疾風

疾風 【はやて】 はやく吹く風。
 あれだけ大騒ぎしたくせに、結局縁は一時間ほど休んだだけで何事も無かったかのように回復してしまった。その後は流石に部屋に戻る気にはなれなかったらしく、迎えの者と帰ったらしい。
 が伝え聞いた話によると、あれは精神的なものが原因で起こる発作のようなものなのだそうだ。死ぬかもと思うほど苦しいらしいが、絶対に死ぬことは無いらしい。
 死ぬほど苦しいのに死ねないなんて、あの男に相応しい罰だ。しかも特効薬は無いらしいから、一生あの発作に怯え、苦しめば良いと思う。きっと一思いに殺すよりも良い復讐になる。
 あの男にはもう会うことがないだろうということが、には残念でならない。あの男が死ぬほど苦しい発作にのた打ち回る姿を見ることは、もう出来ないのだ。まあ、あんな男の顔など見ても、あの日のことを思い出してしまっても同じく苦しむのだから、これで良いのかもしれない。
 昨日は客の相手をすること無く終わったが、結局一睡も出来ないままだった。これから一寝入りしようと服を脱ぎかけた時、女将が部屋に入ってきた。
「あら、もう起きてたの?」
「今から寝るところです」
 女将がわざわざの部屋に来るなんて珍しいことだ。が、兎に角寝たいは迷惑そうに素っ気無く応える。
「昼には起きますから、後にしてもらえませんか? 昨日の騒ぎで全然眠れなかったんですよ」
「そうよねぇ。あんなことがあった後だもの。ゆっくりと休んで頂戴ね」
 いつもなら叱り飛ばすはずの女将の声が気持ち悪いほど優しい。こんな猫撫で声を出されるなんて初めてのことだ。
 さっさと寝たいと思っていただったが、女将の不気味な態度が気になってきた。この女が優しい時は必ず何かがある。
「………何か良いことでもあったんですか?」
 探るように尋ねてきたに女将は喜色満面といった様子で応える。
「良いことどころじゃないわよ。あんたを身請けしたいって話があるの。それも今日連れて帰りたいらしくて、お昼過ぎに迎えに来てくれるそうよ。良かったわねぇ」
「え………?」
 あまりにも急な話に、は眠気も吹き飛んでしまった。身請けの話が出た日に引き取られるなんて話は、この世界が長い彼女も聞いたことが無い。
 売り物買い物の娼婦ではあるが、身請けの話が出た際には相手の男と直接話し合いをして双方納得してから、というのが普通だ。一生囲われるのかもしれないのだから、娼婦といえども相手を吟味する権利を与えてやろうというのだろう。“商品”である娼婦に与えられたたった一つの権利だというのに、の承諾も無く勝手に話を纏めてしまうなんてひどすぎる。
 女将の様子から察するに、もう身請け金は受け取ってしまっているのだろう。業突張りなこの女が上機嫌で即決してしまったということは、相当な金額を出されたに違いない。しかしどれだけ出されたとしても、この世界の約束事を破って良いということは無いのだ。
「そんなっ………急に言われたって困ります! 私にだって相手を選ぶ権利があるんですよ?!」
 顔を真っ赤にして、は必死に抗議する。何処の誰だか知らないが、こんなやり方で女を買い取ろうだなんて碌な男じゃない。そんな男に自分の人生を握られたくはない。
 が、女将は駄々を捏ねる子供を宥めるように、
「何言ってるの。こんな良い話はもう二度と来ないわよ。身請けしたいって言ってきたの、昨日のお客さんよ? あんな若くていい男で、しかも大金持ちに引き取られるなんて、あんたも上手くやったわねぇ」
「なっ………?!」
 あまりの話には絶句する。縁がを身請けするだなんて、一体何を考えているのだろう。
 昨夜の発作の原因がだと考えて殺すつもりでいるのだろうか。それとも昨夜の仕返しに、家に連れ帰ってゆっくり嬲るつもりなのか。殺されるのならその前に一矢報いたいところだが、あの男の家の中でとなるとそれは無理だろう。何も出来ないまま家族と同じように殺されるなんて最悪だ。
 今更惜しい命ではないが、あんな男にくれてやる義理は無い。何より、あんな男に自分が買い取られるということが嫌だった。
「あいつだけは嫌! 今すぐ断って!!」
 血相を変えて、は悲鳴のような声を上げた。
 一度成立した商談を反故にして店の信用が無くなろうとの知ったことではない。縁が女将にいくら支払ったのか知らないが、どうせの懐には入ってこない金である。そんなもののために自分を自由にされてたまるものか。
