漣
漣 【さざなみ】 小さな心の揺れや争いごとのたとえ。
窯の温度で作品の出来が決まるから、一度火を入れたら付きっきりで火の番をしなければならない。ここで気を抜いたら焼きむらだのひび割れが出来て、これまでの苦労が水の泡だ。窯の温度を一気に上げ、更にそれを一定に保つために薪をくべ続けているうちに、いつの間にやら月が出ていた。釜の中と炎しか見ていなかったから、暗くなったのも気付かなかった。
一つのことに没頭すると時間を忘れてしまうのは、いつものことだ。完全無欠の天才の唯一の欠点だと比古も思う。
時間が経っていることに気付いたら、急に腹が減ってきた。考えてみたら昼にが持ってきた握り飯を食べてからは、ずっと飲まず食わずだったのだ。
とりあえず窯の中も落ち着いたことだし、少しくらいなら小屋に戻っても大丈夫だろう。この時間なら、夕飯も出来上がっているはずだ。
そう思って比古が立ち上がろうとしたと同時に、横から長い影が差した。
「先生、夕御飯持って来ましたよ」
そこにいたのは、盆に丼を載せただ。姿が見えないと思っていたら、小屋に戻って食事を作っていたらしい。
「お、丁度良いところに」
「外だから寒いと思ってうどんにしたんですけど、結構暖かいんですね、窯の前って」
自分も一緒に食べようと思っていたのか、は丼を二つ持ってきていた。一つを比古に渡すと、隣に座る。
以前はおかずを強引に握り飯に入れたのを出されていたのだが、最近はこうやってまともなものを出すようになったから比古も非常に助かる。どう考えても握り飯の具にするには無理があるだろうと思うものまで、平気な顔で入れていたのだ。もし今もあのままだったら、うどんも握り飯に入れていたかもしれない。
弟子は取らない、ずっと一人で良いと思っていたが、こうやって食事を持ってきてくれる人間がいるというのは便利なものだ。お陰で比古は陶芸に集中することが出来る。かといって、を正式に弟子にするのかと言われると、それはそれで困るのだが。
「だから冬にしかやらねぇんだよ。真夏にやったら干物になるぞ」
ずるずるとうどんを啜りながら、比古は応える。
「年がら年中そんな外套を着てるからですよ。前から思ってたんですけど、夏くらい脱いだらどうですか? 暑苦しいですよ」
「うるせえ。この外套にも、お前なんかにゃ理解できねぇ深ーい理由があんだよ」
暗に夏にもやれと言いたげなを、比古は一蹴した。
には言っていないことだが、この外套は飛天御剣流継承者の証なのだ。しかもただの証ではなく、錘を仕込んで常に筋肉を鍛えるという実用的な代物である。暑いからとか寒いからとかで脱ぎ着するものではない。
「深ーい理由ねぇ………」
何か含みがあるようにはくすっと笑ったが、それ以上は何も言わなかった。どうせ、中年太り隠しとくらいしか思っていないのだろう。にやにやしながら比古の腹辺りをチラ見しているから確実だ。
どうもは、陶芸以外のことについては比古を過小評価しているようだ。この超絶美形で天才をどうやったらそう思えるのか、比古は不思議でならない。こうやって人を見る目が無いから、出戻る羽目になったのではないかとさえ思う。
はうどんの汁を啜ると、大きく息を吐いた。
「ま、その外套にどういう理由があるかなんて、どうでもいいですけどね。
それより、前から訊きたかったんですけど、先生はどうして一人でこんな山奥に住むようになったんですか?」
「別に理由なんかねぇよ」
つまらなそうに応えて、比古は空になった丼を盆に置いた。
山奥に籠るようになったのに、理由なんか無い。強いて言えば、飛天御剣流を誰かに利用されないために世間との接触を断った、といったところか。しかし元来人間嫌いな性格なものだから、飛天御剣流が無くても遅かれ早かれこうなっていたとは思うが。
勿論、には飛天御剣流のことを言うつもりはない。彼女には関係の無いことだ。だから、このまま話を打ち切るように立ち上がった。
が、はそんな比古の外套を掴んで引き止める。
