朝影
朝影 【あさかげ】 恋にやせ細った姿のたとえ。
最近、霖霖の様子がおかしい。突然暴れだしたかと思うとぐったりと動かなくなったりして、どこか悪いのではないかと思うほどだ。しかし餌は毎日残さず食べているし、腹を下しているとか目に見える異常は何処にも無い。「どうしたのかしらねぇ、霖霖」
ぐったりと伸びている霖霖の喉を指先で擽りながら、は心配そうに独りごちる。いつもならこうすると気持ち良さそうにゴロゴロ鳴くはずなのに、今日はだるそうに目を閉じているだけだ。
蒼紫も困ったように腕を組んで、
「何処も悪くはないはずなんだが………。何だろうな?」
今朝も餌は残さず食べた。念のために糞の始末をする時に調べてみたが、寄生虫がいる様子も無い。毛艶も良く、痩せた様子も無いから、蒼紫の見立てでは霖霖は健康なはずなのである。
そうなると精神的なものなのかとも思うが、人間なら兎も角、猫に悩みがあるとは考えにくい。餌を食べて遊んで昼寝して、の繰り返しの生活の何処に悩みが生まれることがあるだろう。他の猫と接触することは無いから猫関係の悩みは絶対に無いし、蒼紫やが暇な時に構ってやっているから鬱屈することも無いはずだ。外歩きさせないのも、生まれたばかりの時からずっとその生活なのだから、不満に思うはずもない。
いろいろ考えてみても、霖霖の不調の原因は全く思い当たらないのだ。具体的に何処が悪いと説明ができないせいで、何となくそのまま放置してきたが、一度獣医に診せた方が良いのかもしれない。
「このままの様子が続くようだったら、一度医者に診せてみるか」
「そうねぇ………。素人には判らないところが悪いのかもしれないし、診て貰って何処も悪くないって言われたら、それはそれで安心できるものね」
「そうだなあ」
そう言いながら、蒼紫も心配そうに霖霖の身体を撫でる。何処も悪くないならそれに越したことは無いのだが、悪いところがあるのなら早く治してやりたい。苦しげな声を上げて鳴いたり、こうやってぐったりした姿を見ていると、可哀想でならないのだ。
と、それまでぐったりしていた霖霖が、急に飛び起きた。そして縁側の方に走ると、閉められた障子をガリガリ引っ掻きながら苦しげな声を上げる。全身から搾り出すようなその声は、こんな小さな体の何処から出るのかと思うほどだ。
「どうしたんだ、霖霖?」
大声で喚く霖霖を抱き上げて蒼紫は体を擦ってやるが、全く治まる気配が無い。それどころか彼の手から逃れようと大暴れして、ますます手が付けられなくなってしまう。
何がそんなに苦しいのか、蒼紫にもにも全く解らない。このところずっとこの調子なのだ。ぐったりとしていると思えば突然暴れ出して、やはり何処か悪いところがあるとしか思えない。
蒼紫の見立てでは寄生虫はいないということだったが、ひょっとしたら外に出ない寄生虫がいる可能性もある。それが霖霖の中で暴れているとしたら、この苦しみようも解るというものだ。
「ねえ、やっぱり明日にでもお医者さんに見せに行った方が良いんじゃない? 一寸普通じゃないわ」
「そう―――――いたたたたっっ!!」
暴れる霖霖に思いっきり引っ掻かれ、蒼紫は悲鳴を上げた。霖霖が人間を引っ掻くというのも、こういう風になってからだ。蒼紫を引っ掻いてしまうほどに何処か痛いか苦しいのだろう。
本当に、一体何処が悪いのだろう。霖霖の言葉が判れば一発で解決なのだが、流石の蒼紫も動物の言葉は判らない。
再び障子を引っ掻き始める霖霖を見ながら、蒼紫は困ったように溜息をついた。
その後もぐったりしたのと暴れているのを繰り返していた霖霖だったが、夜の餌は残さずに食べた。それからまたぐったりとしている。
「ねぇ、もしかして霖霖、発情期なんじゃないの?」
布団を敷きながら、が突然思いついたように言った。
考えてみれば、もう暖かくなって動物たちは恋の季節である。霖霖ももう仔猫の時期を過ぎているのだから、恋の季節を迎えても不思議は無い。
が、蒼紫は鼻で笑って、
「まさか。霖霖はまだ子供だぞ」
霖霖を拾って、まだ一年経っていないのだ。人間で言ったら操くらいの歳だろう。操を見ていても解るが、それくらいで発情期だの恋煩いだのありえない。
