初空
初空 【はつそら】 元旦の大空。
「初詣に行くよ!」夜明け前に叩き起こされた第一声が、それだった。
いつもは縁が起こしてやらないと昼まででも寝ていそうな勢いのだが、今日は様子が違う。きっちり化粧をして髪もまとめ、今すぐにでも出かけられる状態だ。
「初詣ネぇ………」
のっそりと起き上がると、縁は面倒臭そうに大欠伸をした。
正直、今更初詣など面倒臭い。別に願かけるようなことも無いし、何より神社は家から遠いのだ。しかもまだこんな時間である。どうしても行きたいなら、昼から行っても良いではないか。
あからさまに面倒臭さを前面に押し出す縁に、は軽く眦を吊り上げて説教を始める。
「駄目よ、こういうのはちゃんとしないと。縁は外国暮らしが長いからピンと来ないかもしれないけど、一年の最初は神様にご挨拶しなきゃ駄目なの!」
「一年の始マりっテ………」
偉そうに腰に手を当てて偉そうに説教するの言葉の、一体どこから突っ込みを入れれば良いのやら、縁には皆目見当が付かない。
一年の始まりも何も、すでに正月も7日を過ぎているのだ。七草粥も既に食べてしまっているというのに、今更“一年の始まり”などと言われても説得力など無い。
第一、今日まで初詣が延びたのも、元はといえばが正月の間ずっと飲んだくれていたせいではないか。大晦日からこっち、毎日毎日飽きもせず酒ばかり飲んでいて、正気だった時など食事時以外は無かったくらいだ。
多分は、今日までの天気は一切知らないはずである。7日までは正月休みだからと、家に籠りきりでひたすら飲み食いに費やしていたのだから、ある意味凄いといえば凄い。
そんなから“一年の始まり云々”と説教をされるのだから、縁には納得がいかない。七草粥も食べておいて、今更一年の始まりもないではないか。どうせ出遅れているのだから、今更いつ初詣に行っても良いと思う。
「昼から行クから。今は寝せてくレ」
まともに相手をするのも馬鹿馬鹿しく、縁はもう一度布団に潜り込んだ。が、即座にが布団を剥ぎ取る。
「何言ってるの! 初詣は初日の出を見ながら行くのが常識でしょ! ほら、さっさと起きて!!」
そんな常識聞いたことも無い、と突っ込む間も無く、は乱暴に縁の寝間着の帯に手をかける。何が何でも今すぐ初詣に行きたいらしい。以前から自分勝手だと思っていたが、自己中もここに極まれりである。
「うわぁああっっ!! やめロ――――っっ!!」
今にも引き剥がされそうな寝間着を押さえて、縁は情けない悲鳴を上げるのだった。
―――――というわけで二人は今、神社にいる。初詣の時期を完全に外した境内は閑散としていて、寒々しいくらいだ。
「やっぱりこの時間だと人がいなくて良いわねぇ」
誰もいない薄暗い神社など、縁には不気味なことこの上ないのだが、は大満足しているらしい。手袋をした手を擦り合わせて、嬉しそうな声を上げる。
この時間でなくても今日ならいつ行っても人はいないだろう、と縁は突っ込みたかったが、どうせ他人の話など聞いてはいないのだから黙っている。こういう時は、何を言っても無駄なのだ。
こうなったらさっさと参拝して、さっさと帰るに限る。朝食も食べさせてもらえずに延々と歩かされ、腹も減っているのだ。寒いし腹は減るしで、最悪である。
不機嫌な縁を無視して、は弾むような足取りで賽銭箱まで歩いていくと、景気良く小銭を投げ入れた。そして勢い良く鈴を振る。
こんな時間にこんな大きな音を立てて、近所迷惑になるのではないかと縁は心配になるが、は全く気にしていないらしい。境内に響き渡るような大きな拍手を打って、願掛けを始める。
仕方が無いので、縁も控え目に鈴を鳴らして並んで手を合わせた。
手を合わせたところで、願うことはこれといって思いつかない。そもそも縁は、神も仏も信じてはいないのだ。本殿の中にあるのが札だか石だか人形だか判らないが、そんなものに祈ったところで、望みが叶うわけがないではないか。
欲しかったもの、願ったことは何でも、自分の力で手に入れてきた。勿論全てが手に入ったわけではないが、何かに祈って手に入れようとは微塵も思わなかった。頼りになるのは自分の力だけ―――――そう信じて縁は生きてきたのだ。それを今更神仏に祈るなど、馬鹿馬鹿しくてやってられない。
しかし隣に立つは、真剣な面持ちで何やら祈っている。そろそろ終わったかと、時間を見計らってちらちらと隣を見るが、なかなか終わらない。よほど沢山のことを願っているのだろう。小銭でそれだけの願をかけられるなど、本堂の中の物も大変である。
「よしっ!」
どれくらい祈ったか、漸くは満足したように顔を上げた。
「お待たせ。さあ、帰ろうか。お腹空いたね」
ぴょん、と石段から下りて、は縁を見上げてにっこりと微笑む。
あんなに熱心に、は何を祈ったのだろう。仕事のこと、落人群のこと、自分のこと、まだ残っているという親の借金のこと―――――たとえインチキでも神に縋りたいと思うことは、には沢山ありすぎる。
は強いから縁には何も言わないけれど、辛いことや苦しいことを去年一年ずっと抱えきたのだ。もしかしたら彼女は、神に祈っていたのではなく、此処に心の重荷を置きにきたのかもしれない。そう縁に思わせるほど、の笑顔は清々しかった。
「そんなに長ク、何を祈ってたんダ?」
何も考えていない振りをして、縁は石段をゆっくり下りながら尋ねる。
「んー? “今年も一年、無事に過ごせますように”って」
「それだけカ?」
「うん」
「それだけのコトを、こんなに長々ト?」
「うん。何で?」
