空の雫

空の雫 【そらのしずく】 涙。
 本日の往診は、貿易商の邸宅である。此処に行くと、帰りに必ず輸入菓子や珍しい食材を手土産に貰えるので、だけではなく縁も大好きな顧客だ。蟹の缶詰や燻製牡蠣の缶詰を貰った時は、縁もこの顧客は大好きだと思った。ちなみには、チョコレートを貰った時に大好きだと思ったらしい。
 今日は何を貰えるだろうと期待に胸を膨らませて、二人は貿易商宅を訪問した。が、いつもはすぐに部屋に通されるのだが、今日は生憎先客がいるらしい。先客が帰るまで、応接室で待たされることになった。
 女中の話によると、先客は漢方医らしい。西洋医学を取り入れているに健康診断をさせながら、漢方薬で体質改善もしているのだそうだ。いくら金持ちとはいえ、健康維持にかける費用はただ事ではない。一体幾つまで生きるつもりなのだろうと、縁は呆れてしまう。
「衣食足りて礼節を知ったら、今度は不老不死を望むようになるのよ。何処も悪くないのに定期的に医者を呼んでより健康になろうなんて、それだけ余裕のある生活をしてるってこと。結構なことじゃない」
 出された紅茶を飲みながら、は上機嫌に言う。
 定期健診だけの客は、手間もかからず薬も出さず、おまけに食事や手土産を出してくれる上客だ。落人群での無料診療も、彼らのお陰で成り立っているといっても良い。彼らはの活動の間接的な支援者なのだ。
「余裕はあるだろうナ。何しろ英吉利製の紅茶に茶菓子ダ。貧乏人には食えなイ」
 クッキーをバリバリ食べながら、縁は言う。最初は遠慮して紅茶にも手を出していなかった彼だが、の影響で逞しくなったのか、今では高い菓子には遠慮無く手を出すようになっている。
 も負けじとクッキーとつまみながら、
「ほんと、あるところにはあるもんよねぇ。これ、お土産にくれないかなあ」
「俺は蟹の缶詰がイイ」
「あー、蟹も良いねぇ。あ、牡蠣の方が良いかも。おつまみになるし」
 図々しい客人二人が好き勝手なことを言い合っていると、ノックの音がして女中が入ってきた。その途端、二人とも同時に黙り込んでしまう。二人だけの時は図々しさ全開だが、人前では一応常識的な医者と助手なのだ。
 営業用の笑顔で女中を迎えようとしただったが、すぐにその笑顔が消えてしまった。女中の後ろに、先客の漢方医らしい男が立っていたのだ。
 商売敵とはいえ分野は違うのだから愛想笑いくらいしろ、と縁は突っ込みかけたが、どうも様子がおかしい。思いがけず知り合いに会ってしまったような感じだ。
 しかし知り合いなら、愛想笑いどころか本気笑いで対応しそうなものである。は縁の何十倍も社交的な女なのだ。ということは、この男は関わり合いたくない知り合いなのだろうか。
 固まっているに、男は困ったような苦笑いを浮かべる。
「君が来ていると聞いたから、一寸昔話でもしたいと思ってたんだけど………迷惑だったかな?」
「迷惑……じゃないけど………」
 そう言いながらも、は明らかに困った顔をしている。縁にはよく解らないが、どうやら昔何かあった男らしい。
 改めて男を見る。歳はと同じくらいか、少し年上だろうか。縁より背が高くて、顔はまあ人並みといったところか。職業柄か、少し神経質そうな感じがした。
 まさかとは思うが、“昔の男”というやつなのだろうか。もいい歳なのだから、そういう男がいても不思議は無いが、もしそうだとしたら縁は非常に居心地が悪い。そうでなくても、今の時点でかなり居心地は悪いのだが。
 探るような目でじっと見詰めている縁に気付いて、男は場の雰囲気を変えようとするような妙に明るい声で尋ねた。
「彼は? 助手?」
「助手っていうか………。一緒に住んでるの。まあ、仕事も手伝ってもらってるけど」
 一緒に住んでるなんて、わざわざ言うことでもないだろうと縁は思ったが、何となく黙っている。言わなくても良いようなことをが口走るのは珍しいことではないが、でも今の言い方は変だ。
 やっぱり昔の男なんだ、と縁は確信した。そう思うと、普通に喋っている男の様子も馴れ馴れしすぎるように見えてくる。終わった仲なのだから、顔も見せずにひっそりと帰れば良いものを。ひょっとして、元鞘狙いなのだろうか。
 未練たらしい男は見苦しい。今のには、縁がいるのである。彼女がどう思っているかは微妙なところだが、一緒に住んでいるのだから、縁のことは特別な存在だとは思っているはずだ。
 敵意に満ちた縁の目を見て、男はまた困ったように小さく笑う。そしてを見て、
「診療が終わったら、少し話をしないか? 折角久々に会ったんだ。話したいことも色々あるし」
「そうね、少しくらいなら………」
 珍しく相手に押し切られるような形で、は応えた。





