浮橋

浮橋 【うきはし】 現世とあの世との架け橋。
「……しん……剣心………」
 囁くような女の声で、剣心は目を醒ました。
 目を閉じていても、まだ夜が明けていないのは判る。こんな時間に薫が起こしにくるはずが無い。それ以前に、この声は明らかに薫のものではない。
 夢かと思ってまた眠りに付こうとした剣心に、女の声は焦れたように囁きかける。
「剣心、起きて」
 その声は明らかに現実のものだ。剣心は驚いて、がばっと飛び起きた。枕元にいたのは、勿論薫ではなく―――――
「とっ…巴っ………?!」
 そこにいたのは、半分身体が透けている巴だったのだ。きちんと正座をして、静かに微笑んでいる。
 巴が死んでから、彼女が剣心の枕元に立つということは一度も無かった。それを今頃になって現れるとは。まさか、薫との再婚に一言言いたくて出てきたとでもいうのか。
 薫とは近々正式に籍を入れることにしている。あれから12年、巴のことも幕末のことも全てふっ切れたと思えるようになったからだ。薫と二人、改めて“緋村剣心”としての人生を生きようと決めた矢先に、巴が現れるとは。
 勿論、巴との過去を完全に葬り去ろうなんて気持ちは無い。巴とのことは過去のものとして、薫とは新しい時代を生きていくのだ。今更恨み言を言われるようなことはしていないと思う。
 とはいえ、実際にこうやって巴に出てこられると、疚しいところなど無くてもうろたえてしまう。
「どっ……どうしたでござるか、今頃になって」
 慌てる剣心の様子が可笑しかったのか、巴はふふっと笑う。生前には殆ど笑顔を見せることの無かった彼女だが、死んでから少し性格が変わったらしい。
「縁がやっと、恋をしたようなんです」
「えっ………?!」
 いきなりの発言に、相手が幽霊だということも、自分が寝起きだということも忘れて、剣心は絶句する。
 拘束後、縁は海上で消えたと斎藤から聞いてきたが、やはり生きていたのか。薫と二人で巴の墓参りに行った時に花が手向けられていたが、もしかしたらあれは本当に縁が置いて行ったものだったのかもしれない。
 縁が生きているというのは予想できていたことだから驚くほどのことではないが、まさか恋をしているとは。彼も年頃の青年なのだから、普通に生きていれば色恋の一つや二つあっても当然のことなのだが、剣心の知っている姿から恋する縁など想像できない。
 しかし想像できないとはいえ、縁が恋をしたとはめでたいことである。相手はどんな女か判らないが、彼にも漸く“普通の日々”が訪れたのだ。
「けれどね………」
 めでたいはずなのに、巴の表情はどこかさえない。
「あの子って、意固地なところがあるでしょう? きっとあのままじゃ、相手の方に気持ちが伝わらないと思うんです」
「あー………」
 それは剣心も納得する。あの性格なら、相手の女の性格によっては意地でも自分の気持ちを認めないだろう。
 剣心の反応に我が意を得たりと思ったのか、巴はずいっとにじり寄ってきた。生前はこんなことをする女ではなかったはずだが、何か色々とふっ切れるものがあったのかもしれない。
「それで、あの子に協力してもらいたいと思って今更ながら出てきたんです。この世であの子と私が頼れるのは、あなたしかいないから」
「しかし、拙者には縁が何処にいるのかも判らんでござるよ」
「縁の居場所は、『葵屋』に行けば判ります。だからどうかあの子を助けてあげて」
 言いたいことだけ言うと、巴は剣心の返事も待たずに霞のように掻き消えてしまった。





「―――――で、わざわざ京都まで来たのか。ご苦労なことだな」
 東京からやって来た剣心の話を聞いて、蒼紫は心底呆れたように言った。
