和敬清寂
和敬清寂 【わけいせいじゃく】 心を和(なご)して相手を敬い、澄んだ清らかな心で静寂を愉しむ心映えのこと。
あんなに偉そうなことを言うのではなかったと、蒼紫はずっと後悔している。自分が出来ないことを相手に言うなんて、も不愉快になるに違いない。帰る時は普通にしていたが、蒼紫とは一言も口を利かなかったところを見ると、は多分怒っているのだろう。謝っておくべきかと迷ったが、下手に蒸し返すのも逆効果だろうと、結局蒼紫は何も言えなかった。それだけに、数日経った今でも気になって仕方がない。
「蒼紫」
帳簿を付ける手を止めて考え込んでいると、後ろから翁が声を掛けてきた。
振り返ると、翁は何か言いたげな顔をして畳に座る。どうせのことだろう。翁もまた、あれからのことを気にかけているのだ。
どうせまたの事を根掘り葉掘り訊くのだろうと思うと、蒼紫はそれだけでうんざりする。最近の翁との会話は9割方、彼女のことで占められているのだ。少しは放っておいてくれと言いたい。
「何だ?」
「さんのことじゃが―――――」
「そのことなら放っておいてくれ」
吐き捨てるようにそう言うと、蒼紫は帳簿付けに戻る。が、それに追いすがるように翁は言葉を続けた。
「折角手なんか握って良い感じになっておったのに、何をしとるんじゃ。お詫びがてら食事にでも誘って―――――」
「やはり見てたか」
不愉快そうに舌打ちをして、蒼紫は振り返る。
「だって儂ら、心配で心配で………」
しおらしい姿を見せているが、心配だなんて嘘だろう。微妙ににやにやしているところが、野次馬根性を隠しきれていない。
大体“儂ら”とは何だ。みんなで仲良く覗きをしていたのか。出歯亀は予想していたことだし、何となく視線も感じていたが、みんなで覗くというのはあんまりだろう。
あまりの非常識さに、蒼紫はくらくらしてきた。が気付いていなかったのが不幸中の幸いだ。気付かれていたら、激怒どころでは済まないだろう。
は郁の暴走で大変そうであるが、蒼紫も翁たちの野次馬根性にはうんざりである。どうして他人のことは放っておいてくれないのだろう。
「そんな心配より、やることがあるだろう。仕入れの件はどうした? 見積りが来ないと、他の予算が立てられない」
「ああ、それは明日にでも持って来させるから大丈夫じゃ。
それよりさんのことじゃが、お前の方からも誘ってみてはどうじゃ? いつも小倉さんに御膳立てしてもらっていては悪かろう」
折角話を逸らそうと思ったのに、翁はしつこい。周りが強引に御膳立てをしているとはいえ、何度も会う女はが初めてだったから、これは脈ありだと必死になっているのだろう。
しかし蒼紫にしてみれば、好いた惚れたで何度も会っているわけではない。似たような境遇でお互い大変だろうと、相憐れむような、同志のような、とにかく愛だの恋だのとは違う感情だ。だってそれは同じだろう。
のことは良い人だと思う。頑ななところはあるが、思いやり深いところもある。だが、『葵屋』一同が期待するような若女将の資質は全く無いのだ。そんな彼女と蒼紫が周りに期待されるような仲になったら、後々可哀想なことになってしまう。
若女将への期待もそうだが、それ以上にこの出歯亀どもが問題だ。二人きりの時にも誰かの目があるなんて、安心して話もできないではないか。は見世物ではない。
「それでまた監視するつもりか? そんなことをしていたら、さんに逃げられるぞ」
「だからこそ、こちらから誘うんじゃろうが。逃げられたくないんじゃろう?」
言質を取ったとばかりに、翁は勝ち誇ったようににやにや笑いながら迫ってきた。しまった、と蒼紫は口を押さえたが、もう遅い。
逃げられるというのは言葉の綾というか物の喩えであって、別に逃げられたくないと思っているわけではない。折角出来た縁なのだから、このまま続くのであれば続けばいいと思う程度だ。男と女として逃げられたくないという意味ではない。
が、翁は隠し持っていた便箋と封筒を持って、ぐいぐい迫ってくる。
「そうと決まれば善は急げじゃ。さあ、書け、書け」
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」
嵌められてしまったような強引な展開に、蒼紫は自分の軽率さを心の底から恨んでしまうのだった。
