緑陰
緑陰 【りょくいん】 木陰。
比古の山小屋に手紙が届いた。こんな山奥まで手紙を届けに来る郵便屋にも感心したが、こんな山奥にも一応“住所”があったのかとは驚いた。人が住んでいれば何処であれ住所は発生するのだが、それだけを頼りにこの山の中を迷わず此処まで辿り着けたというのも凄い。きっと優秀な郵便屋だったのだろう。手紙の差出人は、“緋村剣心”という人間だ。比古宛てだから、きっと彼の友人なのだろう。山暮らしが長いらしい彼にも手紙をくれる友人がいたのだということに、はまたまた驚いた。
「せんせーい! 手紙が来てますよぉ」
大木の下に設えた机で酒を飲んでいる比古に、は大声で呼びかけた。
暦の上ではもう秋に入っているが、昼間はまだ残暑が厳しい。そういうわけで、比古はまだ陶芸もせずに涼しい木陰で昼間からだらだらと飲んでいるのだ。町にいた頃は、仕事もせずに昼間から酒を飲むようなのは人間のクズだと思っていただが、長い付き合いのお陰でそんな比古の姿にももう慣れた。
「珍しいな」
から手紙を受け取ると、その差出人を見て比古は少し驚いた顔をした。が、何も言わずに封を切ると、無言で手紙を読みすすめる。
手紙自体は短いもののようであるが、比古は何度も読み返している。余程面白いことがかかれてあるに違いないとは思ったが、まさか覗き見るわけにはいかない。比古も読みながら口許を綻ばせているようでもあるから、思い切って訊いてみた。
「何て書いてあるんですか?」
「結婚したんだとさ。ま、落ち着くところに落ち着いたってとこだな」
いつもなら「うるせぇ」の一言で済まされそうなところだが、あっさりと答えてくれたところを見ると余程嬉しかったらしい。友人の結婚報告なら、喜ばしいことである。
手紙を封筒に戻しながら、比古は昔を思い出すような目をしてしんみりと呟く。
「この間までは、ちっせぇガキだったんだがなぁ………」
「先生の“この間”って、いつですか」
歳を取ると、若い頃に比べて時間の感覚がおかしくなるようである。結婚するような人間の子供の頃なんて、“この間”なんてものではない。は笑いながら突っ込んだ。
比古は一寸考えて、
「ま、“ついこの間”じゃねぇな。奴が此処に来た頃は、この木もまだ小さかったもんなあ………」
そう言いながら、傍の大木を見上げる。
剣心を拾った頃、この木はまだ比古の背丈より低かったと思う。それがいつの間にやらこうやって木陰を作るほどまでに成長したのだ。あの頃小さな子供だった剣心も所帯を持つ歳になるはずである。本当に時の流れは速い。
家族を持たず、山の中で一人で暮らしていると、どうしても時間が止まってしまっているかのような錯覚に陥ってしまうものだ。自分の年齢は一応自覚しているとはいえ、若い頃から姿が大して変わらないと、その傾向は一層強くなるものらしい。大人になった剣心と再会した時も、内心ひどく驚いたものだ。
所帯を持ったとなると、じきに子供も生まれるだろう。その子供を見たら、また時の流れの速さに驚くのだろうか。その時のことを想像したら、比古は可笑しくなった。
「先生、やっぱりたまには山から下りて、他人と接する機会を持った方が良いですよ。時間の感覚がなくなるなんて、相当ですよ」
木を見上げて考える比古に、が心底心配そうに言った。
折角しみじみしていたのに、のいらぬお節介のせいで気分が台無しだ。どうしてこの女はいらぬところでは現実的なのだろう。どうせなら自分の立場を現実的に冷静に見詰めてもらいたい。
「うるせぇ。てめぇが日に日にババァになっていくのを見てりゃ、嫌でも時間の感覚を思い出すさ」
「あら、私よりジジィにそんなこと言われたくありませんね」
比古の憎まれ口にも、は鼻で笑って返す。仮にも師匠に向かって“ジジィ”とは、とんでもない弟子である。