 突然『葵屋』に剣心と薫がやってきたから何事かと思って出迎えたら、“夢のお告げ”で来たのだという。平安時代なら兎も角、文明開化も久しい明治の世で“夢のお告げ”など、馬鹿馬鹿しくて話にならない。
 しかも、巴が『葵屋』に行けば全て判ると言ったから何か手がかりはないか、と真剣な顔で訊かれるのだからたまらない。縁の行方など蒼紫は知らぬし、知っていたらとっくに神谷道場に文を送っている。
 ひょっとして縁を探せという遠回しの依頼かとも思ったのだが、向かい合う剣心と薫の表情は真剣そのもの。本気で蒼紫が縁の行方を知っていると信じているらしい。つくづく傍迷惑な姉弟だと、蒼紫は溜息をついた。
「夢枕で雪代巴が何を言ったのか知らんが、雪代縁の行方など知らん」
「しかし巴は、『葵屋』に行けば判ると言っていたでござるよ」
 面倒臭そうに答える蒼紫に、剣心はしつこく食い下がる。
 蒼紫は夢の話だと思っているが、剣心にとっては現実の話だ。枕元にいた巴は確かに現実のものだったし、あの時剣心は夢を見ていたわけでもなければ、寝ぼけていたわけでもない。今と同じくらい、意識ははっきりしていた。
 しかし、そんな話を真剣に話される蒼紫はたまったものではない。二人が遊びに来るのは操も喜ぶから歓迎するが、知りもしない縁の居場所を教えろと言われても、ただただ困ってしまうのだ。
 どうやって剣心を納得させようかと悩んでいると、勢いよく襖が開いた。
「緋村と薫さんが来てるんですか? 薫さん、一緒にお買い物に行こう!」
 翁から聞いてきたのか、操が嬉しそうに部屋に飛び込んできた。縁の件で東京に来た時、落ち着いて薫と遊ぶこと無く帰ってしまったから、二人の訪問が嬉しくてたまらないらしい。
 二人が遊びに来ただけなら、さっさと操と買い物でも観光でも行かせて、蒼紫はいつもの静かな日常に戻りたいのだが、そういうわけにもいかない。今回もまた、縁がらみで二人は来ているのだ。二人の気が済むまでは、操と楽しく物見遊山という気にはならないだろう。
「二人は遊びに来たわけではない」
 浮かれる操を制するように、蒼紫は静かに言う。そして、二人が来た事情を掻い摘んで説明してやった。
 縁が生きているかもしれない、しかもこの京都にいるかもしれないということには操もひどく驚いていたが、何か思い当たる節があるのか、少し考え込むように首を傾げた。
「もし縁が京都にいるとしたら………一応逃亡者なんだから落人群にいるかもしれないですよ。それに怪我してたから、もしかしたらあのお医者さんなら縁のこと知ってるかも」
「医者?」
 てっきり操も馬鹿馬鹿しいと笑い飛ばすと思っていたのに真剣に答えられ、剣心の方が驚いてしまった。蒼紫も同じなのか、訝しげな顔をしている。
「翁のかかりつけの女医さんでね、落人群で無料診療している人がいるの。最近は全然会ってないけど、多分今もやってるんじゃないかな。一寸変わった人だけど、腕は良いみたいだし、良い人だよ」
「医者でござるか………」
 腕を組んで、剣心は考え込む。
 縁は今でも警察に追われている身の上だ。しかも耳に大怪我を負っている。傷が癒えるまで落人群に身を潜めているという可能性は大いにある。そして、そこに無料診療に来る医者がいるのなら、何らかの接触があるはずだ。ああいう所に行く医者なら相手の素性など訊かないだろうし、縁が治療を受けた可能性は大きい。
 巴が言っていた「『葵屋』に行けば判る」というのは、そういうことだったのか。ということは、その女医と話すことができれば、縁の居場所は確実に判る。
 操の一言で、一気に道が開けてきた。こうなったら善は急げだ。剣心は操の方に身を乗り出した。
「操殿、今からすぐにその医者のところに連れて行って欲しいでござる」