「こう言い方もアレですけど、四乃森さんも相当うかうかしてますよ」
蒼紫から事情説明を受けたの第一声が、これだった。
蒼紫から手紙が届いた時は、は心底びっくりした。『葵屋』の宿帳に書いていたから彼が住所を知っても不思議は無いのだが、まさか手紙が来るとは思わなかった。しかも中身が食事のお誘いだったのだから、二度びっくりである。
一体どういう心境の変化だろうと思ってやって来たら、実は翁に押し切られて書いたものだったとは。うっかりドキドキしてしまったのが馬鹿みたいである。勝手にドキドキしてしまったもだが、蒼紫ももう少し主体性を持てと説教したいくらいだ。
呆れたような冷ややかな目でに見られると、蒼紫は居た堪れなくなってしまう。彼女の言葉も反応も尤もなことだから、反論のしようが無い。
「反省してます」
「まったく、他人に押されて誘うなんて。前から思ってましたけど、少しは自分の意思を出したほうが良いですよ」
にここまで偉そうに説教されると、流石に蒼紫もむっとする。だって、郁に引き摺られて今日まで来ているではないか。そんな彼女に言われたくはない。
「他人に押されてって言いますけどね、俺だって一応、この前のことを一度会って謝らないといけないと思ってたんですよ。大体あなただって、毎回毎回小倉さんに押し切られてばっかりじゃないですか。そんな人に言われたくはない」
「あれは殆ど騙し討ちじゃないですか。断る断らない以前の話です。っていうか、謝らないといけないことって何ですか?」
蒼紫に謝られるようなことなんて、には思い当たることが無い。
不思議そうにに訊かれ、蒼紫は言葉に詰まった。あんなに悶々と悩んでいたのに、当の本人は忘れていたとは。これは今更蒸し返さないほうが良いのだろうか。
忘れているのなら、そのまま忘れたままにしてもらった方が良いかもしれない。下手に謝って思い出されたら、また面倒なことになりそうだ。
「忘れているなら、もういいです」
「良くないです。気になるじゃないですか」
「いや、思い出されてまた不愉快な思いをさせてはいけない」
「そうやって有耶無耶にされる方が不愉快です」
こういう会話が、は一番苛々する。自分に何か隠し事をされているというのは許せないのだ。
二年前だって、そうだった。男に何か隠されていると薄々感じてはいたけれど、何となく訊き出すことが出来なかった。そうやって、そのまま有耶無耶にしているうちに、違う女に乗り換えられてしまったのだ。
あれ以来、どんな小さな隠し事にも過剰に反応してしまう。何かを隠されていると思うだけで、相手の何もかもを信じられなくなってしまいそうになる。
目が充血するほど力一杯睨みつけられ、蒼紫はたじろいてしまう。大人しい女だと思っていたのに、こんな目をすることがあるとは意外だった。
「この前、偉そうなことを言ってしまったから、それを謝りたいと思ったんです。帰るまでずっと口を利かれなかったから、余程不愉快だったのかと思って」
「へ?」
気まずそうに告白する蒼紫の言葉を聞いて、は思わず頓狂な声を上げてしまった。
言われてみれば、そんなこともあったような気がする。けれどあの話はあの時で終わったと思っていたものだから、そんなに蒼紫が気にしているとは思いつきもしなかった。というより、あの時は逆切れのようになってしまったの方が悪いと思っていたのに。
翌朝喋らなかったのも、朝が弱くて頭が上手く回らないせいだ。ただぼんやりしていただけで、別に深い意味は無い。
にとってはいつもと変わらない朝のつもりだったのに、蒼紫にはそんな風に取られていたなんて。今更ながら恥ずかしくなってきた。
「や、あれは怒ってたわけじゃ………。私、朝が弱いんです………」
言っているうちにの顔は紅くなって、声も小さくなっていく。
その言葉に、今度は蒼紫の方がぽかんとしてしまった。
「じゃあ、怒ってたわけじゃなくて………」
「半分寝ぼけてただけで………すみませんっ!」
勢い良く頭を下げられ、蒼紫は益々唖然としてしまう。
ずっと気にしていたことが、全部誤解だったとは。不機嫌そうな顔でずっと黙っているから怒っていると思っていたのに、単なる低血圧のせいだと解ったら、一気に脱力してしまった。
