淑気
淑気 【しゅくき】 新春の気
凍っていた山道が溶けて、漸く町に下りることができるようになった。冬の間に作り溜めておいた焼き物を町の店に持っていく季節になったのだ。取引している店に焼き物を預けた後、比古とは『葵屋』を訪れた。以前、『葵屋』の者が山に遊びに来た時に、「町に出た時には是非」と言われていたのと、がどうしても寄りたいと言ったからだ。彼女の目的は当然、蒼紫である。
『葵屋』は丁度暇な時間帯だったらしく、二人が来ると使用人総出で出迎えてくれた。そして今は座敷に通され、蒼紫とお近が相手をしている。
「あら、
唐突に、が呟いた。彼女が見ているのは、床の間に置かれている白くて長細い籠のようなものだ。細かい細工の花籠のようにも見えるが、何で作られているのかよく判らない。
「よく御存知だ」
蒼紫も偕老洞穴なるものに目を遣る。
蒼紫の言葉から察するに、偕老洞穴というのは珍しいものらしい。比古も見たことが無いのだから、そう出回っているものではないのだろう。比古が知らないものを知っているなど、のくせに生意気である。
「何だ、その偕老洞穴ってぇのは?」
この天才様が知らないと言うのは忌々しいが、自分の知らない話題で二人が盛り上がるのはもっと面白くない。
「海の底にいる生き物ですよ。中に番いの海老が住んでいるそうです」
比古は蒼紫に訊ねたつもりだったのだが、に答えられて何となく忌々しい。星のことといい、この女は本当にどうでも良いことをよく知っている。
しかし、この細工物のようなものが生き物だとは、驚きだ。生き物といっても、珊瑚のようなものなのかもしれないと比古は想像する。
床の間にある偕老洞穴の中に海老が入っているのかは判らないが、この中に住むとしたら相当小さな海老なのだろう。網の目はとても小さくて、米粒よりも小さな海老でないと出入りは難しそうだ。
「子供の時に中に入り込んで、そのまま外に出ることは無いらしい。まあ、この網の目では、成長したら出たくても出られないだろうが」
の言葉を補足するように、蒼紫が説明した。
「じゃあ、死ぬまでこの中で二人きりなんですね。素敵………」
お近がうっとりした表情で呟く。暗い海の底で、白い花籠のような生き物の中で愛する相手と二人きりというのは、女の想像力を刺激するものらしい。
愛し合う二人でなら死ぬまで二人きりの生活も悪くはないだろうが、海老に“愛”なんて概念があるのだろうかと比古は思う。それ以前に、雄同士や雌同士が住みついたら堪らない。生き物の最大の目的である繁殖をすることもできず、無駄に一生を過ごしてしまう危険性があるではないか。
「ま、うまいこと番いで入れれば良いけどな」
「その心配は無いそうだ。強い方が雌、弱い方が雄に成長するらしい」
「雌の方が強いのか………」
蒼紫の説明に、比古は微妙な気分になる。強いというか図々しい女と生活している彼としては、見たことも無い小さな海老に同情したい気持ちで一杯だ。
逃げ場の無い籠の中で、海老の雄は一生雌に虐げられ続けるのか。男の身の上では、お近の言うような素敵な環境とはとても思えない。海老でなくて良かったと、比古は人間に生まれたことに心から感謝した。
「死ぬまで添い遂げるから、偕老洞穴は縁起物なんですよ。私も結婚祝いに戴いたんですけどね」
だからも知っていたのかと、比古は納得した。しかし、一生添い遂げる縁起物の割には、の結婚生活は三年で幕を下ろしたのだから、あまりご利益は無いらしい。
ここは茶々を入れるべきかと比古は悩んだが、黙っておくことにした。それで場が盛り上がれば良いが、滑ってしまった時のことを考えると気まずい。
「しかし―――――」
偕老洞穴をじっと見ていた蒼紫が、ふと思いついたように口を開いた。
「外に出ることができずに二人きりというのは、冬の間のお二人のようだ」
「そいつぁ………」
何と返して良いものやら、比古は苦虫を噛み潰したような顔をする。
