ドキッ
本に目を落としたまま、山崎は文机に置いた乾菓子に手を伸ばす。ぐにっ。
妙に温かくて柔らかな感触に、彼はぎょっとして顔を上げた。
「ぎゃ――――――――っっ!!」
山崎が掴んでいたのは、真っ白な猫だったのだ。いつの間に部屋に入り込んでいたのか。しかも、口をもぐもぐさせているところを見ると、菓子を食べてしまったらしい。
この猫は、彼が娘同然に育てているが、秋の終わりに拾ってきたものだ。最近妙に仲良くしている斎藤と一緒に祇王寺に行った時に拾ったので、“祇王”と名づけて可愛がっている。
だが、さっきの反応の通り、山崎は実は猫が大の苦手なのだ。あの生温かくて、ぐにゃっとした身体が気持ち悪い。あの身体で擦り寄られると、気味が悪くて総毛立つ思いがする。は文字通り猫可愛がりしているが、山崎は祇王が視界に入るだけで追い払おうとする始末だ。
「ほら、あっち行けっ。しっしっ」
指が触れるのもおぞましく、山崎は本をパタパタさせながら祇王を追い払おうとする。
祇王は文机から下りると、何故かそのままお座りをして山崎を見上げた。どうして山崎がそういう態度を取るのか解らないといった様子で、不思議そうな顔をする。野良上がりのくせに祇王は人懐っこい猫で、自分が邪険に扱われるなんて思ってもいないようだ。
もう子猫ではないが、親猫にもなりきっていないこの猫は、どことなくに似ていると山崎は思う。何にでも関心を持って、何でも不思議そうに見詰める空色の目が、似ているのだろうか。娘のような彼女に似ているから、彼も祇王をあまり邪険に扱えないでいるのだ。ただの猫だったら、物を投げつけて追い払っている。
それを知っているから、祇王は逃げない。それどころか、ゆっくりと立ち上がって、媚びるように山崎の脚に身体を摺り寄せた。
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!」
その感触が気持ち悪くて、山崎は思わず祇王を軽く蹴飛ばしてしまった。にゃあ、と小さく声を上げたものの、祇王は怒った風でもなく、いつもの不思議そうな顔で山崎を見る。
猫の体温を払うように着物を叩く山崎の背後から、突き刺さるような殺気を感じた。
ドキッとして振り返ると、塀の上で蹲
祇王も黒猫に気付いたらしく、挨拶するように一声鳴いた。が、黒猫は無言でふいっと顔を背ける。祇王のことをいつも見ているくせに、彼女から声をかけられると、こうやってつれない反応をするのだ。
「あー、祇王、此処にいたんだー」
黒猫を見詰めていた山崎の横で、が明るい声を上げながら祇王を抱き上げた。
いつもは黒い袴姿の彼女だが、今日は非番だからか、蜜柑色の着物を着ている。腰まである艶やかな黒髪は結びもせずにそのままにしていて、動くたびにさらさらと揺れるのが娘らしさを強調していた。
最近、はますます女らしくなったと、山崎は思う。身体つきもそうだが、立ち居振る舞いも以前のような幼さは少しずつ影を潜めているような気がする。考えてみれば、年が明ければ17になるのだから、娘らしくなるのも当然といえば当然だ。
「その猫は俺の部屋に入れるなと、何度も言っているだろう」
祇王を膝に抱いて撫でているに、山崎は少し不機嫌に言う。猫が嫌いということもあるが、祇王がいると、あの黒猫が必ず姿を見せるのだ。あの黒猫が、山崎は大嫌いだった。
「だって、祇王は山崎さんのことが好きみたいなんだもん。ねぇ、祇王ー」
「その猫がいると、あいつが来るんだよ」
彼の不機嫌など意に介さないに、山崎は苛立たしげに黒猫を指差した。
が、は黒猫を見て嬉しそうに立ち上がる。そして窓辺に走って、
「あー、くろちゃんだ。おいでー、くろちゃーん。くろすけー」
「呼ぶなっ!」
人の話を全く聞かないに、山崎は本気で怒鳴りつける。祇王はともかく、あの黒猫だけは本当に駄目なのだ。憎んでいるといっても良いくらい、本気で嫌いなのである。
黒猫はをじっと見ていたが、すぐに塀の外側に降りて、何処かへ行ってしまった。黒猫は祇王とは正反対で、人に慣れるということが絶対に無いのだ。
