薄氷
薄氷 【うすらい】 薄く張った氷、美しくも脆いもの。
最近、が全く土を弄らない。それまでずっと、鬱陶しいくらい比古にくっ付いて粘土を掘ったり捏ねたりしていたというのに、急にどうしたのだろうか。あんなに熱心に比古に纏わり付いていたのだから、飽きたとは考えにくい。仮に飽きたとすれば、の性格なら陶芸と一緒に家事も放棄しているだろう。陶芸の修行という目的が無くなれば、比古のために家事をする理由もなくなるのだ。しかし、家事は毎日真面目にやっている。
何故土を弄らないのか比古も気にならないでもないが、彼の方から尋ねるのも癪な気がする。陶芸の道を諦めたまま雑用だけに専念してくれるなら、これほどありがたいことは無いのだ。たとえ、根性の悪い厄介な女だとしても。
このままが土を弄らないまま春を迎え、陶芸の道を諦めて山を下りてくれれば、比古にとってこれほど気楽なことはない。実家に帰るというのなら彼も一緒に付き添って、父親に許してもらえるようと一緒に頭を下げる所存である。あの女を引き取ってくれるというのなら、頭を下げるくらい安いものだ。
が周りをちょろちょろしないと、比古も心置きなく陶芸に集中できる―――――はずなのだが、いないといないで気になるものだ。ついこの間まで、私は陶芸で身を立てるだの、一人前になるまで山を下りないだの言っていたくせに、陶芸のことなどすっかり忘れてしまったようなの生活態度を見ていると、あの大口は一体何だったのかと言いたくなる。その程度の情熱だったのだと言われれば、それまでなのかもしれないが。
元々は裕福な家の娘なのだ。陶芸なんかで身を立てなくても、実家の世話になるか後添いの世話をしてもらえば安楽な生活ができる身分なのである。陶芸云々は、そういう気楽なお嬢様(というにはトウが立っているが)の気まぐれだったのかもしれない。
「才能はあったのかもしれねぇけどな………」
窯入れ前のの作品を手に取って、比古は独りごちる。
殆ど独学で此処まで出来たのだから、比古ほどではなくても才能はあったのだろう。ちゃんとした師匠に付いて修行をすれば、そこそこの陶芸家になれたかもしれない。女流陶芸家なんて珍しいから、女というだけでも話題にもなっただろう。
このまま終わらせるには惜しい気はするが、にやる気が無くなったのなら仕方がない。大体比古とは師弟関係でもないのだ。彼が口出しする権利は無いだろう。
やはり自分には人を育てる才能は無いのかもしれない。の作品を台に戻して、比古は作業台に戻った。
陶芸をやめて比古と顔を合わせるのが気まずいのか、は家の中でも彼を避けている。食事は一応一緒に食べているが、どことなくコソコソしているような感じがして、いつもと様子が違うのだ。
いつもは鬱陶しいくらい話しかけたり師匠を顎で使うような女が大人しいと、違和感がありすぎて落ち着かない。が大人しくなれば生活もしやすくなるのにといつも思っていたくせに、勝手なものである。
そういえば正月に、“弟子は弟子らしく、しおらしい態度を取る”というのを今年の目標にさせていたから、それを実行しようとしているのだろうか。比古の許しを得られるまで修行を中断し、彼が話しかけるまで自分からは声を掛けないと決めたのかもしれない。もしそうだとしたら感心である。それがいつまで続くか判らないが。
だがそれにしても、避けているような雰囲気は変だ。比古から話しかけられるのを待っているのなら、今までに増して彼の前をうろちょろするはずである。それを逆に避けるなんて、何とも理解し難い。
「おい」
比古に背を向けるようにして食器を片付けているに声を掛けてみる。最近は食器一つ下げるにしても、こうやって彼に背を向けているのだ。
「何ですか?」
顔だけ比古の方を向けて、は返事をした。
「最近、少し変じゃねぇか?」
「そうですかねぇ。いつもと変わらないと思いますけど」
本気でそう思っているのか惚けているのか、は飄々としている。明らかにいつもと違うだろうと比古は突っ込みたくなったが、それも言い難い雰囲気なので黙ってしまう。
避けられているというのもそうだが、距離を取られているような感じなのだ。三歩下がって、とかいう可愛いものではない。見えない壁を作られていると言った方が近いか。距離無しに踏み込まれるのは鬱陶しいが、一方的に壁を作られているのも不愉快なものである。
「まあ……それなら良いけどな」
が避けるのなら、比古もこれ以上の深入りはしない。何となく不機嫌な顔で押し黙ると、比古は茶を啜った。
「あー………」
外に置かれた水瓶を見て、は溜息をついた。
この家の洗い場は、外にある。当然水瓶も野ざらしで、この時期はすぐに氷が張ってしまうのだ。
この氷を割って中の水を使うのだが、当然のことながら皮膚を切られるように冷たい。そんな冷たい水を使って吹き曝しの中で皿洗いをしなければならないのだから、の手は皸と罅割
この水に手を入れたら傷に沁みるだろうなあと思いながら、は柄杓で薄氷を割った。そして、洗い桶を水瓶の中に突っ込む。
「くうぅぅぅ〜〜〜〜〜っ」
まだ指先しか水に入れていないが、それでも冷たすぎて突き刺さるように痛い。実家でも婚家でも水仕事などしたことが無かったから知らなかったが、冷たすぎる水というのは結構な凶器である。
水を汲んだ後は、この中に汚れ物を入れて皿洗いだ。水も沁みるが、石鹸も傷口に沁みる。おまけに閉じかけた罅割れがまた開くこともあったりして、一寸した拷問のようだ。
