神籟
神籟 【しんらい】 神の声、絶妙な音。
遅ればせながら、神谷道場ご一行様が蒼紫の結婚祝いにやって来た。正確には、蒼紫の新婚生活の見学、のようであるが。以前、蒼紫との外出を尾行していた時もそうだが、どうやら彼らは二人の動向が気になって仕方が無いらしい。そんなに他人のことを気にしていては何かと大変だろうと蒼紫は思うのだが、そういう性分なのだろう。
との生活は隠すようなものではないし、二人だけの秘密にしておきたいことは適当にはぐらかしておけば良いのだから、何を訊かれたとしても蒼紫に困ることは無い。それはも同じだろうと思っているから、何を訊かれても蒼紫は平然としたものだ。
何を訊いても眉一つ動かさない蒼紫の様子がつまらないのか、左之助が核心に迫る質問をしてきた。
「ところでこの家は、亭主関白とかかあ天下のどっちなんだ?」
「どう見ても亭主関白でござろう」
蒼紫が答える前に、剣心が言った。
さっきから蒼紫は尻に根が張っているかのように全く動かず、が茶だの菓子だの甲斐甲斐しく動いているのだ。蒼紫の湯飲みが空になればすぐに茶を注ぎ、彼の客である剣心たちにも同じである。兎に角よく動いて、蒼紫の友人の前だからというのではなく、日頃からこうなのだろうと思わせた。
そもそも剣心たちが知っている蒼紫の性格では、かかあ天下を許すはずがないのだ。尻に敷かれている蒼紫の姿など、剣心たちには想像も出来ない。
「お前も少しは見習えよ。毎日家事を押し付けて、剣心が可哀想だぜ」
「なっ………?!」
弥彦の生意気な台詞に、薫は顔を真っ赤にする。
確かに神谷家の家事は全て剣心の担当になってしまっているが、それは薫がやらせているのではなく、彼が自主的にやってくれているのだ。まあ一寸は悪いかなとは思ってはいるが、弥彦に「可哀想」と言われるのは心外である。
甲斐甲斐しく働いて蒼紫を立てるの様子は偉いとは思うが、ああいうのは女にばかり負担がかかって大変だと思う。聞けば、は今でも働いているというではないか。それで亭主関白というのは如何なものか。
「でも、あんまり亭主関白で、家のことを何もしてくれない人は困るわ。ねぇ、さん?」
「そうねぇ。でもうちは、家のことも手伝ってくれるから」
「えぇえええええ―――――っっ!!」
ニコニコして応えるの言葉に、薫どころか全員が目を丸くした。あの蒼紫が家事を手伝う姿など、想像できない。
が、蒼紫もいつもの平然とした顔で、
「やっているとはいっても、力がいる仕事だけだがな。殆どはがやっている」
「力仕事?」
「薪割りと風呂に水を張るのと、あとは鍋と釜を洗うくらいか。本当は緋村のように何でも出来るようにならなければならないとは思っているのだが」
「あら、今でも十分だわ。時々お料理だってしてくれるし」
「………………………」
蒼紫との会話に、剣心たちは益々唖然とする。
薪割りは兎も角、あの男が料理までするとは。剣心たちが知っている蒼紫は、とても家事が出来るような男ではなかった。に仕込まれたのだろうが、あの難儀な性格の男をここまで仕込むとは凄い。
周りの視線に気付いていないのか、蒼紫もも相変わらず上機嫌だ。のようににこにこはしていないが、蒼紫が上機嫌なのは剣心たちにも判る。普通の人間に較べればまだ表情の変化に乏しいが、それでもこうやって楽しそうなのが周囲にも伝わるというのは大きな変化だ。
何だか剣心たちの知る蒼紫とは随分変わってしまったようであるが、それでも彼には幸せなのだろう。以前の蒼紫に較べれば、今の彼の方がずっと良い。
とはいえ、料理をする蒼紫の姿を想像すると、悪いと思いながら一寸笑ってしまうのだった。
夕飯は皆で食べようということになり、と薫が買出しに出かけた。薫は客だから行かなくても良いとと蒼紫で引き止めたのだが、何やら女同士で話したいことがあるらしい。大方、蒼紫の躾け方を聞き出したいのだろう。
そして残った男たちはというと、こちらも男同士の気になる話に花を咲かせていた。
「しかしお前が料理までするたぁなあ。完全に尻に敷かれちまってるじゃねぇか」
に顎で使われている蒼紫の姿を想像しているのか、左之助は可笑しそうににやにや笑う。
が、蒼紫は相変わらず平然として、
「尻に敷かれているつもりはないが、を手伝うのが尻に敷かれているというのなら、それでも構わん」
「お、随分素直じゃねえか」
顔を真っ赤にして全力で否定するかと思いきや、あっさりと認められてしまい、左之助は意外そうな顔をした。
「一寸手伝うだけで感謝されて待遇が良くなるなら安いものだ」
「今は感謝してくれるだろうけどさ。剣心みたいに扱き使われるようになったらどうするんだよ?」
「弥彦………」
弥彦の反論には、剣心の方が地味に凹んでしまったようである。横で情けない顔をしている。
一方、蒼紫は相変わらず涼しい顔で、
「それは緋村のやり方が悪いだけだろう。最初から何でもやるから、そういうことになるんだ」
「殿のように何でも出来る女性なら何もしなくても良いでござろうが、薫殿はそうもいかんでござるよ」
一日中観察していたわけではないが、剣心の目から見て、は古風で家庭的な女だと思われる。対する薫は若いだけあって良くも悪くも今風の娘で、年上の剣心が何でも教える立場なのだ。出発点が違うのだから、蒼紫のやり方が通用するわけがない。