否、この女は“弟子”ですらない居候だ。居候のくせに家主をジジィ呼ばわりとは不届きな女である。まったく親の顔が見たいとはこのことだ。
不機嫌な顔で杯に口を付ける比古に、はにやにやしながら言葉を続ける。
「日に日に歳を取っていくのが判るくらい、私を見てるんですか? いくら私が美人だからって、そんなに見詰められちゃ、困っちゃいますよ」
「〜〜〜〜〜鏡見てから言いやがれ、この馬鹿女」
比古の頭が痛くなってきたのは、酒のせいではないだろう。一体、何処のどいつが“美人”だというのか。冗談は顔だけにしろと言いたい。
この女がいると酒がまずくなるだけでなく、しみじみと思い出に浸ることさえ出来ない。どこまでも疫病神な奴だ。絶対に出て行かないところも、疫病神である。
「ま、山奥でお互いが年取っていくのを観察するだけっていうのは面白くないですからね。こっちから町に下りなくても、誰かをこっちに呼びましょうよ。今の季節なら、此処で宴会も良いじゃないですか」
「やけに宴会に拘るじゃねぇか」
いつだったか一緒に飲んでいた時も、は蒼紫たちを呼んで宴会したいと言っていた。比古と顔を付き合わせる生活に飽き飽きしてきているのだろう。この生活に飽きたのなら、さっさと山を下りてはどうかと比古は思うのだが。
比古の顔しか見ない生活に飽きているのもそうだろうが、宴会を口実に蒼紫をモノにしようと狙っているのかもしれない。どうやらこの女は年甲斐も無く、年下の男前に気があるようなのだ。蒼紫も災難なことである。
はふふっと楽しげに笑って、
「やっぱり一緒に飲むなら、若くてイイ男が良いですもん。先生だって、たまには違う女の人と飲みたいでしょ?」
やはり、時間の流れ云々より蒼紫が一番の目的らしい。年甲斐も無く………と言いたくもなるが、の関心が蒼紫に向かってくれれば、比古としても多少はありがたい。ついでに蒼紫があの女を引き取ってくれれば、もっとありがたい。
此処に誰かを呼ぶというのは考えたことも無かったが、たまにはこういうことをするのも良いかもしれない。これをきっかけにしてに里心が付けば、町に帰る気になるかもしれないではないか。
「そうだなあ………」
「ね? そうだ、この緋村さんっていう人も呼びましょうよ。此処に人が出入りするようになったら、きっと楽しいですよ」
この木の下での楽しい宴会の様子を想像しているのか、の声はいつにも増して華やいでいる。比古と違って、は人付き合いが好きな性格なのだろう。
比古にとって楽しいかどうかは兎も角として、此処に色々な人間が出入りするようになれば、随分と賑やかになるだろう。それは彼の望む生活とは全く違うものだが、それはそれで悪くないかもしれない。
そう思ってしまう自分に気付いて、比古は少し顔を顰めた。飛天御剣流を利用されぬように他人との関わりを断つ生活を選び、その生活に満足していたというのに、そんなことを考えるようになるとは。人間、歳を取ると人恋しくなるものらしいが、比古はまだそんなことを思う歳ではないはずだ。
そうは思いたくはないが、これもの影響なのだろうか。この女が来てからというもの、比古の生活は大きく掻き乱されている。出来る限り自分の生活を崩すまいと頑張ってはいるが、知らず知らずのうちにに毒されていたのかもしれない。
自分がこんな女の影響を受けていると思うと腹が立つが、賑やかな宴会でに里心が付けば願ったり叶ったりだ。複雑な気分ではあるが、の案に反対する理由は無い。
「ま、好きにすれば良いんじゃねぇか?」
きわめて消極的ではあるが、比古はの案に賛成するしかないのだった。
木陰でまったりと―――――という話のはずが………。
いよいよこの山小屋に他の人たちがやって来ることになりそうです。とりあえず『葵屋』の人々が最初のお客さんかな? 山の平均年齢が一気に下がりそうです(笑)。
それにしてもこの二人、陶芸はどうしたんだ?