 あの男が何者なのか訊けないまま診療が終わり、縁は外で待たされている。男は同席しても良いと言ったのだが、に外で待っていろと言われたのだ。
 応接室の窓の方をちらりと見て、縁は小さく溜息をついた。すぐ戻ると言ったくせに、あれから10分以上過ぎている。は乗り気ではない様子だったが、思いがけず話が弾んでいるのだろうか。
 あの部屋でどんな話をしているのか、気になって気になって覗きに行こうかと何度も思ったが、そんなことをすればを怒らせてしまうから我慢している。しかし我慢すればするほど色々な妄想が広がって苛々してしまい、まるで犬のように玄関前をうろうろして不審者のようになってしまう。
「縁、何やってるの?」
 玄関から出てきたが、きょとんとした声を上げた。
「あ、いや………」
 見苦しいところを見られ、縁は顔を赤くして口籠もる。のことが心配で苛々していたなんて、口が裂けても言えない。
 の隣には、あの男が立っていた。相変わらず困ったような顔をしていて、もしかしたら困ったような顔が地顔なのかもしれない。
「じゃあ、俺はこれで………」
「うん………」
 縁の存在が気になるのか、男はそれだけ言うとそそくさと帰っていった。
 男の姿が見えなくなっても、何となく気まずい雰囲気は消えない。縁が素直に訊けば空気も変わるのかもしれないが、触れてはいけないことのような気がして何も言えなくなってしまう。
 黙り込んだまま、が歩き始める。縁も慌ててその後を追った。
 暫く黙ったまま歩き続け、屋敷が見えなくなったところで漸くの方から口を開いた。
「さっきの人ね、父の弟子だった人なの」
「そうなんダ」
 の言葉を鵜呑みにするほど、縁も鈍い男ではない。父親の弟子というのは本当だろうが、それだけの関係ではないということくらい、雰囲気で解る。
 もそれに気付いたのか、大きく息を吐いて思い切ったように静かに言った。
「結婚の約束をしてたんだけどね。まあ、お流れになっちゃったんだけど」
「ああ………」
 予想通りのことだったので、縁は大して驚きはしなかった。何故結婚話が流れてしまったのかも、何となく解る。大方、父親が残した借金に怖気づいて逃げ出したのだろう。
 一旦は逃げ出したくせに、今更に近付こうとするなんて、一体何を考えているのだろう。金持ちの客を抱えるようになって、残された借金が少なくなったと思って縒りを戻す気になったのだろうか。だとしたら、卑怯な男である。
 自分の想像に縁が静かに腹を立てていると、が続けて言った。
「だって、借金持ちの親がいる女と結婚するなんて、可哀想でしょ。あの人もまだ若かったし、返済に追われて勉強ができなくなっちゃったら、あの人の人生まで潰しちゃうもの。だから別れたの」
「………………………」
 あの男を庇うようなの口調に、縁は何も言えなくなってしまう。
 “可哀想”なんて、まだあの男のことが好きなのだろうか。嫌いになったわけでも逃げられたわけでもなく、彼女の方から身を引いたのだから、割り切ってしまったとしても未練は残っているのかもしれない。
 そうなると、ますますあの応接室での会話が気になる。も男も一人前の医者になって金持ちの顧客を抱えるようになったのだから縒りを戻そうなどという話し合いをしていたとしたら、縁は圧倒的に不利な立場になってしまうではないか。
「借金がなくなったラ、あの男と縒りを戻すのカ?」
 思わず訊いてしまった後、縁は後悔した。縒りを戻すとか戻さないとか、彼が口を出せることではない。と一緒に暮らして一緒に仕事をして、彼女のことは好きだが、縁はただの“同居人”であり“使用人”なのだ。の人生に口出しを出来る立場ではない。
 では、口出しが出来るように、今すぐ「好きだ」と言ってしまえばどうだろう。好きだから縒りを戻すなと訴えたら、も考えてくれるだろうか。
 けれど今告白したら、が困ってしまうかもしれない。昔の男に縒りを戻そうと言われたとしたら当然迷うだろうし、その上に縁が告白したら、もっと悩んでしまうだろう。日頃があまり考えない女なだけに、一度に色々なことを悩ませたら混乱して知恵熱を出してしまいそうだ。
「イ……イヤ、一寸気になっただけだかラ、今のはナシ! 気にするナ!」
「縒りは……戻さないよ」
 慌てて質問を撤回しようとする縁に、は別人かと思うくらい沈んだ声で応えた。
「戻せないよ。だってあの人、結婚したって………」
 そこまで言ったところで、は声を詰まらせる。その目から大粒の涙が零れ落ち、即座に口を覆った。
 初めてのの涙に、縁は唖然として声も出ない。いつも明るく笑っているが泣くなんて、涙を見た今も信じられない。
 こういう時、気の利いた言葉の一つも掛けてやるべきなのだろうが、の涙に混乱している縁には何も思い浮かばない。下手に何か言ったら、逆に傷口に塩を塗りこめてしまいそうだ。今の縁だったら、確実にやらかしてしまう。
 と、呆然としている縁の手から、は薬箱を奪い取った。
「ごめ……独りにさせて」
 消え入るような声でそれだけ言い残すと、は縁の方を見もせずに駆け出した。





