知音
知音 【ちいん】 かけがえのない無比の友。
最近になって急に冷え込んできたと思ったら、縁は風邪を引いてしまった。仮にも医者の助手が、流行する前に風邪にかかるなんて情けない。「うーん、なかなか熱下がらないわねぇ」
額の手拭いを取り替えて、が困ったように言う。
昨日の夜から熱冷ましを飲んでいるのだが、一時的には下がるものの、すぐに元に戻ってしまうのだ。去年の風邪にはすぐに効いたのに、今年はまた違う種類のものらしい。
「今日も往診があるんだろウ?」
少し掠れた声で、縁は申し訳なさそうに尋ねる。
いつもは重い往診鞄を縁が持っているのだが、今日ばかりはそういうわけにも行かない。医者の助手が患者に病気をうつしたとなったら、の信用に関わる。
「そうなのよ。休むわけにはいかないし………。縁、一人で大丈夫?」
今のところ、これ以上悪くなる様子は無いが、いつ容態が急変するか判らないのだ。縁は大人だから自分で何とか出来るだろうが、やはりは心配である。
「薬を飲んで寝てるだけだかラ、大丈夫」
「何だったら、『葵屋』の人に来てもらうようにお願いする? 誰かいてくれた方が安心でしょ?」
「呼ばなくてイイ!」
の提案に、縁は思わず飛び起きてしまった。が、すぐに頭がくらっとして、布団に倒れてしまう。
こんな時に蒼紫や操に来られたら、治るものも治らなくなってしまう。それどころか、余計に悪くなりそうだ。
何より、あの二人には借りを作りたくない。看病なんかされた日には、そのことを盾に今まで以上に干渉してくるに違いないのだ。
そんな縁の様子に、は遠慮していると誤解したのか、彼を安心させるように優しく説得する。
「私からも頼んであげるから。空いてる時間だけでもお願いしようよ。一人にしておくのは心配だわ」
「本当に大丈夫だかラ! 呼ばなくてイイ」
声を出すと頭に響くので、こめかみを押さえながら縁は全力で拒否する。
駄々っ子のような縁の様子に、は困ったように溜息をついた。が、これ以上押し問答をして彼を疲れさせるわけにもいかず、諦めたように言った。
「じゃあ御飯置いとくから、ちゃんと食べるのよ。何かあったら、お隣さんに声を掛けてね。一応、私も言っとくから」
「分かっタ」
隣人がどんな人間か知らないが、蒼紫たちよりはマシである。縁は素直に頷いた。
食欲は無いが食べないとが怒るから、縁はどうにか昼飯を押し込んだ。何か食べてから薬を飲まないと、胃を悪くするらしい。
普段は感じないものだが、出来合いのものというのは味が濃い。何だか胃がもたれてしまった。
夕飯もこんな感じかと思うと、一寸気が重い。のびっくり料理よりははるかにマシだが、それでも病身には辛いものだ。
こういう時のためにも粥の作り方くらい教えておくべきかな、と思う。いくらでも、米を研いで土鍋で炊くくらいは出来るだろう。味付けは食べるときに縁が塩を振るなり何なりすればいいのだから、失敗のしようが無い。
体調が回復したら、簡単な料理を教えることにしよう。下手糞だから、トンデモ料理を作るからと何もさせないでいたら、悪くなる一方だ。
もたれる胃に無理やり薬を流し込んで、縁は布団に戻った。
台所からカタカタと音が聞こえて、縁は目を醒ました。
いつの間にか帰ってきたが、なにやら作業をしている。耳を澄ますと何かを煮ているような音も聞こえてきて、どうやら料理をしているらしい。
縁が動けないから、自分で何とかしようと思ったのだろう。知識だけはあるから、風邪に効く料理を開発しようとしているのかもしれない。
そんなの気持ちは、縁も嬉しい。気持ちだけで留めておいてくれたら、もっと嬉しいのだが。
健康な時なら兎も角、こんな時にびっくり料理を食べさせられたら、下手をしたら命に関わりそうだ。大袈裟な表現ではなく、縁は切実にそう思う。の料理はある意味、生物破壊兵器なのだ。
