水天

水天 【すいてん】 水平線のこと。
 縁が日本に発ってから数日、はずっと屋敷に閉じこもっている。それでも世の中にはお節介な人間がいるもので、彼と組織に関する噂は嫌でも耳に入ってくるものだ。
「結局、見送りにも行かなかったんだ………」
 ティーカップを静かに置いて、玉英が独り言のように呟いた。彼女はが働いていたキャバレーの女だ。がいない今、彼女がナンバーワンらしい。
 縁に関する噂の殆どは、この玉英が持ってきてくれる。彼女はと縁の出会いから知っているから、別れた後も気になって仕方が無いのだろう。その気持ちはも解らないのではないのだが、もう終わってしまったことなのだから正直放っておいて貰いたい。
「何で私が見送りなんか行かなきゃいけないの? あんただって、別れた男には会いに行かないでしょ?」
 心底面倒臭そうには応えると、銀のシガレットケースから煙草を一本抜き取った。それを見て、玉英は驚いたように目を丸くする。
「あら姐さん、また始めたの?」
「え? ええ、まあね………」
 少し気まずそうな顔をしながら、は煙草に火を点けた。
 縁と一緒に住むようになってからはずっと、煙草は止めていた。彼が煙草の煙をひどく嫌がっていたからだ。けれど縁がいないのならもう、止め続ける理由は無い。手持ち無沙汰な時間が増えて、何となくまた吸い始めてしまったのだ。
 考えてみれば、男が嫌がるから自分の習慣を変えるというのは縁が初めてだった。そして多分、彼で最後だろう。
「もう、止める理由が無いもの。口煩い男もいないしね」
「ふーん………」
 気だるげに煙を吐くの様子を、玉英は興味深そうにじっと見詰める。
 が男に言われただけで何かを変えるような女ではないことは、玉英も知っている。縁のためだけに夜遊びも煙草も止めて、禁欲的とも言って良い生活に何だかんだ言いながら従っていたのは、が本気で彼に惚れていたからだと思う。玉英も付き合いは長いが、がそこまで誰かを好きになるのを見るのは初めてだった。
 にはとても言えないけれど、こうやってぼんやりしている彼女の姿は男に捨てられた女そのものの姿だ。本当にこのまま終わらせて良いのだろうかと、他人事ながら心配になる。
 絶対に嫌がられることは分かっているが、玉英は思い切って言った。
「聞いた話だけど、ボスは東京に行ったらしいわよ。東京って一口で言っても広いだろうけど、あんなに目立つ人だもの。調べたらきっとすぐに見付かるわ」
「だから?」
 予想通り、は苛立たしげに煙草の灰を落としながら軽く睨みつけた。
「本当にこのまま終わらせて良いの? 今ならまだ間に合うから―――――」
「無理ね」
 玉英の言葉を遮り、はきっぱりと言い切った。
 今更追いかけて、一体何になるというのか。縁の中にはもう、の存在は無いのだ。彼の中にあるのは復讐だけ。それ以外のものは全て、この上海に捨ててしまっている。
 復讐のために自分が築き上げた組織も財産も捨てた男が、追ってきた女をどんな目で見るか、には容易に想像がつく。はるばる日本まで追いかけて、そんな惨めな思いはしたくなかった。
 小説ならきっと、遠路はるばる追いかけてきた女を、男は優しく迎えてくれるだろう。そして男は復讐を諦めて、女と幸せになる結末が用意されているが、現実はそんなに甘くはない。
「今更何も変わらないわ。良いんじゃないの? あの人はやっと日本で目的を果たせる、黒星の奴は組織が手に入る、私は大金持ち。みんな幸せよ」
「本当に?」
 蓮っ葉な口調で言い切るの真意を探るように、玉英は彼女の目をじっと見た。その強い視線に、は僅かに目を逸らす。
 それが本当にみんな幸せなのかなんて、にだって判らない。縁の復讐の末に何があるかなんて判らないし、黒星にあの組織を纏め上げる器があるのかも、大金持ちになったが本当に幸せなのかも。けれどこうなってしまった今、これが最良の選択だったと思うしかないではないか。
 姉の復讐のために今日まで生きてきた縁に、それを忘れて上海で暮らそうなんてには言えなかった。新しい生活で復讐を忘れさせることのできなかった女に、そんなことは言えない。そんなに出来るのは、綺麗に手を切ってやって縁を日本に送り出すくらいなものだ。だから、そうしてやった。後悔はしていない。
「本当よ」
 後悔なんかしてはいけないのだ。改めて自分に言い聞かせ、は玉英の目を真っ直ぐに見た。