「理由も無く、こんな山奥でずっと一人淋しく暮らしてたんですか?」
「別に、ずっと一人だったわけじゃねぇよ」
が来るずっと前、幕末の頃には剣術の弟子と二人で暮らしていた。当時の弟子は子供だったから、養育と修行を同時進行でやっていたような感じだったが。
思えば比古は、弟子の運に恵まれていないような気がする。剣術の弟子は折角立派に育ててやったのに喧嘩別れのように去って行ったし、陶芸の弟子志望の女はこれである。こう言っては何だが、比古は弟子を取る星の下に生まれていないのかもしれない。
そんなことを考えていると、は興味を惹かれたように目を輝かせた。
「それって、女の人と暮らしてたってことですか? もしかしてその外套、その人との思い出の品だったりして」
「ばっ………んなわけねぇだろっ!! 男だ、男! 昔の弟子だ」
「先生、弟子取ってたんですかぁ?!」
真っ赤な顔をして全力で否定する比古の言葉に、は頓狂な声を上げた。
比古が弟子を取っていたなんて、には初耳だ。あんなに頑なに弟子は取らないと言っていたから、今までも弟子を取ったことなんか無いと思っていたのに。
何だか騙されていたような気分になって、はむっとした顔をする。
「前にも弟子がいたなら、私も弟子にしてくれたって良いじゃないですか」
「前ので懲りたから取らねぇんだよ」
またその話かと苛々しながら、比古は吐き捨てる。
と話していると、必ずこの話題に行き着く。毎度のことながら、本当にしつこい。此処に置いてやって、陶芸もやらせてやっているのだから、これだけで感謝しろと比古は思っているのに。
大体こういう女に教えてやっても、すぐに自己流で好き勝手に作るようになるのだ。そしてきっと、最終的には喧嘩別れして山を下りていく。完璧すぎる天才は、凡人と長く付き合うことは出来ないのだ。
「前の人と私は違います!」
「同じだよ。どうせまた喧嘩別れするに決まってる。ま、俺みたいな超絶天才とお前らみたいな凡人とは、住む世界が違うってこったな」
「そんなことないです。私、先生とだったら喧嘩別れしない自信ありますから」
の発言に、比古は不覚にもドキッとしてしまった。比古が相手だったらと限定してくるということは、ひょっとしては彼に対して特別な感情を抱いているということなのだろうか。
確かに自分のような非の打ち所の無い男と暮らしていたら、惚れない女がいるわけがない。日頃は何だかんだと文句を言ってばかりだが、それだって自分の気持ちに素直になれない可愛い女心というやつなのかもしれない。この女に“可愛い女心”なんてものがあるのかは甚だ疑問であるが。
しかしこの前、一寸皿の作り方を教えてやった時には、は年甲斐も無く顔を紅くしていた。必死に否定していたけれど、ああ見えて小娘のような可愛い一面があるのかもしれない。とはいえ、のような押しの強い女は比古の好みではないのだが。
「どうだかなぁ………」
口でなら何とでも言える。今はそう思っていても、先の方ではどうなるか分からないではないか。
反論しようと比古は振り返ったが、思いがけず真剣なの目に何も言えなくなってしまう。
月明かりを受けて蒼白く見えるの顔はひどく思い詰めているようで、そんな顔を見ていたら今度は本当に上手くやっていけるのではないかと一瞬思ってしまった。色々なことを覚悟して、今まで持っていたものを全て捨ててきたなら、修行の途中で袂を分かつこと無く比古の技を継いでくれるかもしれない。
もう一度だけ弟子を取ってみようか、とふと思った。剣も陶芸も、やってみようと思ったものは極めてきた比古だが、弟子を育てるということだけは挫折してしまった。天才には挫折は許されない。ここは一つ、を陶芸家として育て上げ、“師匠”も極めて―――――
うっかりとんでもないことを考え始めている自分の気付いて、比古ははっと我に返った。月の光は人を狂わせるというが、この超絶天才さえも危うく惑わされるところだった。
