眩しい

「不健康すぎるわ!」
 座禅を組んでいる蒼紫を正面から仁王立ちで見下ろして、が言った。
 またか、と言いたげに一瞬眉間に皺を寄せ、蒼紫は目を開いて面倒くさそうにを見上げる。
「お前、毎日毎日飽きもせずに………」
 心底呆れ返ったように蒼紫は言った。
 志々雄の騒動の後、彼は自分を見詰め直すために毎日『葵屋』の奥座敷で座禅を組んでいるのだが、ここ最近、毎日こんな遣り取りを繰り返しているのだ。は蒼紫を外に連れ出したいと思っているらしいのだが、正直まだそんな気分にはなれない。修羅道に堕ち、翁を殺しかけた自分が何かを楽しむことなど許されないと思っている。そう言うと、その心のありようが不健康なのだと説教されてしまうのだが。
「いい若い者が日がな一日座禅なんて、不健康もいいところだわ! 外はこんなに良い天気なのよ。あの世が近い爺じゃあるまいし、座禅なんか組んでる場合じゃないわ」
 腹に力を入れてそう言いながら、は外をビシッと指差す。
 季節は春。菜の花は満開で、桜もそろそろ綻び始めている。外出には一番いい時期だろう。それにこんな行楽日和は一年のうちではほんの一瞬で、はこの一番いいときを蒼紫と一緒に外出したいのだ。
 御庭番衆の頃は、二人で何処かへ行くなんて思いつきもしなかった。激動の時代、そんな暢気なことは言ってられなかった。だから、あの頃できなかったことを今やりたいのだ。ありていに言えば、青春を取り戻す、というやつである。
 が、蒼紫はつれない様子で、
「不健康で結構」
「あんたねー、たまには外に出ないと、カビ生えるよ?」
「人間の身体にカビなんか生えるか」
「ずっと座ってると、痔になるらしいよ?」
「いらん世話だ」
 馬鹿馬鹿しくなって、蒼紫は話を打ち切るように再び目を閉じる。
 毎度のことであるが、何を言っても聞く耳を持ってくれない蒼紫に、は小さく溜息をついた。軽く誘っているように見せかけているが、本当は結構真剣なのに。
 その場にぺたんと座り込むと、はじっと蒼紫の顔を見詰める。この無表情で、何を思っているのだろう。いつになったら、蒼紫の心は晴れるのだろう。
「そうやって、いつまで内に籠り続けるつもりなの?」
 真剣な顔で、が問う。が、蒼紫の返事は無い。
「自分を見詰めることも大切だけど、いつまでもそうやっていることは、みんな望んでないと思うの」
 いつまでも過去に囚われていないで、早く前を向いて歩いて欲しかった。蒼紫は十分に苦しんだと思う。沢山の人を傷付けてきたけれど、もう赦されても良い頃だろう。翁も葵屋の皆も、蒼紫には一日も早く新しい人生を生きて欲しいと望んでいるのだ。
「般若たちだって―――――」
 刹那、蒼紫が凄まじい形相での襟を掴んだ。
「さっきから聞いていれば、勝手なことをぺらぺらと―――――」
「じゃあ、そうやってお籠りを続けて、答えは見つかったの?」
 殺気さえ漂わせる蒼紫に怯む様子も見せず、は目を逸らさずに尋ねる。その強い視線に、蒼紫は言葉に詰まった。
 暫く睨み合っていたが、不意にが柔らかな微笑を浮かべた。
「あなたの中に答えが見つからないなら、外に探しに行くのもいいんじゃない?」




 雲一つ無い空の青さと菜の花の黄色が目に痛い。一面の菜の花畑の向こうには小高い山が見え、上の方が煙るような桜色に染まっている。明治に入って11年、昔とは様子が変わってしまった京の街も、中心地を外れればこんなのどかな風景がまだ残っているのだ。
 もう少し暖かくなって桜が満開になれば花見客で賑わい、それを目当てに露店が立ち並ぶのだが、今はまだ人影もまばらだ。桜を楽しむことは出来ないけれど、のんびりと散策するには一番いい時期だろう。
「蒼紫が戻ってきたら、絶対一緒に来ようと思ってたの」
 弾むような足取りで前を歩いていたが、身体ごと蒼紫を振り返って言った。
 この辺りは花見の名所であると共に、逢い引きの名所でもある。と蒼紫も、傍から見れば恋人同士に見えることだろう。そう思うと、は一寸気恥ずかしくなる。
 が、蒼紫はそんなことは全く気にも留めない様子で、眩しげに目を細めて菜の花畑に目を遣る。
「こうやって花を見るのは、何年振りだろうなあ………」
 激動の幕末、そして放浪の11年。四季の折々に目を留めることなど無かった。そんなものよりも、“最強”の二文字を手に入れることの方が大事だった。最後にこうやって菜の花を眺めたのは、いつだっただろう。
