海市
海市 【かいし】 蜃気楼に同じ。
「しっかりお世話させていただきますよ」の言葉通り、は思うように動けない斎藤のためにまめまめしく面倒を見てれている。店と看病の両立は大変だろうと思うのだが、上手くやりくりしているようだ。一週間ほどで無くなると言われていた全身の痺れはまだ残っていて、斎藤は一日の殆どをあてがわれた部屋で過ごしている。やることも無く日がな一日ぼんやりと過ごしていると、全ての関心がに向かってしまうのは自然な成り行きだ。他人の生活を覗き見しているようで悪趣味だと思いながらも、何となく彼女の様子を窺ってしまう。
此処に落ち着いてから暇にあかせて家の中の様子を窺っているのだが、この家に誰かが訪ねてくる様子は無い。こういう店をやっている女だから、誰か援助してくれる男がいて、その男が訪ねてくるかもしれないと思っていたのだが、要らぬ心配だったようだ。もしかしたら、斎藤がいる間は来ないように伝えているのかもしれない。そうだとしたら、いくら警視庁から手当を貰っているとはいえ、彼が長居をするのは迷惑だろう。
勿論にそんなことを訊くことはできないが、援助している男がいるだろうと斎藤は睨んでいる。小さいとはいえ、女一人でこんな店を持てるわけがない。最初は誰かから店を譲り受けたのだろうと思っていたのだが、それは本人から話を聞いて違うということが判った。となると、誰かがを援助しているとしか思えない。それは恐らく男で、もっと言えばを囲っている人間だろう。
これも斎藤の推測だが、は男を相手にする商売をしていた女だろう。雰囲気や表情の作り方が、素人女と明らかに違うのだ。そういう体に染み付いた匂いのようなものは、隠そうとしても隠せるものではない。
がかつて玄人女だったとしても、誰かの囲われものだったとしても、斎藤には関係の無いことだ。だが、本当に囲っている男がいるとしたら、その男の手前、いつまでも世話になるわけにはいかないだろう。
そんなことを考えていると、襖が開いてが姿を現した。一日中ぼんやりしているせいで時間の感覚がなくなってしまっているが、どうやら夕食時になったらしい。
「御加減は如何ですか?」
今日は店は休みだが、の化粧は店で見るいつも通りのものだ。そういえばこの家に転がり込んで一週間以上経つが、彼女の素顔は見たことが無い。
斎藤は化粧の濃い女は好みではないが、に限っては赤い口紅を付けていて欲しいと思う。強烈なほど鮮やかな赤い口紅は下品な印象を受けそうなものだが、が付けるととても良い感じに纏まっているのだ。多分、塗りっぱなしではなく、上手く処理しているのだろう。
斎藤がを素人女ではないと判断したのも、その化粧からだ。ああいう派手な色を上手く使いこなす技は、素人では到底習得できないものだろう。斎藤も若い頃は派手に遊んでいたから、それくらいのことは判る。
「うん………まあまあだな」
まだ痺れの残る手を握ったり放したりしながら、斎藤は応える。
指先に力は入りにくいものの、最初の頃に比べれば大分良い。少しくらいなら歩くことも出来るし、これならもうの世話は必要無いだろう。
「大分良くなってきたし、そろそろ家に戻ろうかと思う」
「あら、いけませんよ。まだお箸も満足に持てやしないじゃありませんか」
予想外に長居することになってしまい、遠慮していると思っているのだろう。は可笑しそうに笑った。
勿論長居が心苦しいということもあるが、それ以上に女の独り暮らしの家にずるずる居座っているのはどうかと思うのだ。に通ってくる男がいるにしろいないにしろ、女の独り暮らしの家に男が転がり込んでいるとなると、そのうち噂にもなるだろう。特にのような“普通と一寸違う雰囲気の女”は、その手の噂がつき易い。
「いや、しかし、このままいつまでも世話になるというのは………。長居をすればいろいろと不都合もあるだろうし………」
