心水

心水 【しんすい】 生きた心。
 ずっと塞ぎ込んでいただったが、漸くいつもの調子を取り戻しつつあるようだ。まだ時々考え込むような表情を見せることもあるが、それでも最悪の状態は抜け出せたように郁には思える。
 前の破談からやっと立ち直り、今度こそ信頼できる男に出会えたと思った矢先に、その男から手酷く突き放されたのだから、そう簡単に立ち直れるはずがない。また何年も引き摺り続けることにでもなったらどうしようかと思っていたのだが、この様子なら郁が思うより早く断ち切れそうだ。
 あんな非常識な男のことなど、さっさと忘れるのが一番だ。そんな男を紹介してしまったのは郁なのだが、次は本当に間違いない男を紹介したいと思っている。否、次は郁以外の伝で探すべきか。
 どちらにしろ、前の男を忘れるには新しい男が一番である。そして新しい男に出会うためにも、には一日も早く元気になってもらわなくては。
さん、今度の連休、温泉にでも行かない?」
 気分転換には、日常を忘れてのんびりするのが一番だ。温泉に浸かって日頃の疲れを癒し、美味しいものを食べれば、少しは気も晴れるだろう。
 が、は申し訳なさそうに、
「ごめん、先約があるんだ」
「先約?」
「四乃森さんと一寸ね」
「へ?」
 意外な名前が飛び出して、郁は目が点になった。
 蒼紫のことは、もうとっくに終わったのではないのか。単に喧嘩をして縒りを戻すのなら郁も何も言わないが、「が勝手にのぼせ上がっただけ」と言い放つような男である。蒼紫が何を言ったのか知らないが、縒りを戻したところで、また同じことの繰り返しに決まっている。
「あんな人、今更会ってどうするの! 人を傷付けても何とも思わない奴なのよ? またあいつの時と同じことを繰り返すつもり?!」
 蒼紫がどういうつもりでまたに近付こうとしているのかは知らないが、あの男のことだから彼女を都合良く利用するつもりに決まっている。そして必要無くなったら、また「あっちが勝手に勘違いしただけ」と言い放つに決まっているのだ。にまだ未練があるのをいいことに、とことん利用するつもりなのだろう。最低な男だ。
 大体、である。やっと心を許せる男に出会えたと一度は思ったとしても、それが間違いだと判った時点で切り捨てるべきなのだ。信じたい気持ちは解らないでもないが、現実を見ろと言いたい。
 男の裏切りには前回で懲りただろうに、どうして同じことを繰り返そうとするのだろう。郁には理解できない。
 憤然とする郁を落ち着かせるように、は小さく微笑んで、
「大丈夫よ、心配しないで。あれから四乃森さんと話して、最初から全部やり直すことに決めたの。まだ話さなきゃいけないことは沢山あって、これから先のことは判らないけれど、大丈夫。同じことは繰り返さないわ」
「そんなこと言ったって………」
 口調は柔らかだが、頑として意思を曲げる気の無いに、郁は呆れ半分、諦め半分の気分になる。
 周りが何と言おうと、は蒼紫を信じたいのだろう。蒼紫を信じることで、自分の男選びは間違っていなかったのだと思いたいのかもしれない。
 “最初からやり直す”と言い出したのはどちらか判らないが、それでまたが悲しむようなことになったら目も当てられない。一度裏切った男が今度は裏切らないなんてことは、絶対に無いのだ。
 だが今のは、郁が何を言っても聞き入れてはくれないだろう。蒼紫との関係が元に戻ると信じきっているのだ。まだ好きだから信じたいという気持ちは、郁にも解る。解るけれど、今回は相手が悪すぎだ。
 言いたいことは山ほどあるはずなのに言葉にならず、郁は怒ったような不機嫌な顔になる。そんな彼女を見て、も困ったように表情を曇らせた。
「郁さんの言いたいことは解ってる。だけどね、このまま終わらせたくないの。駄目になるにしても、できるだけのことをしたいから………」
 だって、やり直して確実にうまくいくと思ってはいない。乗り越えなければならないことは山ほどあって、挫折するかもしれないとも思っている。でも、乗り越えられると信じたいのだ。
 前の男の時は、ただ唖然として何も出来なかった。だから、あの時こうしていれば、という思いが残ってしまい、ずっと傷が癒えなかったのだと思う。今度はうまくいくにしても駄目になるにしても、出来る限りのことをして自分を納得させたい。
さんがそれで良いなら、良いけど………」
 渋々ながら、郁は理解を示してみせる。
