落下流水
落花流水 【らっかりゅうすい】 男女が互いに慕い合うことのたとえ。
の両親にも何とか無事に(?)挨拶を済ませ、次は『葵屋』への挨拶である。二人の仲は『葵屋』では既に公認のものであるが、一応けじめというものである。蒼紫には親がいないから、挨拶する相手は大旦那の翁になるのだろう。まあ挨拶といっても、紹介とか結婚の許しを貰うというわけではないので、の実家に行った時よりは遥かに気は楽だ。
「―――――というわけで、あちらのご両親のお許しも出たから、さんと結婚することにした。あちらのご両親も遠いし、俺は親がいないから、式はしないつもりだ」
収支報告でもするような事務的な口調で、蒼紫は一方的に宣言する。これでは結婚の挨拶ではなく、ただの事後連絡だ。
それにしても、の実家では噛みまくって碌に挨拶もできなかったくせに、翁への報告での落ち着き具合は一体何なのだろう。隣で見ているは唖然として言葉も出ない。
前から思っていたが、『葵屋』にいる時の蒼紫とと一緒にいる蒼紫は全然違う。実は性格が反対の双子で、の知らないところで入れ替わってるのではないかと思うほどの別人ぶりだ。『葵屋』の蒼紫と外の蒼紫を足して二で割ったら、丁度良い感じになるかもしれない。
「さんのご両親が良いと言われるのなら、うちは構わんが………。さんはそれで本当に良いのかね。一人娘さんなのじゃろう?」
式をしないと言い切られ、流石の翁も戸惑ったようにを見た。宮家や華族のような格式ばった家ではないが、老舗の若旦那が式をせずに結婚というのは困るのだろう。
おまけに相手は一人娘である。親としては娘の嫁入り姿を見たいはずだ。それを結納も式も省略して、本人の挨拶だけで済ませてしまうなど、嫁に貰う側としては心苦しい。
が、は一瞬躊躇うような顔をした後に小さく微笑んで、
「うちの方は大丈夫です。両親も、式をするより、そのお金をこれからの生活資金に回した方が良いだろう話したら納得しましたし」
生活資金云々の話は嘘ではないが、あまり大袈裟にしたくないという家の希望を汲んだという方が真実に近い。結婚はしなかったとはいえ、一度他所に嫁に出す約束をした娘なのだから初婚の娘のような式は避けたいと、の父親に言われたのだ。
おそらく死んだ許婚の家への配慮があるのだろう。彼が死んだ後も、親同士の付き合いは以前と変わらず続いているのだ。本来なら自分の息子の嫁になるはずだった女が他所に嫁入りするとなったら、仕方の無いこととは判っていても心中は複雑なものだろう。
家の勝手な都合なのに、それを快諾してくれた蒼紫に、は感謝してもしきれない。老舗の若旦那なのだからお披露目くらいはしなければならないだろうに、それさえもしなくて良いと言ってくれたのだ。
「さんがそれで良いなら良いが………。しかし顔合わせを兼ねて食事会くらいはした方が良かろう。嫁に戴くのに、こちらが知らぬ振りというわけにはいかん」
「それもそうだな。では身内だけでやることにしよう」
同意を求めるように蒼紫がを見、も小さく頷いた。
折角二人で来たのだからと、『葵屋』で夕食を食べて今夜は泊まることになった。しかも結婚祝いということで、旅館の一番いい部屋を用意してくれ、食事も部屋で懐石である。
「お式もしないのに結婚祝いだなんて、何だか悪いわね」
蒼紫の方に寄りかかるように座って清酒を一口飲むと、はくすくす笑いながら言った。
食事は上げ膳下げ膳、風呂は部屋風呂を使って、湯上りには部屋に用意されている酒で月見酒。この部屋は母屋から遠く離れているから、『葵屋』にいても安心して“二人きり”を楽しめる。ささやかな新婚旅行をしているような気分だ。