月の光のせいで思い詰めているような、殊勝な女に見えるが、中身はあのである。こんな顔も、騙しの一つに決まっている。そもそも、この女を此処に置く羽目になったのも、この大人しそうな顔に騙されてしまったからではないか。
比古は改めて気を入れ直すと、突き放すように冷ややかに言う。
「そうやって根拠も無く自信たっぷりに宣言する奴が一番信用できねぇよ。そんなこと出来るのは、俺様みたいな完全無欠の完璧人間だけだ」
「あら、根拠はありますよ」
は自信たっぷりににやりと笑う。
「だって、喧嘩別れするくらいだったら、とっくの昔に山を降りてますよ。今日まで先生の横暴に耐え忍べたってことは、これからも耐えられるってことです」
「てめぇ、いつ耐え忍んでんだ?」
耐え難きを耐え、忍び難きを忍んできたのは比古の方だ。はいつだって傍若無人に振舞ってきたではないか。彼女が今まで此処にいられたのは、辛抱強いのではなく図々しいからだ。
比古に睨まれても、は相変わらず涼しい顔をしている。やはりこの女はただ事ではなく図々しい。
「先生の知らないところで耐えてるんですよ。
ま、要するにアレですよ。私は前のお弟子さんみたいに先生を捨てたりなんかしませんから、心配しないで下さい」
ふふっと笑うと、は比古の背中をぽんと叩いた。
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜」
何と応えればいいのか、比古は苦虫を噛み潰したような顔をしてしまう。
何だかの言い方では、比古が別れを恐れて他人と関わらないようにしているみたいではないか。彼が他人と接触しないのは、そういう理由などではない。それ以前に、断じて弟子に捨てられたのではない。
の中でどういう風に比古の過去が作られているのか知りたくもないが、とんでもない誤解をされていることだけは確実だ。まったく、比古の気持ちを想像することは出来ないくせに、こういう想像力だけは逞しい。
もうどこから突っ込んで良いのか分からない。比古が黙って見下ろしていると、はにっこり微笑んで言った。
「先生もいつまでも若くないんだから、一緒にいる人がいた方が良いですよ。今だって、こうやって私が御飯を作ってあげてるから、陶芸に集中できるでしょ? 弟子はいた方が良いですって」
いちいち一言多い女である。が、が家事を全部引き受けているから比古が仕事に集中できているというのは、紛れもない事実だ。悔しいが、それは彼も認める。
しかし、だからといってを正式な弟子とするかと言われたら、話は別だ。傍目には既に弟子同然の彼女だが、比古の中ではただの居候である。それ以上には絶対にならない。
どうせ此処から動かないつもりなら、雑用係としてだったら置いてやっても良いような気もしてきた。弟子だと教えなくてはいけないから自分の仕事に支障が出るが、雑用係なら逆に仕事がはかどって大助かりだ。
弟子にしない弟子にしないと事ある毎に宣言しているから、も意地になって弟子になろうと頑張っているのかもしれない。少し譲歩して、雑用係にならしてやっても良いと言ったら、少しは大人しくなるのではないのだろうか。
自分が甘いというのは、比古も解っている。この甘さのせいで、前の弟子とも喧嘩別れのような結果になってしまったのかもしれない。
けれど、完全無欠の大天才にだって少しくらいの隙があっても良いではないか。あまりにも完璧すぎると、人間味が無くなってしまうというものだ。人間味の無い人間が作る作品なんて、他人を感動させる力も味も無い。
「まあ、雑用係はいた方が良いかもしれねぇな」
自分の甘さに比古が苦笑すると、も嬉しそうに微笑んだ。
夏の言葉なのに舞台は秋から初冬ってところが………。まあ、細かい突っ込みはしないで下さい。
さて、漸く師匠も陥落寸前? でもここまでだらだらと居座ってるんだから、もう陥落してるも同然なんですけどね。主人公さんも勝手に陶芸修行してますし。
“昔の弟子”の話題も出てきたことですし、一度新旧弟子対決もさせてみたいですね。新しい弟子が女、しかも師匠が押され気味ってなったら、“昔の弟子”もびっくりでしょうが(笑)。