眠耳

眠耳 【ねぶりみみ】 睡眠中の耳が夢うつつに聞く音。
 隣でうつ伏せになって眠る女を、縁は起こさないように静かに見下ろす。
 思えば、彼女との付き合いは3年になる。出会った頃は、こんなに続くとは思っていなかった。
 女は、上海一のキャバレーのダンサーだった。中国人だけではなく、外国人も多くいる店だったが、日本人というのは彼女一人だったように思う。そして、裏社会ではまだ駆け出しだった縁には、彼女が女王のように見えたものだった。
 実際、政財界の大物や裏社会の大物の間を渡り歩いていた彼女は、“女王”という称号が相応しい女だった。その頃の彼女は、縁と同じ19歳。同じ19歳で、その頃の二人の立ち位置は大きく違っていた。少なくとも、今のようにこうやって縁の隣で眠っている女ではなかった。
 そんな二人の関係の始まりは、彼女から仕掛けてきた。丁度黒社会の若頭と切れた彼女が、同じ日本人ということで近付いてきたのが始まりだった。
 同じ日本人だから、という彼女の言葉は多分嘘だと、今でも縁は思っている。女王がそんなつまらない理由で男を選ぶはずが無い。恐らく彼女の目には、縁の未来が見えていたのだろう。死の商人として上海黒社会の頂点に立つ彼の姿が。
 そして彼女の見立て通り、縁はこの若さで武器商人として大きな組織を持つことができた。ここまでになるには幾つもの組織を潰してきたし、多くの血も流した。殺した人間の中には、年端もいかぬ子供もいた。それでも迷いも無く組織を大きくし続けてきたのは、巨大な組織の力が必要だったからだ。今の縁があるのは、たった一つの復讐のためだったと言っても良い。
 上海の裏社会だけではなく、表社会さえも動かす力を持つ組織、莫大な資産、そして上海一の女―――――この歳では望めないほどのものを、縁は手に入れてきた。あとはあの男への復讐を果たせれば、もう望むものは無い。
「………姉サン」
 あの男に、たった一人の姉を殺された。しかも縁の目の前でだ。あの時の血の匂いは、今でもはっきりと憶えている。否、この10年、忘れた時は一瞬たりともなかった。
 あの時の縁はまだ無力な子供だったから何もできなかったが、今は違う。今の彼なら伝説の人斬りであっても、あの時の姉のように斬殺することだってできる。
 けれど―――――
 日本に帰るとしたら、縁だけだ。あの国には良い思い出は無いから死んでも帰りたくない、と隣の女は常々口にしていた。そんな彼女を縁の復讐のために日本へは連れて行けない。
 かといって、復讐が終わるまで此処で待っていろとは言えない。縁の留守を狙って組織を乗っ取ろうとする者に、彼女が殺害されることも考えられるのだ。主の留守中に組織を乗っ取るということは縁もやってきたし、その抗争のドサクサに主の家族を殺してしまったこともある。自分がやってきたことだけに、彼女が狙われないという保証は何処にも無い。
 期限付きの帰国なら兎も角、いつ戻るとも知れない帰国なのだから、彼女とは一度手を切るのが得策かもしれない。組織は既に、復讐が終わればナンバー2の黒星に譲る約束をしているからどうなろうと知ったことではないが、彼女は違う。彼女を縁の都合に付き合わせるわけにはいかない。
 突然縁から別れを告げれば、上海の女王としての矜持を傷付けられたと彼女は激怒するだろう。これまでは常に、彼女の方から男を捨ててきたのだ。しかも縁も彼女も、この世界では知らぬ者はいない有名人である。二人の破局はあっという間に上海中に知れ渡るだろう。
 だから彼女の名に傷を付ける代償として、縁の持つ全ての資産を手切れ金として渡そうと思う。傷付けられた矜持は金で贖えるものではないが、それだけのものを渡せば周りは勝手に縁に非があると思うはずだ。そうなれば表向きは彼女に傷は付かない。
 別れる女にそこまで配慮するというのは、まだ彼女に気持ちが残っているということなのだろう。それが愛情なのかただの情なのか、縁には判らないが。
「3年カ………。思っタより長かっタな………」
 縁の予想では、一年もてば上等だと思っていた。周りには一月ももたないと思われていたようだが。移り気な彼女がよくもまあ3年も一緒にいたものだと、縁は今更ながら驚いた。
 移り気な彼女が3年も続いたのだから、もしかしたら二人で一生添い遂げることが出来たのかもしれない。彼女が妻の座に落ち着くなど似合わないが、情婦ではなく妻としての彼女の姿を見てみたかった気もする。しかしそれも今となっては叶わないことだ。
 色々考えていたら眠れなくなってきた。明日は朝から商談があるのだ。寝不足の顔では出席できない。
 縁はベッドから降りてガウンを羽織ると、寝酒を飲むために寝室を出て行った。





 扉が閉められると同時に、はゆっくりと目を開けた。そして寝乱れた髪を手櫛で梳きながら、気だるげに溜息をつく。
 『恋人を失う気配はラルゴの速度でやってきて、そしてある日、急に現実となる』と言ったのは誰だっただろう。今まさに、はその状況に置かれている。
 彼がから離れていきそうだということは、少し前から気付いていた。それまで中国国内だけでしか商取引をしていなかったのに、急に日本へ武器の密輸を始めた頃から、おかしいと思っていたのだ。周りは日本へ市場を拡大したのだと思っていたようだが、の目から見ても縁のやり方は変だった。