あまりの痛さに半泣きになりながら、は頑張って皿を洗い続ける。よく“血の滲むような努力”というけれど、こんな所で文字通り血の滲む努力をするとは思わなかった。雑用も弟子の仕事のうちと思ってはいるが、自分でも努力のしどころを間違えていると思う。
「痛い〜〜〜」
言っても仕方の無いことであるが、黙っているよりは気が紛れるような気がする。
「なるほどねぇ。妙にコソコソしてるから何かと思ってたら………。それで陶芸を休んでたのか」
突然、の後ろから比古の声がした。いつの間にか家から出てきていたらしい。
「いっ、いきなり後ろに立たないで下さいよ! びっくりするじゃないですかっ!」
比古を振り返って、は思いっきり怒鳴りつける。が、すぐに両手を隠すように彼に背を向けた。
今、比古にこの手を見られるわけにはいかない。雑用だけでこんなボロボロになった手を見られたら、町に返すいい口実にされてしまう。
慌てて隠したものの、さっきからの様子を観察していた比古には全てお見通しである。比古はの腕を掴むと自分の方にぐっと引き寄せて、そのボロボロっぷりに心底驚いたように鼻を鳴らした。
「これは酷い。そりゃあ隠したくもなるか」
「これくらい大丈夫ですからっ」
「何言ってんだ。“痛い〜〜〜”って泣いてたくせに」
「別に泣いてません!」
さっきの口真似をされて、は真っ赤になって反論する。
確かに一寸泣きそうになったけれど、比古の口真似みたいに情けない声は出していない。大体、他人がこんなに苦しんでいるのに、にやにや笑いながら口真似をして馬鹿にするなんて酷すぎる。この男は人並み以上に頑丈に出来ているから、他人の痛みなんて理解できないのだ。
別に労わってもらえるとは思っていなかったけれど、あまりにも酷すぎる反応には泣きたくなってくる。手の痛さよりも、こっちの方が痛い。
は比古の手を乱暴に振り払って、
「これくらいすぐに治りますから! 放っといて下さい!」
「すぐに治るなら良いけどな。これでも塗っとけ」
その言葉と同時に、貝殻の薬入れを投げられた。
「切り傷の薬だ。ちったぁマシになるだろ」
「へ………?」
もしかして、比古は心配してくれていたのだろうか。信じられないものを見るように、は彼の顔を唖然と見る。
いつも邪魔者扱いして、口癖のように「帰れ」だの「出て行け」だの言っているから、の様子がどうだろうと全然気にしていないと思っていた。それなのに薬をくれるなんて。何だかんだ言いながら、のことを気にしてくれていたのだ。
ガラは悪いし陶芸以外では尊敬できるところなんて無いけれど、比古も根は良い人なのだ。それを感じるのは、本当にたまにしかないけれど。
「あ……ありがとうございます」
ぎゃあぎゃあ言っていたのが急に恥ずかしくなって、は少し顔を赤くしながらもそもそと礼を言った。
そんなの様子など全く気にしていないように、比古は水瓶をちらりと見て、
「氷が張るくらい冷たいなら、湯を混ぜて使えば良いだろうが。馬鹿か、お前は」
「…………………」
折角一寸見直したのに、比古の言い草には一気に醒めてしまった。言っていることは正しいのだが、もう少し言い方というものがあるだろう。良い人だと思ったけれど、その判断はもう少し保留だ。
むっとするに、比古は平然とした口調で言葉を続ける。
「しょうがねぇから、手がマシになるまで洗い物は代わってやる。感謝しろよ」
「良いんですか?!」
比古の意外な言葉に、は頓狂な声を上げた。
「そんな手になってんだから、しょうがねぇだろ。その代わり、手が完全に治るまで陶芸は禁止だ。分かったな?」
心底面倒臭そうに言ってはいるものの、比古の声はどことなく優しい。薬を持って来てくれたり、洗い物を代わると言ってくれたり、何だかんだ言いながらのことを気にかけてくれているようだ。
口は悪いし偉そうだし、ぱっと見は腹立たしくなるほど嫌な男だけど、本当は比古はとても優しい男なのかもしれない。その優しさが滅多に出てこないから、なかなか優しい人には見えないのだが。
鬱陶しがるかと思えば労わってくれたり、ひどいことを言うかと思えば優しいことを言ってくれたり、どっちが比古の本心なのかは混乱してしまう。けれど、何だかんだ言いながらもこうやって居候させてくれているのだから、優しい方が本当の彼だと思いたい。図々しく振舞っているものの、やはり嫌われながら一緒に住んでいると思うのは嫌なものなのだ。
の返事を待たずに、比古は彼女を押し退けてさっさと皿洗いを始める。
一応師匠にあたる人間に皿洗いなんかさせて良いのかな、とは一寸思ったが、今回は彼の好意に甘えることにした。いつまでもこんな手をしていては修行が出来ないし、酷くなったら皿も碌に洗えなくなってしまう。貰った薬を塗って治療に専念し、一日も早く治した方が互いのためにも一番良いことだ。
「ありがとうございます、先生」
貰った薬をきゅっと握り締め、は黙々と皿を洗い続ける比古の背中に頭を下げた。
皸とか罅割れになったことは無いのですが、あれは辛いらしいですね。というわけで、ドリームのくせに生活感溢れる二人には皸ネタ。
この主人公さん、図々しい割には変なところに我慢する人ですねぇ。自分で頑張りどころを間違えてるって思ってるけど、我慢のしどころの方が間違えてると思うよ(苦笑)。
そんな主人公さんに薬を用意してあげたり、皿洗いを代わってあげたり、師匠は日に日に懐が深くなっているようです。そういう風だから主人公さんも出て行かないのに、気付いてないのか?(笑)