雪白
雪白 【せっぱく】 精神や行動が雪のように汚れがないこと。
外出の際には必ず郵便局に寄るのが、蒼紫の習慣になっている。からの手紙を局留めにしているので、それを取りに行くためだ。郵便局まで行かなければならなのは少々面倒ではあるが、こういう秘密の手紙の遣り取りをするには非常に便利なものだ。こんなもの誰が使うのかと不思議に思っていたが、意外とこのような需要があるのかもしれない。
行った時には必ずからの返事が届いているから無駄足になることは今まで無かったのだが、このところ忙しいのかずっと返事が来ていない。そろそろ次の約束を取り付けたいところなのに、困ったものだ。
こちらからあまり手紙を出すのもしつこいような気がして、そう頻繁に出せるものでもない。しかしこのままでは自然消滅してしまいそうで、どうしたものかと蒼紫は考える。
そうやって徒に時間を過ごしていたのだが、今日になって『葵屋別館』に郁が1人で来たという話を翁から聞かされた。別館の者がは一緒ではないのかと訊いたところ、彼女が『葵屋』に行くのは絶対に嫌だと拒んだのだという。その嫌がり方が尋常ではなかったらしく、逆に蒼紫と何かあったのかと訊かれたのだそうだ。
「お前、まさかとは思うが、儂らに言えんようなことをしたのではあるまいな?」
何を想像しているのか、翁はいつになく真剣な顔をして尋ねてきた。
“儂らに言えんようなこと”も何も、蒼紫とは一緒に食事をするだけで手を握ったことすら無い。本当に純粋な“お友達付き合い”である。お友達付き合いでも、誰にも内緒で会っているところは、ある意味“儂らに言えないこと”かもしれないが。
何にしても蒼紫には、が別館に行くことすら嫌がるようなことをした憶えは全く無い。最後に会った時も、いつもと何も変わらない様子だったのだ。一体どういうことなのだろうと、蒼紫の方が訊きたいくらいである。
もしかして、に好きな男が出来たのだろうか。もしそうだとすれば、彼女が別館に行きたがらないのも、蒼紫の手紙に返事を寄越さなくなったのにも納得がいく。新たに好きな男が出来れば、蒼紫など用済みだ。用済みどころか、邪魔な存在なのかもしれない。
もう人を好きにならないと言っていたが誰かを好きになったというのは、めでたいことである。めでたいことなのだが、蒼紫に一言も無いというのは如何なものか。二人はただの食事友達でそれ以上の仲ではないが、お互いに好きな人が出来たら教えようと約束していたではないか。
面と向かって言いにくいというのなら、手紙で伝えることもできたはずだ。好きな人が出来たと言われたら、蒼紫だってさっさと身を引くつもりだったのだ。好きな男が出来たと言う女を追うなんてみっともないことはしない。
しっかりした女だと思っていたが、こんな約束さえも守れない人間だったとは。考えていたら無性に腹が立ってきた。
険しくなっていく蒼紫の顔を見て、翁は自分の勘が当たったのだと思い込んで責め立てるようにがなり立てる。
「お前、何てことを………! 相手は嫁入り前の娘さんなんじゃぞ!! 今すぐ謝ってこい! 今更許してもらえんだろうが、とにかく謝ってこいっっ!!」
「謝ってもらいたいのはこっちだ!」
蒼紫も負けずに怒鳴り返すと、憤然と立ち上がった。
あの日以来、は一度も蒼紫と会っていない。彼から何度か手紙が届いていたが、封も切らずにそのまま捨てている。
蒼紫はきっと、がまだあの少女のことに気付いていないと思っているのだろう。秘密の恋人がいて、しかも相手はあんな子供みたいな女で、それでまあいけしゃあしゃあとを誘えたものである。
恋人がいるなら女友達を作ってはいけないとは言わない。しかし、たとえ女友達とはいえ、恋人がいるくせに女と二人きりで食事に行くというのは如何なものか。しかもその女友達には恋人の存在を隠して、である。あわよくばと思っていたとしか考えられない。
思い出すとまた腹が立ってきて、は小石を蹴り上げた。