 独りにさせてと言われたからには、暫くは家には戻れない。かといって日頃から遊び歩く習慣の無い縁には行くあてがあるはずもなく―――――
「で、うちに来たというわけか」
 縁の非常事態だというのに、蒼紫は相変わらずつまらなそうな無表情だ。剣心に頼まれたから、と余計な世話を焼くくらいなら、こういう時こそ世話を焼けと縁は思う。
 この町で長々と時間を潰せる場所は、不本意ながら『葵屋』しかないのだ。蒼紫も面倒臭そうにしているが、縁だって好き好んで此処に来たわけではない。此処に来ると、鬱陶しいイタチ娘がもれなく付いてくるのだから。
「先生にそんな人がいたなんてねぇ。一寸意外………」
 茶を出しに来たお増とかいう使用人が、心底驚いたように呟いた。どうやらは、縁以外の人間から見ても男の気配を感じさせない女らしい。
 それは兎も角、操が同席するのは想定内だったが、何故使用人たちまで同席しているのか。暇な時間帯なのかもしれないが、お近にお増、黒尉、白尉と4人も同席しているというのは、どう考えてもおかしい。
「何で外野が増えてるんダ?」
 部屋にいる面子をじろりと見回して、縁は不機嫌に尋ねる。それに対して操は明るく、
「こういう時は、皆で考えた方が良い知恵が出るでしょ? 非常事態なんだから」
 非常事態と言いつつ、操は楽しそうだ。縁が自ら『葵屋』に出向いたことで、彼が操たちを頼ってきたと思っているらしい。縁は時間潰しに来ただけで、頼ってなんかいないのだが。
 大体、この連中を頼ったりなんかしたら、余計に悪い方へ進んでしまいそうだ。何しろ操の知恵の出所はご都合主義の大衆小説、蒼紫に至っては(恐らく)経験値ゼロで助言すら無いのだ。こんな奴らを頼るくらいなら、縁が無い知恵を絞った方がいくらかマシである。
 それまで腕を組んで考えていた黒尉が、思いついたように言った。
「失恋直後の女は落としやすいっていうから、優しくしたらイチコロじゃないかなあ。これは非常事態じゃなくて、絶好の機会だよ」
「それは言えてるよな。旨いものを食わせて話を聞いてやるっていうのが良くないか? 聞き役に徹したら、ボロも出ないだろ」
「それイイ! 二人とも頭良いナ」
 黒尉と白尉の意見に、縁は勢い良く食いつく。
 二人の言う通り、これは絶好の機会なのだ。弱味に付け込むような気がしないでもないが、これが本気の恋になれば多少のズルも帳消しだ。
 悲しみや苦しみに共感しているうちに恋に発展するなんて、よくある話ではないか。よくある話ということは、皆がやっているということである。皆がやっているなら、それは正攻法だ。
「こういう使える知恵を求めてたんだヨ! 最初からアナタたちに相談すれば良かっタ」
 二人の手を取らんばかりに、縁は感激する。呼びかけも“お前”ではなく“アナタ”である。これだけでも縁のただならぬ感激ぶりは判るだろう。
 縁の異常な感激ぶりに黒尉も白尉も微妙に引きかけたが、ここまで喜ばれると悪い気はしない。しかしこんな常套手段でここまで感激されるなんて、蒼紫と操は今までどんな助言をしてきたのだろうと不思議に思う。
 どうやらこの作戦は縁が気に入ったようなので、お近が横から提案する。
「それなら、うちの料理を持って帰れば良いわ。そうだ、先生、お酒も好きだから秘蔵の大吟醸も持って行きなさいな。お酒を飲んだら、きっと話も弾むわよ」
「ありがとウ! 本当にアリガトウ!!」
 何だか、初めて応援されている気分だ。旨い料理と旨い酒があれば、もきっといつもの元気を取り戻してくれる。おまけに黒尉と白尉の言う通りにすれば、彼女の心も戴けるという算段だ。こんな完璧な作戦が他にあるだろうか。
 外野が増えて鬱陶しいと思っていたが、大きな間違いだった。人が増えればそれだけ良い知恵も出てくる。どうして今までそれに気付かなかったのだろう。
 既に大成功の気分になって、縁は幸せに浸るのだった。





