夕轟
夕轟 【ゆうとどろき】 恋情などが、夕暮れ時に心を騒がせること。
斎藤に会いたい、と突然思った。一人でこうやって何もしないでいると、そんな衝動に襲われることがある。こんな肌寒い雨の日だったり、夕焼けの綺麗な日だったり、天気はそれほど関係ないのかもしれないが、この時間はどうしようもない寂しさに襲われるものらしい。
けれど突然家に行ったら、斎藤はきっと迷惑するだろう。彼はと違って忙しいのだ。こんな時間にいきなり用も無く会いに行ったら、怒るかもしれない。
斎藤が怒ったところは見たこと無いけれど、あの目で冷たく見下ろされたら悲しい。それくらいなら、会いたい気持ちを抑えているほうが楽な気がしてきた。
大体、もう風呂にも入って、化粧を落として髪も洗ってしまったのだ。今からまた化粧をするのは良いとしても、濡れた髪で行くのは気が引ける。
「どうしようかなあ」
誰もいないのに、声に出して言ってみる。言ったところで何も変わらないのに。
それどころか余計に会いたい気持ちが強くなって、胸が苦しくなってきた。体の中がざわざわして、全身が斎藤を恋しがっているようだ。
風呂には入ってしまった。化粧は落としてしまった。髪だって洗って、まだ乾いていない。それより、今の時間に行ったって、斎藤は帰っていないかもしれない。
行かない理由を一生懸命考える。でも会いたい。会いたくて会いたくてたまらない。化粧を落としてしまっていても、髪が濡れていても、外は雨でも、会って彼の顔を見たい。優しい言葉なんて要らないから、ただ抱き締めてほしい。
ふらりと立ち上がると、は化粧もしないまま外に出た。
外はまだ、雨が降っている。激しくはないが、それだけにいつ止むとも知れない。きっと今夜中降り続けるのだろう。
蛇の目傘を差して、は斎藤の家に向かって歩き始めた。
予想はしていたけれど、斎藤はまだ帰っていなかった。今日も残業をしているのだろう。彼がどんな仕事をしているのか知らないけれど、警官というのは見た目よりも忙しいものらしい。
斎藤の家の鍵は預けられていないから、は中に入れない。
「どうしようかなあ」
また同じことを声に出して言ってみる。
斎藤がいつ帰ってくるか、には判らない。もう少し待ってみたら帰ってくるかもしれないし、もしかしたら帰ってこないかもしれない。忙しい時は警視庁に泊まり込むこともあるのだ。もしも帰らない日だったら、待っているのは馬鹿みたいだ。
「帰ってくると良いなあ」
早く帰って来いなんて贅沢なことは言わない。何時になっても良いから帰ってきて欲しい。
帰ってくるのを待っているのも、色々想像できて楽しいものだ。こうやって玄関でしゃがんで待っているを見たら、斎藤はどんな顔をするだろう。きっと、呆れたように溜息をつくだけだろうと思うけど、それでも良い。そういう顔も、は好きなのだ。
呆れた顔をしながらも、斎藤はを家に入れてくれるだろう。ああ見えて、彼は優しいのだ。ああいう風体だから、少しの優しさでも凄く優しく感じるのかもしれないが。たとえそうだとしても、まあお得といえばお得なのかもしれない。
「………何をやってるんだ、お前は?」
しゃがみ込んで想像を膨らませているの頭上から、聞き覚えのある不機嫌な声が降ってきた。
顔を上げると、そこにはの予想と一分も違わぬ呆れ顔の斎藤が立っていた。恋人が突然来てもにこりともしないなんて、実に彼らしい。
やっと会えたのが嬉しくて、はにっこりと微笑んで立ち上がった。
「来ちゃった」
「何の用だ、こんな時間に」
相変わらずの不機嫌顔で、斎藤は問う。
彼が不機嫌なのはいつものことだが、そんな顔をされると、少し迷惑だったかと悲しくなってしまう。は会いたくて会いたくて切ない思いをしていたのに、斎藤は自分のことなんか少しも思い出さないのかと思うと、悲しい。
「会いたいから会いにきたの。用事が無いと来ちゃ駄目なの?」
「そういうわけじゃないが………」