 まず、日本で縁が行なった取り引きでは全く利益が出なかったこと。“志々雄真実”とやらの使者に軍艦を売りつけた時には殆ど赤字に近かったし、他にも日本での用心棒と称して呼び集めた男たちにはタダ同然で武器を与えていた。武器密輸は麻薬密輸と同じくらい危険を伴う商売なのに、何故武器の原価割れどころか、殆どこちらの持ち出しであんなことをやったのだろう。利益にはうるさい黒星が何も言わずに見過ごしていたのも変だった。
 そして、もう一つ。縁が武器を与えた全ての人間が“人斬り抜刀斎”という名を口にしていたことだ。初めは偶然かと思っていたが、縁が連れてくる男たち全てがその名を口にするのは、どう考えてもおかしい。
 人斬り抜刀斎という名前は、も縁の口から幾度となく聞いている。縁の姉を殺したという男だ。いつか必ず姉の仇を取ると、酔うと必ず言っていた。その時が遂に来たのかもしれない。
「3年かぁ………」
 思ったより長く続いたものだ。3年の間には何度も諍いがあったけれど、何だかんだで続いてきた。このまま一生続いていくだろうと何となく思っていたが、男と女の間はそう甘いものではなかったらしい。
 初めて出会った時、縁はまだ何処の馬の骨とも知れない若造だった。常連客が店に連れてきたのだが、ああいう場は初めてだったのか、テーブルに置かれたグラスをじっと見詰めたまま固まっていた。それでも周りに緊張しているのを悟られまいと虚勢を張っているのが、には可笑しかったものだ。
 面白いから席に着いたのが、二人の始まりだった。初めはからかって遊んでやろうと思っていたのだが、彼の目を見た瞬間に気が変わった。勿論、一目惚れなんかじゃない。色恋さえもにとっては“商品”なのだ。相手がどんな男であれ、金にならない恋はしない。
 あの目を見た瞬間に、この男は大物になると直感した。だからその時付き合っていた若頭とはさっさと手を切って、縁に乗り換えた。それからずっと、縁の専属だ。
 周りはが本気の恋をしたと大騒ぎしたが、別に恋に落ちたわけではない。多少はそんな気持ちもあったかもしれないが、はっきりいって打算で近付いた。彼女にとって男とは、自分に利益をもたらしてくれるか否か、それだけの存在なのだ。
 実際、縁はに莫大な利益をもたらしてくれた。贅沢な生活も、高価な装飾品も、名声も。今までの男たちが与えてくれた以上のものを、縁は与えてくれたのだ。あの時のの目に狂いは無かった。
 ただ一つ誤算だったのは、縁がから離れていくということ。きっと近いうちに、縁は日本へ帰るだろう。その時、彼はに一緒に来いとは言わない。此処で待っていろとも言わないだろう。
「まさかこの私が捨てられるなんてねぇ………」
 たった一人で大陸に流れてきて、売るのは自分しかなくて、15の時からこの世界で生きてきたにとって、男に捨てられるというのは天変地異の出来事といってもいい。しかも自分が見出した男に捨てられるなんて。
 縁と別れたら、噂は一気にこの世界を駆け巡るだろう。女王の失脚を嘲笑う者もいるかもしれない。頂点に立つ人間は、常に孤独なものだ。普通の女のように、一緒に失恋を悲しんでくれる女友達など、にはいない。
 けれどにはまだ、若さと美貌がある。この二つを足がかりに、今日の地位を築いてきたのだ。たとえこの広いベッドを追い出されたとしても、また違う、もっと上質のベッドに移れば良いだけのこと。けれど―――――
 は目蓋を伏せて小さく溜息をつく。
 此処よりも居心地のいい場所が、他にもあるだろうか。縁のようにに贅沢をさせてくれる男はまた現れるだろうが、3年も一緒にいられる相手はそうそういないだろう。一生此処に居ても良いと思える男も。
「“姉サン”……か………」
 縁が本当に愛してた女は、でも他の女でもなく、遠い昔に死んだ姉だけだったのかもしれない。今の地位だって、のためではなく、姉の復讐のために手に入れたようなものだ。はそのおこぼれに預かったに過ぎない。
 自分が縁の“一番”でないことは、ずっと前から解っていた。こちらも打算で近付いたのだから、それに対して不満を持ったり嫉妬したことは無い。そもそも不満や嫉妬というのは、敗者が持つ感情だ。はこの世界で負けたことが無いのだから、そんな感情は知らない。知らないけれど―――――
 認めたくないけれど、は“姉サン”に負けたのだ。死んだ人間には勝てないとはいえ、こんなに決定的に負けるとは思わなかった。
 こうなったらにできるのは、綺麗に別れてやることだけだ。別れ話が出ても詰ったり泣いたりしない。こっちも潮時だと思っていたと思わせるくらい、すっきりと別れてやる。
 いつ別れ話をされても良いように心の準備だけはしておこうと自分に言い聞かせて、は目を閉じた。
<あとがき>
 初めての“別れ”を前提にしたシリーズものです。何話続くかはまだ未定ですが、多分縁が出てくるシーンはそんなに多くないのではないかと。主人公さんの心理描写だけに終始してしまいそうな予感………。
 いやね、縁もお年頃だから、上海時代には恋人の一人もいたんじゃないか、と妄想しているときに、ふと復讐のために恋人を捨てて日本に来たんじゃないかと思いついたわけですよ。で、このドリームが生まれたわけなんですが。
 年上ヒロインさんの時とは違った、シリアス縁が書ければ良いなあと思っています。ヘタレ専門の私にできるかな?
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