛いところがあるではないか。明日にはまたいつもの斎藤に戻っているだろうが、今のことを思い出してにやにや笑ってしまいそうだ。
 これからも多忙な毎日は続くだろうが、「感謝している」と言った斎藤の顔を思い出したら、きっと暫くは耐えられる。何も無かった今までの四ヶ月間を耐えることが出来たのだから、少なくともこれからの四ヶ月も大丈夫だろう。感謝の言葉があった分、それ以上に長持ちできるかもしれない。
「私、今までの人たちみたいに簡単に辞めませんから。じゃ、お疲れ様です」
 顔が緩んでしまいそうなのを堪えながら、は執務室を出て行った。
<あとがき>
 またまた上司と部下設定のシリーズです。明治の斎藤は上司と部下以外の設定がなかなか思い浮かばねぇ………orz
 今回の部下さんは兎部下さんのような可愛らしさは期待できませんが、楽しんでいただければ幸いです。
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