漆黒の闇

漆黒の闇 【しっこくのやみ】 光のない真っ暗な闇。
 こんな国に来るのではなかった、とはいつも苛々している。
 確かには日本人ではあるが、日本の土を踏むのは初めてだ。話には聞いていたものの、こんなに不便な国だとは思わなかった。
 好きな服は勿論、好きな銘柄の紅茶一つ満足に手に入らない。食べ物は未知の物ばかりで、口に合わないものが多すぎる。おまけに何だかよく判らない輩が我が物顔で住み着いていて、それがには我慢ならない。
 何より切羽詰って痛いのは、使用人を連れて来られなかったことだ。上海の屋敷を引き払った時に、縁が全ての使用人を解雇してしまったのだ。
 今はまだ横浜の別荘地に滞在しているから良いようなものの、いつまでも此処にいるわけではないだろう。此処を出たら、一体どうするつもりなのか。日本の事情には詳しくないが、日本人が多く住む土地では舶来品はもっと手に入りにくくなるという。その上に怪しい輩が付いてくるとなったら、には耐えられる自信が無い。
 そもそも、いつまで日本にいるつもりなのか。今回の滞在について、期間も目的もには聞かされていない。
 上海の屋敷を引き払ったということは、相当な期間帰らないつもりなのだろう。下手したら二度と戻らないつもりなのかもしれない。日本に拠点を一山当てるつもりなのか。
 やはり縁はに殺されるつもりは無いのだ。口では、全てが終われば殺されてやるなどと言っているが、拠点を日本に移したり生活を新しくしているところを見ると、死ぬ気など更々無いのは明白だ。
 殺されてやると言えば、が“その時”を大人しく待ち続けると思っているのか。それとも、いつかの気持ちが和らいで、全てを有耶無耶に出来るとでも思っているのか。そんな日は決して来ないのに。
 娼館から身請けされても、贅沢三昧の生活ができても、が縁に感謝することは無い。あの男さえいなければ、には平凡な人生があったのだ。それはどんなに金を積んでも、もう手に入らない。
 が本当に欲しかったのは高価な服でも宝石でもなく、普通の生活だったのだ。家族がいて、大きな事件も刺激も無く静かに暮らして、時が来れば誰かと結婚して自分が育った家庭と同じような家庭を持つ―――――そんな当たり前の人生をあの男は根こそぎ奪って、二度との手に入らないようにしてしまったのだ。
 の人生を滅茶苦茶にした縁がのうのうと生き続けるなんて許さない。あの男にどんな都合があるのか知らないが、考えてみればが“全てが終わる”まで待ってやる義理など無いではないか。どうして今日まで律儀に待ち続けていたのだろう。
「エニシ、おいで」
 足許で戯れるエニシに声を掛けると、は椅子から立ち上がった。





「入るわよ」
 縁の部屋の扉に手をかけると同時に、中から部屋の主が出てきた。
「出かけてくる」
 日本に来ての機嫌が悪くなっていくのに比例するように機嫌のいい縁だが、今日は特に上機嫌なようだ。声の調子は変わらないが、目を見れば判る。
 何がそんなに楽しいのか知らないが、上海では見たことの無い目だ。旨い儲け話を掴んだとか、そういう仕事関係ではないと思う。根拠は無いが、の勘だ。
「何処に行くの? 話があるんだけど」
「後にしろ。夜には戻る」
 いつものことだが、縁はの話を聞こうともしない。
「大事な話よ。夜までなんて待てない」
 夜に戻るといっても、何時に戻るのか判ったものではない。深夜まで待ち続けて、「今日は遅いから明日にしろ」と言われては、目も当てられないではないか。も縁のために時間を使うほど暇ではないのだ。
 エニシも飼い主の気持ちを察してか、引き止めるように縁の前に回る。が、縁はそんなものは見えないようにエニシを跨いで、
「いまはそんな時間は無い」
 有無を言わせぬ声で撥ね退けると、さっさと歩いて行ってしまった。
 縁の用事が何か知らないが、の用事より大事なこととは思えない。彼女の用件は人生を左右すると言っても過言ではないものなのだ。
 やはり縁はのことを軽んじている。いつも話を聞こうとしないのも、全てが終われば云々の話も、適当にあしらって先送りにすれば何とでもなると思っている証拠だ。
 どうして今日まで大人しく待っていたのだろう。自分の愚かしさに腹が立ってくる。