明らかに解熱剤のせいではない汗を大量にかきながら、縁はどうやって危機を回避しようかと必死に考える。
と、縁の気配に気付いたが台所から顔を出した。
「今、用意してるから、もう一寸待っててね。『葵屋』さんからお粥の作り方を習ってきたのよ」
「あ…ああ………」
もの凄く不安であるが、『葵屋』で習ってきたのなら大丈夫だろうと思いたい。しかし、粥を作っているはずの台所からは、何か強烈な異臭が漂ってきているのだ。
異臭の発生源が粥ではないと信じたい。きっと縁のために煎じ薬を作ってくれているのだろう。そうに決まっている。
そう自分に言い聞かせるが、不安は拭いきれない。何だか心労で熱が上がりそうだ。
「お待たせ〜。特製お粥だよ」
が土鍋を持って台所から出てきた。きっと会心の出来なのだろう。笑顔が眩しい。
“特製”というのは、本来なら期待に胸を膨らませるべき単語だろう。しかしが使うと、何故これほどまでに恐ろしい言葉に変身してしまうのか。恐怖のあまり、縁は全身にじっとりと嫌な汗をかいてしまう。
“特製”なんかでなくて良いのである。が普通の白粥を作ってくれるのなら、縁はそれが何よりも嬉しいのだ。何事も、普通が一番良いのである。
が、が持ってきた土鍋からは、何とも言えない臭いが漂っている。やはりあの異臭の原因はこの粥だったのだ。
「体が温まるように、生姜を入れたの。大蒜も風邪には良いのよ」
はこの異臭を感じないのか、にこにこして鍋の蓋を開けた。
「ぐっ………!!」
湯気がむわっと立ち上り、それと同時に大蒜と生姜の強烈な臭いが部屋中に広がった。
病人にこの臭いは強烈だ。縁でなければ気絶していただろう。彼でも、どうにか踏ん張って正気を保っているような状態である。
「これ食べて、早く元気になってね」
半死半生の縁の様子には全く気付いていないらしい。は天女のような笑顔で粥をよそってやる。
生姜は体が温まって発汗作用があるし、大蒜も風邪に効くのかもしれないが、ものには限度があるだろう。粥にはぶつ切りにされた生姜と大蒜がゴロゴロ入っているのだ。これは確実に、生姜も大蒜も丸々一個使っている。
「一人で食べれる? ふーふーしてあげようか?」
そう言うと、は縁の返事を待たずに匙で粥をすくって、冷ましてやってから彼の口許に持っていってやる。
が食べさせてくれるなんて、子供みたいで恥ずかしいが、やはり嬉しい。食べさせてくれるのがまともな料理なら、もっと嬉しいのだが。
しかしが食べさせてくれるのなら、この奇天烈な粥も食べられるような気がしてきた。縁は清水の舞台から飛び降りるつもりで、差し出された匙を口に入れる。
「〜〜〜〜〜〜〜〜!!」
予想通り、かなり刺激的な味だった。吐き出さなかったことを褒めてやりたいくらいだ。
噛み締める度に生姜と大蒜独特の刺激臭が口一杯に広がり、鼻に突き抜ける。口の中もぴりぴりするし、とても病人食とは思えない味だ。健康体でもかなり破壊力のある味である。
しかし生姜のお陰か、あまりのまずさに体がびっくりしたせいか、全身から汗が噴き出してきた。味は兎も角として、が狙った効果は確実に現われている。
薬だと思って食べれば、食えないことはない。これはなりの薬膳なのだ。味など二の次でいいのである。
「どう? 美味しい?」
「凄く体が温まるヨ」
いくらの微笑みが巴に似ていても、嘘はつけない。あえて味については言及しない。
味は最悪だが、こうやって優しく食べさせてくれるのだから、それで縁には十分だ。これ以上望んだら罰が当たる。
しかしこんなものでも慣れてしまえるもので、そのうち刺激も感じなくなってきた。あまりに凄まじい味のせいで、したが感じることを拒否してしまったのかもしれない。
「ごめんください」
あと少しで完食というところで、玄関から男の声がした。
「はーい!」