大体、猫というのは子供の時こそ鬱陶しいほどにじゃれ付いてくるが、大人になったら素っ気なくなるものだ。しょっちゅう蒼紫やにじゃれ付いてきたり玩具に飛びつく霖霖の姿は、とても大人の猫のものではないだろう。そんな猫に発情期の心配だなんて、馬鹿馬鹿しいにも程がある。
と、外で猫の鳴き声がした。その途端、霖霖がぱっと起き上がって、外に出ようとするかのように障子を引っ掻き始める。
「蒼紫、霖霖押さえてて」
は立ち上がると、雨戸を少しだけ開けてみる。案の定、庭には数匹の猫がうろうろしていた。恐らく、全部雄猫だろう。他の猫をけん制するようにしながら、時折霖霖を呼ぶように大きな声で鳴いている。
霖霖を外歩きさせたことは一度も無いのに、一体何処から集まってきたのだろう。家の中で遊んでいるのを何処かで見ていたのだろうか。雌猫を探し出す雄猫の嗅覚というのは大したものである。
雄猫に呼ばれて、霖霖は蒼紫の腕の中で激しく暴れ出す。あの中に気に入った雄がいるのか、それとも外に出てゆっくり吟味しようと思っているのか。どちらにしても、可哀想だが外に出すわけにはいかない。
は雨戸を閉めると、暴れる霖霖の頭を撫でる。
「可哀想だけど、外に出すわけにはいかないのよ。我慢してね」
あの中に好きな猫がいるのかどうかは判らないが、好きな猫がいたとしたらますます外には出せない。仔猫が生まれたら、後が大変なのだ。
だが、そんなことを言っても霖霖が納得するわけもなく、相変わらずじたばたしている。この時期さえやり過ごせば雄猫のこともすっかり忘れてしまうのだろうが、暫くはずっとこの調子だろう。
霖霖の不調の原因が恋煩いだと解って、蒼紫は唖然としている。まだまだ子供だと思っていたのがいつの間にやら大人になっていたのだから当然だ。
「子供みたいな顔をしてるのになぁ………」
「人間も動物も、女の子は成長が早いから。霖霖が恋煩いだなんてねぇ。羨ましいわぁ」
「えっ………?!」
ふふっと笑うに、蒼紫はぎょっとする。
恋煩いが羨ましいだなんて、まるでが新しい恋を求めているようではないか。まだ結婚して間もないというのに、ありえない。
が今の蒼紫に物足りなさを感じているとは思わない。結婚する前も後も、彼のに対する態度は変わっていないつもりだ。出会った頃に比べれば確かにドキドキする気持ちなどは無くなってしまったかもしれないが、しかし―――――
悶々と考える蒼紫に気付いて、はまたふふっと笑う。
「結婚してもお互いに恋煩いできるようにしなきゃね」
結婚したことに胡坐をかいて何もしなくなってしまったら、“好き”という気持ちはどんどん目減りしてしまう。釣った魚に餌はやらないというけれど、餌をやらなかったら魚は死んでしまうように、たまには相手をドキドキさせないと愛も飢え死にしてしまうというものだ。
会えない時に相手を思ってドキドキしたり、相手の気持ちが解らなくて不安になることはもう無いだろうけれど、毎日一緒にいてもドキドキしていたい。四六時中ドキドキしていては身がもたないだろうけど、霖霖みたいに年に二回くらいなら恋煩いしていたいし、蒼紫にもしていて欲しい。
の言葉に蒼紫は一寸考えるような顔をしたが、何か思いついたようににやりと笑う。
「俺はいつでもに恋煩い中だけど?」
「?!」
蒼紫の爆弾発言に、は一瞬で真っ赤になってしまった。からかうような口調だから冗談に決まっているけれど、解っていてもドキドキしてしまう。
最近はそんなことを全然言わなくなっていたから油断していた。真っ赤になっているの顔を蒼紫は面白そうに見ていて、狙い通りの反応に満足しているようだ。
何か言って仕返ししてやろうとはいろいろ考えるが、動揺しているせいか良い台詞が思い浮かばない。
「ま……まあねぇ……。うん………」
結局何も言えなくて、は口の中でもごもごと呟く。そんな彼女の様子を見て、蒼紫は息を漏らすように小さく笑った。
霖霖にも恋の季節到来です。外歩きしないのに雄猫が集まってくるなんて、モテモテですねぇ。ご近所の猫の間で評判の美少女猫なのかもしれません。
蒼紫と主人公さんも結婚して落ち着いてしまうのではなく、いつまでも互いにドキドキしていて欲しいものです。四六時中だと疲れちゃうけど、せめて年に1、2回くらいは、恋人同士に戻って、ねぇ?
でも霖霖の発情期にラブラブ全開になってたら、霖霖が怒り出すかもしれませが。その辺りは配慮して欲しいところです(笑)。