大体、弥彦や左之助は「扱き使われている」と言っているが、剣心はそう思ってはいないのだ。居候だから家事をするのは当然だと思っているし、何もしない方が逆にどうかと思う。
「拙者のことは兎も角、左之助と弥彦は将来のために蒼紫の話を聞いておくと良いでござるよ」
「こいつの話を聞いてもなあ………。俺は亭主関白でいくつもりだしよ」
「俺も俺も!」
家事に勤しむ剣心の姿を毎日見ているせいか、二人は「風呂! メシ! 寝る!」というのに憧れているらしい。まあ大抵の男はそういう生活を理想にしているものである。
二人の言葉に蒼紫は小さく笑って、
「関白は二番目だから、そんなに偉いとは思えんが」
「う………」
確かに関白の上には天皇がいて、実際はどうであれ形式上は二番目である。家庭内で二番目ということは、一番目は妻ということになるわけだ。実際、かかあ天下という言葉が存在して、“天下”より上は無い。
改めて考えてみると、亭主関白だと言っている家庭でも、家庭内の実権は妻がしっかり握っているような気がする。夫も空気を読みながら威張らないと家庭内で孤立して“関白失脚”の危険もあるし、亭主関白も意外と大変だ。
かといって剣心のようになりたくもなく、左之助と弥彦には悩ましい問題である。結婚生活というのは難しい。
「まあ亭主関白をやりたいなら、上手に尻に敷かれてやることだな。相手を良い気分にさせてやれば、自然と応えてくれるものだ」
流石に経験者だけあって、一言一言に重みがある。人間関係は苦手のように見えるが、少年の頃から御庭番衆御頭として人を使っていた経験が活かされているのだろう。
付け足すように蒼紫は言葉を続ける。
「手伝うのも大事だが、たまには出来ないふりをするのも大事だぞ。何でも出来るところを見せると、緋村のようになる」
怪訝な顔をする三人に、蒼紫はにやりと口の端を吊り上げた。
「俺だって緋村ほどではないが、一通りのことは出来る。だが、こういうのは小出しにするのが良いからな。同じことでも、出来る人間がやるのと出来ない人間がやるのとでは、ありがたみが違うだろう?」
の前では家事が全く出来ないことにしているが、実は蒼紫も御庭番衆時代に一通りのことは仕込まれているのだ。それを隠しているのは、が全部やってくれているのというのもあるが、そうした方が何かと都合が良いからだ。剣心のように何でも押し付けられることも無いし、たまに料理の一つもすれば大袈裟なくらいに感謝されるのだから、楽なものである。
「うーん………」
尻に敷かれっぱなしかと思いきや、なかなか強かである。平和ボケしたとはいえ、流石は御頭といったところか。
だが、その手もいつまで通用するのか。感心しながらも、いつかは完全にの尻に敷かれる日が来るに違いないと、剣心たちは思わずにはいられないのだった。
一方、買い物に出かけた女たちはというと―――――
「あの蒼紫さんが家のことをやってくれるなんて、どうやったんですか?」
ずっと訊きたくてうずうずしていたことを、薫は思い切って切り出した。
あの蒼紫が家事を手伝うなんて、もの凄い秘策を使ったに違いない。今後のためにその秘策を教えてもらおうと思ったのだ。
は得意げにふふっと笑って、
「蒼紫の前で薪割をしてたら、代わりにやるって言ってくれてね。それで大袈裟にお礼を言ったら、毎回してくれるようになったの。大袈裟にお礼を言ったり褒めたりするのが効くみたいよ」
そうは言ってみるものの、それだけではないことはも薫も解っている。感謝するのは大切だけれど、手伝ってくれるのは蒼紫が優しいからだ。そうでなければ、「手伝おうか」という最初の一言すら出てこないだろう。
その優しさを持続させるのが感謝の気持ちであり、そして何よりの技なのだと薫は思う。その技を知りたい。
「でも、それだけじゃないんでしょう?」
「うーん、そうねぇ………」
今までのことを思い出すようには考える。
「小出しにお願いすることかしら。あとは、人前では蒼紫を立てるように心掛けてるわね」
一通りのことが出来るようになったからといって、何でもやらせるようになってしまっては、いくら蒼紫が優しくても厭になるというものだ。調子に乗り過ぎないというのが、一番のコツだろうか。
そして、二人きりの時はどうであれ、人前では亭主関白ぶらせてあげること。蒼紫はああいう性格だから人前では偉そうにしていたいだろうし、そうさせておけば後でちゃんとを労わってくれるのだ。少しの労力で大きな見返りが期待できるのだから、一寸くらい威張らせておくのはお安い御用だ。
「要するに、上手に煽ててあげれば良いってこと。あ、このことは蒼紫には内緒ね」
そう言って、は悪戯っぽく笑った。
ローカルで無料配布されている雑誌に『全国亭主関白協会』の会長さんのコラムがありまして。『亭主関白協会』というのは“正しい亭主関白を広めよう”という団体で、「おお、これはこのシリーズの蒼紫だ!」と思って、このネタが思いつきました(笑)。詳しいことはサイトをご覧下さい。『亭主関白協会』で検索したら引っかかりますんで。
何ていうかこの二人、狐と狸の化かし合いだなあ。それで上手くいってるなら良いですけど(笑)。
しかし蒼紫、剣心たちに教えを垂れるようになるとは、随分と偉くなったものだなあ(笑)。