このところ実家に戻ったり引越しでばたばたしたせいで疲れが出たのか、それとも二人きりで気が緩んだのか、今夜のは酔いの回りが早い。いつもなら酒を飲んでべたべたしてくるのは蒼紫の方なのに、今夜はの方がべったりしている。こういうことは珍しいから、蒼紫も上機嫌だ。
「構うことは無いさ。たまにはこういうのも良いじゃないか」
「うん。でも………」
そこまで言って、は口を噤んだ。
結婚祝いでこういう接待をしてもらえるのは嬉しい。『葵屋』からも祝福されて結婚するのだと思えるから。けれど祝福してもらっているのに、は『葵屋』に何も返すことが出来ない。
本来なら『葵屋』の若旦那の結婚なのだから、お披露目のためにも取引先や同業者を呼んだ派手な式を挙げなければならないはずなのに、と両親の希望で身内だけの食事会にしてしまったのだ。誰も何も言わないけれど、内心は面白くないと思われているのではないかと不安になってしまう。
そもそも結婚式というのは、夫の家のものなのだ。それをの都合で止めさせてしまったのだから、心苦しくてたまらない。
黙りこくってしまったを見て、蒼紫は困ったように苦笑する。
「まだ気にしてるのか? 式なんかしなくても、結婚することに変わりは無い。俺もああいうのは苦手だし、皆もそれは知ってるから、気にするな」
「うん………」
蒼紫は優しく言ってくれるけれど、それでもまだの心に引っかかりがある。
昼間の会話では、翁は蒼紫の希望で式をしないと思っているようだった。人の集まる席が苦手な蒼紫のために、が退いたと誤解しているようだ。本当は反対なのに。そのことで後で蒼紫が翁に何か言われることがあったら、辛い。
そんなの気持ちを察したのか、蒼紫は彼女をぐっと引き寄せて頭を撫でてやる。
「式なんかしなくても、ずっと一緒に暮らせるから良いじゃないか。まあ、の花嫁姿を見られないのは一寸残念だけど」
最後の冗談めかした言葉に、漸くは小さく笑った。笑った後、蒼紫に身体を預けたまま囁くように言う。
「ごめんね。この埋め合わせはきっとするから」
花嫁姿は見せてあげられないけれど、それに代わる何かをしてあげたい。それが何かはまだ思いつかないけれど、蒼紫が喜ぶことをしてあげたい。
こんなに優しい人にめぐり合えて、自分は本当に幸せだとは思う。誰よりものことを一番に考えてくれて、いつも彼女が心地良いようにしてくれる。だからも、蒼紫のことを誰よりも一番に考えたい。彼のことを幸せにしてあげたい。
許婚に死なれて蒼紫に出会うまで、こんな気持ちになったことは一度も無かった。こういう気持ちになれる相手だから好きになって、結婚しようと思えたのだ。この気持ちが一生続けば良いなと思う。否、一生そう思い続けるのだ。
「埋め合わせは―――――」
不意に、蒼紫がを抱く腕に力を込めた。
「どうせなら、今からして欲しいなあ。忙しいだの疲れただの言って、このところずっと放ったらかしだったじゃないか」
「今からぁ?」
少し甘えるように言う蒼紫が可笑しくて、はくすくす笑う。
言われてみればここ一月は新生活の準備や引越しにかかりきりで、蒼紫のことはずっと構ってなかった。霖霖と遊んだりして気を紛らわしていたようだったけれど、やっぱり面白くなかったらしい。
此処は『葵屋』の中だけど、母屋から離れているからの家と同じような感覚だ。蒼紫もそう思っているから、こうやってに甘えてくるのだろう。そう思うのはも同じだ。
食事の用意も片付けのことも考えなくて良い夜なんて久し振りだ。朝が来るまで時間はたっぷりある。
「そうねぇ………」
媚を含んだのくすくす笑いが合図のように、蒼紫の顔が近づいてきた。
口付けを受けるためには目を閉じようとする。が、蒼紫はが手にしている杯を取り上げて、そのまま止まってしまった。
