兎部下さんシリーズです。
花逍遙
花逍遥 【はなしょうよう】 花を見ながらのそぞろ歩き。
桜はもう散り始めて葉が見えているが、まだ花を楽しむくらいには残っている。恐らく次の休みには散ってしまうのだろう。休みの日に間に合って良かったとは思う。今日は気持ちの良い青空で、土手にはまだ菜の花が咲いている。こういう日にこういうところを散歩するのは最高だ。しかも今日は斎藤も一緒である。
「もう桜も終わりですねぇ」
兎に合わせてゆっくり歩きながら、は深呼吸するように言う。
「見られるのは今日までだろうな。明日は雨が降るらしい」
に合わせて、斎藤もゆっくりと歩く。以前は彼女の足に合わせて歩くのも一苦労だったが、今ではそれが当たり前となっている。思えば、彼女と一緒に歩くようになって、一年以上になるのだ。
その事実に気付いて、斎藤は改めて愕然とする。よくよく考えてみたら、と桜を見るのは二度目である。いつの間にやら、二度目の春が来てしまったのだ。
今まで気にも留めていなかったが、と知り合ってもう二年。本格的に付き合うようになったのは去年の梅雨頃からだが、それにしても今まで何も無いというのは自分でも驚きだ。
よくもまあ我慢しているものだと驚くと同時に、これでは兎にヘタレ呼ばわりされても仕方が無いと思う。お互いいい大人なのだから、そろそろ収まるべきところに収まるというか、行き着くところまで行き着くというか、そうなっても良い頃合だろう。
見た目は子供っぽいが、も一応大人の女である。いつまでもこのままでいられないことくらい、よく解っているはずだ。
隣を歩くの横顔をちらりと盗み見た。兎が跳ねる様を楽しそうに見守っている彼女の表情は、今のままでも満足しているように見える。内心は物足りないと思っているのかもしれないが、こうやってただ二人で散歩をするだけでも楽しそうにしている。
そんなの顔を見ていると、もう少しこのままでも良いかなと斎藤は思ってしまうのだ。長いこと足踏み状態が続きすぎると、何か行動を起こすのも今更と感じてしまうというか、これ以上求める必要も無いような気がしてくる。若い頃はもっと積極的というか攻撃的だったと思うのだが、と付き合っているうちに円くなったというか落ち着いてしまったらしい。それを世間では“ヘタレ”と呼ぶのかもしれないが。
「どうしたんですか?」
苦笑する斎藤に気付いて、がきょとんとした顔をする。
「いや………」
真っ直ぐに見上げられ、斎藤は何となく気まずくて視線を逸らした。
真昼間から一体何を考えているのか。頭ではこのままで良いと思いながらも、心のどこかでは欲求不満になっているのかもしれない。
雲一つ無い晴天と、もう盛りは過ぎているが桜並木の下での散歩という、これ以上無いほどに健全な雰囲気の中でこんなことを考えているなんて、に対して後ろめたい気持ちになってしまう。あの目でじっと見詰められると、恋人同士なら当たり前の行為を求めることも、何故か疚しいことをするような気分になってしまうのだ。
と一緒にいると、どうしてもいつもの調子を崩されてしまう。あのぽわ〜っとした雰囲気と、年齢差が良くないのかもしれない。やはり一回りも歳が違うと、恋人というよりは娘を見るような気持ちになってしまうのだ。
しかし、いつまでも娘のように見ているわけにもいかない。は娘ではなく、恋人なのだ。
どうしたものかと、斎藤はいつに無く積極的に考え込む。こうやって一緒にいるだけでも楽しいが、何もしないまま時間だけがダラダラ過ぎていくのは、そろそろ限界だ。珍しく積極的な気分になっているのだから、この勢いに乗じないと次の段階に動けないような気がしてきた。
急に考え込み始めた斎藤を見て、はますます不思議そうな顔をした。
二人で一緒にいる時、斎藤はこうやって考え込むことがよくある。自分の妄想癖のように、不意に考え込むのは彼の癖なのかなとは思うが、ただでさえあまり喋らない男なのに、考え込むと余計に喋らなくないのだからつまらない。
「ねえ、斎藤さん」