 午前中の診療を済ませ、は大きく伸びをした。
 今日は午後から落人群に診療に行く日だ。玄関に『本日休診』の札をかけると、奥にいる縁に声を掛けた。
「縁ー、終わったよー。お昼何にするー?」
 まるでが作るような口振りだが、作るのは当然縁である。も作るのは吝かではないのだが、縁が自分で作ると言い張るのだ。きっと彼は料理が好きなのだろうと、は思っている。
「もう出来てル」
 が部屋に入ると、卓袱台には既に食事の支度が出来ていた。今日のお昼は鯵の開きと里芋の煮っ転がしだ。
 縁は大抵、の仕事が終わる頃に合わせて食事の用意をしてくれる。本当によく出来た男だ。彼が女だったら、きっと良いお嫁さんになっただろうとはいつも思う。
 縁が来てから、の生活は格段に快適になった。放っておいても着物は洗濯され、家には塵一つ無く、おまけに見計らったかのような丁度いい時間に温かな食事が用意されている。おかげで彼女は仕事に専念できるし、休みの日にだらだらと好きな酒を飲んでいても不自由することは何一つ無い。
 本当は、こんなことではいけないなあと思っているし、たまには縁を労ってやらないといけないと思ってはいるのだが、が動こうとする前に縁がさっさとやってしまって、手伝う隙も与えてくれない。というか、何かしようとすると、何もするなと怒られてしまうのだ。
「ねぇ、縁」
 芋の煮っ転がしを頬張りながら、が話しかける。
「たまには家のことを忘れて、何処か出かけたら? 今度の休診日とか。一日くらい、家のことは私がするし」
 考えてみたら、と一緒に往診に行く時以外はずっと、縁は家の中のことばかりしている。まだまだ遊びたい盛りだろうに、一人でどこかに出かけるということが全く無いのだ。
 いい若い男が毎日毎日家事に追われているというのは、いかにも可哀想だ。こんな生活を続けていたら、若い男らしい楽しみも知らないまま、あっという間にぬかみそ臭くなってしまう。
 が、縁はつまらなそうな顔をして、
「別に行きたいところなんカ無いからイイ」
 家のことを忘れて遊びに行けと言われても、日頃から遊び慣れているわけではないのだから、何をして良いのか判らない。それに一人でぶらぶらするよりは、家の片付けでもしていた方が余程有意義な時間の遣い方だと思うのだ。第一、縁が遊びに行った後、家の中がどうなるか想像しただけでも恐ろしい。何しろは、家の中を荒らすことにかけては天才的な才能を持っているのだ。
 この家は自分がいるから人間らしい生活空間が保たれているのだと、縁は自負している。どうやら彼には家事を切り盛りする才能があるらしく、それはに出会わなければ気付かないことだった。できれば、一生気付きたくなかった才能であるが。
 そんな縁の反応を遠慮していると解釈して、は更に強く勧める。
「遠慮なんかしなくても良いのよ。縁にだって息抜きは必要だわ。若いうちはもっと遊ばなきゃ」
「別に俺は―――――」
 縁が反論しかけた時、診療所の戸を叩く音がした。
 休診の札を下げているのに戸を叩く者がいるというのは珍しい。かかりつけの患者であれば、毎週この日の午後は休診になるということは知っているし、急患であったとしても休診の札がかかっていれば他の医者を当たるはずだ。
 二人は不思議そうに顔を見合わせたが、縁の方が先に立って玄関に行った。
「今日はもう終わりダ」
 戸を開けながら無愛想に言った縁だったが、そこに立っていた人物見るとそのまま硬直してしまった。
 そこにいたのは忘れもしない、緋村剣心と神谷薫。おまけに何故か、四乃森蒼紫と巻町操までくっ付いてきている。彼らも縁が出てきて驚いているのか、彼と同じように唖然として固まっている。