どうしたのだろうとが訝った刹那、蒼紫はその杯を力一杯天井に向けて投げつけた。
「何をしてる、お前らっっ?!」
蒼紫の怒声と同時に天井板が跳ね上がる。そこに現われたのは―――――
「あら〜………」
「見付かっちゃいました?」
目をかまぼこ型にして笑いを堪えているお近とお増の顔が、天井の穴からにゅうっと出てきた。まさかそんな所に人が潜んでいるとは思っていなかったから、はびっくりして声も出ない。
酸欠の金魚のように口をパクパクさせているを抱いたまま、蒼紫は天井に向かって怒鳴りつける。
「何でそんな所にいるんだ?!」
「そろそろお布団のご用意をしようかと思いまして。でもお邪魔みたいでしたね〜」
怒鳴られても全く動じないのか、お近はにやにや笑って答える。お増も笑いを堪えるような顔をして、
「ほんと、仲の良ろしいことで。熱々であてられっぱなしですよ〜」
「いいいいいつから見てたんだ、お前ら?!」
『葵屋』にいるというのに、蒼紫は完全に冷静さを失っている。といちゃついているところをばっちり見られてしまったのだから当然だ。
熱々と言っているところを見ると、随分前から覗いていたのは間違いない。母屋から離れているから油断していたが、考えてみれば此処にいるのは元隠密ばかりなのだ。気配を消して覗きをするくらい、誰にでも出来る。
ということは、お近とお増以外にも誰かが何処かから覗いているかもしれない。否、確実に覗いている。二人の世界に夢中になっていたから気付かなかったが、今頃になって庭や縁の下、天袋まで気配を感じまくりだ。
そう思った瞬間、蒼紫は全身が真っ赤になって倒れそうになる。此処の連中は、新婚の二人に対する気遣いというのが無いのか。幸いはお近とお増以外の出歯亀には気付いていないようだが、真実を知ったら蒼紫は逃げられ亭主一直線である。
真っ赤になって焦る蒼紫という世にも珍しいものが面白いのか、お近とお増は堪えきれないように笑い出した。
「私たちは、埋め合わせ云々のところからしか見てないですよぉ」
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」
お増の言葉に、蒼紫は本気で卒倒しそうになった。“私たちは”ということは、他の者たちは一体いつから覗いていたのか。いつから覗いていたにしても、埋め合わせ云々の話から聞かれていたのなら同じである。
といえば、蒼紫よりも赤い顔をして卒倒寸前の顔をしている。これは後で蒼紫の方が埋め合わせをしないと、確実に逃げられてしまう。
「じゃあ、お邪魔虫は消えますんで、ごゆっくり〜」
意味ありげな笑いを残して、お近は天井板をパタンと閉めた。同時に、潮が引くように怪しい気配も消える。
これで完全に二人きりになれたはずだが、とても元の流れに戻せる雰囲気ではない。どうにかしてこのことを誤魔化さなくては。
何と言おうかと考えていると、漸く回復したが詰問した。
「今の何?! 屋根裏からっ………! 何処から入ってきたの?!」
予想通りの質問である。
「いや……それは………」
まさか元御庭番衆だとは言えず、蒼紫はへどもどしてしまう。
「もぉ! 埋め合わせは無しだからねっ!!」
「えー………」
折角久々に良い雰囲気に持ち込めたと思ったのに、これだ。蒼紫はがっくりと肩を落としてしまうのだった。
主人公さんの実家へのご挨拶に引き続き、今度は『葵屋』へのご挨拶です。これで一応一段落……かな?
ラブラブな二人を書こうと思ってたのに、何なんだ、このオチ? 『葵屋』では何処にいても気が抜けません(笑)。新婚さんは大変だ。同居じゃなくて良かったな、蒼紫。
今後、この二人の『葵屋』お泊りは無いんだろうなあ。