 ふわりと、暖かな風が吹いた。土の匂いと菜の花の香りが、懐かしい気持ちにさせる。そういえばこの香りに気付くのも何年振りだろうか。多分、子供の頃以来だ。今まで本当に季節の移り変わりに無頓着だったのだと、蒼紫は改めて驚いてしまう。
 それよりも驚くのは、時間の流れの速さだ。志々雄騒動の幕開けともいえる内務卿・大久保利通の暗殺が5月14日。それから一連の騒動が終わったのは、夏になろうとしている頃だった。それが、今では菜の花の季節である。かれこれ一年近く籠り続けていたということか。
 確かにから「不健康だわ!」と説教されても仕方が無い。我ながらよくもまあそんなに籠り続けられたものだと、蒼紫は自嘲した。
「本当はね、去年の秋にも連れて来たかったの。秋は、山の神社の公孫樹いちょうが綺麗なのよ。凄く大きな御神木でねぇ、とても公孫樹に見えないんだから」
「ああ………」
 そういえば、半年くらい前にも、は今日みたいに頻りに外に誘おうとしていた。あの頃は今よりも内に籠っていて、彼女との会話すら成立していなかったことを思い出す。
 何を言っても返事すらしない相手に、は毎日根気よく話しかけてくれていた。『葵屋』の中のこと、京都の街のこと、四季折々のこと。ともすれば内面世界から戻らなくなってしまう蒼紫を、そうやって現実世界に引き留めようとしてくれていたのだろう。そんなの気持ちを思いやることも出来ずに、無視したり怒鳴ったり、思えばひどいことをしてきた。過去の行状を思い返すと、蒼紫は今更ながら自己嫌悪に陥ってしまう。
「すまなかった」
 素直に、その言葉が蒼紫の口から滑り出た。
 蒼紫の言葉に、は一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐにいつもの優しい笑顔を見せる。
「あの頃は、まだ外に出られる状態じゃなかったんだもん。仕方ないよ。でも、今年は絶対来ようね」
「そうだな」
 つられるように、蒼紫も小さく微笑んだ。
 内に籠りがちな蒼紫と違って、は身も心も健やかだ。一見、操と同じ健やかさに見えるが、実は全く違うことを蒼紫は知っている。新時代しか知らぬ操の健やかさと、激動の時代を越えたの健やかさは、全く違う質ものだ。
 蒼紫と同じように御庭番衆として手を汚し、戦わずして敗北するという挫折も知った。全ての価値観が崩壊し、誰も彼もがいくらかの屈折を持ち、自暴自棄になる者もいた中で、のように健やかさを保ち続けるのは難しかったはずだ。あの頃は、精神的に幼いせいだとか、何も考えていない日和見主義だと思っていたが、そうではない。新しい時代や新しい価値観に柔軟に対応しつつ、自分を見失わない強さを、彼女はあの頃既に持っていたのだ。
 今まで、自分は強いと思っていたし、実際強かった。だがそれは、肉体的な強さだ。精神的な強さは、には足元にも及ばない。“最強”の名を求めてを放浪した11年だったが、本当に求めるべきはもっと違うものではなかったのか。それを求めていたら、般若たち四人を失うことは無かったかもしれない。
「どうしたの?」
 再び内に籠って考え込んでしまう蒼紫の顔を覗き込んで、が尋ねる。
 その屈折も屈託も無い顔が菜の花よりも眩しくて、蒼紫は目の奥が痛くなって思わず目を細めた。
「お前のような強さを持っていたら………何も失わずに済んだのだろうか」
「私が何も失わなかったと思う?」
 その声音は変わらないが、それまでこの青空のように晴れ渡っていたの表情に翳りが生まれて、蒼紫ははっとする。
 あの激動の時代、何も失わずに済んだ人間などいるはずがない。だって何かを失い、あるいは自ら何かを捨ててきたはずだ。それでも何事も無かったような顔をして、彼女は生きているのだ。その強さに、蒼紫は改めて驚かされる。
 は蒼紫のように、失ったものを振り返ることはないのだろうか。失ってしまったことに対して、後悔の念はないのだろうか。どうしたらそんなに、操に似た健やかな明るさを持つことが出来るのだろう。
 無言で見詰める蒼紫に、は言葉を続ける。
「私だって、蒼紫ほどじゃなくても、失ったものはあるよ。だけど、それを振り返ってても仕方ないじゃない。私たちは、この明治の世の中を生きていかなきゃいけないんだもの」
「“仕方ない”で済ませられるのか?」