 固まって絶句している縁を不審に思ったのか、奥からも姿を現した。
「どうしたの、縁? 急患なら入ってもらって」
「………巴?」
「?」
 顔を見るなり驚いた顔をする赤毛の男に、もきょとんとした顔をした。





 とりあえず立ち話も何だからと四人を家に上げ、に言われるままに縁は茶まで出してしまった。
 もう一生係わりあうこともないと勝手に思っていたのに、何故今頃になって彼らに会う羽目になったのか、縁には判らない。しかも剣心たちは、彼を探すために此処に来たというではないか。縁とを繋ぐものは何も無く、と彼らを繋ぐものも無いはずなのに、何故迷わずに此処に来たのか。謎が多すぎる。
 はというと、不思議な縁もあるものだと面白がっているだけで、別に不審に思うことは無いようだ。それどころか女同士、薫と操と仲良く煎餅など食べている。物事を深く考えない得な性格だと、縁はそっと溜息をついた。
 初対面のくせに(操とは少し面識があるようだが)楽しそうに盛り上がっているを横目で見ながら、縁は低い声で男同士本題に入る。
「何しに来たんダ?」
「巴が夢枕に立って、おぬしの様子を見てきてくれと言ってきたんでござるよ」
 縁につられて、剣心まで声を低くしてしまう。
 本当は巴に言われた通り縁の恋の相手を探って、必要とあれば相談にも乗ろうと思ってきたのであるが、警戒心たっぷりのこの様子では無理そうである。それ以前に、横で女たちがきゃあきゃあ騒いでいては、悩み相談どころではない。
 しかし―――――剣心もそっとの横顔を盗み見る。よくよく見れば明らかに別人なのだが、初めて彼女を見た時は巴が現われたのかと思った。雰囲気が似ているのかと思ったが、薫と操を相手に笑い転げている姿は、物静かだった巴とは正反対だ。何故こんな正反対の女が巴に見えたのか、剣心には不思議でならない。
 話をしに来たくせに会話が続かないどころか、それとなく一人の女の様子を窺っている縁と剣心を見て、蒼紫はつまらなそうに小さく溜息をついた。そもそも彼は、操にせっつかれたから仕方なく付いてきたのであって、縁の色恋の行く末がどうなろうと関心は無い。関心が無いどころか、縁の色恋がどうなろうと、どうでも良い。
 どうでも良いから、さっさと話を切り上げて帰りたい。だから蒼紫は単刀直入に本題に入った。
「お前、好きな女がいるのか?」
 眉一つ動かさずに生真面目に尋ねる蒼紫の言葉に、部屋が一瞬水を打ったように静かになった。
 普通、こんな微妙な問題を人前で堂々と話すものではない。しかも縁にとっては、剣心たちは“気の置けない仲間”ではないのだ。これだから生真面目一辺倒の木石のような男は困る。
 どうやってこの微妙な雰囲気を修正しようかと蒼紫以外の3人が真剣に考えていると、がにやにや笑いながら固まっている縁ににじり寄ってきた。
「何? あんた、好きな女ができたの? 何処の娘さんよ、ねぇ?」
 肩をポンポンと叩いたりして、は興味津々の様子だ。振り払おうとする縁など無視して、酔っ払いオヤジのようにしつこく絡んでくる。
「もぉ〜、この子ったら家でおさんどんばっかりして遊びにも行かないもんだから、てっきりそんなことには興味が無いかと思ってたんだけど。お姉さんが知らないうちに色気付いてたんだねぇ。安心したわぁ」
「おさんどん?! 縁が?!」
 の言葉に、薫が驚きの声を上げる。
 以前、薫が縁に囚われた時に彼と二人で孤島の屋敷で暮らしたことがあったが、あそこの台所は食材があったにも拘らず一度も使われた様子が無かった。だから縁は家事が出来ない男なのだろうと思って、薫が食事を作っていたのだが、まさか彼も料理ができていたとは。