唖然とする縁が理解できないように、は怪訝な顔をした。
怪訝な顔をしたいのは、縁の方だ。そんなつまらないことのために、あんなに長々と参るなんて。眉間に皺を寄せてまで必死に祈っているから、もっと違うことを願っていると思っていた。
一年無事に過ごせるようになど、そこまで必死に願うことではないではないか。余程のことが無い限り、大抵の人間は大した事件に遭遇すること無く毎日を過ごすことができる。
「そんなつまらないコトを………」
「つまらないことじゃないわ」
呆れ返る縁に、は心外そうな顔をした。
「普通に過ごすって、大変なことよ。大きな病気もせずに、大きな災難も降りかからずに、一年間元気に過ごすなんて、ありがたいことだわ」
「そういうものカ?」
上海時代の縁のような生活をしていれば、何事も無い毎日はありがたいことかもしれないが、今の生活では当たり前に叶う願いのような気がする。そんなことを真剣に願うくらいだったら、もっと違うことを願えば良いのに。
普通、神仏に祈ることといえば、今よりももっと良い状況に持っていくことだと思う。それは金持ちになることでも良いし、男女のこととか仕事の成功とか、何でも良い。誰だって、今よりいくらか良くなることを願って、小銭とはいえ賽銭を投げ込むものだ。
納得できずに真剣に考え込む縁に、はふふっと笑う。
「今より良くなることを願うよりも、今ある“良いこと”を大切にしたいの。この歳まで生きてると解るけど、あって当たり前と思っているものほど、呆気無くなくなってしまうものなのよ」
そう言ったの横顔が寂しげに見えて、縁はかける言葉を失ってしまう。
縁もも、大切なものを全部失ってしまって、何も持っていない。縁は巴を失い、は身よりも財産も失った。何も無いところから始まって漸く手に入れることが出来たものは、一文の価値が無いものであっても、かけがえの無い宝物だ。何があっても守りたいと思う。
何よりも大切で何よりも失いたくないものだから、それ以上のものを望もうなんて思い浮かばない。否、下手に欲張って、今あるものさえ取り落としてしまうことを恐れているのだろう。深い絶望から這い上がった人間は、今よりも幸せになろうと望むよりも、今ある幸せに固執してしまって、それ以上のものを得ることを恐れるものだ。
自分のこともそうだが、もいつか、今以上の幸せを望めるほどに幸せになれたらと思う。彼女にそう思ってもらえるように、支えになりたい。巴にそうできなかったことを、にしてやりたい。
「あー、初日の出」
東の空が次第に明るくなっていく様を、が眩しそうに目を細めて眺める。その表情にはもう翳りは無く、いつもの明るい彼女だ。
今更初日の出でもないだろう、と縁は突っ込みかけたが、それも野暮だと思い直す。にとっては、今年初めて見る日の出なのだから、初日の出には違いない。
「今年は何事も無く無事に過ごせたら良いなあ。私、今年から厄年だから」
「そうダな―――――って、厄年?!」
あまりにもさり気なく言われて危うく縁は聞き流しそうになってしまったが、“厄年”とはどういうことなのか。年上だとは判っていたから深くは追求しなかったが、“今年から厄年”ということは、まさか―――――
「お…お前、幾つダ?」
「え? 30。今年で31になるよ。前厄だから」
驚きで目を見開いて固まっている縁に、は何でもないように答える。女というものはある程度歳が行くと年齢を誤魔化したがるものだが、彼女はそうでもないらしい。
変に隠されるよりははっきりと答えるの姿勢は清々しいが、今はそんなことはどうでも良い。せいぜい2、3歳年上だと縁が勝手に解釈していたのに、予想外に年増だったことも、この際どうでも良いことだ。問題は、30にもなってコレということである。
普通、その歳まで生きていれば、多少は生活能力が付いているはずなのに、それが皆無というか絶無というのはどういうことなのか。お前は一体30年も何をしていたのかと、縁は問いたい。
驚く縁の顔が余程可笑しかったのか、はけたけたと声をたてて笑う。
「びっくりした? 私、結構若く見られるのよねー」
「お前、30にもなってルなら、料理ぐらいできロよっっ!!」
情けないやら、びっくりするやら、腹が立つやら、縁は顔を真っ赤にして怒鳴りつけた。そして、下りかけた石段で勢い良く回れ右をすると、叩きつけるように賽銭箱に小銭を投げつける。
神仏に願を掛けるなど馬鹿馬鹿しいと思っていたし、これ以上の幸せを望んだらしっぺ返しが来るかもしれないと心のどこかで恐れているところがあったが、もうそんなことは言っていられない。がまともな三十路女になるなら、何だってしてやる。
「縁ー、そんな大きな音たてると、近所迷惑だよぉ」
何か激しい感情を叩きつけるように鈴を振る縁の背中に、がけたけたと笑いながら声をかけた。
2006年正月縁ドリームです。“初空”は元旦の空のことですが、まあ正月三が日飲んだくれていた主人公さんにとっては、“今年初めての空”ってことで(笑)。
しかしこの主人公さん、料理は駄目だし、“片付けられない女”だし、おまけに大酒飲みって、とことん駄目じゃん……orz 縁も苦労するなあ。
しかも主人公さん、実は三十路の女だったらしい。6歳年上か………すげぇな、オイ(笑)。そういえば、ヒロインさんが年上のドリームって書いたことがなかったので(逆の年回りはよく書いてるけど。兎部下さんなんか、斎藤より一回り年下だよ)、まあこれから楽しみといえば楽しみ。
それでは今年もこの歳の差逆転カップルドリームをよろしくお願いいたします。