 と、扉が開いて、黒星が出てきた。
「おや、お嬢様。ボスならお出かけだよ」
 口では“お嬢様”などと言ってはいるが、心底蔑んでいるのが判る。もこの男のことは反吐が出るほど嫌いだ。
 視界に入ってくるのも疎ましく、は顔を背けて訊ねた。
「何処に行ったの?」
「東京だよ。姉君の仇に会うんだってさ」
「何、それ?」
 想像もしなかった答えに、は思わず黒星を見た。
 姉の仇なんて、初めて聞く話だ。縁もと同じく、家族を殺されていたというのか。
 の驚いた顔が可笑しかったのか、何も知らされていなかったのが可笑しかったのか、黒星はにやにやする。
「なんだ、知らないのか? ボスが日本に来たのは復讐のためさ。そのために組織を作ったようなものだからね」
「………………」
 縁もと同じく家族を殺された過去があったというのなら、どうしてあんなことをしたのだろう。の家族は、身寄りの無い縁を家族同様に扱っていたというのに。
 骨と皮だけに痩せ細った縁を、両親は付きっ切りで看病し、兄も自分の玩具を貸し与えて元気付けようとしていた。その様子は、幼いには生き別れた兄弟が何処からともなく現れたようにさえ見えたものだ。
 の家族では、縁の姉の代わりにはなれなかったかもしれない。けれど、天涯孤独の彼の支えにはなれたはずだ。なのに縁は、あっさりと皆殺しにしたのだ。
 姉を殺された心の痛みは、にだって解る。解るけれど、いくら傷付けられたからといって、無関係な人間を殺して良いわけがない。
 縁の過去を知って、の憎しみは更に強くなる。自分も家族を殺された人間なのに、どうして同じことを繰り返せるのだろう。縁がやったことは、彼が復讐しようとしている人間がやったことと同じではないか。
 そしても、縁と同じように、家族を殺された恨みを晴らそうとしている。縁と同じことを繰り返している。
「ああ、そうだ。お嬢様」
 何かを思い出したような黒星の声で、は我に返った。
「この件が終わったら、ボスは組織から完全に手を引く約束をしている。もう今までのような無駄遣いは出来ないよ」
「え?」
 それもには初耳だった。組織から手を引くなんて、縁は本気でに殺されるつもりなのか。そういう約束だったのだから、約束が履行されることに安心することはあっても、驚くことではないはずだ。なのには驚き、動揺さえしている。
 約束を先延ばしにしていると思っていた時は、今すぐにでも殺してやりたいと思っていた。今だって、殺してやりたいほど憎い。けれど―――――
 自分でもどうして動揺しているのか解らない。大人しく首を差し出す準備を整えられて、戸惑っているのか。戸惑う理由なんか、には無いというのに。
 目を泳がせるの表情が、自分の生活が危うくなると焦っているように見えたのか、黒星はますます愉快そうに口を歪めた。彼はを疎ましく思っているから、彼女が呆然とする姿は面白いのだろう。
「これからは大人しくして、ボスに捨てられないようにすることだね。売春婦に逆戻りは嫌だろう?」
 にやにやしながらそう言うと、黒星は何処かへ行ってしまった。





 エニシを連れて別荘の中を散歩していると、縁の姿が見えた。夜に帰ると言っていたのに、思ったより早い帰りである。姉の仇とやらには会えなかったのだろうか。
 と思ったが、近づいてみると、不機嫌な顔はしていない。会えたのか会えなかったのかが考えていると、珍しく縁の方から声をかけてきた。
「話があるなら聞くぞ」
 これは会えたな、とは直感した。予想外に早く相手と会えて、帰りも早かったのだろう。
「自分から話を聞いてくれるなんて、珍しいわね。お姉様の仇が討てたの?」
 の言葉に、縁の表情がさっと強張った。そして、今まで見たことの無いような鋭い目で睨みつける。
 失言だったかと思ったが、もう遅い。縁にとって、姉のことは触れられたくないことだったらしい。
 しかし、失言だろうが何だろうが、は怯まない。縁が自分に危害を加えないことは解りきっているのだ。
「日本に来たのは、お姉様の仇を討つためですって? 敵討ちのために組織を作ったらしいじゃないの。大したものね。余程お姉さまを殺した相手が憎かったのね」
「………誰から聞いた?」