 「がんばってね」の言葉と共に持たされた『葵屋』特製御重と大吟醸を持ち帰り、縁はうきうきと玄関を開ける。
 特製御重は一寸覗かせてもらったが、本職が作るだけあって豪華で美味しそうなものだった。持たされた酒も、本当は特別な常連客にしか出さない希少な美酒なのだという。食べるのも飲むのも好きなのことだから、これを見ただけでも大喜びするはずだ。そして縁の気遣いに感激して、あんな男のことは綺麗に忘れ去ってくれるだろう。
 ところが―――――
「お帰りー!」
 出迎えたはいつも通りの笑顔だったのだ。まだ泣いていると思っていたのに、一体どうしたことなのだろう。
 予想外のことに唖然として立ち尽くす縁に、は明るく言葉を続ける。
「さっきはごめんねー。もう大丈夫だから。
 あれ? それ何?」
「あ……え…っと、『葵屋』で貰ってきタ。美味しいものを食べたら元気になるかと思っテ………」
 の勢いに圧倒され、縁はしどろもどろになりながら答える。
 その答えに、の顔がぱあっと明るくなった。そして感激したように頬を紅潮させて、
「ありがとう、縁! じゃあ、早速いただきましょ」
と、縁の手から重箱と酒を取り、ぱたぱたと部屋に入っていく。
 泣いていたのが笑顔になったのは、縁も嬉しい。きっとは大人なだけあって、泣くのも笑うのも上手に出来るのだろう。自分の中で全ての感情を処理できるというのは、尊敬できる部分だと思う。
 しかし、縁が入り込む隙も無いくらい自己完結してしまうというのは、作戦上困ってしまう。男としては、少しくらい自分に弱味を見せて頼って欲しい。まあ、が元気になってくれたのなら、それで良いのだが。

<姉サン、どうすれバ………>

 絶対上手くいくと思っていた作戦をいきなり潰され、縁は深い溜息をついた。





 後日、『葵屋』に重箱を返すついでに作戦の失敗を伝えたところ、蒼紫から「弱っていないのなら、今度は確実に弱らせてみてはどうか」と提案された。やっぱりこの男は使えない。こいつにだけは絶対相談するまいと、縁は決意を新たにするのだった。
<あとがき>
 主人公さんの哀しい過去に一寸触れてみました。縁、チャーンス!! って感じだったんですが、やはりそこはこの主人公さんなんで(笑)。
 折角『葵屋』メンバーに使えそうな知恵を付けてもらったのに、実行する前に撃沈。元気になったのは良かったけど、もう一寸弱ってて……ってところでしょうか。主人公さん、日頃は隙だらけのくせに、こんな時だけは隙がありません。
 剣心も蒼紫も操も『葵屋』メンバーも姉さんも駄目となると、あとは同じ京都に住んでる師匠………? 師匠に恋のご教授をしてもらう?(滝汗)
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