月下香
月下香 【げっかこう】 夜間に咲き、芳香を放つ白い花。
二人分の湯たんぽを作るのが、の一日の最後の仕事だ。山の冬は町よりもずっと寒くて、湯たんぽ無しには眠れない。今夜も寒いだろうなあ、とは窓の外を見る。
今夜は満月だ。白く輝く月は円い氷のように見える。夏に見る月と同じはずなのにそう思ってしまうのは、凍えるように寒いせいだろう。
こんな夜は、早く寝るに限る。出来上がった湯たんぽに手拭いを巻きつけると、は布団に向かった。
「今夜も冷えそうですよ」
先に布団に入っている比古に湯たんぽを渡すと、も自分の布団に差し入れた。そして自分も布団に入りながら、
「今夜は満月ですよ。寒くなかったら月見酒とでもいきたいくらいの」
「てめぇとは飲みたくねえけどな」
湯たんぽを抱いて、比古はぶっきらぼうに応える。
大して強くもないくせに、はいつも比古と飲みたがるのだ。こんな女に酒の味が分かるものかと思うのだが、比古もケチではないから湯呑み一杯だけは分けてやっている。そんなことをするから、頭に乗って毎回たかってくるのだが。
元々比古は、何でも一人でするのが好きな人間だったはずだ。酒を飲むのは勿論、食事も陶芸も。
それなのにこの女が来てからというもの、何をするにしても二人一緒である。その辺の夫婦よりも一緒にいるだろうと思うほどだ。
起きている時は勿論、寝る時まで一緒なのだから、たまらない。あの静かな日々を返せと、比古はいつも思う。
「そんなこと言って、本当は私と飲むのが楽しいんじゃないですか? こぉんな美人と飲めるんですから」
「何処に美人がいるんだ?」
「此処、此処」
はにやにやしながら自分を指す。比古は深く溜息をついた。
お前のどこが美人だと言ってやりたいが、これも毎度のことだから、もう何も言わない。そのうち鏡を突きつけてやろうかと思う。
まあ、の顔がどの程度のものであろうと、この女の鬱陶しさが変わるわけでもない。とにかく朝から晩まで張り付かれるのが堪らないのだ。
「せめて寝る時くらいはてめぇの顔なんか見たくねぇんだがな」
今のところ、これが比古の一番の願いである。
冬の間は、を追い出すのは諦めざるを得ない。流石にこの雪山の中に放り出すのは、人としてやってはいけないことだろう。たとえ鬱陶しい女が相手であっても。
だが、布団を並べて寝るというのは、もう勘弁願いたい。いつ言い出そうかと機会を窺い続けてきたが、もう限界だ。寝る前に見るのはの顔、目覚めて一番に見るのもの顔では、比古は心の休まる間が無いではないか。
が、そんな比古の心の叫びなどどうでも良いように、は布団に入りながら軽く言う。
「だって、此処以外に寝るところなんか無いじゃないですか。あ、それとも先生、台所で寝ます? 今夜は窓から月が良い感じに見えますよ?」
「何で俺があんな所で寝なきゃなんねぇんだよ?」
当然のように比古が台所で寝る方向で話を進めるのが気に食わない。こういう時は、弟子が台所で寝るのが筋だろう。大体、此処は比古の家である。
まったくこの女は、自分の立場が何だと思っているのか。自分の立場を何だと思っているのか。犬ではないが、一度キャンと言わせて力関係を叩き込まなければいけないらしい。
「先生だってあんな寒い所で寝るのは嫌でしょう? 私だって嫌ですよ」
比古に凄まれたところで、今更何ともないらしい。は相変わらずしれっとしている。続けて、
「一人でぽつんと寝るのは寒々しいですよ。美人が横で寝てるんだから、素直に喜んだらどうですか?」
“美人”が余程気に入ったのか、はにやにやしている。
比古は呆れ果てて溜息をつくと、布団から出た。そして無言で鏡をに突きつける。
「あら〜、何処の別嬪さんかしら〜」
鏡に映った自分の顔を見て、はうっとりしたように言う。ふてぶてしいというか図々しいというか、色々問題のある女である。まあ、今に始まったことではないのだが。
「………お前、幸せな奴だな」
ここまでのものになると、比古の手には負えない。手に負えない女だから、今日までずるずると居座られているのだが。
「幸せなのは先生ですよ。こんな別嬪さんと一緒に寝られるんですからね」
比古がこれ以上何も言わないのを良いことには言いたい放題だ。本物の美人とか別嬪さんというのは、自分ではそんなことは言わないと比古は思うのだが。
何を行っても減らず口で返されていると、もう意見する気力も失われてしまう。
「はいはい、俺は三国一の幸せ者だよ」
何もかもが面倒臭くなって、ヤケクソになって言うと、比古は布団を被った。
も何も応えること無く、黙って布団に入るのが気配で判った。暫くもそもそした後、静かになる。
は寝付きが良いから、静かになるのはあっという間だ。比古も寝付きは良い方ではあるが、それでも羨ましいくらいの勢いだ。
完全に寝付いたのかと、比古はの様子を窺うように布団から顔を出す。
少し顔を下に向けるような感じで、は目を閉じている。もう完全に眠っているようだ。
「…………………」
こうやって眠っている姿を見ていると、昼間のあの騒々しさや鬱陶しさが嘘のようだ。寝顔は大人しそうな女である。
こうして見ると、顔立ちはそう悪くはないのだ。喋ったり動いたりするから台無しになるだけであって、黙っていれば、まあ見られる顔はしている。
蒼紫がころりと騙されたのも、幾重にも猫を被っていたせいだ。絶世の美女とはいわなくても、まあそこそこの顔で大人しくしていれば、大抵の男は騙される。
本当に、この顔で町の男を騙くらかして、早いところ出て行ってくれないものかと思う。蒼紫のような前途ある若者を騙すのは良心が咎めるから、騙すなら老い先短い爺がいい。
よくよく見れば、は小金を持った爺が気に入りそうな顔立ちをしている。春が来たら、を後妻に貰ってくれそうな老人を探そう。
春に向けて、光明が見えてきた。静かな生活を取り戻すのももうすぐだ。
「………何にやにやしてるんですか?」
すっかり眠っていると思っていたが、ぱっちりと目を見開いていた。
「うわっ?!」
流石にこれには比古も驚いた。
が、は大きく欠伸をしただけで、
「ま、良いですけどね。ああ、だけど、いくら私が美人だからって、襲い掛からないで下さいよ。四乃森さんみたいな若いイイ男なら兎も角、先生じゃあねぇ………」
言いたい放題言った挙句、最後に小馬鹿にするようにくすっと笑うと、は再び目を閉じた。
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜」
だからどうしてそんな発想になるのかと腹立たしくなるが、わざわざ起こして問い詰めるのも大人気ないので黙っている。
そんな心配をするくらいなら、台所で寝ればいいのである。尤も、比古の方としても、金を積まれてもこんな女は絶対に御免なのだが。
むかむかしながらも、比古はもう一度を見る。
こうやって黙って目を閉じていれば、まあ見られる女なのだ。やはり何処ぞの死に損ないに押し付けるかと、比古は取り引きしている焼き物屋のご隠居の顔を思い浮かべてみるのだった。
相変わらずの減らず口の主人公さんと師匠です。今年もこの調子か………。
ドリームならば回を重ねるごとにドキドキしたり親密度UPのイベントがあるはずなんですが、この二人は倦怠期の夫婦度がUPする一方のようです。駄目じゃん、それじゃ(笑)。