終夜
終夜 【よもすがら】 夜通しずっと。
家にいると余計なことを考えてしまうから、は現実から逃げるように夜毎夜会を渡り歩いている。華やかな夜会に出席していれば、その間だけはいつか来る別れのことを忘れることが出来る。昔はが独りで出歩くことを嫌っていた縁だが、今はもう何も言わない。別れる女が何処で何をしていようと、もう関心が無いのだろう。連日のように明け方に帰ってきても、完全無視を決め込んでいる。
束縛されていた頃は自由な生活が恋しくて喧嘩ばかりしていただが、ここまで野放しにされると今度はそれが腹立たしくなるのだから不思議なものだ。あの頃はあんなに欲しかった自由が、こんなにも切ないものだとは思わなかった。
「あら、じゃないの」
部屋の隅のソファでぼんやりしていたに、群青色のドレスを着た女が声を掛けてきた。
「ママ………」
声を掛けてきたのは、が昔働いていた店の女主人だ。彼女を上海一のダンサーに育て上げ、縁に引き合わせてくれた恩人でもある。
女の容貌は、様々な人種が行き交う上海そのものだ。黒い髪に青い瞳、そして浅黒い肌は一体幾つの人種の血が混じっているのだろうと、は昔から不思議に思っていた。そしてそれ以上に不思議なのは、彼女の歳だ。既に五十に手が届くと聞くのに、まだ三十代にしか見えない。
久々に会う懐かしい顔に、の唇が思わず綻んだ。
「お久し振りです。相変わらずお若くて羨ましいわ」
「そりゃあ、お金をかけてるもの。当然だわ」
女主人はころころと笑うと、の隣に座った。そして急に心配そうに顔を覗き込んできて、
「あなたは萎れちゃってるみたいよ。どうしたの? あの若白髪のボスとうまくいってないの?」
「そんなこと―――――」
は即座に否定しようとしたが、女主人の顔を見て言葉を飲み込んでしまった。
この人は何もかも気付いている。否、此処にいる誰もがと縁のことを知っているのかもしれない。この世界は、が思っている以上に狭いのだ。
今まで常に一緒に行動していた二人が突然別行動を始めたら、それを奇妙に思わないものはいない。特に縁のに対する束縛ぶりは、一時は裏社交界の話題になるほどのものだったのだ。店を辞めさせて屋敷に閉じ込め、外出する時は常に縁が付き添っていたというのに、それが突然無くなったとなったら、それが噂にならないわけがない。
知らぬ者がいないほどの有名人というのは、都合の良い時はこれほど良いものは無いが、こういう時は困りものだ。思わず溜息が出てしまう。
「ねえ、またお店で働かせてもらえないかしら。昔のようにとはいかないだろうけど、まだ稼げると思うんだけど」
縁と別れるとなったら、また働かなければ生活ができなくなってしまう。一度身に付いた贅沢な生活は、そう簡単には変えられない。店に出て、縁の代わりになる男を探さなくては。
の言葉に、女主人は驚いたように目を瞠った。
「本当に別れるつもりなの?」
「ええ、近いうちにね。でも暫く内緒にしておいて。決着を着けるまで、まだ誰にも知られたくないの」
別れはもう避けられないけれど、自分が捨てられると思われたくはない。皆が何と噂をしているか知らないが、が捨てられるということがあってはならないのだ。
は傲然と顔を上げ、女王のように微笑んだ。
いつもより早く切り上げて屋敷に戻ると、まだ縁は起きていた。日付は変わっているとはいえ、何も無い夜に酒も飲まずに起きているなんて珍しい。
「早かったナ」
の外出に何も言わなくなったとはいえ、連日の夜遊びはやはり面白くないのか、縁は憮然としている。
この時間に帰ってきて“早い”とは、皮肉のつもりなのだろうか。けれど、壊れつつある関係には、そんな皮肉など痛くも痒くもない。
は毛皮のコートを脱ぎながら、喉の奥で低く笑う。
「毎日明け方まで遊ぶのも、お肌に悪いでしょ。貴方こそ、こんな時間まで起きてるなんて珍しいわね」
「ああ。誰かサンの御帰館が遅いせイで、寝かせてもらえなかっタんでネ」
「誰も待ってろなんて言ってないわ」
皮肉も嫌味も一蹴するようなの冷ややかな言い草に、縁は溜息交じりの苦笑を漏らす。
こういう自分勝手で高飛車なところが腹立たしかったり、逆に面白いと思っていた頃もあった。上海一の女が驕慢に振舞うことは当然で、そしてそういう女こそが上海一の武器商人の情婦に相応しい。だから縁は、どんな時も女王然と振舞うを許し続けてきたのだ。
思い返してみれば、3年も共に過ごしていたというのに、弱ったの姿を見たことが無い。何度も激しい喧嘩をしたけれど、手が付けられないほどの癇癪を起こすことはあっても、彼女が涙を見せることは一度も無かった。は強い女なのだろう。縁がいなくても独りで生きていけるような。
否、別れる時は流石に泣くかもしれない。だって女だ。薄々は気付いているようだが、それでも別れ話を切り出されたら少し泣くかもしれない。が泣いた時、縁は平静を保つことが出来るだろうか。
緊張で口の中が乾いていくのを感じながら、縁は静かに切り出した。
「話がアル」
来た、とは一瞬だけ緊張した。が、縁に悟られる前に平静を取り繕い、サイドボードから飲みたくもないブランデーの瓶を取る。
何も気付いていない振りはしているが、縁にはどう見えているのだろう。動揺していることは絶対に悟られたくない。
ブランデーを注ぎ始めるを見て、縁はあからさまに不機嫌な顔をする。
