冬銀河

冬銀河 【ふゆぎんが】 凍て付く冬の夜空に鏤められた、美しい星群。
 春は桜、夏は蛍、秋は紅葉、冬は雪。それだけで酒は十分美味い。雪はまだ、今夜は新月となれば、代わりに星でも良い―――――と言って、比古は今夜も晩酌をしている。
 酒を飲む理由付けのために能書きを垂れているだけではないかとは思うのだが、泥酔するまで飲むわけではないから黙っている。ただ、つまみも無しに飲むというのは如何なものかといつも思うのだ。
 はあまり飲まないからよく分からないのだが、酒だけ飲むというのは胃が荒れる元らしい。比古は見た目こそ若く見えるが、既に不惑を超えているのだ。本人は若いつもりでいるのかもしれないが、そんな飲み方をしたらそのうち胃潰瘍になってしまう。
「先生、どうぞ」
 酒瓶の横に出汁巻き卵と漬物を出す。
「つまみなんかいらねぇよ」
 わざわざ作ったというのに、比古はちらりと見ただけでにべも無い。もともと純粋に酒の味だけを楽しみたいという男だから、つまみなど邪魔でしかないのだろう。
 しかし傍で見ているはそういうわけにはいかない。自分の不摂生で比古が倒れるのは知ったことではないが、彼が倒れたらの陶芸修行も止まってしまうのだ。
「駄目ですよ。飲む時は何か食べないと、身体を壊します」
 そう言いながら、は比古に端を押し付ける。そんな彼女を、比古は鬱陶しげに見遣って、
「うるせぇなぁ。ちゃんと考えて飲んでるから大丈夫だって」
「考えて飲んでる人が、そんながばがば飲みますか。先生の酒代だって馬鹿にならないんですよ」
「他人が良い気分で飲んでんのに、そんな辛気臭ぇ話すんじゃねえ」
 まったく、この女は比古が良い気分でいるとすぐにぶち壊しに来る。古女房みたいにガミガミ言って、鬱陶しいことこの上ない。が来る前は何気無く過ごしていた一人酒が、実は貴重な時間だったとは思ってもみなかった。
 一応雑用係として此処に置くことは決めたが、やはり近いうちに町に帰そうかと思う。は帰る家なんか無いと言っていたが、比古が直々に実家に引っ張って行ったら父親も引き取らないとは言わないだろう。こう毎回晩酌を邪魔されては、比古もたまらない。
 そんなことを考えていると、が自作の特大湯飲みに酒をだばだば注ぎ始めた。
「あ、てめぇ! その酒は高いんだって言ってんだろうが!!」
「だから今日は半分で止めてあげますよ」
 慌てて止める比古をお構い無しに、は湯呑みにきっちり半分まで注いだ。そして、
「おつまみを食べないなら、話しながら飲みましょう。ゆっくり飲めば、身体に負担もかかりませんから」
「だから俺は一人で飲むのが好きだって前から言ってるだろうが」
 酒の味に集中したいのに、横からごちゃごちゃ話しかけられては鬱陶しいことこの上ない。百歩譲って誰かと酒を飲む羽目に陥ったとしても、何が悲しくてなんかと飲まなくてはならないのか。どうせ飲むなら、もっといい女と飲みたい。
 が来てからというもの、静かな生活が滅茶苦茶だ。他人と関わるのが厭でこんな山奥に引き籠ったというのに、気が付けば人里にいた頃よりも独りの時間が無い。朝から晩までぴったりと張り付かれて、下手な夫婦よりも一緒にいるのではないかと思うほどである。
 そのことに気付いて、比古はぞっとした。そんなにも一緒にいるのかということにもぞっとするが、夫婦に例えたことにもぞっとする。のような女が嫁だったら、張り付かれ過ぎて神経衰弱になっていたことだろう。こんな女が女房でなくて良かったと、比古はそれだけは感謝した。
 そんな比古の気持ちなど思いも寄らぬ風に、はぐいっと酒を飲む。
「まあまあ、良いじゃありませんか。話しながら飲むのも楽しいですよ。そうですねぇ、例えば折角の星空ですから、星について語り合いますか」
「ほーぉ、お前、星について何か語れるのか?」
 どうせ語れやしまいと、比古は意地悪く笑う。この女に限って、そんな風流な話題などあるわけがないのだ。
 が、は出汁巻き卵を一つ摘まんで、待ってましたとばかりに話し始めた。
「例えばほら、南の空に一際明るい星が見えるでしょ? “南の一つ星”っていうんですけどね。あのあたりの星をつないだのを、異国では魚にたとえてるんだそうです」
「へーぇ」
 それは比古も知らぬことだったから、素直に感心した。が、知っていたからといって何かのためになるというわけでもない無駄知識である。
 というか、が指先で辿る線を繋いだところで、どう見ても魚には見えない。百歩譲って形になっているとしても、潰れた饅頭のようである。これを魚に喩えた人間の感性は、超絶天才芸術家の比古でさえ理解に苦しむ。
 しかしには魚に見えるのか、特に疑問も感じないように話を続ける。
「で、“南の一つ星”なんですけど、これは中国では“北落師門”と呼んでいるそうです。今ははっきり見えてるでしょ? これが微かな時は軍が滅びると言われてます」
「ふーん………」
 どうやらは星占いの知識もあるらしい。しかしそんな知識は、今の世の中には必要無いものだろう。
「それから、あの天の川。中国でも“銀河”とか“銀漢”と言って日本と同じように川に喩えられますけど、異国では“魂の道”と呼んで、魂が天に上る道に喩えるのだそうですよ」
「ほーぉ………」
