玉響

玉響 【たまゆら】 暫しの間。
 縁が出て行ってから数日が過ぎたが、まだ屋敷の改装には手を付けていない。勿論、寝室もあのままだ。
 縁が出て行ったらすぐにでも彼の手垢が付いているものは処分しようと思っていたのに。一体どうしてしまったのだろうと自分でも不思議に思う。
 思い出の品を大切に持って男を偲ぶなんて少女趣味は、は持ち合わせていない。男との思い出の品々は全て、別れと同時に処分してきた。これまでは―――――
 一人では広すぎるベッドにうつ伏せになり、均すようにシーツを撫でてみる。
 今までのだったら、別れた男が寝ていたベッドなんて気持ち悪くて使えなかった。男の手が触れたことのある衣類だって全て捨ててしまうくらいの徹底振りだったのに、今回は何も捨てていない。
 別に捨てられないとか捨てたくないとかいうわけではない。何となく捨てないまま、今日まで過ぎてしまったという感じだ。
 縁に未練があるわけではない。納得ずくで別れて未練は無いはずなのに、どうして彼がいた頃と同じままにしているのだろう。自分でも解らない。
 明日こそ絶対に捨てよう―――――眠る前にそう自分に言い聞かせるのが、の夜毎の儀式のようになってしまっている。けれど今夜こそ、それも終わりだ。明日こそ業者を呼んで、縁がいた痕跡を残さず消してやる。
 新しいベッドはどんなものにしようか。今よりも豪華で寝心地の良いものを探さなくては。
 新しい家具のことを考えるのは楽しい。今夜はこのまま楽しい気分で眠りにつけるように、は目を閉じた。





 縁と別れてから何が変わったかというと、カジノに出入りするようになったことだ。
 もともとは賭け事が好きで博才もあったのだが、縁と付き合うようになってからはツキに見放されてしまったようで、足が遠のいていたのだ。しかし彼と別れてからは再びツキが廻ってきたらしく、足繁く通うようになったのだ。
 今までツキが無かったのは、縁に運を吸い取られていたせいに違いない。あの男があの若さであれだけの組織を作ることが出来たのも、みんなのツキを使っていたからなのだろう。
 ということは、から貰えるはずの運を貰えなくなった縁は、これからどうなるのだろう。
 そんなことを考えながら、は一山分のチップを滑らせる。
「プレイヤーに」
 ギャンブルはバカラに限ると、は思っている。ルールが簡単で、何より勝負が早い。ディーラーもプレイヤーも等しくリスクを負うというところも気に入っている。おまけに勝つ時も負ける時も大きいのだから、ギャンブルに付きもののスリルを最大限に味わえるというのも良い。
 ディーラーが配ったカードを捲っていく。
「プレイヤー、ナチュラル。おめでとうございます」
 配当分が加えられ、倍になったチップの山がの前に押し出される。今日も勝ち逃げできそうだ。
 勝つのが当たり前になると、チップが増えても感激が薄くなる。換金目的なら兎も角、のように遊びでやる者にとっては、勝ったり負けたりの波があるからギャンブルは楽しいのだ。勝ち続けては刺激も何もなくなってしまう。
「今夜も絶好調ですね」
 つまらなそうに水割りを飲むに、ディーラーがカードをきりながら声を掛ける。
「男に吸い取られていたツキが戻ってきたみたい。別れて正解だったわ」
 ディーラーへの言葉が強がっているような声音になっていることに気付いて、は苦笑した。自分は一体何を強がっているのだろう。彼女は確かに縁と別れたけれど、捨てられたわけではないし、勿論淋しくなんかもないのに。
 と、近くのテーブルで歓声が上がった。女たちが一人のプレーヤーを囲むようにして、何やら騒いでいる。
「あちらも好調なようですね」
 女たちの歓声に興味を惹かれたように、ディーラーが視線を滑らせた。
 あれだけ女を侍らせているなんて、相当ついている男なのだろう。あの中の誰が、今夜のおこぼれにあずかれるのか。女たちの姿が昔の自分を見ているようで、はプレーヤーよりもそちらに興味を惹かれた。
「随分と派手に勝ってるみたいね」
 ツキがあるうちに勝てるだけ勝とうと思っているのか、ゲームの流れが速い。チップとカードが目まぐるしくテーブルの上を行き交っている。
 きっとのような遊び目的ではなく、換金目的なのだろう。女たちの陰に隠れてプレイヤーの手元しか見えないが、その動きは仕事をこなすように機械的だ。
「もう一勝負されますか?」
「今夜はこれで止めておくわ」
 この辺りで潮時だろう。勝っているうちに潔く引き上げるのも、負けないコツだ。
 はグラスを持って、女たちが群がるテーブルに近付いた。
 今夜の主役はどんな男なのか。おこぼれにあずかろうとは思わないが、気が合えば楽しい一夜を過ごせるかもしれない。知らない男との一夜は、ギャンブルよりも刺激的だ。
 が、女たちの間をすり抜けて男の傍に立ったの顔が、驚きで引き攣った。