「大事な話ダ。飲むんじゃなイ」
「これくらいじゃ酔わないわ」
縁に見せ付けるように、は一息にブランデーを流し込んだ。そんな姿を見て、縁は呆れた顔で溜息をつく。
結局この女は、最後の最後まで縁の言うことを聞かなかった。唯一つ、外出の時は縁と一緒に、ということを除いては。それさえも最近は破られてしまっているのだが。
しかしそんなところも、らしいといえばらしい。最後にしおらしく縁に従う姿を見せられたら、折角の決心が鈍ったかもしれないのだ。いつもと変わらぬ姿に、縁はいくらか気が楽になった。
別れを決意してから今日まで、いつ切り出そうかとずっと迷っていた。は縁を避けるように毎日遊び歩いて、こうやって二人きりの時間を持つことさえできなかったのだ。先送りにすればするほど言い出しにくくなり、周りにも妙な噂が広がっていく。先延ばしも今夜で限界だ。
縁は大きく息を吐くと、ずっと頭の中で練習していたことをなぞるように感情の無い声で言った。
「別れよウ」
「………そう」
青ざめていないか、声が震えていないか、はそれだけが気になっていた。別れ話を切り出されて動揺するなんて、そんなみっともないところを縁には見せたくない。
どうにか震えずにいられるが、その後の言葉が出ない。体がどんどん冷えていくのを感じて、は空のグラスにブランデーを注いだ。
縁がを見ていないのは幸いだった。男というものは別れ話の時に相手を見ないと聞いていたけれど、彼もそうらしい。話に聞いていた時は、大事な話をする時に相手を見ないなんて卑怯だと思っていたけれど、実際自分が言われる立場になると、これが男の無意識の最後の優しさなのかなとも思う。別れを切り出された瞬間の顔は、見られたいものではない。
他人事のようにごちゃごちゃ考えるのは現実逃避だな、とは心の中で自嘲した。この瞬間のためにずっと心の準備をしていたはずなのに、やはり傷付くことは避けられないということか。
相変わらずを見ないまま、縁は一方的に話を続ける。
「俺個人の財産は全部お前にやル。この屋敷も、このまま住むなリ処分するなリ好きにすればイイ」
それがの“値段”ということらしい。それが上海一の女の対価として高いのか安いのか判断に迷うところだが、手切れ金としては破格の額だ。今以上の贅沢を望まなければ、一生遊んで暮らしていける。
しかし全財産をに渡してしまうというのなら、縁はこれからどうするつもりなのだろう。彼にはまだ組織があるとはいえ、それを彼個人のために使うのは黒星が黙ってはいないだろう。
けれどそんなことにはは気付かない振りをする。訊いたところで、縁は答えたりしないだろう。この瞬間からもう、二人は何の関係も無くなってしまったのだから。
代わりに、は出来るだけ冷ややかな声で尋ねる。
「貴方はいつ出て行くの?」
「明日には出て行ク」
「解った。じゃあ、もう遅いから寝るわ。
あ、それと、ベッドは客室のを使って頂戴。此処はもう貴方の家じゃないんだから」
グラスに残った琥珀色の液体を飲み干すと、は毛皮のコートを掴んで部屋を出て行った。
3年も一緒にいたのに、終わるのは5分もかからなかった。別れというのはそういうものなのかもしれない。
コートもドレスも床に脱ぎ散らかして、は下着姿のままベッドに倒れこんだ。
3年もの間、このベッドの上で色々なことがあった。激しく愛し合ったり、穏やかに眠りに就いたり、口汚く罵り合ったこともある。どんな夜も、この広いベッドで二人で眠っていた。けれど今夜からは、ずっと独りだ。
二人の時は全く感じなかったけれど、独りになるとこのベッドは途方も無く広い。天蓋付きの豪奢な作りなのに、それが何とも寒々しく感じられた。
初めて此処に寝かされた時は嬉しくて嬉しくて天にも上る心地だったのに、今はどうだろう。こんな夜が来るとは思ってもみなかった。
「…………………っ」
声が漏れそうになって、は慌てて枕に顔を埋める。
たかだか男と別れたくらいで泣いたりなんかしないと決めていたけれど、今夜だけは泣くことを許そうと思う。が男のために泣くのは、今夜が最初で最後だ。
一晩中泣いたら、きっとまたいつもの自分に戻ることが出来る。そしたらいつもと同じ顔で縁を送り出し、このベッドも捨ててしまおう。家も全部改装して、彼がいた形跡を綺麗に消してしまおう。そうすれば今夜のことは全部忘れられるはずだ。
朝が来るまで、まだ時間はある。そして、縁が眠る客室は此処から遠い。使用人たちだって、朝までこの部屋には近付いたりしない。
今まで胸につかえていたものを洗い流すように、は心ゆくまで泣き続けた。
別れ前提ドリーム第二話です。“別れ”をメインに書くっていうのが今まで無かったんで、オチをどうしようかとただ今悩み中。連載ドリームもそうですが、どんなに暗くても泥沼でも、希望のある終わり方っていうのが基本方針なんで、一応ご安心ください。
年上の彼女シリーズと較べると別人な縁なんですが、こういう彼は如何なものでしょう? もう正反対すぎて、同じキャラをモデルにしているとは思えない出来になってしまっていますが(汗)。
このドリームはあと2〜3話くらいで終わりそうな感じです。暗い話って、なかなか長続きしませんよ。書いてる人間がコレですから(笑)。
それではあと少しだけお付き合いをお願いいたします。