 愕然としたように、蒼紫は問う。
 長い人生から比べれば、蒼紫やが徳川の時代を生きたのは僅かな時間だ。だが、その僅かな時間であっても、着実に築き上げたものがあった。それを時代が変わったからといって、“仕方ない”の一言で済ませられるのか。にとっては、その程度のものなのか。
「済ませられるわけ、ないじゃない」
 初めて、の声が哀しげに沈んだ。彼女のそんな声を聞くのは京都に戻って初めてで、蒼紫はが泣くのではないかと思った。
 が失ったものが何なのか、蒼紫は知らないし、訊いたことも無い。明るく振舞っている彼女だったから、失ってしまったものに対する心の傷は、既に完治していると思っていた。けれど、心の傷は目に見えないだけに、は蒼紫が思っているよりも深く大きな傷を負っていたのかもしれない。
 が、は泣くことはなく、それどころか何かを吹っ切るような笑顔を見せて、
「失ってしまったものの分、また新しく手に入れればいい。私はそうやって、明治の時代を生きてるの」
「だけど俺は―――――」
 蒼紫が失ってしまったものは、また新しい違うものを手に入れれば済む種類のものではない。自分の力が及ばなかったせいで、自分のために死んでいってしまった四人の部下。否、蒼紫にとって、彼らは部下以上の存在だった。
 あの四人の命と引き換えに、蒼紫は生き残った。あの四人の命が、蒼紫の命の対価だった。あの四人を犠牲にしてまで生き残る価値が自分にあったとは、蒼紫には思えない。あの時、自分は死ぬべきではなかったのか。そうすれば、翁を殺しかけることは無く、操をあんなに悲しませることは無かった。
 自分の内面との対話は、最後はこの問いにぶつかる。

 ――――――自分は、生きることを許される存在なのだろうか。
 
「蒼紫!」
 パシッと、が両手で蒼紫の頬を挟むように軽く叩いた。その痛みに、蒼紫は我に返る。
 上目遣いで軽く睨んで、は怒ったような口調で言う。
「こんなところまで来て、自分の世界に入らないで」
 蒼紫の苦しみは、にも解る。自分だけ生き残ってしまったという罪の意識。かつての仲間を殺しかけた罪の意識。彼は十分苦しんだ。もうそろそろ、自分を赦して欲しかった。
 もうすぐ、あの騒動から一年が過ぎようとしている。もうそろそろ私のことも見て、と何度言いそうになっただろう。過ぎてしまった事ではなく、死んでしまった人間のことではなく、目の前で生きている私のことを見てと、何度叫びそうになっただろう。
 心の闇に沈む蒼紫の“光”になりたかった。夜の海で方角を指し示す灯台のように、あなたがいるべき場所は此処なのだと指し示し、現実の世界に引き戻す光になりたかった。そのために強くなろうと思ったし、そのために操のような明るさを持とうと思った。それでも蒼紫の光にはなれないことに、は自分が情けなくて、悲しくなってくる。
 自分の無力さが歯痒くて、怒ったような顔のまま、は涙ぐんでしまう。蒼紫の前でだけは泣かないと決めていたのに、目が潤んでいくのを止められない。
「―――――あたしじゃ、駄目なの………?」
 の唇から零れた声があまりにも弱々しくて、蒼紫は胸を突かれる思いがした。いつも眩しいくらいに溌剌としている彼女がこんな声を出したことを、信じられない思いで見詰める。
 今まで自分だけが苦しんでいると思っていたが、も自分と同じように苦しんでいたのだろうか。そう思うと、蒼紫はますます自己嫌悪に陥ってしまう。自分の存在が周りを苦しめているのだと思うと、自分の存在自体が許せなくなってくる。
 何を言っていいのか分からずに沈黙する蒼紫に、は言葉を続ける。
「あたしじゃ、般若たちの代わりになれないの? あなたを支えられるようにもっと強くなるから、だからお願い。あなたの新しい人生を生きて。あの人たちのことを忘れろなんて言わないけど、もう過去に縛られないで」
 蒼紫の顔を包んでいたの手から力が抜け、そのままするすると下に下りていく。今にも涙が零れ落ちそうな目で哀願するように言われ、蒼紫はますますどうすれば良いのか分からなくなる。
 新しい人生を生きなければならないことは解っている。いつまでも過去に縛られていてはいけないということも解っている。けれど、部下たちを盾にして生き残った自分が、新しい人生を生きることは許されないとも思うのだ。