「何してるの、こんなところで?」
「バカラ」
 動揺を隠せないとは反対に、縁はぎこちない手つきでカードを絞りながら平然と答える。良い目が出ているのか、にやりと笑った。
 一緒にいた頃はカジノなんか行ったことが無かったくせに、どういう風の吹き回しなのだろう。しかも、ルールなんか碌に知らないはずなのに連勝中らしい。脇に山積みになっているチップを見て、は唖然とした。
 ディーラーが互いのカードをめくっていく。
「ドローです。おめでとうございます」
「きゃ――――っっ!!」
「ボス、素敵―――――っっ!!」
 ディーラーの宣言に、女たちが歓声を上げた。どうやら縁はドローに賭けていたらしい。
 ドローの場合、配当は8倍になる。とんでもないチップの山が縁の前に押し出された。
 これを換金したら、一体いくらになるのか。一晩で一寸した成金である。道理で女が群がってくるわけだ。
 当の縁は配当にあまり関心が無いのか、チップの山を見ても殆ど表情は変わらない。しかしもう潮時と思ったか、静かに席を立った。
「もう良イ。換金してクレ」
「えー? もう止めるのぉ?」
「じゃあ、どこかに遊びに行きましょうよぉ」
 ここからが女たちにとっての本番だ。縁の肩や腕に馴れ馴れしく手を遣って、口々に誘ってくる。
 金の力もあるだろうが、どうやら縁はもてる男らしい。別れてから、初めてはそのことに気付いた。
 考えてみれば、縁とはいつも一緒にいたのだから、他の女が近付く隙など無かったのだ。に勝負を挑む女など、この上海にいるわけがない。二人が別れたという噂が広がったから、女たちもチャンスが回ってきたと張り切っているのだろう。
 それにしても、昔の女の前で縁を誘惑しようだなんて、余程自分に自信があるのか図々しいのか。もう関係無いのは分かっているが、は面白くない。
 面白くないが傍観者を気取って眺めていると、縁は女たちを無視してに声を掛けた。
「一杯どうダ?」
「何で?」
 美女たちを無視してあえて自分を選んだことは嬉しいくせに、は仏頂面で尋ねる。
 そんな彼女の機嫌を取るわけでもなく、縁もつまらなそうに、
「今夜の礼ダ。お前に教わったゲームで儲けたからナ」
「そうだったかしら」
 縁とカジノに行った記憶は無いが、もしかしたら話くらいはしたのかもしれない。それでもルールを教えた憶えは無いのだが。
 奢ってくれると言うのに断る理由は無い。今更一緒に酒を飲んだところで、何も変わらない自信もある。
「そうね。一杯なら御馳走になろうかしら」





 縁に連れて行かれたのは、カジノの上にあるバーだった。随分と簡単に済まされたものである。
「カジノに来るなんて思わなかったわ。ああいうところは嫌いだと思ってた」
 グラスの中の氷を指先でくるくる回しながら、は小さく笑う。
 一緒にいた頃は、縁は驚くほど遊ばない男だった。ギャンブルは勿論しないし、パーティーだって仕事に繋がるものにしか出席していなかった。お陰で、遊び好きのはいつも退屈していたものだ。
「手っ取り早く金を作るにハ、あれが一番だとお前も言っていただろウ。今の俺は文無しだからナ」
「……え? 本当に無いの?」
 縁の言葉に、の顔から笑いが消えた。
 確かに手切れ金に全財産をやると言われたが、本当にすっからかんになっているとは思わなかった。の知らない隠し財産をしっかり持って行っていると思っていたのに。
「あるわけないだろウ。全部お前にやったんダ。俺の時計や貴金属は持って行ったガ、売ってもたかが知れていル」
 驚くに縁は当然のことのように答えると、グラスに口をつけた。
 宣言通り全財産をに渡していたというのは男らしいといえば男らしいが、その後の生活は一体どうするつもりだったのか。生きていくには金が要るのだ。しかも、遊ばない男だったとはいえ、縁は暗黒街のボスに相応しい贅沢な生活を続けていたのである。一度贅沢を覚えた人間が、文無しで生きていけるわけがない。
 もうは呆れて言葉も出ない。以前から仕事以外のことには無頓着な男だとは思っていたが、ここまでとは思わなかった。こうなると無頓着と通り越して、ただの馬鹿である。
 今まではが生活面を見てやっていたから問題無かったが、これから先はどうするのだろう。そう長くない先に野垂れ死ぬのではないかと、もう関係なくなってしまったのに心配してしまう。
 唖然としたの間抜け面が可笑しかったのか、縁は小さく笑った。
「安心しロ。お前に泣きつく気は無イ」
「そうじゃなくって! ああ、もう………!」
 説教してやろうと思ったが、どこから説教を始めたら良いのか分からない。やり場の無い苛立ちに、は頭を抱えた。
 縁が泣きついてくるなんて、そんな心配は最初からしていない。そういうことが出来る男なら、手切れ金のことだって上手く立ち回れるはずだ。そんなことではなく、生きていくためには何が必要かすら判っていないような頼りなさが心配なのだ。