 しかもの口振りでは、この家の家事全般を縁が引き受けているようである。は当然のことのように受け止めているようであるが、薫を初めとする人間たちにとってはとんでもない事実だ。縁が家事をする姿など、想像を絶する。
 びっくりして言葉も出ない一堂に、縁は真っ赤な顔をして、
「仕方ないダろうっ! こいつが何もできないカらっっ!!」
「えー? 縁が何もしなくて良いって言うからじゃない」
 必死な顔で弁解する縁に、が不満そうに抗議する。続けて剣心たちに、
「この子、本当に良くやってくれるのよ。さっきも何処かに遊びに行けば良いのにって言ってたんだけど、いつも行きたいところなんか無いからって家のことばかりしてるの。本当に、女の子だったら良い奥さんになったと思うわ」
「………………………」
 嬉しそうに説明するの言葉に、剣心たちは言葉も出ない。
 あの縁が何処にも行かずに家事ばかりしているなんて、昔の彼の姿を知っている剣心たちには信じられない。昔の縁だったら、家事をなんて言われたら狂経脈を浮かび上がらせ、一瞬で相手を斬り捨てていただろう。それが、自分から進んで家事をしているとは。
 まさかとは思うが縁の好きな女というのは、彼の隣に座る年上の女なのか。年上なのは兎も角、家事は出来ない、客が来たというのに茶も出さずに率先して縁が出した煎餅を食べているような女なのかと思うと、驚くよりも彼の身の上に何があったのかと心配になってしまう。
 否、年上でも家事が出来なくても客をもてなせなくても、縁が好きなのならそれで良い。しかし最大の問題は、肝心のが彼の気持ちに気付いていないらしいということだ。一緒に暮らしているというのに、鈍いにも程がある。
 まだにやにやしながら追求し続けるが嫌になったのか、縁は不機嫌な顔をして台所に入っていく。それを追いかけて、剣心と蒼紫も台所に立った。
「何ダ?」
 に向けられない怒りをぶつけるように、縁は剣心と蒼紫を睨みつける。
 今にも包丁を向けられるのではないかと思うようなその剣呑な目に、剣心は一瞬だけ本能的に逆刃刀に手をかけそうになった。が、すぐに気を落ち着かせるように深呼吸をして小声で話しかける。
「いや、さっきの話でござるがな、まあ何というか………巴も心配しておったのでござるが、どんな感じでござるか?」
 縁を怒らせないように言葉を選びながら話そうとするのだが、選びすぎて何を言いたいのかさっぱり伝わらない。しかもやたらと歯切れが悪いものだから、剣心の思惑とは逆に縁の眉間の皺は更に深くなっていく。
「………何ガ言いたいんダ?」
 がいる手前怒鳴れないのか、縁は押し殺したような声で問う。
「いや、だからでござるな、こういった立ち入ったことを拙者が訊くのは何でござるが、巴も心配しておるから―――――」
「お前、あんなのが良いのか?」
 もぞもぞと言葉を選ぶ剣心に、縁どころか蒼紫まで焦れてきたのか、単刀直入に切り出した。他人様を親指で指して“あんなの”とは失礼極まりない言い草だが、本人は全くそう思っていないのか、いつものように淡々としている。
 その言葉に、縁のこめかみがぴくっと動いた。確かには他の女のように家事は全く出来ないし、“女らしい”という表現とは縁の無い女ではあるが、彼女のことを何も知りもしない蒼紫から“あんなの”呼ばわりされるような女ではない。世間的に見ればダメな女の部類に入るだろうが、なりに良いところはあるのだ。
 今にも殴りかかりそうな顔をしている縁を制するように、剣心は慌てて蒼紫を窘める。
「それはあまりにも失礼でござるよ。殿は少し変わっているかもしれないが、気性の好い女性のようではござらぬか。縁が好ましく思うのも当然でござろう」
「俺は別にッ………。あの女が何もできないかラ、一緒にいてやってるんダ」