山道が凍る冬の間は、比古とは町に下りることができずに小さな山小屋の中で二人きりで過ごす。確かにそれは偕老洞穴の中の海老と同じ生活だが、別に夫婦でも何でもないのだから面白くも何ともない。それどころか、どうやってを追い出すか悶々と考えている始末だ。
“愛し合う二人”ではないからかもしれないが、毎日同じ顔を突き合わせる生活というのは、うんざりするものである。海老はそんなことを感じることは無いのだろうかと比古は想像してみるが、あんな下等な生き物にそんな上等な感情があるわけがないと思い直す。
「逃げ場無しの環境で、こんな女と一緒にいてみろ。並の男なら三日で参るぞ」
を親指で指して、比古は心底忌々しげに言う。
本当に、冬の間ずっとと二人きりでいても何とか持ち堪えているというのは、比古も自分に感心する。きっと、この並々ならぬ精神力のお陰だろう。これが若い蒼紫なら、三日ともたずに寝込んでいるかもしれない。
やはりと蒼紫をくっ付けるのは人の道に反すると、比古は改めて思う。老い先短い爺ならぶっ倒れようが廃人になろうが知ったことではないが、まだ先の長い蒼紫がこんな女とくっ付いて心身共にやられてしまったら、『葵屋』に申し訳が立たないではないか。
比古の言い草に、は鼻先でせせら笑って、
「何言ってるんですか。私は先生のせいで気苦労が絶えないんですけどね」
それが気苦労の絶えない人間の言う台詞かと思うような言葉だが、蒼紫もお近も何も言わない。きっと呆れているのだろうと比古は思う。
蒼紫が山に来た時は幾重にも猫を被っていただが、今日はすっかり剥がれ落ちている。「先生のせいで気苦労が絶えない」と言うことで“可哀そうな女”を表現しているつもりなのかもしれないが、自分で言っていては逆効果である。
「清十郎様と一緒なら、冬の間どころか一年中二人きりでも楽しいでしょうにねぇ」
比古との二人きりの生活を想像しているのか、お近はうっとりしている。
お近は比古のことを好いているから、きっとと違って下にも置かぬ扱いをするだろう。超絶美形の超絶天才が相手なのだから、それくらい当然だ。少しはお近を見習いやがれ、と比古はをちらりと見た。
が、は涼しい顔で、
「そうですかねぇ。若くて素直なイイ男と暮らす方が、何倍も楽しいと思いますけど。何にでも言えますけど、歳を取ると素直さが無くなっていけません」
自分のことは棚に上げて、はしれっとして言う。
何度も出て行けと言われているのに頑として居座っているこそ相当な頑固者だと比古は思うのだが、自分のことは見ないものらしい。否、自分の欲求のままに生きているような女だから、の中では素直な人間ということになっているのかもしれない。人間、自分のことは美化して解釈するものである。
言われっ放しでは悔しいが、むきになって反論するのはもっと悔しい。比古は全く気にしていないような涼しい顔を作って言った。
「歳と共に図々しくもなるしな。誰のこととは言わんが」
「あら、自分のことをよく御存知で」
「お前のことだ、馬鹿野郎」
まったく、本当にこの女は図々しい。どんな育ち方をすればこんな女が出来上がるのか、比古には興味深い。
大抵の人間なら、ここまで言われれば少しは自分を振り返りそうなものだが、にはそんな発想は全く無いようだ。自分を振り返るという知恵が無いのだろう。それこそ海老並みの女である。
二人の遣り取りを黙って聞いていた蒼紫が、小さく息を漏らすように笑った。
「何だかんだ言って、二人はとても楽しそうだ。偕老洞穴の生活は悪くないようだな」
「とんでもない!!」
比古とが同時に叫んだ。
これのどこをどう見たら楽しそうに見えるのか。蒼紫は15歳で御庭番衆御頭を務めたほどの切れ者のはずだが、人間関係を読むのは不得意らしい。
この遣り取りの何処をどう見たら楽しげだと思えるのか。会話は多いから無口な蒼紫には楽しそう映るのかもしれないが、当人にはそんなに楽しいものではない。少なくとも比古は楽しくない。