腕を組んで真剣に考え込む斎藤を引き戻すように、が声を掛ける。が、それも聞こえないほど真剣に考え込んでいるのか、彼の反応は無い。
いつもそうなのだ。折角仕事以外で一緒にいるのに、しかも珍しく外に出ているのだから、もっと楽しくお喋りなんかしたいのに。これでは逢い引きではなくて、ただ二人で歩いているだけではないか。
面白くなくてぷぅっと膨れてみせるが、斎藤はそれにも気付かない。それがますます腹立たしくて、はその場にしゃがみ込んだ。
隣の気配が消えて、漸く斎藤はの異変に気付いた。
「どうしたんだ? 腹でも痛いのか?」
不機嫌顔で蹲っているを見下ろして、斎藤が怪訝な顔をした。
「………つまんない」
「は?」
「折角のお出かけなのに、斎藤さん、ずっと考え事してばっかり。つまんないです」
ぷぅっと膨れて、は拗ねたように言う。
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜」
確かに今日はいつもより喋っていないような気がするが、それにしてもそんな子供みたいな真似をしなくても良いではないか。周りに人がいないから良いものの、他人が見たら何事かと思うだろう。
まったく、はしっかりしていると思えば、こうやってひどく子供染みたことをする。この落差が可愛いと思うこともあるけれど、こういうところが先に進ませる決心を鈍らせてしまうのだ。
折角前向きな気分になったというのに、いきなりこれだ。さっきまでのやる気も急激に萎んで、拗ねているの顔を見下ろして、斎藤は溜息をついた。
「あー、悪かった悪かった。もう考え事はしないから、機嫌直せ」
面倒臭そうに斎藤が言うと、はちらっと彼を上目遣いで見て、また膨れて兎を構い始めた。どうやら、反省が足りないと言いたいらしい。
頭を撫でられながら、兎も斎藤を咎めるような目で見上げる。もっとちゃんと謝れ、とでも言いたげだ。
と兎に無言で責められて、流石に居心地が悪くなってきた。今度は視線を合わせて話そうと斎藤が腰を落としかけた時、急に強い風が吹いた。
「あっ………」
舞い上がった砂埃が目に入ったのか、と兎が目を覆う。
「こら、擦るんじゃない」
両手で目を擦るの手を掴んで、斎藤は制する。そして俯いている彼女の顔を持ち上げて、
「取ってやるから見せてみろ」
「痛くて開けられないですぅ〜」
よほど大きな砂粒が入ってしまったらしい。は目を瞑ったまま、泣きそうな情けない声を上げる。
「開けないと、砂が出てこないだろうが」
子供を叱り付けるように言うと、斎藤は更に顔を近付ける。
目を閉じているものの、睫毛は重たそうにたっぷりと涙を含んでいて、少し目を開けさせれば涙と一緒に出てきそうだ。
「一寸我慢しろよ」
斎藤は手拭いを出すと、角のところを紙縒りのように細くする。そしての下目蓋をぐっと下に引っ張った。
思ったとおり、目の縁に小さな黒い粒が見付かった。それを手拭いの角で弾くように取り除いてやる。
「ほら、もう大丈夫だぞ」
目の縁から零れた涙を拭いてやりながら、安心させるように優しく言う。
「う〜〜〜〜」
まだ異物感があるのか、は暫く目を擦ってから漸く目を開いた。が、次の瞬間、耳まで真っ赤にする。
二人の顔が、ありえないくらい近付いていたのだ。このまま接吻に流れてもおかしくないくらい、否、何も無い方が逆に不自然なくらいの距離である。
固まってしまっているを見て、斎藤も今の状況に気付いたらしい。彼まで顔を赤くして固まってしまう。
斎藤も今更接吻の一つや二つで照れるような歳ではないのだが、何故かの前では彼女と同じような反応を見せてしまう。相手が極端に初々しいと、その雰囲気に引き摺られてしまうものらしい。
とはいえ、折角転がり込んできた好機である。これを逃せば、いつこんな機会が巡ってくるか解らない。下手をすると、来年までやってこないかもしれないではないか。
「目を閉じろ」
いかにも余裕があるように、斎藤が低く囁く。