 が悲しむ姿はもう見たくはないが、本人がそれで良いというなら、友人としてはこれ以上何も言えない。彼女も大人なのだから、周りが押さえつけることなどできないのだ。
 郁は蒼紫のことを許してはいないが、には幸せになって欲しいと思っている。そのが蒼紫とやり直すことを望むのなら、友人としては応援すべきなのだろう。たとえそれでが辛い思いをすることになることが判っているとしても―――――
「辛くなったら、いつでも言ってね。私があの男にガツンと言ってやるから」
「ありがとう」
 力付けるような郁の言葉に、は嬉しそうに微笑んだ。





 蒼紫の過去を知っても迷わなかったといえば嘘になる。江戸城御庭番衆の御頭だったなんて、今でもまだ信じられないくらいだ。『葵屋』が元々は御庭番衆の京都での拠点で、翁を始めとする全員が元隠密であることも。
 そして何より、蒼紫が翁を殺そうとしていたということ。が知っている二人の様子からは、そんな過去があったなんて想像も出来ない。あの蒼紫が人を殺しかけたなんて。
 否、蒼紫は少年の頃から沢山の人を斬ってきたのだ。任務の為に何人も殺してきたし、そのことについては今も後悔していないと、はっきりと言い切っていた。
 幕末から明治にかけてのあの頃は、そういう時代だった。人の命は今よりもずっと軽くて、蒼紫のやってきたことは今の価値観で量ることは出来ない。そう頭では解っているのだが、話を聞いたときにの中で蒼紫を見る目が変わってしまったのは事実だ。
 今の蒼紫はとても穏やかだけれど、全く正反対な面も持っているのだと思うと、漠然とした恐怖を覚えて身構えてしまう。今の蒼紫は昔の蒼紫とは違うのだと解ってはいても、その気持ちを拭い去れないでいる。
「やはりまだ怖いですか?」
 の気持ちを見透かしたように、蒼紫が訊ねた。
「いえ―――――」
 そんなことはないと言いかけたが、蒼紫と目が合うと嘘はつけないと思う。がその場しのぎで答えても、何も解決はしない。本当に蒼紫と向き合うためには、不安があればきちんと伝えなければいけないのだ。
「はい。まだ少し………。“怖い”というより、どうして良いのか分からないのかもしれません。四乃森さんは私の知らない世界の人だから」
「それは俺も同じです。あなたのような普通の人に、どう接して良いのか分からない」
 そう言って、蒼紫は苦笑する。つられるようにも小さく笑った。
 蒼紫の過去に対する感情は、まだ整理できない。が本当に心から「昔のことには拘らないから」と言えるにはまだ時間がかかるだろうが、いつかきっとそう言える日が来ると信じている。
 昔の蒼紫がどんな人間であったとしても、今の彼は『葵屋』の皆から慕われている。を捨てた“普通の男”よりもずっと誠実で、信用できる男だ。の不安も“怖い”という気持ちまでも受け入れてくれている。そういう男とならきっと、どんな不安も乗り越えられるだろう。
 蒼紫がの心の傷や不安を受け入れてくれたように、も蒼紫の全てを受け入れられるようになりたい。彼のお陰で強くなれたのだから、彼のためにもっと強くなりたい。
「四乃森さん」
 そっと手を伸ばし、蒼紫と手を繋ぐ。の方から手を握られて蒼紫は驚いたようだったが、無言で握り返してくれた。
 手を繋いで歩くのもまだぎこちないけれど、いつかそれも自然にできるようになる日が来るだろう。その時には、不安も戸惑いも消えているはずだ。
 そうなるまでの道のりが決して平坦なものではないことは解っている。また気持ちが行き違うこともあるだろう。昔のことを思い出して悩み苦しむこともあるかもしれない。
 先のことを考えればキリが無いから、今この瞬間に手を繋いで歩いているということだけを見ていようと思う。手を繋いで歩いているだけでも幸せ、これから二人で美味しいものを食べればもっと幸せ―――――今はそれで十分ではないか。
 そうやって小さな幸せを積み重ねるうちに、悲しかった記憶は薄れていく。代わりに目の前にいる人への気持ちは強く濃くなるはずだ。
 いつか来るその日のために、この瞬間を大切にしよう。蒼紫の大きな手に包まれている自分の手を見詰めながら、は思った。
<あとがき>
 これにて最終回です。まだまだ二人が解決しなければならない問題は山積みですが、頑張ってもらいましょう。
 でもこの二人、どちらも前向きとは言いがたい性格なんで、延々ループしてしまいそうですが。郁さんの心が休まる日は、まだまだ遠いな(笑)。
 グダグダメロドラマドリームでしたが、ここまでお付き合いいただきましてありがとうございました。
戻る