 何だか話がだんだん辛気臭い方向に進んでいるような気がする。比古の相槌も、だんだん鈍くなってきた。
「私たちも死ねば、あの道を通ってあの世に行くんでしょうかねぇ」
 案の定、白い星の道を見上げてはしみじみと呟いた。
 折角比古が気分良く酒を飲んでいたのに、どうしてこうは辛気臭い話をするのか。そういえば前に一緒に飲んだ時も、別れた夫について長々と語っていた。どうやらは、酔うと辛気臭い話をしたくなる性質らしい。
 シラフの時は騒々しいくらいの女なのに、酒が入ると辛気臭くなるというのは、もともとは陰気な女なのだろうか。結婚していた頃は言いたいことも言えずに耐えていたと自称していたが、本質が陰気な女ならそれもありえるかもしれない。ということは、今の騒々しいは意識して作っている性格なのか。とてもそうは見えないのだが。
 辛気臭いのは鬱陶しいが、今の騒々しさが作っているものならば、少し控え目にしてもらいたいものだ。押しの強さは諦めるが、せめて口数が少なければ比古ももう少し快適な生活ができただろうに。
「天国に行けるつもりたぁ、随分と図々しいな」
「あら、先生よりは行けると思いますよ」
 何を根拠にしているのか自信ありげにふふっと笑うと、は酒を口に含んだ。
 確かにいくらでも、比古よりは天国に行けるかもしれない。図々しくて鬱陶しい以外は、彼女は今まで普通の生活をしている人間なのだ。多少問題のある性格でも、まだ神様だか仏様の許容範囲だろう。
 けれど比古は違う。弱い者のために剣を振るうという大義名分はあるものの、彼は“人殺し”だ。あの白い道を歩くには、比古の背負っているものは重過ぎる。きっと一歩踏み出した途端に足許から崩れて、地獄へ真っ逆さまだろう。
「あー………」
 自分の辛気臭い発想に、比古は頭を抱えて溜息をついた。酒は楽しく飲むものなのに、辛気臭いのせいで台無しだ。
 大体、比古はあの世など信じていないのである。あるはずのないものについてあれこれ考えて、折角の酒をまずくするなんて馬鹿馬鹿しい。
 と、が比古の背中をポンポンと叩いた。比古が顔を上げると、が慰めるように優しく微笑んでいる。
「大丈夫ですよ。先生が地獄に落ちても、私がちゃあんと引っ張りあげてあげますから」
 どうやら、比古が自分は天国にいけないと気付いて落ち込んでいると思ったらしい。誰がそんなことで落ち込むかと思ったが、言ったところで仕方が無いと比古は黙り込んだ。
 しかしまあ、自分は天国行き確定とは、図々しいことこの上ない女である。しかも比古の過去など知らぬくせに、彼は地獄行き確定にしているというところがまた図々しい。
「まあ、先生の方が先に死んじゃうから、地獄で長いこと苦しむことになるとは思いますけど、希望は捨てないで下さいね。自棄になって地獄でも悪いことしたら、私が引っ張り上げられなくなっちゃいますから」
 にこにこ笑ってるくせに、の言うことはかなり酷い。彼女の中では、地獄で苦しむ比古を助けてあげる慈悲深い自分、という物語が出来上がってしまっているらしい。何というか、突っ込みどころがありすぎて、意見する気力を根こそぎ奪うほど破壊力のある脳内設定だ。
 仕方なく黙ってちびちびと酒を飲んでいる比古に、は楽しげに言葉を続ける。
「あ、そうだ。今からでも徳を積んだら天国に行けるかもしれないですよ。そうですねぇ、とりあえず私を後世に残るような女流陶芸家に育て上げたら、今までの分をチャラにして貰えるかも」
「お前を町に帰して何処かの後添いにしてやった方が世の為って気がするがな」
「そんなことをしたら、不幸の再生産になりますよ。どうやら私は結婚に向いてないみたいですから」
「……………………」
 悔しいことに、それには比古も反論が思いつかない。大人しかったと自称する頃のでさえ結婚に失敗したのだから、今の彼女なら三日で返品といったところだろう。比古だってこんな嫁が来たら、即日返品である。
 かといって、を一人前の陶芸家に育て上げるというのも勘弁してもらいたい。この女を一人前に仕上げるために、一体何年付き合ってやらなければならないのか。今の時点でもうへとへとなのに、これから何年も付き合わされるのかと思うとぞっとする。
 苦虫を噛み潰したような顔をして黙り込む比古を見て、はふふっと笑った。
「もう先生は、私を陶芸家にする星の下に生まれてるんですよ。そろそろ諦めてくださいな」
 空には数え切れぬほどの星があるというのに、よりにもよってそんな星の下なんて絶対に嫌だ。比古は無言のまま、ぐっと酒を煽った。
<あとがき>
 雪見酒には一寸早いので、星を見ながらのお酒です。何だか師匠と晩酌というのは当たり前のことになってしまっているようですね。結構仲良しじゃん、この二人(笑)。
 主人公さん、実は天体好きらしいことも判明。現代だったら天体望遠鏡で星を眺めて、新星を見つけることに熱中していたかもしれません。………って、どんな女だ?
 もうそろそろ師匠にも諦めてもらって、主人公さんを弟子にしてもらいたいんですが、さてどうしたものか。グダグダ期が異常に長かったですからねぇ。この二人、一番始末に困ってるんですよ、実は(苦笑)。
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