 縁は東京にいる。それを知った瞬間から、の胸はざわめいている。小さな波紋が漣になり、やがて大きな波になっていくように。
 東京はも知らぬ土地ではない。急激に西洋化しているというから彼女がいた頃とは街並みも大きく変わっているだろうが、それでも地名が変わるほど大きな変化は無いだろう。
 どうして東京なのだろう。全く知らない土地ならば、完全に諦めがついたのに。下手に土地勘がある場所では、すぐにでも見付かりそうな気がしてしまうではないか。
 縁とのことは、とうに終わったことだ。十分すぎるほどの手切れ金を渡され、互いに納得して別れた。少なくとも縁はそう思っている。それを今更追いかけて蒸し返すようなをことを出来るわけがない。
 第一、そんなことをしたら、周りがをどう見るか。上海一の女とまで言われた彼女が、はるばる日本まで男を追いかけて行ったなんて、絶好の噂のネタを提供するようなものだ。好奇と同情と憐れみが、今までの反動で一気に彼女を取り囲むだろう。
 見下されたくない、憐れだと思われたくない一心で今日まで必死になっていたのに、それを一瞬で壊してしまうことなんて出来ない。は上海一の女で、夜の女王で、それは夜の世界から引退した今でも変わらない。それをたった一人の男のために失えるものか。
 けれど、自分にそう言い聞かせれば言い聞かせるほど、の中の波は激しくなっていく。押さえつけられた人間が死に物狂いで暴れているかのように、の中は軋んでいる。
 そんなにあの男に会いたいのかと、は自分の思いに愕然とした。こんなに苦しくなるほど、縁に会いたいと望んでいるのか。
 東京は広いが、玉英が言っていたように人一人捜し出せない広さではない。が本気で望めば、きっと捜し出すことが出来る。そのための資金はいくらでもあるのだ。
 さえ決断すれば、今ならきっと縁に会える。東京から別の場所に移動する前に居場所を突き止めれば、必ず会える。
 けれど会えたとして、それからどうすれば良いのだろう。縁は決して復讐を諦めない。組織も手放した今、上海に戻る気も無いのだろう。
 それなら復讐が終わるまで、離れたところで待つか。否、それも駄目だ。彼は多分、復讐を終えた後の人生は考えていない。
 会うなら、復讐が終わる前に会うべきか。けれど会えばきっと邪魔者扱いされるだろう。縁の邪魔にはなりたくない。
 やはり会わないほうが良いのだろうか。考えても考えても同じことがぐるぐる回る。酒なんか飲んでいないのに、頭が上手く働かない。
 自分がどうしたいのか分からなくなってきた。縁には会いたい。けれど会えば、確実に彼の邪魔になるだろう。そして日本まで追いかけた挙句に男に捨てられたは、上海中の笑い者だ。莫大な手切れ金を貰ったくせに、まだ搾り取ろうとする強欲女と言われるかもしれない。
 けれどそんな噂を恐れてここに留まり続けていては、二度と縁に会えなくなるだろう。の名誉は守られるが、本当にそれで良いのだろうか。本当に後悔しないだろうか。
「ああ………」
 煙草が燃え尽きたことに気付いて、は灰皿に押し付けた。一口しか吸っていないのに無駄に灰にしてしまったのは、これで何本目だろう。
 これだけ煙草を無駄にして、それでもまだ迷っているなんて。やはりまだ諦めきれないということか。
 貰うものさえ貰えば何もかも綺麗に忘れられると思っていた。今までがそうだったから、今回も少し泣けば忘れられると思っていた。
 この街は退屈している暇も無いほど刺激に溢れていて、遊び方も知らぬ縁といるよりも楽しいはずだった。けれど実際はどうだろう。賑やかな場所へ行けば行くほど、恐ろしいほどの孤独感に苛まれていたではないか。
 縁といた時はあまり外出できなかったけれど、今のような孤独感は無かった。世間から切り離されたような思いはしたけれど、それを淋しいとか悲しいとは感じなかったように思う。
 あの頃は沢山不満を言っていたけれど、縁といればそれだけで良かったのだろう。だから店もカジノも一人での外出も煙草も止めて彼との静かな生活を選んだのだ。
「うわぁ………」
 以前の自分を思い出し、は小娘のように顔を赤らめた。
 これは世間一般で言うところの“純愛”というやつではないのだろうか。やりたいことを全部我慢して相手のために自分の全てを使うなんて、愛とやらがないと出来ないことだろう。少なくとも、金と地位で靡いていた縁以前の男たちには出来なかった。
