笹の露
笹の露 【ささのつゆ】 酒の異称。
何だかんだ言いながら、結局体が戻るまでの世話になってしまった。あれからも二、三度食事を共にする機会があったのだが、あれ以上踏み込んだ話はしないままだ。しかしもうの世話になることはないのだから、それもどうでも良いことである。親切で一寸風変わりな小料理屋の女主人がいた、というだけの話だ。
ただ、これがきっかけというか、斎藤があの小料理屋に足を運ぶ機会は増えた。休みの間に溜まった仕事を処理しているうちに帰りが遅くなり、夕飯を作るのが面倒であの店で済ませているのだ。ほぼ毎日同じ店で済ませるというのも、女主人目当てと勘違いされそうだと思わないでもなかったが、これはまあ看病の礼のようなものである。斎藤はの初めての常連客であるらしいし、そういう客が足繁く通ってくるのは悪い気はしないはずだ。
店の様子は相変わらずで、大体同じ面子が同じ席に座っている。あれから新規客は入っていないらしい。
味も良く、酒も良いものを揃えているのだから、少し熱心に宣伝をすれば何とでもなりそうなものなのだが、そうする気は無いようだ。自分ひとりが食べていける分だけ稼いで、あとはのんびりと、とでも考えているのだろうか。
世話になっている間もあくせくしている風でもなかったし、店以外にも暮らしに困らぬだけのものを貰っているのかもしれない。毎日仕事に追われている斎藤には羨ましい生活である。
毎日のように通うようになると、の方も愛想の一つも見せなくてはと思うのか、時折話しかけるようになってきた。といっても、馴れ馴れしく話しかけるというわけではなく、一定の距離を保って煩わしく思われない程度に話したり切り上げたり、そのあたりは絶妙だ。流石は玄人だっただけはある。
そして一番の変化は、閉店後でも食事をさせてくれるようになったことだろう。暖簾をしまう時に都合よく前を通ると、一緒にどうかと誘ってくるのだ。しかも、どうせ余りものだからと、料理はただで出してくれる。これも常連の役得というものか。
しかしここまで優遇されると、実は自分に気があるのではないかと勘違いしてしまいそうになる。勿論そんな甘い話はなくて、きっと斎藤が身元が知れている警察官だから親切にしてくれるのだろうが。は以前、警察官に知り合いがいると何かと都合が良いと言っていた。
「こんな遅くまでお仕事だなんて、大変ですね」
暖簾をしまった店内は、斎藤の貸切だ。残り物の惣菜を並べ、は斎藤の隣に座っている。台を挟んで向かい側にいる女が隣に座っているのは、何度目でも斎藤は落ち着かない。
ただで食事をさせてもらえるのは、本当にありがたいと思っている。一人寂しく食べなければならないところを、一緒に食べてくれる女がいるというのは、多分恵まれているのだろう。しかも相手は、玄人上がりの一寸いい女である。
だが、その恵まれ境遇というのが、斎藤には少し引っかかるのだ。新選組で羽振り良くやっていた頃なら兎も角、ただの警察官になった自分がこの手の女に好かれるとは思えない。常連だから特別扱い、というには過剰なの親切は、斎藤には少し居心地が悪い。
「一本つけてくれないか」
残り物とはいえ、店のものをただ食いするのは、やはり気が引ける。食事の礼というわけではないが、ただで食べさせてもらう時はいつもより高い酒を頼むようにしているのだ。
「はい」
は微笑んで立ち上がると、台の中に入って燗の用意を始めた。
手際良く作業しているの姿をぼんやり見ていると、斎藤は妙な気分になってくる。他に客がいる時は何とも思わないのだが、こうやって二人きりになると、自分は一体何をやっているのだろうと考えてしまうのだ。
が誘ってくれるから何となく一緒に食べているが、二人は店主と常連というだけの仲なのだ。それがこうやって閉店後に二人きりで食事をして、しかも料理はただだなんて、普通では考えられない。知らぬ者が見れば、二人の間に何かあると誤解するだろう。当の斎藤も、もしかしたら自分に気があるのではないかと調子の良いことを思いそうになるのだ。
旦那を亡くして一年くらいだと、以前が言っていたような気がする。店を一人で切り盛りすることにも慣れた頃でもあろうし、ふと寂しさを感じることがあったのかもしれない。死に別れでも一年も経てば、新しい生活を考え始める良い頃合だ。
そこにたまたま手負いの斎藤が転がり込んできて、店と彼の世話で忙しくしているうちに、はそんな心の隙間が埋まったような気がしたのかもしれない。忙しくて寂しさを感じる時間が無くなったのを、斎藤の存在が寂しさを消したのだとが勘違いしているのだとしたら、この過剰な親切の理由が斎藤にも理解できる。
そんなことか、と思った途端、斎藤は何だか白けてしまった。そしてすぐに、白けてしまったことに苦笑する。
自分がこの手の女に好かれるわけがないと冷静に分析していたくせに、心のどこかで「ひょっとして………」と期待していたらしい。そんな甘い話があるわけがないではないか。
「どうぞ」
気が付くと、が銚子を持って斎藤の横に座っていた。ぼんやりしているうちに酒が出来たらしい。
「ああ」
銚子を受け取ろうとすると、は笑いながらすっと手を引いた。
「手酌じゃ出世しませんよ」