 顔を紅くして、縁は反論する。照れ隠しなのか、本気で認めたくないのか判らないが、そんな言い方をすれば剣心の発言を認めているのも同然だ。
 縁はああ見えて相手に尽くす性質らしい、と剣心は思う。が尽くすほど価値のある女なのかはまた判らないが、彼がそれで良いと思っているのなら良いのだろう。年齢も役割分担も普通とは逆転しているけれど、本人たちはそれを楽しんでいるようでもある。
 ただ問題は、縁が自分の気持ちを認めたがらないのと、が縁の気持ちに全く気付いていないということだ。だからこそ、巴がわざわざあの世から頼みに来たのだろう。この二人を見ていれば、巴でなくても行く末が心配になる。
 しかし、剣心も何かしてやりたいのは山々なのだが、京都と東京では如何ともし難い。道場があるから彼が京都に住みつくわけにもいかないから、この恋を成就させるには京都在住の協力者が必要だ。
「…………………」
 ちら、と仏頂面の蒼紫を見る。
 京都の協力者となると、歳が近くて知らぬ仲でもない蒼紫が最有力候補だろう。しかし、さっきから見ている様子では、最もそういうことには向いていない人間でもある。
「何だ?」
 剣心の視線に気付いて、蒼紫も目線だけで彼を見る。
「いや―――――」
「縁」
 剣心が口を開きかけた時、が台所にやって来て縁にそっと耳打ちをした。
「折角お友達に来てくれたのに悪いんだけど、もうそろそろ行かないと………」
「ああ」
 言われた縁の顔は、明らかにほっとしている。漸く逃げ道が出来たと思ったのだろう。
 これで剣心の追及から逃れられるとなった途端、縁は急にいつもの落ち着きを取り戻して偉そうに言う。
「お前ら帰レ。俺は忙しいんダ」
 苛められっ子が喧嘩の強い兄弟が出てきた途端に強気になるような、面白いほどの豹変っぷりである。きっと子供の頃も、巴が出てきた途端にいきなり強気になっていたのだろうと思わせるほどだ。
 どうやらは縁にとって、恋の相手であると同時に、巴と同じく心の支えにもなっている存在らしい。一見、が縁に依存して生きているようだが、縁の方が依存度は高いようだ。まあ何というか、二人で一人といったところか。足りないところを互いに補い合っているような、良い関係である。
 この二人の行く末にはまだ不安が残るが、先を急がなければきっと収まるべきところに収まることができるだろう。その時は縁はしっかりとの尻に敷かれていそうだが、それはそれで微笑ましいかもしれないと剣心は思う。ただ、そうなるまでには周りが背中を押してやらなければならないようだが。
「蒼紫」 
 これから落人群へ診療に行かなければならないのだと残念そうに操たちに説明するを眺めている蒼紫に、剣心がそっと声を掛ける。
「この先、縁に困ったことがあったら、相談に乗ってやってはくれぬか。幸い、殿は拙者たちのことを縁の友人と思ってくれているようでござるし、それとなく様子を見てやって欲しいでござるよ」
「…………………」
 剣心の申し出に、蒼紫はやれやれと言いたげに溜息をついた。元々人付き合いが苦手な性分なのに、恋の相談相手など面倒臭いと思っているのだろう。自分のことも儘ならないというのに大して親しくもない縁のことまで面倒を見切れないというところか。
 が、剣心どころかまでが、にっこりと微笑んで言う。
「縁のこと、お願いしますね。あの子、あんなだけど、根はとても素直な良い子なんですよ」
 諸悪の根源はお前の鈍さだと突っかかりたくなるようなの言い草だが、母親のように穏やかに微笑まれると蒼紫は何故か言葉が出ない。悔しいが、の雰囲気に飲まれてしまっているらしい。