「っていうか、私が心配する義理なんて無いじゃない! ああもう、本当に馬鹿じゃないの?!」
 終いには、縁の今後を心配してやっている自分に腹が立ってきた。自分に泣きついてくる心配も無い、恐らく二度と会うことも無い男のことをが考えてやる必要は無いのだ。これではまるで、がまだ縁に気持ちを残しているようではないか。
 一人で心配したり怒り出したり忙しいに、今度は縁が唖然としてしまう。が、すぐに可笑しそうに笑い出した。
「お前、最後まで怒ってばかりだナ」
「誰が怒らせてるのよ」
 こっちは我がことのように心配して腹も立てているというのに、当の縁はまるっきり他人事だから、はまた苛々してくる。
 考えてみれば、二人の関係はいつもこんな感じだった。何が原因にしてもが一人で腹を立てて、縁は傍観者を気取っていて、そんな彼を見て彼女がまた腹を立てるというのの繰り返し。の怒りが臨界点を突破したところで漸く罵り合いになることもあったが、大抵の場合は馬鹿馬鹿しくなった彼女が不貞寝をしたところで終了したものだ。
 今回も馬鹿馬鹿しくなったがむすっと黙り込んだところで、縁が静かに口を開いた。
「明日の昼の便で日本に行ク。もう会うことも無いサ」
「………そう」
 縁が日本に行ったら、本当にもう会うことは無いだろう。が後を追って日本に渡らない限り。
 二度と会えないということを哀しいと思っている自分に気付いて、は驚いた。
 否、この感情は“哀しい”とは少し違う。自分の身体の一部が無くなるような、自分の中が虚ろになるような、今までに無い感覚だ。そのことに驚いて、は瞬きも出来ない。
 縁のことは、贅沢な生活をするための金蔓だと思っていた。縁だけじゃない。今までの男たちだってそうだ。この世界に入ってからずっと金のある男たちの間を渡り歩いて、その延長で縁に行き着いたのだ。文無しになった男になんか用は無い。今までだってそうしてきたではないか。
 なのにどうして、文無しになった縁に会えなくなるのを哀しいと思うのだろう。今の彼にはもう、が望む贅沢は与えられないのに。
「あれだけの金があれバ、一生遊んで暮らせるだろウ。お前もいつまでも若くないんかラ、この世界から足を洗エ」
「手切れ金で私を縛る気?」
 縁の言葉に、は不愉快そうに片眉を上げた。
 別れた男に今後の生活を指図される謂れは無い。莫大な手切れ金を貰っていたとしても、それは同じだ。今後のの生活は彼女自身が決める。
「そうじゃなイ。好きでもない男と寝て食っていくなんて生活、俺で最後にしロ」
「ああ………」
 縁はのことをそういう女だと思っていたのだ。確かに今までそういう風に生きてきたし、縁の前でもそう振舞ってきた。自身も自分はそういう女だと思っていたのだ。だけど本当は―――――
 金のためなら誰とでも寝る女だと、誰にも本気にならない女だと周囲の人間に思われていたのは仕方の無いことだ。けれど縁だけは違っていたのに。彼にだけは、本当のを知っていて欲しかったのに。
 何だか、何もかもがどうでも良くなってしまった。は本当に本気で縁のことを好きだったのに、縁と使っていたものをまだ持っているくらい好きだったのに、縁にとってのは金のためだけに一緒にいた女だったのだ。そう思ったら、乾いた笑いしか出てこない。
 可笑しくて可笑しくて、涙が出そうになった。でも縁の前では涙は見せない。
「そうね。あんたで最後にする」
 男と暮らすのは、縁で最後だ。多分もう、彼と同じくらい好きになれる男は現われないと思う。
「あんたも、賭け事はもうしないほうが良いわ。カードも碌に絞れない素人があんなに張ったら、今度は本当に文無しよ。バカラは実入りも大きいけど、無くなるのもあっという間なんだから」
 最初で最後の忠告を残して、は席を立った。
<あとがき>
 実は私、バカラのルールをよく知りません。カジノもアミューズメント型のやつは何度か行ったことがあるんですが、真剣勝負のカジノには行ったことが無いんで、雰囲気はイメージです。誰か私を本物のカジノに連れて行って(笑)。
 ブラックジャックとかポーカーとか賭けトランプは他にもありますが、バカラが一番描写が楽なんですよ。ルール知らなくても、ディーラーが勝手にゲーム進めてくれるしね。客はバンカー・プレーヤー・ドローのどれかにチップを張るだけで良いし。ただ、テーブルで一番張っちゃうと、縁みたいにカードを絞る(カードの端を一寸捲ること)羽目になるんで、初心者は控え目に賭けましょう。
 まあそれはともかくとして、このシリーズは次回で最終回です。何ていうか、暗い話はなかなか続かないですよ。やっぱりドリームはたまに笑いがないと駄目ですね。勉強になりました。
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