 の金切り声に、それまでにこやかだった女将の顔がさっと険しくなる。そして恐ろしく低い声で、
「何言ってんだい。今更断れるわけ無いだろうっ」
 女将の豹変ぶりに、は思わずビクッと身を震わせた。子供の頃から恐ろしい存在だった女将からそんな風に凄まれると、昔やられた折檻を思い出して体が萎縮してしまう。
 真っ青な顔で声も出せないを傲然と見やって、女将は小さく鼻を鳴らす。
「お金はもう貰ってるんだからね。雪代さんが来るまでにせいぜい綺麗にしておくんだよ」
 叩きつけるようにそう言うと、の返事を待たずに女将は部屋を出て行った。
 呆然と立ち尽くしていただったが、もう縁のものになるしか道はないのだと悟ると、へなへなとその場にへたり込んでしまった。
 あの男への憎しみと、いつか家族の仇を取りたいという一心で生きてきたというのに、よりにもよって当の仇に身請けされる羽目になるなんて。どんなに辛くても酷い折檻を受けても必死に生きてきたのに。こんなことになるのならこの店に売られた日に死んでいれば良かった。
 しかしこうなってしまった以上、落ち込んでばかりもいられない。殺されるにしろ何にしろ、せめて一生ものの傷を付けるくらいはしてやらなくては。そうでもしなければ、今日まで生きてきた甲斐が無い。
 改めて復讐を誓い、はぎゅっと拳を握り締めた。





 縁へのの引渡しは、呆れるほど慌ただしいものだった。身の回りのものを物を何一つ持たせてもらえずに、文字通り身一つで馬車に押し込まれたのだ。
 当座の着替えも化粧品も無しで連れて行かれるなんて、きっと屋敷に着いたらすぐに殺されるか拷問を受けるかするのだろう。覚悟はしていたものの、それがもうすぐ現実のものになるのかと思うとは恐怖で身体が冷えていくのを感じた。
 店を出てから、縁は一言も話さない。を見ることも無く、対面に座っているというのに彼女が存在しないかのように振舞っている。何を考えているのか解らないその様子が不気味で、下手に動けばこの場で殺されてしまいそうだ。恐らく縁と二人きりになれる最初で最後の機会だというのに、は石のようにじっとしているしかなかった。
 そうやって二人とも微動だにしない重苦しい雰囲気のまま、馬車は縁の屋敷に着いた。
 の家も裕福な方だったが、縁も屋敷を見る限りではかなりの金持ちのようだ。租界の外国人が住んでいるような石造りの立派な洋館で、庭にも十分に手が行き届いている。骨と皮だけの姿で行き倒れていた少年がこんな財を成すなんて、一体この男はあの日からどんな人生を歩んできたのだろう。
「何をしている。来い」
 屋敷を見上げて唖然としているに、縁が無表情で促した。
 このまま一緒に屋敷に入ったら、きっと殺されてしまうだろう。中で悲鳴を上げたとしても、この石壁ではきっと外には聞こえない。それなら―――――は服の中に忍ばせた簪をぎゅっと握る。
 拉致のように店から連れ出されたけれど、これだけは持ち出すことが出来た。この簪は母親の形見だ。錆付いた古いものだが、それでも縁の目を潰すことくらいは出来るだろう。殺される前に、それくらいはやっておきたい。
 自分を落ち着かせるように大きく息を吐くと、は縁を追って屋敷に入っていった。
 地下室にでも連行されるのかと思いきや、案内されたのは広々とした応接室だった。そしてそこで待っていたのは―――――
「お帰りなさいませ、雪代様、お嬢様」
 何だか分からないが数人の男女が待機して、その後ろには様々な衣装や靴が山と積まれていたのだ。予想外の展開に、は言葉も出ない。
 衣装や靴も謎だが、“お嬢様”というのも訳が解らない。ついさっきまでは売春婦で、此処に着いたら殺されると思っていたのが、突然“お嬢様”呼ばわりなのだ。あまりの訳の解らなさに、恐怖も憎しみも忘れて呆然としてしまう。
 が、呆然としている場合ではない。はいつの間にか椅子に座っている縁を睨みつけて金切り声を上げた。
「何なの、これ?! 一体何のつもり?!」
「着るものが無いと困るだろう。いくらでも買ってやるから好きなものを選べ」
 まるで愛人に物を買ってやるお大尽のように、縁は偉そうに応える。