 薄笑いさえ浮かべるを睨み据えたまま、縁は押し殺すような声を出す。相手がでなければ、殴りかかりそうな目だ。
「家族が殺されるっていうのがどんなことか知ってるくせに、どうして私の家族を殺したの?! 私たちがあんたに一体何したっていうの?!」
「……………」
 視線が少し揺らいだように見えたが、縁は何も答えない。今度はが射抜くような目で彼を睨み返す。
 先に視線を逸らしたのは縁だった。
「この件が片付いたら、大人しく殺されてやる。それで終わりだ」
「質問に答えて」
「姉サンは抜刀斎に殺された。お前の家族は俺が殺した。俺はお前に殺される。それで良いだろう」
 質問に答えたくないのか答える気が無いのか、縁は話を打ち切るように吐き捨てた。
 逃げるようなその態度に、の眼光は鋭くなる。
「何故殺したか、私には知る権利がある。あんたは三人も殺したのよ!」
 は悲鳴のような金切り声を上げた。
 縁のことは憎い。過去を知っても、その気持ちに変わりは無い。今すぐ此処で殺してやりたいくらいだが、その前に理由を知りたかった。
 疎ましげに睨み付けられても、は怯まない。何の罪も無いの家族がどうしてあんな殺され方をされなければならなかったのか、縁は話さなければならないと思う。
「みんな、あんたに優しくしてたじゃない! お父さんもお母さんも、お兄ちゃんや私よりも、あんたを気にかけていたのに―――――」
 その瞬間、の身体に鈍い痛みが走った。壁に身体を叩きつけられたのだ。
「憐れな子供を拾ってやって、幸せ家族に加えてやったのに、か?」
 凍りついたような目で、縁は低く呟く。激しい感情は見えないのに、骨が軋みそうなほどの肩を壁に押し付けて、その落差が縁の感情の強さを表しているようだ。
 今まで、絶対に縁は自分に手を挙げないと思っていただったが、初めて身の危険を覚えた。血の気が引いて、声も出ない。
 足許でエニシが吠えているけれど、遠い出来事のように感じる。縁にもその声は聞こえていないようだ。
 青ざめるの顔さえ見えていないのか、縁は押さえつける手にじりじりと力を込める。
「それが俺には我慢ならなかったんだ。裕福で幸せな家族ってやつが。ぬくぬくと育ったお前たちの顔がな!」
「……………」
 押さえつけられた肩の痛みも忘れ、は縁の顔を凝視する。
 縁は姉を殺した人間と同じくらい、の家族を憎んでいたというのか。に投げつけられた言葉は、これまで誰に投げつけられた言葉より憎しみが込められていた。
 幸せな家族を見せ付けていた覚えはない。憐れな子供を拾ってやったとも思ってはいなかった。同じ日本人で、自分たちと同じくこの国に身寄りがいない子供だったから助けただけだったのに。
 縁の主張は逆恨み以外の何物でもない。そんな理不尽な理由で家族が殺されたのだと思うと怒りで気が狂いそうになると同時に、目の前の男が恐ろしくなる。
 初めて、この男に殺されるかもしれないと思った。ほんの少年のうちから理不尽な理由で三人も殺した男なのだ。生き残りであるのことも、簡単に殺せるだろう。これまでは罪滅ぼしのつもりで生かしていたのだろうが、今の縁ならを殺すことを躊躇わないと思う。
 この男のことを甘く見ていた。好き勝手できていたから、自分の方が優勢だと思い込んでいた。は優勢なんかではない。
 空いていた縁の片手が動いた。それが自分の首に向かっているというのに、は身動ぎも出来ない。
 瞬きさえも出来ず、青い顔でただ立ち尽くす。縁の指がの首に触れ、絡み付こうとしたその時―――――
「―――――――!!」
 縁が突然苦しみ出し、その場に蹲った。
 あの発作かと思ったが、今回の苦しみようは尋常ではない。嘔吐までし始めて、何か酷い病気ではないかと思うほどだ。
 それなのには声も出せずにただ立ち尽くしている。縁の苦しみを見物するわけでもなく、殺されずに済んだと安堵するわけでもなく、ただ茫然と立ち尽くしていた。
<あとがき>
 というわけで、日本上陸です。主人公さんは不満タラタラのようで。
 縁の復讐は本格始動ですが、主人公さんの方は………。このまま泥沼進行でやっていく予定です。収拾つくのか、一寸不安(苦笑)。
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