茶碗を置くと、はぱたぱたと出て行った。
「あらぁ、四乃森さん」
玄関から聞こえてきた声に、縁はぎくりとする。蒼紫が来るなんて、一体何をしに来たのだろう。
少し話し合う声が続いて、が戻ってきた。
「縁、四乃森さんがお見舞いに来てくださったわよ」
「思ったより元気そうだな」
果物籠を抱えた蒼紫が、の後ろから入ってきた。
「これは『葵屋』全員からだ。果物は風邪に良いらしい」
「アリガトウ………」
蒼紫が一人で来たのを不審に思いながら、縁はぎこちなく礼を言う。
が茶を入れるために台所へ引っ込んだところで、蒼紫が布団の横に座って言った。
「白と黒が心配していてな。教えた通りに粥を作っているか見てきてくれと言われたんだが―――――これ、食ったのか?」
茶碗に少し残っている粥をちらりと見て、信じられないように尋ねる。
生姜と大蒜の塊がのぞいている粥は、『葵屋』で教えたものとは全くの別物だ。には確か白粥を教えていたはずなのだが、どうしてこんなものが出来たのだろう。
そういえば、白粥は基本だから、これに好きな具を入れれば味も良くなると、二人が教えていたような気がする。普通、卵か梅干を入れるものと思っていたのだが―――――
「これ、食ってみても良いか?」
純粋な好奇心で蒼紫が訊くと、縁は無言で頷いた。
冷めているから幾分弱まっているが、それでも刺激臭が鼻をつく。これは絶対にまずいと思いながら、蒼紫は思い切って口に入れた。
「うっ………!」
かっと目を見開いて、蒼紫は口を押さえる。吐き出すのは流石に悪いと思ったか、額に脂汗を滲ませながら気合で飲み込んだ。
「お前、これ、本当に全部食ったのか?」
健康な蒼紫でも刺激的な味なのに、病人の縁が土鍋の中の全部を食べたなんて、信じられない。
が、縁は無言で頷いた。
「凄いな、お前………」
蒼紫は心の底から感心する。いくらのことが好きだとはいえ、これをほぼ完食できるなんて凄い。これが愛の力というものなのだろうか。
しかしいくら愛があっても、こんなものを食べていたら病気が悪化してしまう。
「まずいものはまずいと言った方が良いぞ」
蒼紫の忠告に、縁は無言で首を振る。よく見ると心なしか涙目になっているのは、多分熱のせいだけではない。
言わなければに伝わらないが、好きだから本当のことが言えないのだろう。好きな女を喜ばせるためにじっと耐えるとは、健気な男である。
縁の愛の深さに、蒼紫は深く感動した。感動のあまり、縁の肩にぽんと手を置く。
「お前が言えないなら、白と黒からそれとなく言わせよう。病気の度にこんなものを食わされたら、余計に悪くするぞ」
のことが好きなのは解るが、我慢し続けるのは良くない。縁が言えないのなら、周りが守ってやらなくては。
蒼紫の優しい心遣いに、縁も強く心を打たれたらしい。飼い主を頼る子犬のような目で蒼紫を見た。
「お前、使えない奴だと思ってたけド、良い奴だったんだナ。ありがとウ」
「………何気に失礼な物言いだが、今回は病気に免じて許してやる。
明日からは食い物を持ってきてやるから、養生しろよ」
そう言いながら、こんな女のどこが良いのだろうと、蒼紫は深く悩むのだった。
怪我の功名というか、縁も真の友情(笑)に目覚めてくれたようです。微妙に失礼発言なのも、心を許してる証拠なんですよ、きっと。
しかし縁、あんなお粥を食べるなんて漢(おとこ)だな。ぶつ切りの生姜なんて食べたことないんですが、多分爆裂にまずいと思います。薬味はちょこっとだから美味しいんですよね。『縁の苦悩』の時もそうだけど、味見しないのかな、主人公さん。
大蒜が風邪に良いっていうのは、『源氏物語』の中で「風邪を引いたので大蒜を食べた」というくだりがあったんで書いたんですが、実際のところどうなんでしょう? 葱を首に巻くと良い、というのも聞いたことがあるんですが。臭くて眠れなさそうだけど。