蒼紫とあの少女が腕を組んでいるところを見た時は気が動転して貧血まで起こしたが、今はもう怒りしかない。前の破談の時には呆然として何も手に付かなかったけれど、今回は怒りを原動力のようにして普通に生活できているくらいだ。裏切られるのも二度目となると、逞しくなるものである。
こうやってすぐに怒りに転換できるようになったのも、年の功というべきか。自分の逞しさに、は笑いがこみ上げてくる。こうやって笑うのも、昔の彼女だったらできなかったことだ。我ながら随分と成長したものだと思う。
そんなことを考えながら歩いていると、家の前に背の高い男が立っているのが見えた。
「げっ………」
男の顔が判った途端、は蛙が潰れたような色気もへったくれも無い声を上げた。
家の前に立っていたのは、蒼紫だったのだ。が返事を寄越さないものだから、わざわざ家までやって来たらしい。
が何も知らないと思っているとはいえ、図々しいものである。否、図々しいから平気であんな嘘がつけるのか。
一瞬、身を隠そうと踵を返しかけたが、それは止めた。悪いのは蒼紫で、が逃げるなんておかしな話ではないか。向こうから来たのなら良い機会だ。この際、二度とあんな嘘がつけないように徹底的に締め上げてやる。
が何もかも知っていることをぶちまけたら、蒼紫はどんな顔をするだろう。あの真面目そうな顔で、誠実ぶって言い訳するのだろうか。必死に苦しい言い訳をする蒼紫の姿を想像しながら、は意地の悪い笑みを零した。
「あら、四乃森さん。どうなさったんですか?」
何も知らない振りをして、は蒼紫に声を掛ける。
いつものように柔らかな表情で迎えるかと思いきや、蒼紫の様子も何だか変だ。何が面白くないのか、酷く不機嫌な顔をしている。
自分のことを棚に上げて、が返事を寄越さないことに腹を立てているのだろう。この期に及んでまだ何も気付いていない蒼紫のおめでたさに、は大笑いしたくなった。
蒼紫は眉間に皺を寄せて、感情を抑えた低い声で言う。
「あまりにもお返事が来ないので、お宅まで足を運んだんですがね。どなたかとお会いになるのにお忙しいのかと思いきや、随分とお早いお帰りのようで」
よくもまあ、自分のことを棚に上げてチクチクと皮肉を言えたものである。腰を低くして言い訳するのかと思いきや、に落ち度があることにして逃げ切るつもりらしい。最低な男だというのは判りきっていたが、ここまで最低だとは思わなかった。
落ち着いて話そうと思っていたのだが、蒼紫のこの態度にはいきなり切れた。
「はあ? ご自分こそ私に構ってる暇なんて無いんじゃございません? こんな所にわざわざ足をお運びになるよりも、あの可愛い人に会いに行かれたら如何?」
「はあ?」
の皮肉たっぷりの言葉に、今度は蒼紫が頓狂な声を上げた。
の言葉の意味が蒼紫には全く解らない。“あの可愛い人”というのは一体何なのか。何だか解らないが、は妙な誤解をしているようだ。
「可愛い人って何ですか?」
「あら、この期に及んで惚ける気ですか? 私、見たんですよ。四乃森さんが女の人と歩いてるの。随分お若い方のようですけど、どちらのお嬢さんかしら。今後のためにも翁さんにくらいはご紹介なさった方がよろしいんじゃございません?」
ますます蒼紫には訳が解らない。若い女と歩いていたなんて、彼には全く身に覚えが無いのだ。知らないうちに自分の分身が逢い引きでもしているのだろうかと、現実離れしたことを考えてしまうくらいである。
それでも一応、最近の自分の行動を思い返してみる。若い女、若い女、と真剣に考えているうちに、随分前の出来事を思い出した。
確かにいつだったか、若い女と外出したことはある。しかし、あれを“若い女”と表現していいものか、蒼紫には悩ましいところだ。けれど彼が一緒に歩いた“若い女”というと、彼女しか思い当たらない。
「もしかして、その若い女というのは長いお下げ髪の―――――」
「ほーら、やっと認めましたね」
蒼紫に最後まで言わせずに、は勝ち誇ったように小鼻を膨らませる。その顔がまるで浮気男の尻尾でも掴んだかのような表情で、蒼紫は些かゲンナリした。