 15の時から男の間を渡り歩いてきた女が、この歳になって初めて損得抜きの恋愛というものを知ったのだと思うと、改めて恥ずかしくなってきた。恥ずかしいのと同時に、何だか胸の奥がくすぐったいような面映い気持ちになる。
 どうやら恋愛というものは、落ち着かない気持ちになるものらしい。世の男女はこんな気持ちで人を好きになるのだと、は世紀の大発見をしたような気分になった。
 こんな気持ちは初めてで、自分でもどうして良いのか分からない。これからもこんな気持ちになることはあるのだろうか。もしこれが最初で最後なら、一生に一度のことかもしれないのなら、縁を追って日本へ行ってみるか。邪険に扱われるかもしれないが、それでもきっと行く価値はある。
 日本へ行って、今よりも悲しい思いをするかもしれない。他人に哂われるかもしれない。それでも行けば今よりもすっきりする。
 金なんかでは割り切れない、今まで必死に作り上げた名声も誇りも引き換えにしても構わないと思える烈しい感情が自分の中にあることを、今夜初めて知った。そういう感情を教えてくれた男に会いに行くのに、どうして関係無い他人の目を気にすることがあるだろう。
 明日の便で日本へ行こう。切符はすぐに取れるだろう。取れないのなら、裏から手を回して強引にねじ込ませれば済むことだ。そのための金と伝はいくらでもある。
 そうと決まれば荷造りだ。久し振りに華やいだ気分になって、は軽やかに立ち上がった。





 出航当日にも関わらず、何とか日本行きの船に乗ることが出来た。海の上でも陸の高級ホテルと同じ生活ができる豪華客船での優雅な旅である。
「日本かぁ………」
 甲板に立ち、は何も無い水平線を眺める。
 この水平線の向こうに日本がある。貨物船のような船で着の身着のままで出て行った国に、ドレスの詰まったトランクを持って豪華客船で戻るなんて、人生は分からないものだ。
 日本に戻る日が来るなんて思ってもみなかった。貧しくて辛い記憶しかないあの国には、絶対に帰りたくないと思っていた。けれど今は、一時間でも早く日本の土を踏みたい。
 この海を越えたら縁に会えるのだと思うと、は今から胸がはちきれそうになる。日本には絶対に戻らないといつも言っていた彼女が突然姿を見せたら、縁はどんな顔をするだろう。手放しで歓迎なんかしてくれないだろうけど、それでも良いと思っている。
「すぐに会えるといいなぁ………」
 この海は日本へ続いている。横浜港に着いたら、そこから縁がいる東京に繋がっている。手掛かりは“東京”と“人斬り抜刀斎”だけだが、何とかなるだろう。
 こんなに会いたいと思っているのだから、縁はすぐに見付かるに決まっている。このが本気で好きになったのだから、彼は“運命の人”というやつなのだ。“運命の人”なら少ない手掛かりでも絶対に見つけ出すことが出来る。
 初めて恋をした夢見がちな少女のようなことを考えている自分に気付いて、は小さく苦笑した。“運命の人”だなんて、今までの彼女だったら思い付きもしなかった言葉だ。変われば変わるものである。
 いつものようにシガレットケースから煙草を出したところで、はふと手を止めた。
「………これも止めなきゃね」
 縁は煙草の臭いが大嫌いなのだ。今から止めておかないと、煙草の臭いを付けたまま彼に会わなくてはならなくなってしまう。
 縁と再会するのなら、もう煙草は必要ない。は躊躇い無くシガレットケースを海に投げ捨てた。
<あとがき>
 というわけで、これにて完結です。続きがありそうな終わり方ですが、後日談を書く予定はありません。
 まあ、二人の再会は皆さんでお好きなようにご想像ください、ということで。剣心との対決前に会うのも良し、孤島で会うのも良し、京都で会うも良し。再会の時期でその後のストーリー展開も色々変わって楽しめそうですね。あ、結局めぐり合えなかった、というオチもありです。
 自分的にはオチは読み手次第というラストは気に入っているのですが、縁が全く出ていないというのがアレですね(苦笑)。主人公さんのぐるぐる思考に終始して、出すタイミングを逃しちゃいました。これが今回の最大の反省点です、はい。
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