斎藤にしては珍しく歯切れの悪い口調に、は怪訝そうに小首を傾げる。が、何を言いたいのか理解したのか、可笑しそうにくすっと笑った。
「大丈夫ですよ。この辺りにはそんな噂話をするような人は居ませんし。第一、そんなことを気にするようだったら、最初から藤田さんのお世話なんかしませんよ」
「うーん………」
返す言葉が思い浮かばずに、斎藤は小さく唸った。
確かにの言う通りだ。外聞を気にするような女なら、手当を貰えるといっても斎藤を引き取るなんてことはしないだろう。そもそも、ずるずると一週間以上も居座っておいて、今更他人の噂も何もない。
斎藤が何も言わないのを納得したものと解釈して、はさっさと食事を彼の前に並べる。
「今日は一緒に戴きましょうかね。そういえば一緒にお夕飯を戴くのは初めてですねぇ」
「そうだな………」
楽しげなとは対照的に、斎藤の表情はどことなく浮かない。
と食事をするのが嫌なわけではない。人目を引く美人というわけではないが、男好きのする感じのする女と二人で食事をするというのは、仕事漬けの斎藤の生活でそうあるものではないのだ。普通なら多少は気持ちが弾んでも良さそうなものである。
そうならないのは、が未だによく判らないからだ。厭な顔一つ見せずに斎藤の面倒を見てくれるのは、本当に人が好いのだろう。体が戻るまでいれば良いと引き留めてくれるのも、親切心からだと思う。手当を貰っていても、相手が素性の知れた男でも、他人に長々と居座られるのは、普通なら嫌がるはずだ。
一寸いい女で、おまけに親切ときたら、男にとってこれほどありがたい存在はないはずなのだが、ありがた過ぎてかえって胡散臭さを感じてしまう。何か裏があるのではないかと疑ってしまうのだ。職業柄なのか性格なのか斎藤も判らないが、親切にしてもらって胡散臭く感じてしまうのだから難儀なものである。
胡散臭く感じるのは、のことを何も知らないからだろう。何日も一つ屋根の下で暮らしているのだが、朝型生活を貫いている斎藤と夜型生活のではゆっくりと話をする時間が無いのだ。こうやって一緒に食事をするのも次はいつになるのか判らないのだから、のことを知る良い機会かもしれない。
あまり立ち入ったことを訊くのも失礼な気がしないでもなかったが、少しは相手のことを知っておくべきだろうと思い、斎藤は箸を止めて尋ねた。
「随分前からあるような店だが、長いのか?」
「そうですねぇ……もう五年近くになりますか」
記憶を手繰り寄せているのか、の目が遠くを見るようになる。
五年というと、斎藤が此処に越してくる前からある計算になる。そんなに昔からある店を最近まで気付かなかったというのは、余程ぼんやり歩いていたに違いない。自分のぼんやり具合に、斎藤は小さく苦笑した。
「そんなに昔からあるとは知らなかったな」
「小さな店ですからねぇ。それに、前の主人が道楽でやっていたようなものでしたから」
「前の?」
の言葉に、斎藤が怪訝な顔をする。
「ええ、この店は形見分けで戴いたものなんです。一人でやるようになって、もうすぐ一年になりますかねぇ。だから来て下さるお客様も前の主人の知り合いの方ばかりで、新しい方は藤田さんくらいなものですよ」
そう言って、はくすっと笑った。その笑い方も色気があって、斎藤は一瞬どきりとする。
「それはそれは………」
なんと言って良いのやら、斎藤は柄にも無く口の中でもごもご呟く。
の話を纏めると、どうやら彼女はここ一年辺りで旦那を亡くして、今は旦那が残した店と客で細々と食いつないでいるらしい。斎藤の読みは大体当たっていたというわけだ。
これ以上詳しい話は聞きにくいが、これだけの話でもぼんやりと得体の知れなかったという人間の輪郭が掴めたような気がした。何となくでも相手のこれまでの人生が分かると、胡散臭さも消えるような気がする。