「あーあ。行っちゃった。くろちゃんはつれないですねぇ」
抱いている祇王に話しかけるに、山崎が持っていた本を荒々しく文机に置いて言う。
「一体何なんだ、あの黒猫は。そいつが来てから、毎日此処に来るんだぞ」
「多分、祇王寺にいた黒猫だよ。祇王を連れて帰った時、こっちを見てたもん。祇王が心配で追いかけてきたのかなあ」
「あんな遠くから来るわけ無いだろ」
「間違いないよ。だって、黒猫って普通、金色っぽい目をしてるけど、くろちゃんは琥珀色の目をしてるから」
そこまで言って、は一寸考えるように黙り込んだ。そして何かを思いついたらしく、くすくすと笑って、
「くろちゃん、誰かに似てると思ってたら、斎藤さんに似てるんだ。ほら、あの人も琥珀色の目をしてるでしょ」
「あー、あいつにね………」
の言葉で、何故自分があの黒猫を異常に嫌っているのか、山崎は解ったような気がした。あの黒猫の態度といい、目つきといい、あの男に似ているのだ。
夏祭り以来、妙に接近し始めている二人だが、斎藤とが連れ立って何処かへ行く度に、山崎は心配で心配でたまらない。あの男がに何かするのではないかと思うだけで、胃に穴が開きそうになるのだ。かといって、二人を引き離そうとすればに恨まれるのは目に見えているから、対策の打ちようも無い。自分の人生の諸悪の根源が斎藤にあるような気分になってきて、山崎は最近、彼に敵意のようなものを抱いているのである。
あの黒猫を憎んでいるのは、あの男に似ているということともう一つ、に似た祇王に近付こうとしているのもあるかもしれない。黒猫と祇王が、斎藤とを連想させて、それで不愉快になるのだろう。
突然、あの黒猫を何とかすれば、斎藤も何とかできるような気がしてきた。根拠は無いが、あの黒猫と祇王と遠ざければ、斎藤とも遠ざけられそうな気がする。
「あの黒猫、何とかしないとな………」
に聞こえないように、山崎は呟いた。
それから数日後。
貰い物の柿をにも持って行ってやろうと、彼女の部屋に向った山崎だったが、襖に手をかけたところで、ぴくりと手を止めた。誰かと話しているような気配がしたのだ。
いつもだったらそのまま襖を開けるところなのだが、妙な胸騒ぎがして、山崎はそっと襖に耳を当てる。
『…………どうしよう、斎藤さん』
深刻そうな、の声。一緒にいるのは、斎藤か。
『赤ちゃんが出来たみたいなの』
ドキッっと心臓が跳ね上がるのを感じた。声が出そうになるのを、口を押さえて必死に押し留める。
“赤ちゃんが出来た”って、どういうことだ? 誰に赤ん坊が出来たというのか。の腹に赤ん坊がいるのか? 父親は誰だ? 斎藤か?
一気に頭に血が上って、頭に心臓があるみたいにドクドク音がしている。頭がくらくらしながらも、山崎は一言も聞き漏らさぬように耳に神経を集中させる。
『…………嘘だろ? どうするんだよ、子供なんて………』
うろたえる斎藤の声。こんな反応をするなんて、間違いない。斎藤がを妊娠させたのだ。
『どうすれば良いか分からないから、訊いてるんじゃない』
『始末……できないのか?』
斎藤の言葉に、山崎は怒りで目の前が真っ赤になる。男は簡単にそう言って済ませられるが、腹の子を始末するなんて、女にとっては命懸けのことなのだ。への気持ちがその程度のものだったのかと思うと、今すぐにでもあの男を八つ裂きにしてやりたい。
だが、最後まで話を聞こうと、山崎は必死に自分を落ち着かせようとする。
『“始末”って………。ひどいよ。まだ生まれてないけど、お腹の中で生きてるんだよ? それを殺せって言うの?』
『仕方ないだろう。生まれたところで、お前も面倒見きれないだろうが。俺だって面倒見きれんぞ』
『そんな………。ねぇ、もう、お腹の中で動いてるのが分かるんだよ? 触ってみてよ。分かるでしょ?』
哀願するようなの声。
“お腹の中で動いてるのが分かる”って、何ヶ月なんだ? まさかとは思うが、あの夏祭りの日に仕込まれたのか?
がそう簡単に男に肌を許す娘じゃないことは、山崎が一番よく知っている。ということは、斎藤が無理やり―――――その状況を想像してしまい、山崎は血が滲むほど拳を握り締めた。
『どうしてそうなるまでに気付かなかったんだ。もっと早くに気付いていれば………』
『何よ、それ。私だけが悪いの? 斎藤さんだって、あの時“大丈夫だ”って言ったじゃない。だから私………』
すすり泣くようなの声。溜息のように斎藤が息を吐く音が聞こえた。
自分が孕ませておいて、始末しろだの、果てはが一方的に悪いような口ぶり。若い割にはしっかりした男だと思っていたが、とんだ見込み違いだった。今更後悔しても遅いが、もっと早くにを屯所から遠ざけておくべきだったのだ。
あんな男と玩具にするために育てたのではない。普通の娘とは違う人生を送らせることになってしまったが、いつかは信頼できる男の許に嫁がせるつもりだった。綺麗な身体のままで花嫁衣裳を着せて送り出すのが、山崎の人生の目的といっても過言ではなかった。それをあの男は、最悪の形でぶち壊してくれたのだ。
あの男をどうしてくれよう。今すぐ殺してやりたいが、ただ殺すだけでは飽き足りない。考えられる限りの苦痛を味あわせてからでなければ、殺してやらない。
「何だか、あちらは泥沼人生劇場ですねぇ」
斎藤への報復を考える山崎の背後で、突然暢気な声がした。
「っ?!」
いつの間にやら、一番隊組長の沖田が山崎の後ろで一緒に立ち聞きしていたのだ。
心臓が口から飛び出すかと思うほど驚いたが、寸でのところで口を覆って声を抑える。が、持っていた柿をいくつか床に落としてしまった。
「誰だっ」
誰何の声があって、斎藤が乱暴に襖を開けた。
その瞬間、柿を拾う山崎と目が合って、斎藤は一瞬心臓が止まったような真っ青な顔になる。
「山崎……さん……」
部屋の中で祇王を膝に抱いて泣いていたも、山崎の名を聞いて表情を強張らせた。そして、怯えたような目で山崎の方を見る。
その目を見て、さっきの会話は紛れも無い事実なのだと、山崎を確信した。の腹には、斎藤の子がいる。しかも、外からは目立たないが、既に胎動が分かるくらいに成長しているのだ。
足から体温が引いていくのを感じた刹那、山崎の視界は暗転した。
目を醒ますと、山崎は自分の部屋の布団の中にいた。額に冷たい手ぬぐいが載せられている。
「あ………」
さっきのあれは、夢だったのだろうか。夢に違いない。が斎藤の子を孕んでいるなんて、あるわけがないではないか。と斎藤のことを心配するあまり、変な夢を見てしまったのだろう。
必死に自分に言い聞かせて現実逃避をする山崎だったが、わらわらと部屋に入ってきた輩のせいでそれも空しい努力になってしまった。
「ああ、気が付きましたか。しかし、大変なことになりましたねぇ。ちゃんがおめでただなんて」
“大変なこと”と言いながら、二番隊組長・永倉はニヤニヤと笑っている。彼は、斎藤とをくっつけようとしているから、当然だ。
一緒に入ってきた十番隊組長の原田も、同じように笑いながら、
「まあ、できちまったもんは、しょうがないよな。もう、二人のことは認めてやらないと。生まれた子供を父無
「しかし、最近付き合いが悪いと思っていたら、そういうことだったとはなあ。そりゃあ、島原に行かなくても良いわけだ」
“島原”という単語に、山崎は内心ドキッとする。そういえばここ最近、斎藤が島原に通う姿を見たことが無い。以前は最低でも週に一度は遊びに行っていたはずだ。“いい女”ができて島原通いを止める隊士は多いが、斎藤にそういう女ができたような様子は無い。
ということは、やっぱりが、斎藤が島原通いを止めた原因なのか。島原に行かなくて済むようなことを、にさせていたのか。そしてその結果がこれかと思うと、山崎は怒りで脳の血管が切れそうになる。
が、そんな山崎の気持ちを知ってか知らずか、永倉も原田も面白おかしく話を続ける。
「だけど、島原の女で慣れている斎藤君が、あんなお子様で満足するのかなあ。そりゃあ、形
「自分色に染める楽しみってもんがあるんじゃねぇの? って素直だから、何でも言うこと聞くだろ。『、今度はここをこうしてごらん』『やだ、斎藤さん。そんなこと、出来ないよ』『出来ないと、ご褒美をあげないよ?』『えー、斎藤さんの意地悪ぅ』みたいなー」
悪乗りして小芝居まで入れる原田の頬を掠めて、苦無が壁に突き刺さった。皮膚が浅く裂け、つうっと血が流れる。
「そういう冗談は、面白くありませんなあ、原田先生」
全身に殺気を漲らせ、山崎は布団の上に立ち上がる。その姿は阿修羅のようで、流石の原田と永倉も声も出せない。
日頃は大人しい山崎なのだが、が変わると別人のようになるのだ。以前、酔った勢いでに襲い掛かろうとした隊士がいたが、彼は何処からとも無く飛んできた苦無で掌を串刺しにされていた。部屋に軽く爆薬を仕掛けられた者もいるし、食事に妙な薬を入れられた者もいる。誰がやったかという証拠が挙がらなかったので迷宮入りになったのだが、山崎がやったというのは皆が知っていることだ。それくらい、山崎はを守ることに命を懸けている。
「とにかく、に詳しい話を聞かないと。部屋にいるんですかね」
こんな馬鹿二人を相手にしてる暇は無い。を問い詰めて、いつから斎藤とそういう関係を持っていたのか、腹の子は何ヶ月なのか聞き出さなければ。そして、事の次第によっては、斎藤を始末しなければならない。いや、さっきの会話の様子だと、始末は決定だ。
「ちゃんなら、斎藤さんとどこかに出かけましたよ。結構前に出たから、そろそろ戻る頃かも」
部屋を出ようとした山崎に、水を張った盥を持ってきた沖田が暢気な調子で言う。山崎が殺気を漂わせていようが、沖田は全く意に介さないらしい。
二人で出かけただと? 山崎の中でいやな予感がした。
こんな時に出かけるところといったら、医者以外に無い。まさか、中条流の産婆の所に連れて行ったのか。親代わりである山崎に一言の相談も無しに腹の子を始末して、あの男は何事も無かったようにするつもりなのか。何処まで卑怯な男なんだ、斎藤は。
奥歯が砕けんばかりに歯を食い縛り、山崎は血走った目で玄関に向った。
「…………あ」
玄関に向う途中で、祇王を抱いたと斎藤に鉢合わせた。二人とも、ただ事ではない山崎の顔を見て、ぎょっとする。
「斎藤君、逃げろ! 殺されるぞ!!」
「もう全部バレちまってんだぞ!」
山崎の後を追いかけてきた永倉と原田が、切羽詰った声で怒鳴る。
「え? バレたって………え?! もう?!」
この男には珍しく、斎藤はあからさまにうろたえる。その様子がいかにも無責任な男そのものに見え、山崎の中で何かが切れた。
「斎藤ぉっっ!!!」
その怒声と共に、山崎は斎藤の顔を拳で殴りつけた。全体重をかけた会心の一撃に、斎藤はあっけなく床に倒れる。
いつもの斎藤なら、山崎の拳など簡単によけられるのだが、迫力に圧倒されてしまったらしい。反撃をすることすら忘れたかのように、殴られた頬に手を当てたまま、唖然とした顔で山崎を見上げるだけだ。
そんな斎藤を鬼気迫る目で見下ろし、山崎は刀を抜く。
「そこへなおれ、斎藤! 刀の錆にしてくれる!」
「落ち着いてください、山崎さん! 私の闘争は切腹ですよ!」
『刃傷 松の廊下』状態で、永倉と原田が山崎を羽交い絞めにする。新選組の絶対的な支配者である“局中法度”によって、私闘は硬く禁じられている。どんな事情があるにしろ、山崎が斎藤を斬ったら、彼まで切腹になってしまう。まさしく『松の廊下』状態だ。
「離せっ! こいつを殺して俺も死ぬ!!」
「落ち着いてください、山崎さん! 俺は決して軽はずみな気持ちじゃなくて―――――」
「うるさいっ!! 黙れっ!」
「やめてよ、山崎さんっ!! お願い、斎藤さんの話を聞いて!」
斎藤の盾になるように、が二人の間に割って入る。その目は、いざとなったら山崎を傷つけることも厭わないと言いたげで、それがますます山崎の怒りに火を点ける。
この期に及んでまだこんな男を庇うのかと思うと、山崎は情けなくて涙が出そうになる。もう少し賢い娘だと思っていたのに、こんな男に簡単に騙されるなんて。
ここまで成長した胎児を始末するのは母体にも負担がかかるし、も生みたがっているから、腹の子はこのまま産み月までそっとしておこうと思っていたが、気が変わった。が泣こうが喚こうが、腹の子は始末する。こんな男の子など、可愛い娘に産ませるわけにはいかない。
「! こっちに来なさい!」
祇王をしっかり抱いているの腕を、山崎が乱暴に掴み上げる。
「痛い! 乱暴にしないでよ! お腹に赤ちゃんがいるんだから!!」
その言葉に、周りの空気が凍りついた。
「っ」
誰一人動けないぴんと張り詰めた空気を、咎めるような斎藤の声が破った。
その声に、自分が何を口走ったのか気付いて、ははっと口を押さえる。
が、時既に遅く、山崎の顔は見る見る鬼のような形相になっていく。
「やっぱりそうか! 来いっ!! 今すぐ良順先生に言って、腹の子を始末してもらうぞ!」
「やだ! 離してよ!」
揉み合う二人の間で押し潰されそうになっていた祇王が、するりと床に下りた。それに気付いて、が叫ぶ。
「祇王、逃げて!」
その声に、祇王は一瞬いつもの不思議そうな顔を見せたが、すぐに外に向って走り出した。
そんなことには構わず、山崎は血走った目での腕を引っ張る。
「一体、何ヶ月なんだ?! こんなになるまで言わないなんて!」
「何ヶ月って程じゃないと思いますが。秋に仕込んだ子でしょうから」
祇王が逃げた方を見遣りながら、斎藤は他人事のように言う。その口調が更に怒りを煽り、山崎は斎藤の胸倉を掴んだ。
「貴様、他人事みたいに―――――」
「あの〜………」
さっきから傍観者に徹していた沖田が、のんびりとした声を上げた。
「話、微妙に食い違ってません?」
確かに沖田の言うとおり、三人の会話は一つのことについて話し合っているようで、どこか微妙にずれている。それぞれが違うことについて話し合っているような、奇妙な違和感がある。
続けて、沖田は根本的な質問をした。
「お腹に子供がいるのは、誰なんですか?」
「誰って……祇王に決まってる」
何を言っているのかと、斎藤が短く答える。
「え………?」
その答えに、その場の空気が一気に脱力した。刃物が飛び出すほどの大騒ぎの元が、実は猫の妊娠だったとは。
興奮していた分、その反動も大きかったのか、山崎は呆けた顔で崩れるように両膝をついた。そして、ぐったりと両手を床について、
「よかった………本当に良かった………」
ほっとして涙腺が緩んだのか、山崎の目が潤んでいる。
この騒動で、10年くらい寿命が縮んだかと思った。16歳というと、世間では結婚している者もいるとはいえ、はまだまだ子供なのだ。今回は誤解ということが分かったが、いつまたこんな騒動が起こるか分からない。いつ斎藤の甘言に弄されて、この誤解が事実になるか分からない。
これは本格的に二人を引き離さなくては。山崎は床についていた手を握り締め、決意を新たにする。の身に何かあってからでは遅いのだ。
「山崎さん、大丈夫?」
さっきまで興奮していたのが急に脱力して、は心配そうに山崎の顔を見る。その顔は出会った時の12歳の頃の面影がそのままで、山崎は思わずを抱き締めた。
「お前が深刻な声で“赤ちゃんが出来た”だの“お腹の中で動いているのが分かる”だの言うから、俺はてっきり………。本当に大丈夫なんだな? 斎藤とは何も無いんだな?」
「やだなあ、山崎さんったら。私に赤ちゃんができるわけないじゃない。心配性なんだから。
山崎さん、猫が嫌いだから、祇王に赤ちゃんが出来たら絶対始末しろって言うと思ったから、斎藤さんに相談したんだよ」
明るくそう言うと、は可笑しそうに笑った。
斎藤も一緒になって、
「そうですよ。山崎さんが心配するようなことは、してませんよ。あなたに殺されるのは、ごめんですからね」
後半の言葉は、本音である。斎藤も、山崎の被害者の姿を何人も見ているのだ。食事に毒を盛られたり、部屋に爆薬を仕掛けられては、流石の斎藤も防ぎようが無い。それに、一応の親代わりであるから、何となく反撃の手も鈍ってしまう厄介な相手なのだ。
とはいえ斎藤も、山崎を恐れていつまでも手をこまねいているわけにもいかないと思っているのだが。折を見て(というより隙を見て)、少しずつ二人の仲を発展させようと、目下努力の最中なのである。
ともかく、これにて一件落着。祇王の腹の子は、乳離れしたらすぐに里子に出すということで、話は纏まったのだが――――――
「ところで、斎藤さんが言っていた『軽はずみな気持ちじゃなくて』したことって、何だったんですか?」
屈託の無い沖田の声に、折角和んでいた空気が再び凍りつく。いつも天使のようにニコニコしている彼であるが、実は悪魔なのかもしれない。少なくとも、今の斎藤にとっては悪魔である。
刀を納めかけてた山崎の手が、ピクッと止まる。そして、顔の筋肉を引き攣らせながら笑顔のような顔を作り、妙に優しい猫なで声で、
「それはお父さんも詳しく聞きたいなあ、斎藤君」
事の次第によっては、居合い抜きで一刀両断である。
「……と、ともかく、その物騒なものをしまいましょうよ、山崎さん。冷静に話し合いましょう。ね、お父さん」
「おどれに“お父さん”言われとうないわぁっっ!!!」
「お願い、山崎さん! 斎藤さんの話を聞いてっ!!」
―――――振り出しに戻る。
それから更に二週間後。
あの日から姿を消していた祇王が戻ってきた。猫は出産の時は誰も近付かない所に隠れているというからも心配はしていなかったが、やはり元気な姿を見ると、ほっとする。
祇王が生んだ子猫は三匹。二匹は母親と同じ白猫で、残りの一匹が―――――
「すごーい、親は白猫なのに、真っ黒だー」
三つの毛玉のような子猫がじゃれあっているのを見ながら、が驚きの声を上げる。
残りの一匹は、混じり毛の無い見事な黒猫だったのだ。他の二匹が真っ白なだけに、その黒さは強烈に感じられる。
「父親が黒猫だったんだろうな。
しかしまあ、まだ子供みたいな顔をしていたから油断していたが、まさか腹に子供がいたとはなあ………」
の隣にしゃがみこんでいた斎藤が、祇王の喉を指先で撫でながら、感心したような呆れた声を出した。そんな彼の言葉などそ知らぬ様子で、祇王は気持ち良さそうに目を細めて、ぐるぐると喉を鳴らす。
子供みたいな顔をして実は結構大人だったなんて、この猫はに似ていると斎藤は思う。もいつもは子供のような顔をしているくせに、ふとした瞬間に大人びた表情を見せるのだ。こういう時、油断できないなと思う。
の横顔を見詰める斎藤の視線に気付いたのか、がふと顔を上げて斎藤を見た。猫のような一点を見詰める目に一瞬ドキッとしたが、彼女が見ているのは斎藤の後ろの風景だった。
「あ、くろちゃんだ」
「え?」
振り返ると、いつもの黒猫が、いつものように塀の上に蹲っていた。この猫も、祇王が姿を消したあの日以来、久々に姿を見た。
祇王も黒猫に気付いて、てけてけと塀の方に歩いて行く。にゃあ、と彼女が一声鳴くと、黒猫はすとんと庭に下りた。そして、ゴロゴロと喉を鳴らしながら祇王の身体を舐め始める。その姿は仲の良い恋人同士のようで――――――
「あ、もしかして」
が片手で黒い子猫を持ち上げる。そして、その顔をじっと見て、
「やっぱり! ねぇ、この子、くろちゃんと同じだよ。琥珀色の目をしてる」
「ああ、あいつが父親だったのか………」
いちゃいちゃしている二匹を見遣りながら、斎藤は独りごちる。
犬にしろ猫にしろ、獣のオスというのは、一発やったらそれで終わりだと思っていた。それをこの黒猫は祇王と腹の子を心配して、あんなに遠い嵯峨野からわざわざやって来ていたのだ。毎日此処に姿を見せるということは、縄張りを此処に移したのだろうか。通っていたにしろ、縄張りを移したにしろ、大した責任感の持ち主である。
責任感には感心するけれど――――――
「しかし、こんな子供みたいな猫を孕ますとはなあ………。黒いのは立派なオス猫なんだから、なにも祇王を相手にしなくても………」
祇王がに似ているような気がするだけに、斎藤の気持ちは複雑だ。自分はとはなかなか進展できないのに、この黒猫はしっかりとやることをやっているのである。まあ、相手は猫だし、“恋路の邪魔者”もいないから当然なのだが、斎藤は黒猫が羨ましい。
<猫を羨んでどうするんだよ、俺>
思わず自分で突っ込んで、斎藤は小さく溜息をつく。突っ込みを入れながらも、やっぱり猫はいいなあ、と思ってしまう。できることなら自分とも猫になって、黒猫と祇王のようになりたいと思う。
「でも、くろちゃんって、斎藤さんに似てるよね。琥珀色の目とか、雰囲気とか」
「え?」
ドキッとして、斎藤はの顔を見る。天真爛漫なその顔には、斎藤が思うような含みなんか全く無くて、妙なことを考えてしまった自分が恥ずかしくなって、彼は顔を赤くする。
えへへー、と子供のように笑って、は再び祇王と黒猫を見る。そして、ぽつりと、
「いいなあ、祇王は………」
その横顔が妙に大人っぽくて、斎藤はまたまたドキッとする。こうやって時々そんな顔を見せるから、油断できないのだ。
仲の良い二匹の様子を羨むように目を細めるを見ながら、彼女も自分と同じことを考えているのだろうかと、斎藤は思う。幸い、今は山崎は外出しているし、やるなら今しかない。
先日、と出かけた時に軽く接吻をしたことが山崎にバレて、棒術の稽古という名目で足腰が立たないくらいにボコボコにされたばかりの斎藤だが、そんなことで懲りる男ではないのだ。障害があればあるほど、余計に手に入れたくなるものなのである。
「………」
囁くように声をかけると、斎藤はの肩を抱いて自分のほうに引き寄せる。
「………あ」
驚いたように目を見開き、は小さく声を漏らす。が、斎藤の顔が近付いてくるのに合わせて、もゆっくりと目を閉じた。
あと少しで唇が触れ合うと思ったその刹那―――――
「何さらしとんじゃぁっ、ゴルァっっ!!」
山崎の怒声と共に、斎藤の足元に苦無がサクサクッと突き刺さった。
「ひいぃっっ!!」
悲鳴を上げて、斎藤は思わず跳ねるように後ずさった。
「山崎さん!」
「まったく、妙な胸騒ぎがするから帰ってきてみれば………」
不快そうに眉間に皺を寄せ、山崎は縁側から庭に下りる。そしての腕を掴んで引き上げて、
「俺がいない時に斎藤と二人きりになるなと、あれほど言っただろうが」
そう言いながらを部屋に上げると、彼女だけ部屋に入れて障子をぴしゃりと閉めた。そして、例の引き攣った笑顔を斎藤に向けて、
「後で棒術の稽古をしようか、斎藤君。君は剣の腕は立つけれど、棒術はさっぱりだからねぇ」
「は……はい……」
棒術なんて実戦では使わないから結構です、など言えるはずが無く、斎藤は山崎の気迫に押されるように返事をしてしまったのだった。
山崎さんは、香取流棒術の名人らしいです。時々言葉遣いが荒くなるのは、大阪出身だからということで(大阪の方、ごめんなさい)。
誰も期待していないのに、またやっちゃいました。しかも、「“お父さんは心配性”シリーズ」なんて、シリーズ化してるし。つか、この話、主人公誰だよ? 山崎父さんか?
年頃の娘を持つお父さん定番の“お父さん勘違いネタ”です。お題通り“ドキッ”とするのは、お父さんばっかりですねぇ。しかも、心臓に悪い“ドキッ”だよ。まあ、ラストの方で斎藤にも“ドキッ”としてもらったので、勘弁してください。
このシリーズは私が書いてて楽しい話なので、まだまだ続きます。多分。「そんなもん書くよりもう一寸違うのを書けよ」というメールが10通くらい来たら、一寸は考えますけど(笑)。申し訳ありませんが、もう暫くお付き合いください。
しかし、書けば書くほどどんどん長くなっていく斎藤ドリーム。一体どこまで長くなるのかなあ。今回もえらいこと長くなってしまいましたが、最後まで読んでくださいまして、ありがとうございました。