「いや、認めるも何も、操は―――――」
「へー、操さんっていうんですか。ふーん。腕なんか組んじゃって、そんな人がいるのなら言って下されば良かったのに。恋人がいる人を隠れ蓑にするほど、私も落ちぶれちゃいませんから。じゃ、その操さんとお幸せに!」
後半は殆どまくし立てるといった感じで一気に言うと、は蒼紫の横をすり抜けて玄関の鍵を開けようとする。
蒼紫にはまだ訳が解らないが、とりあえずがこれ以上話し合う気がないことだけは判った。そしてここで話を終わらせてしまったら、話す機会が永遠に失われてしまうことも。
に好きな男が出来て二度と会うことがなくなるというのなら、蒼紫だってそのまま黙って見送るつもりでいた。が、こんな妙な誤解をされたまま別れるわけにはいかない。
「待って下さい! 誤解しているようですが、操は―――――」
癇症のように鍵をガチャガチャいわせているの手首を掴んで、蒼紫は事情を説明しようとする。が、はその手を振り払うと、蒼紫をキッと睨みつけて、
「誤解?! 腕組んで歩いてて誤解って言いますか。恋人がいるなんて、大いに結構じゃないですか。ええ、結構なことですよ。何を隠す必要があるんですか」
「だからそれが誤解だと言ってるんです。操は恋人なんかじゃありません」
「へー、四乃森さんは恋人じゃない人とでも腕を組んで歩く人なんですね。意外だわぁ」
わざとらしく目を丸くして、は芝居染みた高い声を上げる。
「だから―――――」
説明しようと口を開いたものの、急に何もかも空しくなって蒼紫は溜息をついた。
はもう蒼紫の話を聞く気など全く無いらしい。彼女の頭の中では既に蒼紫と操は恋人同士という設定が出来上がっていて、それ以外の可能性は頑として受け付けない気でいるようだ。
がこんなにも思い込みの激しい女だとは思わなかった。一度男に裏切られた経験があるから、相手に少しでも不審なところがあると全てが信じられなくなってしまっているのかもしれない。それにしたって、この態度はあんまりだ。
こうなったら、直接操に会わせて話をさせるしかない。蒼紫は再びの手首を掴むと、自分の方に引っ張った。
「そんなに信じられないなら、直接操に聞いてください」
有無を言わせぬ強い口調で言うと、びっくりして固まっているの手を引いて『葵屋』へと向かった。
操と話をさせると言われて連れて行かれたのが『葵屋』で、は心底驚いた。操を『葵屋』に呼んで、と話し合いをさせるつもりなのだろうか。
が、料亭の勝手口から入るのかと思いきや、母屋から入って行ったものだから二度びっくりである。一体どうなっているのかとは混乱してしまうが、とても蒼紫に訊けるような雰囲気ではない。
どうしようかと考えていると、不意に蒼紫が足を止めた。
「操、入るぞ」
そう短く言って、蒼紫は勢い良く襖を開けた。
そこにあったのはうつ伏せに寝転がって本を読んでいる、あの時の少女の姿だった。まるで我が家のように寛いでいて―――――というか我が家なのだろう。
突然の客人に驚いたように操はぴょんと飛び起きると、正座をしてを興味津々に見上げる。
「もしかして、さん?」
「え…ええ………」
自分のことを知っていることにも、予想外に好意的な目にもは驚いた。そして操の幼さにも。
腕を組んで歩いているのを見た時は遠くからだったから気付かなかったが、初めて対面した操は本当に子供のようだ。これでは蒼紫がいくら若い女が好きだったとしても、恋愛対象にはならないだろう。これで本当に恋人だったら、もう犯罪である。
操がこんな子供で、しかも『葵屋』に住んでいるということは、もしかしたらはとんでもない勘違いをしていたのかもしれない。否、確実に勘違いしていたのだ。
仮に操が蒼紫の恋人だったとしたら、をこんな風に好意的な目で見たりしない。彼女のを見る目は、翁たちが見る目と同じだ。操もまた、を若女将最有力候補として見ている。
今までのことが全部勘違いだったことに気付いて呆然としているに、蒼紫が不機嫌な声で言う。