「楽しいと思うなら、俺の代わりにこいつと住んでみるか?」
どうせすぐに断るに決まってると思いながら、比古が提案してみる。猫が剥がれ落ちたを見れば、二人きりで過ごすなんてとんでもないと思うに決まっているのだ。
が、蒼紫は一寸考え込むような顔で、
「そうだな………」
まさか本気でと生活してみることを考えているのか。その勇気は大したものだが、あまりにも無謀だ。
お近も一緒になって、
「そうですねぇ。一週間でもさんと住んでみたら、蒼紫様も明るくなると思いますよ。蒼紫様がさんのお世話になっている間、私が清十郎様のお世話をしますわ」
蒼紫と比古が入れ替わるというのは、お近には渡りに船の話だろう。蒼紫はと山の中、比古は『葵屋』の厄介になるとなれば、いつでも一緒である。これを機会に、彼女としては一気に関係を詰めたいところだ。
はで、これまた楽しそうな顔をしている。狙っている男と二人きりの生活となったら、それは楽しいだろう。
「四乃森さんが山小屋にいらしたら、もう張り切ってお世話しちゃいますよ」
お世話どころか、蒼紫が山小屋に足を踏み入れた途端に襲いかかりそうな雰囲気である。この女ならやりかねないと、比古は思う。
蒼紫とを二人きりにしたら大変だ。比古がから解放されるのは嬉しいが、若い蒼紫を犠牲にしては、自由と平穏な生活を得られても後味が悪い。
「やっぱり駄目だ。やめておこう」
若い蒼紫には、それに相応しい女がきっといる。こんな欠陥女に引っ掛かって、一生を棒に振ることになってはいけない。
欠陥女が他人様に迷惑をかけないように見張っているのも、大人の男の大事な役目だ。こんな女と二人きりの生活を送る羽目になったのも、神だか仏だかが超絶天才の比古を見込んでのことなのかもしれない。との二人きりの生活は、世のため人のためなのだ。
世のため人のために飛天御剣流を使い、陶芸家となった今も欠陥女を見張って世に尽くすとは、比古は超絶天才で超絶美形で、おまけに超絶善人である。我ながら惚れ惚れしてしまう。
自分の素晴らしさに比古が惚れ惚れしていると、がにやりと笑って言った。
「あら先生、焼き餅ですか? そうですよねぇ。四乃森さんみたいに若くてイイ男と一緒に暮らしたら、先生と暮らすのは厭になっちゃいますもんね」
「なっ………?! 何言ってやがる、馬鹿野郎! 寝言は寝て言えっ」
どうしたらそんな斜め上の発想ができるのか。毎度のことながら、の頭をかち割って中身を見てみたい。
を引き取ってくれるという奇特な男が現れたら、比古はいつでも喜んで引き渡す所存だ。そんな男がいたら、天の使いと崇め奉ることはあっても、嫉妬なんて絶対にあり得ない。
ただし、引き取ってくれる男は、蒼紫のような未来のある若い男では駄目だ。犠牲は最小限にとどめるのは、比古に課せられた使命である。と蒼紫の関わりを最小限に食い止めるのも、犠牲者を増やさないためなのだ。
そんな比古の深すぎる考えを全く理解できないは、ますます可笑しそうににやりと笑う。
「ま、先生は私がいないと駄目な人ですからね。仕方ありませんよ」
「自惚れるな、馬鹿野郎」
天才の考えは凡人に理解できないものであるから、超絶天才の比古の考えをが理解できないのは仕方がない。この女が言いたい放題なのも、凡人故のことである。
そういえば昔の人間も、女人と小人は扱いにくいと言っているではないか。の相手が疲れるのも仕方の無いことだ。
比古はそれ以上何も言わずに茶を啜った。
“新春”ではないけど、春ってことで。そろそろお題を使うのに苦しくなってきたな………。
偕老洞穴、師匠は珊瑚の一種だと思っているようですが、海綿の一種らしいです。西洋では“ヴィーナスの花籠”と呼ばれているそうです。
番いの海老が死ぬまで外に出ること無く過ごすということから、男女が添い遂げて同じ墓に入ることを“偕老洞穴の契り”というのだとか。………師匠が一番嫌な未来予想図かもしれません(笑)。