 周りを圧倒するような体格をしているわけでもなく、威圧するような迫力があるわけでもないのに、の笑顔には逆らえない力がある。真綿で包み込まれるような訳の判らないこの雰囲気に縁もやられてしまっているのだろうかと思いながら、蒼紫は小さく頷いた。





 これから落人群に無料診療に行くというと縁と別れ、剣心たちは無言で道を歩いていた。
 別れ際に見た縁の姿は、いかにも医者の助手といった感じで診療道具を抱えていて、ずっと前からこんな生活をしていたのではないかと思わせるほど板に付いていた。何だかんだ言いながらとの生活は、彼には性に合っているらしい。
 縁が人助けをするなんて、以前の彼の姿からは想像もつかないが、があれだけ頼りにしているのだから、きっと良い助手なのだろう。そういえばも「根はとても良い子」と言っていた。あの縁を「良い子」呼ばわりするもどうかと思うが、それはまあこの際どうでも良い。
「まあ、楽しくやっているようで良かったでござるよ」
 縁の元気な姿を見て肩の荷が下りたのか、剣心がほっとしたように呟く。それに対し、隣を歩く薫もふふっと笑って、
「あの先生もいい人だったもんね。結構お似合いかもよ、あの二人」
「誰にでも春は来るんだねぇ」
「春か………」
 冗談っぽく言う操の言葉に、蒼紫は小さく呟いてそのまま黙り込む。
 縁にも恋の季節がやってきたのは、めでたいことである。たとえ世間の基準からずれた女であっても、縁がそれで良いと言うのなら、彼にとってはいい女なのだろう。生活能力に欠けるところも、彼にとっては取るに足らない些細なことなのかもしれない。
 蒼紫には経験の無いことだが、恋に目が眩むと傍から見ればどうかと思うことでも、当人には全く見えなくなるものらしい。きっと縁もそんな状態なのだろう。そんな状態が一生続けばいいのだが、と他人事ながら彼にしては珍しく心配してしまう。そんなことを気にするのも、から「縁のことをお願い」と言われたせいかもしれない。どうも彼女の笑顔と声には、逆らえない力があるようだ。
 そんなことを考えていると、操が思い出したように言った。
「そういえばあの先生、縁より8歳も年上なんだって。縁、年上好きだったんだぁ」
「8歳っ?!」
 この発言には、剣心と薫どころか、蒼紫まで頓狂な声を上げてしまった。
 いくら年上好きとはいえ、8歳とは年上過ぎである。役割どころか、年齢まで大逆転していたとは。道理で縁が完全に尻に敷かれているはずである。
 楚々とした外見とは裏腹に家事能力は全く持ち合わせていない上に、8歳も年上。しかも一緒に暮らしているというのに縁の気持ちに全く気付いていない鈍感さ。縁がそれでも良いと言うのならそれでも良いのかもしれないが―――――
「………男の幸せって………」
 腕を組み、蒼紫は遠い目になって考え込んでしまうのだった。
<あとがき>
 これ、誰が主人公だ? 読み返したら、視点がブレまくってますね。
 それはともかく、あの世からわざわざ出てきて心配している姉さんと、何故か巻き込まれてしまっている蒼紫です。主人公さんにまで「縁をよろしく」なんて言われちゃって、断りきれずにこのままずるずると絡まざるを得ない状況に追い込まれることでしょう。ええ、絡ませますけど(笑)。
 ずっと前にチャットで、「縁と蒼紫が友達になったら面白いかも」という話をしていたことがあって、これで二人が親しくなる流れに持っていければ良いなあと。縁が蒼紫に恋の相談なんかしちゃうんですよ。何の参考にもならなそうだけどな。
 しかし、8歳も年上の家事が出来ない主人公さんとくっ付いちゃって、縁の“男の幸せ”って何処にあるのかなあ………。蒼紫でなくても悩んでしまいそうな状況です。
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