 どうやら此処にいる男女は、のために呼びつけられた出入りの商人らしい。服を買ってくれるということは、少なくとも今すぐを殺そうということではないようだ。しかもぱっとみたところ、服も靴も一級品のようである。本当に身請けして此処に住まわせるつもりなのか。
 自分が殺した家族の生き残りを引き取るなんて、償いのつもりなのか。この男の力で娼婦から足を洗うことは出来たが、そんなことで憎しみが薄れるわけがない。欲しいものはいくらでも買ってやるというのも、どうせ娼婦にまで堕ちた女なのだから物で釣れると馬鹿にされているようで、怒りを煽られるだけだ。
「馬鹿にすんじゃないわよ! こんなものっ………!!」
 真っ赤な顔をして怒鳴るを見上げ、縁は何故喜ばないのかと不思議そうな顔をする。そして一寸考え込むと、商人たちに向かって、
「気に入らないそうだ。出直して来い」
「誰もそんなこと言ってないでしょ!! そうじゃなくて―――――」
「じゃあ、さっさと選べ。化粧品や宝石もあるんだ」
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜っっ!!」
 わざとなのか素なのか、縁は何も解っていないように平然としている。ここまで会話が成立しないと、も次の言葉が出てこない。
 赤い顔をして悔しげに唸っていただったが、縁がそういうつもりなら彼女もそれなりのことをするまでだ。物で釣れると思っているのなら、そういう女になってやろうじゃないか。
 は不敵に口の端を吊り上げると、商人たちに向かって宣言した。
「全部頂戴。宝石も化粧品も、全部買うわ」
 いくら服や宝石を手に入れたところで、の心は癒されない。けれど買って買って買い続けて、縁の財産を食いつぶしてやれば、少しは気が晴れるというものだ。死ぬ思いで築き上げたであろう財産をあっという間に使い切るのは、力の無いにも出来る復讐だ。
 “いくらでも買ってやる”と皆の前で宣言したのだから、今更撤回することも出来ないだろう。どんな顔をしているのだろうと意地悪な気持ちでは縁を見下ろす。が、泡食っているだろうという予想は見事に裏切られ、彼は相変わらず平然としていた。
「―――――だそうだ。精算してくれ」
「ありがとうございます。それでは私どもはこれで失礼致します」
 商人たちは深々と頭を下げると、部屋を出て行った。
 予想外にあっさりとした反応に、はまたまた唖然としてしまった。こんな無茶苦茶な買い方をしたというのに縁も商人たちも顔色一つ変えないなんて、一体どういう家なのだろう。
 の一言で買い上げることになってしまった物は、服だけでも向こう数ヶ月は毎日違う服を着続けられる量だ。普段着のようなものもあるが、何処に着て行けば良いのか悩むような派手なものも混じっていて、これを全部買うなんて無駄遣いもいいところである。
 化粧品と宝石は見ていないからどんなものがあるのか判らないが、きっととんでもなく派手で高価なものも混じっているだろう。全部で一体いくらになってしまうのか。そこそこ裕福な人間でも破産してしまう額になるのは間違いない。
 だが、縁は相変わらず平然としている。商人たちの前では見栄を張っているのかと思っていたが、本当に彼にとっては何でもない金額であるようだ。一体この男はどれだけの資産を持っているのだろう。
 どんな資産家でも、浪費し続けていればいつかは底をつく。どんなに縁が稼いでいるとしても例外ではないはずだ。彼の資産が尽きるのが先か、それともの浪費を支えるために彼が過労死するのが先か。どちらにしても、死んだ方がマシだと思うほどに追い詰めてやる。
「お買い物って楽しいわねぇ。こんな生活ができるなんて、これからが楽しみだわぁ」
 芝居がかった楽しげな声を上げて、はちらりと縁を見る。
「………好きにするが良いさ。後で部屋を案内させる。そこで待ってろ」
 何か言いたげな目でを見上げたものの、縁はつまらなそうにそれだけ言うと、部屋を出て行った。
<あとがき>
 いきなり縁と一緒に暮らすことになった主人公さん。縁への憎しみは薄れるどころか増すばかりのようです。別方向での復讐も思いついたようですし、大丈夫なのかな縁。
 身請けして贅沢をさせてやれば償いになるというわけでもなく、償いってどうすれば良いんですかねぇ。せめて「ごめんなさい」の一言が言えればまた違ったのでしょうが、縁の性格ではそれも難しいようで、困ったものです。
戻る