の顔が思いがけず淋しげで、斎藤は驚くよりも困ってしまう。昔から、女の悲しげな顔というのは苦手だ。
困惑している斎藤を見ていたら、はますます悲しくなってきた。やっぱり斎藤は困惑しているのだと思うと、自分は彼にとって何なのだろうと思う。
斎藤は斎藤で、にそんな顔をされるとますます困ってしまう。困ってしまって、関係無いことを口走ってしまった。
「お前、顔色悪いぞ」
「お化粧してないからよ」
気にしていることを言われ、は拗ねたように応える。
悲しい顔より、拗ねられた方が気が楽だ。斎藤はほっとして、の髪に手を伸ばす。
「髪も濡れてる。そんなに待ってたのか?」
「髪を洗ってきたからよ。そんなに待ってない」
「そうか………。まあ良い。とにかく中に入れ。冷えただろう」
「うん」
やっと期待通りの言葉を引き出せて、は機嫌を直したように微笑んだ。
「まったく、湯冷めして風邪でも引いたらどうするんだ。茶を入れてやるから待ってろ」
不機嫌にぶつぶつ言いながら台所に行こうとする斎藤の背中に、は無言で抱きついた。そのまま強引に畳の上に座り込む。
「何がしたいんだ、お前は?」
勝手なの態度に手を焼いたように、斎藤は呆れた声で言う。
さっきからずっと、の様子が変だ。突然風呂上りでやって来たと思ったら、いきなり抱きついてきたりして、一体何がしたいのか、斎藤には分からない。こんな時間に来たのだから用があるのかと問えば無いと言うし、目的が何なのかも分からない。
はこんな扱いに困る女ではなかったはずだ。仕事が忙しくてなかなか会えなくても文句一つ言うわけでもなく、他の男に目をくれるわけでもなく、実にできた女だと思っていた。それが今夜はこれである。知らない女を相手にしているような気分になってきて、斎藤はまじまじとの顔を見詰める。
「何もしなくて良い。傍にいて」
「は?」
初めて聞く弱々しい声に、斎藤はそのまま絶句してしまった。
「こうしたかっただけだから。暫くこうさせて」
囁くような声でそう言うと、は斎藤を抱き締める腕に力を込めた。
斎藤の顔を見たら、胸のざわめきが嘘のように治まった。こうやって抱きついていると、それだけで心が安らぐ。
斎藤の身体からは、湿った雨の匂いと、煙草の匂いと、それから彼自身の匂いがする。当たり前のことだけれど、それがには嬉しい。こんなに近いところでこの匂いを嗅ぐことができるのは、世界中でだけだのだ。それが確認できるようで、嬉しい。
抱きつくためだけにわざわざ雨の中をやってきたのかと思うと、ご苦労なことだと斎藤は感心するが、それでが満足するなら楽なものだ。今までずっと手のかからない女だと思っていたが、はなりにずっと我慢していたのかもしれない。
思えば、が何も言わないのを良いことに、斎藤の都合ばかり優先していたような気がする。本当はこうやって、何も考えずに甘えたかったのかもしれない。もしそうなら、随分と可哀相な思いをさせてきたものだ。好きな女を甘えさせることもできないなんて、恋人失格である。
「今日はもう遅いから、泊まっていけ。それから次の休みには、一日一緒にいよう」
冷え切ったの髪を温めるように手を当てて、斎藤はこれ以上望めない優しい声で言った。
雨の日にふと思いついたドリームです。まああれです、突然人恋しくなったり、相手の都合なんか考えずに衝動的に会いに行きたくなる瞬間ってありますよね。何なんだろうな、あれは?
いくら恋人とはいえ、いきなり家の前に女が座って待ってたら、斎藤じゃなくてもびっくりだろうなあ。びっくりはするけど、追い返したりはしないんですよ、愛してるから。
実はこの話、表のままにするか裏になだれ込むか、最後の最後まで悩んだんですけど、結局表に留まってしまいました。最近ヘタレだな、私(苦笑)。
きっとこの後、裏的時間を過ごすか、裏的休日を楽しむかするんですよ、この二人は。その辺はご想像にお任せいたします。