大和撫子
大和撫子 【やまとなでしこ】 奥ゆかしさのたとえ。
の診療所兼住居に連れてこられた縁だったが、住居部分に入った瞬間、唖然としてしまった。「何も無いけど適当に座って。お風呂の用意をしてくるから」
朗らかな声でそう言うと、はぱたぱたと奥に消えた。
何も無いけど、というのは大抵謙遜して言う言葉であるが、この部屋には本当に何も無い。普通、戸棚や箪笥があっても良さそうなものなのに、部屋の真ん中にある卓袱台以外はものの見事に何も無いのだ。
こんな何も無い部屋で、どうやって生活しているのだろう。縁も上海にいた時は生活感の無い家に住んでいたが、此処までひどくはなかった。
ついでだからと、台所も覗いてみる。
「…………………」
思った通り、何も無かった。鍋も釜も、茶碗すら無い。流し台の横に湯飲みが一つ置いてあるだけだ。この様子では、下手をすると包丁さえ無いかもしれない。
巴は家庭的で料理上手な女だったが、は正反対の女であるらしい。この台所の様子を見る限りでは、絶対料理は出来ないと思う。もしかしたら、神谷薫よりも出来ないかもしれない。
「どうしたの? 座ってれば良いのに」
台所の入り口で唖然と立ち尽くしている縁を見て、が怪訝な顔をした。
「いや……何も無いと思って………」
「ああ。まだ越してきたばかりだから、家の中まで手が回らなくて。隣の部屋に荷物置きっ放しなのよ」
「最近?」
「うん。ま、“最近”っていっても、もうすぐ2ヶ月にはなるかしら」
豪快に笑って答えるに、縁は益々唖然としてしまった。
引っ越してきたばかりで荷解きができていないというのが通用するのは、せいぜい10日くらいまでだろう。2ヵ月もこの状態で放置というのは、一体どういうことなのか。
診療所の準備に手を取られて、住居の方に手が回らなかったということも考えられるが、それでも2ヶ月は長すぎる。よくもまあそんなに長いこと放置しておいて、平然としていられるものである。
もしかして、とんでもない女のところに転がり込んでしまったのではないか、と縁は急に不安になってきた。同居人は神経質よりも大らかな方が良いけれど、ものには限度というものがある。
「………食事はどうしてるんダ?」
嫌な予感がするが、一応訊いてみる。此処に来るにあたって、は“家と食事を提供する”と約束したのだ。
探るような縁の声に対し、は相変わらず朗らかに、
「んー、全部外食。料理、苦手なのよねー。洗い物も嫌いだしー」
当たり前のように言う彼女の言葉に、縁は脱力してそれ以上何も言えない。
薫の例もあるから、全ての女が料理が上手というわけではないということは縁も理解していたが、此処まで極端な例は初めてだ。なまじの顔に巴の面影があるだけに、精神的な打撃は一入だ。
巴とが別の人間であるということは、勿論理解している。面影こそ少し似ているが、性格は正反対であるということも。
しかしそれでも、心のどこかで諦めきれないところがあるのだろう。こういうの姿を見ると、縁はひどく落胆してしまうのだ。
地味に落胆している縁の様子など気付いていないように、は言葉を続ける。
「近所に定食屋とか居酒屋が何軒かあるから大丈夫よ。お風呂に入ったら、一緒に食べに行きましょう」
女所帯でありながら炊事を全くしないということを、は全く恥じていないらしい。そんな彼女の姿を見て、本当に此処に来て良かったのだろうかと、縁は早くも前途に不安を覚えるのだった。
久々に汚れを洗い流して風呂から出ると、男物の着物一式が用意されていた。女の独り暮らしの家に、と一瞬怪訝に思ったが、死んだ父親のものかもしれないと思い直す。
年寄り染みた色合いだし、着てみると少々丈が足りないようだが、今は贅沢が言える立場ではない。清潔な着物を着るというのも、思えば久し振りのことなのだ。新しい着替えを用意してもらったと言うだけでもありがたい。
さっぱりした顔で茶の間に戻ると、襖を開け放した隣の部屋で荷物を漁っているがいた。引っ越しの日から放置されていると思われる行李と風呂敷包みの山を掻き分けて、何かを探しているらしい。
「何をしているんダ?」
「あー、やっぱり一寸小さかったか。お父さんも、あの年代にしては背が高い人だったんだけどねぇ」
漁っていた手を止めて縁を振り返ると、は上から下までざっと見て独り言のように言う。続けて、
「あんたの着替えを出しとこうと思ったんだけど、こりゃ買わないと駄目みたいね。明日、往診の帰りに買いに行きましょう」
「そんなことよリ、箪笥とかは無いのカ?」
荷物の山を見渡して、縁は不審な顔をする。
部屋にあるのは、大きな行李が幾つかと風呂敷包みだけ。家具らしきものは何も無い。まだ荷解きが済んでいないなら、家具も一緒に放置されているはずなのに、生活に必要最低限の物も無いのだ。
「うん。父の借金を清算するのに、家と一緒に売っ払っちