凍て哭き

凍て哭き  【いてなき】 樹の幹が霜割れを起こしてきしむ音。
 蒼紫の趣味は茶の湯なのだそうだ。あんな陰気臭い男にそんな優雅な趣味があるなんて縁には信じられないが、人は見かけによらないということなのだろう。
 そういうわけで『葵屋』に翁の健康診断をしに行った時には、が診察をしている間は縁は蒼紫に茶を点ててもらって時間を潰している。正直、苦くてドロドロしている茶は縁の好みではないのだが、一気飲みして口直しに菓子を一気食いすれば我慢できないことはない。
 最初のうちは蒼紫も作法を教えようと毎回指導をしていたのだが、縁に全く覚える気がないと悟ると、すぐに諦めてしまった。茶というものは楽しく飲むべきものであって、作法に拘るあまり面白くない雰囲気になってしまっては本末転倒である。
「前から思ってたんだガ、器に対しテ茶が少なくないカ? ついでにもう少し薄くした方が普通に美味いと思うゾ」
 懐紙で口を拭って、縁が意見する。
 ほんの少しの茶を、こんな大きな器で飲むというのは非合理的だ。それに味も濃すぎる。湯の量を器に合うくらいに増やせば、味も丁度良くなって菓子を食べながらゆっくり飲めるのに。
 量に相応しい器では茶筅を使えないというのなら、一度この器で作ってから小さな器に入れれば良いのだ。こんな大きな器をいくつも汚しては、洗い場が大変なことになってしまう。『葵屋』では女衆が洗うから蒼紫にはどうでも良いことなのかもしれないが、毎日洗い物をしている縁にとっては切実な問題だ。
 縁の見当違いな意見に、蒼紫は面倒臭そうに、
「これはそういう風に飲むものだと昔から決まっている」
「でも洗い物ガ―――――」
「茶を飲んでいるのに、そんな所帯染みた話をするんじゃない」
 折角の茶が、縁のお陰で雰囲気ぶち壊しである。毎度のことであるが、何とかならないのかと蒼紫は思う。
 初めて会った頃はこんな男ではなかったはずなのだが、日を追う毎に縁が所帯染みていくような気がしてならない。新しい生活に馴染むのは結構なことだが、ここまで馴染んでしまうというのはどうなのだろう。
 どうやら縁は蒼紫よりも若いだけあって、順応性も高いらしい。しかしそれが羨ましいかと問われると、蒼紫としては微妙だ。ここまで変わってしまうと、もう別の人間である。
 縁をここまで変えてしまったは、よくよく考えてみたら凄い女だ。あの縁に家事一切をやらせた上に、仕事の助手にも使っているのである。ぐうたらで好き勝手に生きているどうしようもない女だと思っていたが、ひょっとしたら蒼紫よりも凄い女なのかもしれない。
 器を持ったまま蒼紫がそんなことをしみじみと考えていると、その“凄い女”が部屋に入ってきた。
「あら、お茶飲んでるの? 私も戴いて良いですか?」
「ああ、どうぞ」
 に飲ませたら縁以上に大変なことになりそうだと思いながらも、蒼紫は茶の用意をする。
 が、予想外には作法に則った形で出された茶を飲んだ。これには蒼紫は驚いたが、考えてみれば医者の娘なのだから、一通りの作法はきちんと躾けられていたのだろう。その成果が日常に全く反映されていないのは、非常に残念なことである。
 茶を飲んだ後、器をじっくり見ていたが尋ねた。
「良い器ですね。不勉強で判らないのですが、どちらの作ですか?」
「ああ、それは新津覚之進という新人作家のものです。知り合いの伝で手に入れまして」
「へーぇ、新人にしては重厚な作品ですねぇ。とても深みがあって、若い方が作られたようには見えないわ。きっと作家の方も、この器のように落ち着きのある渋い方なんでしょうね」
「新人といっても、若くはないですけどね」
 の評価に、蒼紫は苦笑する。
 器を褒めるのは礼儀だからその流れで言っているのかと思いきや、は本気でそう思っているようだ。そんな彼女が新津覚之進に会ったらどんな顔をするだろうと想像すると、蒼紫は少し可笑しい。
 新津覚之進というのは、剣心の師匠で飛天御剣流継承者の比古清十郎だ。陶芸の世界では新人だが、もう43になる。歳の割には若く見えるものの、青年を想像そしているに会わせたら驚くに違いない。
 しかも落ち着きのある渋い男というのも、一寸違う。黙っていれば落ち着きもあり渋くもあろうが、口を開けばそんな印象も軽く吹き飛ぶほどの超絶自信家なのだ。お近はあの男が好きなようだが、のような女はきっと引いてしまうだろう。
 そこまで考えたところで、蒼紫に名案が浮かんだ。
 一度、を比古と会わせてみればいいのである。そうすればあの超絶自信ぶりに呆れ返ることは確実。そして縁がいかに出来た男かということを思い知らせてやれば、きっとは彼を見直すに違いない。見直せば、二人の関係も一歩前進という寸法である。
 我ながら大変に良い案である。蒼紫は自分の発案に満足すると、に提案した。
「もしよろしければ、会ってみられますか? 丁度新しい茶碗が欲しかったところです。今度買いに行く時にお連れしますよ」
「本当ですか?!」
 嬉しそうに頬を紅潮させ、は身を乗り出してきた。その横では縁が焦った顔で断るように手を振っている。
 きっと縁は、が新人陶芸家に惚れることを心配しているのだろう。そんな心配をする必要は全く無いのに。それどころか、は縁に惚れ直すことになるのだ。その暁には、縁は蒼紫に感謝しまくりだろう。
 自分の立てた案に絶対の自信を持っている蒼紫は、縁を安心させるように一瞬だけ自信に満ちた笑みを見せると、の茶碗を引きながら言った。
「それでは、今度の『葵屋』の定休日に行きましょう」





 新津覚之進の家は山奥にある。茶碗一つ買いに行くにも一日がかりだ。
 面白くなさそうな顔をしている縁とは対照的に、は遠足気分でご機嫌だ。少々きつい坂道でも楽しそうに歩いている。
「新津覚之進って、どんな人かしら。凄い素敵な人だったらどうしよう〜。ねえ、お化粧、濃すぎないかしら? 大丈夫?」
 家が近付くに従って、も大はしゃぎである。きっと彼女の頭の中では、とてつもなく美化された新津覚之進が出来上がっているのだろう。それだけ期待されていれば、蒼紫の作戦もきっとうまくいく。
 早くも作戦の成功を確信して機嫌を良くする蒼紫を横目で見て、縁は益々不機嫌になる。協力してくれるはずの人間が違う男を紹介しようとしているのだから当然だ。
 協力者を名乗るなら、が違う男に関心を持ったら全力で阻止するのが筋だろう。それなのに、わざわざ相手の男に会わせる御膳立てをするなんて。抗議しても蒼紫は「俺に任せておけ」と言うだけで、一体何を考えているのか縁には解らない。
 大体だ。陶芸家だか何だか知らないが、会いに行くだけなのに年甲斐も無く浮かれて。会いに行くと決まってから肌の手入れだの何だのして、今日などいつもより念入りに化粧をしていた。一体何を期待しているのかと問い詰めたいくらいだ。
 人里離れた山奥に住んでいる陶芸家なんて、とんでもない変わり者に決まっている。人間嫌いだというけれど、きっとまともな人間関係を築けない変人に違いないのだ。一寸考えれば判ることなのに、どうしてには判らないのだろう。
「あそこです。多分窯のところにいると思いますが―――――ああ、いた」
 蒼紫の言う通り、窯の前に白い外套を着た大男が座っていた。
「何だ? 今日は連れまでいるのか」
 新津覚之進こと比古清十郎が、面倒臭そうに立ち上がって客人を睥睨した。
「新津覚之進に会ってみたいと言うから連れて来た」
「新津覚之進さんですね?! 初めまして! 私、っていいます。四乃森さんから茶碗を見せていただいて、是非お会いしたいと思ったんです」
 蒼紫の言葉が終わりきらないうちから、が回転式機関砲のような勢いで喋り出す。三十路の女だというのに、操くらいの小娘のようなはしゃぎっぷりだ。
 ここまではしゃがれると、もしかして失敗だったのだろうかと蒼紫は微妙に不安になった。超絶自信家で偉そうな男だが、考えてみれば顔だけはとりあえず良い男なのだ。おまけにも常識では計り知れないところがある女だから、比古を見ても「素敵!」と言い出しかねない。この様子を見たら、言い出しそうな気がしてきた。
 まずい、と思っていると、隣の縁が狂経脈を浮かび上がらせそうな勢いで蒼紫を睨みつけている。が比古に惚れようものなら、この場で狂経脈縁に変身して蒼紫を叩き伏せるだろう。幸い、今の縁は丸腰だが、蒼紫も同じく丸腰である。これは非常にまずい。
 何とかしなくてはと蒼紫が次の手を考え始めると、比古が鬱陶しそうに尋ねてきた。
「誰だ?」
 は興奮しているが、比古には全くその気は無いらしい。これだけ温度差があれば、絶対におかしな方向に話が進むことは無いだろう。蒼紫は少しほっとした。
「うちで世話になっている医者だ。茶碗を見せたら気に入ったらしくてな。良いものがあれば買いたいらしい」
「ふーん……そういや馬鹿弟子の連れにも女の医者がいたが、最近は多いのか?」
 珍しいものでも見るように、比古はをじろじろ眺める。
 いつもの蒼紫なら、そういう失礼な仕草はすぐに咎めるのだが、今回は黙って見ている。こういう失礼なことを細かく積み重ねてくれれば、流石のも比古に呆れ返って縁を見直すことだろう。
 が、は相変わらずにこにこして、
「いいえ。まだ女医は珍しいと思います。お弟子さんって、新人の方なのにもうお弟子さんがいらっしゃるんですか?」
「いや、陶芸をやる前の弟子だ」
 “比古清十郎”については触れられたくないらしく、比古は心底面倒臭そうに答える。
 だがは、そんな比古の様子に気付かないのか更に突っ込んでくる。
「陶芸の前って、何をされてたんですか? お弟子さんを取るくらいだから、絵ですか? それとも彫刻かしら?」
「〜〜〜〜〜焼き物が欲しいなら、あっちで適当に見繕ってくれ。俺は忙しいんだ」
 あからさまに鬱陶しげにそう言うと、比古は追い払うように手をひらひらと振った。





「新津さんって素敵な方ね」
 山小屋の中で茶碗を選んでいると、が突然言った。その一言で、の周囲以外の空気がピーンと張りつめる。
 あの短い遣り取りの間でも感じの悪さ全開だったのに、どうして「素敵な方」という言葉が出るのだろう。やはり男は顔ということなのだろうか。男は顔だというのなら、縁だって悪くはないと蒼紫は思うのだが。
 の好みは蒼紫には解らないが、そんなものよりも今は縁である。そっと縁の様子を窺ってみると、案の定怨念に満ちた目で蒼紫を睨みつけていた。
 これは非常にまずい。良かれと思ってやったことなのに、逆に縁に恨まれる結果になってしまった。このままでは無事に『葵屋』に帰れないかもしれない。
 蒼紫は慌てての言葉に反論する。
「どこがですか? 折角お連れしたのに失礼な態度で、こちらは冷や冷やしていたくらいですよ」
「うーん、そりゃそうですけど………。でも芸術家って一寸普通の人とは違いますし、あれくらいはどうってことないですよ」
「いや、でも―――――」
「俺はああいう奴は嫌いダ」
 蒼紫が何か言い出す前に、縁がぶすっとして言う。
 ああいう風に偉そうな男は嫌いだし、を不躾にじろじろ見るのも嫌だし、何より彼女があの男を気に入っているのが気に入らない。芸術家だから少しくらい非常識でも仕方が無いという世間の目に甘えて、傍若無人に振舞っているに違いないのだ。そういう根性が気に入らない。
 大体だ。ああいう男に引っかかったら、彼女のような女は怒鳴られまくりに決まっている。とてもに扱えるような男ではないのだ。
 けれどはそんな縁の不機嫌ぶりに気付いていないのか、器を見ながら上機嫌に、
「そうだ。私も陶芸やってみようかな。新津さんに教えてもらおうかしら」
「えっ?!」
 その言葉に、蒼紫と縁が同時に声を上げる。
 比古に陶芸を教えてもらおうだなんて、まさかとは思うがは比古に惚れてしまったのだろうか。ありえないと思いたいのだが、こればかりは本人でないと分からない。
「駄目ダ! 駄目ダ! 駄目ダ! こんな山奥まで行くなんテ!」
「そうですよ。あの人は仕事でやってるんですから、人に教えている暇なんてありませんよ」
「でもお弟子さんも取ってたんでしょ? 暇な時に教えてもらえれば良いわ」
 二人の反対など全く応えていないように、は楽しそうに言う。
「女一人でこんな山道を通うなんテ―――――」
「じゃあ、縁も一緒に習う? あ、そうだ。自分の湯飲みとお茶碗を作ったら楽しいんじゃない?」
「エ………」
 何が何でも比古から陶芸を習いたいらしい。こうなってくると、もう何を言っても無駄だ。
 どうしてこんなことになってしまったのだろう。蒼紫さえを此処に連れて来なければ、こんなことにはならなかったのに。本当に何をやらせても使えない男だ。
 にも腹が立つが、それ以上に諸悪の根源である蒼紫に腹が立つ。こいつがを此処に連れてこなければ、否、あの茶碗で茶を出したりしなければ、縁は彼女と地味に楽しくやっていけたのだ。
 今此処に倭刀を持っていないことが悔やまれる。あれさえあれば、蒼紫など一刀両断だ。
「オイ」
 楽しげなから蒼紫を引き離し、縁は低い声を出す。
「お前、帰ったら分かってるだろうナ?」
「落ち着け。後で茶を飲みながら話し合おう」
 縁のこめかみに浮かんでいるのが血管なのか狂経脈なのかは判らないが、帰ったらとんでもないことになりそうなことだけは蒼紫にも判った。これをどうやって収めたら良いものかと、当初の目的も今後の修正も忘れて真剣に考えるのだった。
<あとがき>
 前回で折角蒼紫と縁との間に友情が芽生えたというのに、いきなりひびが入ってしまいました。この後どうなったのかな、蒼紫………(汗)。
 折角京都にいるのだから師匠にも登場してもらったわけですが、主人公さんってば………。縁がいるっていうのに、何やってるんでしょうね、この人は。っていうか、あんな会話で「新津さんって素敵v」って(笑)。
 あ、勿論このドリームの相手は縁なんで。いくら私が鳥頭でも、そこは忘れてませんよ。
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