「あの四人を死なせて、俺だけ新しい人生を生きるなんて、許されるのか? あの四人だけじゃない。仲間を殺そうとして、お前や操たちを苦しめて―――――俺はあの時に、あいつらと一緒に死ぬべきだったんだ。そうすれば、誰も苦しまずに済んだんだ。お前だって………」
「違うっ!」
 はらわたを絞るような蒼紫の言葉を、は鋭い声で遮る。そして、これ以上望めないほど優しい声で、
「どんな形であれ、あなたが生きていてくれたの、嬉しかったよ。もう会えないと思っていたから、本当に嬉しかった。翁があんなになった時も、それでも蒼紫は無事だったんだって、心のどこかでほっとしてた。自分でも最低だと思うけど、本当よ」
「…………………」
「あなたがこうして此処にいてくれることが、嬉しい。あなたが新しい人生を生きて、それで幸せになってくれたら、もっと嬉しい。私がそう思ってるだけじゃ、駄目?」
 蒼紫のことを愛している。蒼紫の“存在”を愛している。御頭じゃなくなっても、たとえ敵対しても、“蒼紫だから”愛していると伝えたかった。無条件で彼を愛している人がいて、だから前を向いて生きて欲しいと伝えたかった。
 あなたの存在は罪悪ではない。あなたは必要とされている存在なのだと、気付いて欲しかった。
「俺は………」
 の優しい微笑を凝視したまま、蒼紫は絶句する。
 自分の存在を無条件に受け入れてくれる人がいるということ。自分の存在は許されているのだと言ってくれる人がいるということ。蒼紫が欲しかったのは、慰めの言葉でも励ましの言葉でもなく、それだったのだ。
 蒼紫が一年近くも求めていたものは、“自分が存在すること”への許し。自分との対話の答えが、今やっと見つかったのだ。
 自分の中に一筋の光が差し込んだような気がした。その光が蒼紫の中の何かを溶かしていく。
「…………あ」
 暖かいものが自分の頬を伝っていくのを感じ、蒼紫は小さく声を上げる。
 自分が泣いているのだと気付くのに、暫く時間がかかった。こうやって涙を流すなんて、もう何年も無かった。“御頭”は泣くことは許されなかったから。
 労わるように、の手が蒼紫の頬にふわりと当てられる。その手の暖かさが、蒼紫の中で最後の最後まで張り詰めていたものを一気に緩めた。
「やっと泣けたね」
 声を漏らさないように歯を食い縛って泣く蒼紫に、は嬉しそうに言った。
 泣くべき時に泣けなかったから、泣くことを許されなかったから、蒼紫は心を凍らせてしまったのだ。やっと、凍った心を溶かすことが出来た。
 『葵屋』のみんなの前で泣くことはまだ出来ないから、此処で好きなだけ泣けばいいと思う。涙が乾いた頃にはきっと、心の重石は軽くなっているはずだから。
 蒼紫が新しい人生を見つけられるまで、もう少し時間がかかるだろう。彼はやっと、立ち上がろうとしているところなのだ。蒼紫が明治の時代を生きるための道を探す時、その道を共に歩き、足元を照らす存在になれたらと、は願う。
<あとがき>
 先日、友人と花見に行った時に思いついたネタ。場所設定は佐賀県にある金立(きんりゅう)公園をモデルにしています。佐賀県の花見の名所なんだけど、私は別に佐賀県民ではない。
 当初は“健康的”というお題で書いていたのですが、何だか“健康的”とは程遠い暗い話になってしまったため、急遽“眩しい”に変更しました。暗い話なのに“眩しい”とは逆説的なんだけどね。
 男女問わず、二十代半ばというのは色々と悩み多き年代だと思います。仕事とか結婚とか、最初のターニングポイントになる年代なんでね。私も丁度その頃は仕事に行き詰っていて、蒼紫ほどじゃなくても悩みまくっていましたよ。今となっては懐かしい思い出だけどね。当時は“なんで私は生きてるんだろう”ってところまで行き着いちゃったから。
 そういう時、無条件で私を受け入れてくれる人の存在があって、私はもの凄く救われた思いがしたものです。このお話の、蒼紫にとっての主人公さんのようにね。だから私も、誰かのそういう存在になりたい。道を指し示す光にはなれないけれど、「あなたは独りじゃない」と手を振って教えられるような存在になりたいと、思うわけです。
 そんな個人的な感情が入りまくりの話で、読み返すと何だか長いだけのつまらない話になってしまいました。すみません。
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