元新選組なのだから出世もたかが知れていると思ったが、には関係ない話なので黙っている。
「さ、どうぞ」
笑いながら促され、斎藤は杯を取った。
やはり玄人だっただけあって、の酌は手馴れている。酒を杯に注ぐだけの作業ではあるが、こういうものにも上手い下手はあるものだ。
こうやって酌をされていると、芸者か何かに酌をされているような気分になってくる。手付きが妙に艶かしいせいだろうが、素人というには派手すぎる赤い口紅がそう思わせるのだろう。
いつも不思議に思うのだが、はどんな時間でも化粧したてのような顔をしている。夕方に化粧しているにしても、閉店後ともなれば多少の崩れがあっても当然なのだが、どういう仕掛けになっているのだろう。女の化粧には関心の無い斎藤だが、の化粧は不思議だ。
そういえば斎藤が一番最初にに興味を持ったのは、彼女の口紅の色だった。の化粧には斎藤の好奇心を刺激する何かがあるらしい。
「私の顔に何か付いていますか?」
無意識のうちに凝視していたのか、が怪訝な顔をした。
「いや………」
まさかの化粧が気になったとは言えず、斎藤はそのまま視線を落とす。そんな彼を見て、は小さくくすっと笑った。特に話すことも無くなって、斎藤は黙って酒を飲む。飲んでいる彼の横顔をが楽しそうに見ていて、斎藤は何だか落ち着かない。
「何だ?」
「何でもありませんよ」
じろりと横目で見られても、は怯む様子も無くふふっと笑う。そして、
「私もいただいて良いですか?」
「ああ」
もいける口のようで、時々こうやって一緒に飲むことがあるのだ。飲んだからといって会話が弾むようなことは無いが、一人で飲むよりは良いような気がするので、斎藤もがそういってくるのを待っているようなところがある。
が杯を手に取ると、今度は斎藤が酌をした。
「いただきます」
そう言って、はきゅっと一気に飲んだ。その姿も、人に見られるのを意識しているような飲み方だ。本人はそんなことは考えてはいないのだろうが、昔の癖なのだろう。
こういう一寸した仕草の端々に玄人の匂いを感じるのは、斎藤は嫌いではない。玄人臭さが前面に押し出されるのは流石に辟易するが、これくらいのものなら逆に感心するくらいだ。ああいう商売の女は常に他人に見られていることを意識しているから、物を持つ仕草一つ取っても素人女より女らしい。“男が望む”女らしさをよく知っている。
「藤田さんって、いつもそうやって他人を観察しているんですか?」
杯を置いて、は可笑しそうに斎藤を見た。またしげしげと見てしまっていたらしい。
幸い、が不愉快そうにしていないから良いようなものの、意味も無くじっと見られるのは気持ちの良いものではないだろう。下手したら不審者扱いである。
斎藤だって、変な意味でじろじろ見ているわけではない。気が付いたら何となく見てしまっていただけだ―――――そっちの方がある意味質が悪いのかもしれないが。
「………職業病だな」
適当なことを言って誤魔化すと、斎藤は視線を逸らした。
「職業病、ですか………」
今ひとつ納得できないのか、はにこりともしない。いくら職業病でも、意味も無くじろじろ見られるのは気味が悪いものだ。職業病の自覚があるなら改善の努力をしろ、と思っているのかもしれない。
それきりが何も言わないから、斎藤も黙っている。元々、話が弾む二人ではないのだ。普段も会話が途切れるのは珍しくもないから、沈黙はそれほど苦にならない。
苦にはならないが、そろそろ切り上げ時かと斎藤は考える。あまり長居をするのは迷惑だろうし、明日にも差し支える。
「そろそろ帰る」
「はい」
唇から杯を離し、は小さく頷いた。
酒で温まったせいか、外に出てもあまり寒さは感じない。空気の冷たさが心地良いくらいだ。
「いつも悪いな」
「いいえ」
見送りに出たの顔は、酒のせいか店から洩れる灯りのせいか、少し紅い。いつもは白い頬が、紅を刷いたように染まっている。
いつもはこんな風になることは無いのだが、今夜は少し飲みすぎたのだろう。頬が紅くなったのを気にするように、頻りに頬に手を当てている。
その仕草がまるで初々しい少女のようで、斎藤はの意外な一面を見たような気がした。玄人女の婀娜っぽさしか見たことがない女のこんな仕草は新鮮で、素人女のそれより可愛らしい。
「顔、熱いのか?」
子供にするように、斎藤はの頬にペたっと手を当てた。
の頬は見た目よりもずっと熱くて、斎藤は少し驚いた。だが、それよりも驚いたのはの方だ。突然の斎藤の行動に、大きく目を見張ったまま固まっている。
「あ、いや………」
斎藤は慌てて手を引っ込めた。
ただの常連客のくせに、一体何をやっているのか。自分でも訳が分からない。
「じ……じゃあ、これで」
気まずさから逃げ出すように、斎藤は不自然なほどの早足でその場を離れた。
結構細かく見てるな、斎藤(笑)。
思えばこのシリーズは会話が殆ど無くて、斎藤が悶々と主人公さんを観察することに終始しているような気がします。主人公さんの方向性が定まっていないのが最大の原因ですが、こんな不審者のような妄想系斎藤を書くのも楽しい今日この頃。
さて、そろそろ主人公さんとストーリーの方向性を定めないとまずいな………。