斎藤を引き取って面倒を見ることにしたのは、旦那を亡くしたばかりで淋しかったからなのだろう。おまけに彼は、初めてが作った常連客だ。他の客よりも親しみを感じていたのかもしれない。
の旦那はどんな男だったのだろうと想像してみる。道楽で店をやるくらいだから、金持ちだったのは間違いない。この辺りでは手に入りにくい酒を揃えていることもそうだが、が拵える肴もなかなかのもので、きっと食道楽な男だったのだろう。旦那が生きているうちにこの店を見付けられなかったことが残念だ。
斎藤の頭の中を見透かしたように、は話を続ける。
「物静かな人でしたけど、お酒とお料理にはうるさい人でしたねぇ。まあ、そのお陰で今でもお店をやっていけてるんですけど」
昔のことを思い出したのか、はそう言って小さくくすっと笑った。
「本当にねぇ、自分が料理が出来るものだから、私が何か作ってると横から煩いこと煩いこと。味付けは当然ですけど、包丁の握り方から口を出してくるんですよ。もうねぇ、あれには呆れました」
うんざりしていたような口振りであるが、の口調は楽しげだ。その頃は煩いと思っていたのだろうが、昔話になってしまえば楽しい思い出なのだろう。否、その当時も何だかんだ言いながら楽しかったのかもしれない。
店では殆ど喋ることが無く、家でも少し世間話をする程度の彼女がこんなにも饒舌になるなんて、まだその旦那のことが好きなのだろう。この手の女はそういう気持ちの切り替えは早いと斎藤は思っていたのだが、そういうわけでもないらしい。それとも、余程その旦那がいい男だったのか。
死んでしまった人間ではあるが、の旦那がどんな男だったのか、斎藤は詳しく知りたくなってきた。しかしこうやって目の前にいるのことですらよく知らないというのに、その彼女の死んでしまった男のことなど訊けるものではない。それでなくても元々が話し好きではない女のようである。迂闊に質問して機嫌を損ねられでもしたら、後々厄介だ。
質問するわけにはいかず、かといって何と言って良いのかも分からずに黙っている斎藤を見て、は困ったように小さく微笑んだ。
「すみませんねぇ、つまらない話をして。誰かと食べるなんて滅多に無いことだから、つい喋りすぎてしまいました」
「いや、別に………」
つまらない話どころか、久々に仕事以外で他人に興味を持てた話だった。だが続きを促せる雰囲気ではないようで、斎藤は気まずそうに口籠もってしまう。
仕事では一癖も二癖もある人間からでも易々と情報を引き出せる斎藤であるが、今回に限っては何故かそれが出来ない。仕事ではないからとか、相手は犯罪者ではないからとか理由は色々あるだろうが、一番の理由はやはりの雰囲気だろう。どうもこの女は斎藤の調子を乱すというか、絡みにくいのだ。男相手の商売をやっていて、今も小料理屋をやっているくらいだから、自然に相手をかわす術を心得ているのかもしれない。
一人暮らしの家に斎藤を受け入れてくれるくらいだから開けっぴろげな女かと思っていたが、一定の距離以上は絶対に近付かせない頑なさがある。悪い人間ではないことは確かだが、こうやって話していても本当に知りたいことは判らないままだ。近いうちに出て行くのだから判らないままでも問題は無いのだが、中途半端に知ってしまった後では胸の中がもやもやして、どうも気分が良くない。
何ともいえない微妙な気分のまま、斎藤は無言で食事を再開させた。
結局主人公さんのことはよく判らないまま………orz どうしようかなあ、この人。設定をね、あんまりよく決めてないんですよ。
こんな人の相手になるんだから、斎藤も大変だよ。「気になるけど訊けない………」って、かなりストレス溜まりそう。時間はたっぷりあるから、色々妄想するんでしょうねぇ(笑)。