まったく、何と紛らわしい女なのだろう。こんなことであれこれ悩んでいた自分が馬鹿みたいだ。
がっくりと脱力している蒼紫を見て、は弁解するように慌てて言葉を続ける。
「本当にすみません。まさかあんなことを気にしてるなんて思いもしなかったからっ………。ああ、もう、どうしよう。そうだ、お詫びの印に今日は私が出します」
申し訳ないやら恥ずかしいやらで一気にまくし立てた。
正直、蒼紫がそんなにのことを気にかけてくれているとは思っていなかった。の都合で仕方なく付き合っている程度にしか思っていなかったから、彼女の方は全然気にしていなかったのに。
たったそれだけの相手なのにこんなに気を使ってくれるなんて、なんて良い人なのだろう。こんな良い人にこんなに気を遣わせていたなんて、本当に自分が情けない。
「いや、誘ったのは俺ですから、俺が出します」
「駄目です! 私の気が済みませんから」
「女の人に出させたら、俺の気が済みません」
「そんなの関係無いですよ。本当に気にしなくて良いですから」
「いや、でも―――――」
反論しようとしたが、必死なの顔を見ていたら何を言っても無駄な気がしてきた。このまま延々と押し問答というのは、周りに人がいなくても見苦しい。
とはいえ女に出させるというのは、蒼紫としては非常に困る。彼にも一応、男としての立場というものがあるのだ。
「じゃあ、いつかもっと良い所を奢ってください。どうせ奢ってもらうなら、高い所が良いですから」
「はあ………」
上手く逃げられてしまった気がしないでもないが、穏やかに微笑んでそう言われると、はそれ以上言えなくなってしまう。納得したわけではないのだが、そのまま引き下がるしかないのだった。
「今日はご馳走様でした」
店を出て、はぺこりと頭を下げた。
「次は私がご馳走しますね」
「期待してます」
酒が入っているせいかは上機嫌で、そんな彼女を見ていると蒼紫も嬉しい。
奢ってもらわなくてもいいけれど、またと食事に行きたいと思う。蒼紫は下戸だが、酒の入ったは明るくてお喋りで、見ていて楽しいのだ。
「四乃森さん、何が好きですか? それに合わせてお店を探しますよ」
酔っているせいか、はいつになく積極的だ。すぐにでも店を決めてしまいそうな勢いである。
「今はまだ思いつきませんから、考えておきます。また手紙を書きますよ」
「次は翁さんに言われなくても書いてくださいね」
くすくす笑いながらからかうように言われ、蒼紫もばつが悪そうに苦笑した。
今回の手紙は翁に押されて書いたけれど、次からは当然自主的に書くつもりだ。翁たちに気付かれないように、こっそり書く必要があるけれど。
コソコソするのは不本意なことだが、秘密を持つのは楽しい。何かをしようと思ってわくわくするのは久し振りのことだ。
「便箋も封筒も、ちゃんと用意して書きます」
「よろしくお願いします」
おどけて頭を下げると、は弾けるように笑った。一頻り笑った後、笑い疲れたように大きく息を吐く。
「たまにはこういうのも良いですね。郁さんたちの計略に乗せられてるようなのが、一寸癪だけど」
蒼紫との食事は、本当に楽しかった。彼はあまり喋らなくて、の話を黙って聞いていることが多かったけれど、それでも不思議と退屈しなかった。きっと、他人の話を聴くのが上手な人なのだろう。
誰かに二人の席を用意されるのは鬱陶しくて嫌だけど、蒼紫が自分で誘ってくれるなら嬉しい。彼は優しくて、少しに似ているところもあって、だから一緒にいて安心できる。
蒼紫も同じように思ってくれていたら嬉しい。そう思って彼を見上げると、蒼紫も目元だけで小さく微笑んでいた。
「今日は暗いから家まで送りますよ」
「ありがとうございます」
蒼紫が微笑んでいるのが嬉しかったのか、送ってくれるのが嬉しいのか、酔っ払った頭では自分でも判らなかったけれど、もにっこり微笑んだ。
おお、やっとドリームらしくなってきました。これからは御膳立てしなくても二人で会ってくれそうです。これで郁さんも翁も私も一安心です。
この二人のことだから周りに隠れて会うことになるとは思いますが、雑音の無いところでお互いの気持ちを育んでいってくれると良いですねぇ。
まだまだラブラブへは程遠いですが、これからも見守ってやってください。