「遠縁にあたる娘で、操といいます。
操、翁から聞いているだろうが、この人がさんだ。お前とどうしても会いたいと言うから連れて来た」
その言葉に、操の顔が嬉しさでぱあっと明るくなる。
「あたしも会いたかったんですよー。ねぇさん、うちにお嫁に来るの?」
「えっ………?!」
いきなり核心に迫る操の質問に、は戸惑ってしまう。こんなことを臆面も無く訊いてくるなんて、本当に子供なのだろう。
固まってしまったに、操は無邪気に言葉を続ける。
「爺やがそう言ってたよ。あ、もしかして爺やにも会いに来たの? 待ってて、すぐに呼んでくるから」
「え……あの、違っ………」
慌てて引きとめようとするの声など耳に入っていないのか、操はぱたぱたと廊下を走って行った。
操とは碌に話せなかったが、蒼紫と彼女が何でもないということは解った。全部が勝手に誤解して突っ走っていただけだったのだ。そう思ったら恥ずかしくて、穴があったら入りたいくらいである。
冷静に考えてみたら、あの蒼紫が二股をかけようなんて器用な真似が出来るわけがないではないか。女の気を引くための嘘を考え付くような男でもない。そういう男なら、もっと女の扱いだって巧いに決まってる。無口で何を考えているのか判らないところがあって、気の利いたことも言えないような男が、どうしてそんなことをするだろう。
恥ずかしさと罪悪感で、は顔を真っ赤にして何も言えなくなってしまう。そんな彼女を横目で見て、蒼紫はやっと解ったかと言いたげに小さく息を吐いた。
「で、どうしますか?」
「………すみません………」
は俯いて、蚊の鳴くような声で呟く。自分の馬鹿さ加減に、恥ずかしくて蒼紫の顔など見れない。
「そうではなくて、翁が来ますよ。どうするんですか?」
「………あ」
蒼紫の指摘に、ははっと顔を上げた。
そうだ。重大なことを忘れていた。翁が来るということは、またあの大騒ぎが始まるということである。しかも操の話によると、既には『葵屋』に嫁入りすることになっているようで、これは非常にまずい。
今日は無事に帰れるのだろうかと、は途端に不安になってきた。
「どうしましょう………」
「どうしましょうかねぇ」
不安げに見上げるに対し、蒼紫はまるっきり他人事のように応える。こうなってしまったのは全てのせいだとでも言いたげだ。
確かにがいらぬ誤解をしなければ『葵屋』に来ることも無く、翁にも会うことも無かったのだ。全ては自分が招いてしまったことだとはも解っているのだが―――――
「おお、さん!! よう来て下さったのう」
喜色満面の翁がこちらにやって来た。翁だけではなく、『葵屋』の使用人たちも一緒である。
どうしようかと必死でこの場を切り抜ける方法を考えているの手を、翁がしっかりと取った。
「別館にもいらっしゃらぬから、うちの馬鹿が何か失礼なことでもしでかしたのかと心配しておりました。突然のことで何のお構いも出来ませぬが、今夜はゆっくりしていって下され。ああ、そうじゃ、どうせなら泊まっていかれては如何かな」
「そうですよ、もう外も暗いですし」
「若い女の方が夜道を歩くのは危ないですよ」
「すぐに部屋と食事の用意もしますから」
翁の提案に使用人たちも口々にに泊まりを勧めてくる。その勢いは凄まじく、とてもが断れるような雰囲気ではない。
「いや、でも………」
助けを求めるようには蒼紫を見上げるが、彼はまるっきり他人事のように明後日の方向を向いている。
もしかしてささやかな仕返しなのだろうかと、は蒼紫をじっとりと睨みつけるのだった。
というわけで何とか蒼紫の誤解は解けましたが、また別の方向で誤解が………(汗)。主人公さんも大変です。
このドリームでは操ちゃんから見た蒼紫は“憧れのお兄ちゃん”みたいな感じでしょうか。登場したばかりの時の操ちゃんなら兎も角、最終的に弥彦とそんなに精神年齢が変わらなくなっちゃった操ちゃんじゃ、一寸恋のライバルにはなりませんもんね(苦笑)。
誤解が解けたこの二人、次はどうしようかな。