その声に操られるように、も静かに目を閉じた。今度は前回のようにぎゅっと目を瞑るのではなく、眠るように静かに目を閉じている。前回のことで少しは学習したのだろう。
それでは、と更に顔を近づけた斎藤だったが、何故かただ事ではないほどに緊張してきた。これくらいのことで今更緊張する歳ではないのだが、どうもが相手だと悉く調子が狂ってしまう。それは悪いことではないのだろうが、やはりやりにくい。
とはいえ、この絶好の機会を逃すわけにはいかない。これを逃したら、またいつ出来るか判らないのだ。
改めて自分を奮い立たせて斎藤が唇を重ねようとしたその時―――――
「?」
斎藤の腕に、細い毛のようなものが触れた。
何かと思ってそちらをちらりと見ると、何と兎が後ろ足で立って食い入るように見つめていたのだ。身体をぐぅ〜っと伸ばして、此処まで伸びるものなのかと呆れるほどだ。
兎に見られるくらいで動じる斎藤ではないが、この兎は別である。何しろこいつは、満月の夜に無駄口を叩く兎なのだ。こんなところをじっくりと見られた日には、次の満月に何を言われるか判ったものではない。
に気付かれないように、斎藤は兎を睨みつけて追い払うように手を振る。兎はつまらなそうな顔をしたが、にやりと笑って背を向けた。
兎の笑いには微妙に引っかかるが、まあ良い。斎藤は気を取り直して、ちゅっと唇をぶつけた。
唇が触れ合った瞬間、の全身がビクッと震える。そして紅い顔でそっと目を開けると、斎藤を見上げた。
潤んだ目をして上目遣いで見上げるの顔は、もうどうしてくれようかと思うくらい可愛い。可愛くて可愛くて、このまま抱き締めたいくらい可愛い。
頭の中が全面的に可愛い状態になって、うっかりするととんでもない方向に暴走してしまいそうな斎藤だが、そこは年の功でぐっと抑える。ここでで暴走してしまったら、何もかもが台無しだ。
だからいつもよりつまらなそうな顔をして、斎藤はできるだけ素っ気無く立ち上がる。
「ほら、行くぞ」
余韻に浸る間も無くさっさと歩き出す斎藤に、はぽかんとした顔をしたが、慌てて立ち上がると小走りに彼の後を追いかける。
凄くドキドキしたのに終わったらこんなに素っ気無いのはつまらないけれど、斎藤がもの凄く照れているのが判るから、は何も言わない。いつも素っ気無い彼だけれど、照れている時は更に素っ気無くなってしまうのをよく知っているのだ。
「斎藤さん」
並んで歩きながら、はふふっと笑う。
まだ少しを頬を赤らめているの笑顔を見ていたら、斎藤も何だか恥ずかしくなって、ふいっと顔を背けた。あの子供みたいな笑顔を見ていると、柄にも無く照れてしまう。
初めての接吻の後なのだから、少しはいちゃいちゃしたいなあとは思うけれど、でも照れている斎藤を見ているのも楽しい。こういう斎藤の姿は、しか見ることができないのだ。自分しか見ることのできない大好きな人の姿なんて、いちゃいちゃするのと同じくらい楽しいことだと思う。
「私たち、ずぅっとこうやって一緒にいましょうね」
相手が斎藤だから、同年代の恋人たちのようにいちゃいちゃはできないだろうけど、自分しか知らない斎藤をずっと見ていたい。ずっとずっと一緒にいて、来年の春も、その次の春も、その次もずっとずっと、今日みたいに桜の花の下を歩きたい。
の言葉に斎藤は何も答えなかったが、同意するようにきゅっと手を握った。
ほっぺにちゅうからいつの間にやら一年近く過ぎていたんですね。斎藤もびっくりしていたけど、それ以上に私がびっくりだよ(笑)。そうか、そんなに過ぎていたのか………。
というわけで、念願のお口にちゅうです。何だか無意味に恥ずかしい………。この二人、進展するたびに無意味に恥ずかしいんですが。
ほっぺにちゅうからお口にちゅうまで一年近くかかったから、次のステップに進めるのはまた来年でしょうか。うーん、先が長い。ま、この二人は永遠に同じ歳をぐるぐる回るサザエさんワールドの住人ですから、別に良いのかもしれませんが。
しかし次は、兎さん抜きでやらないと駄目ですね。兎のくせに出歯亀ですから(笑)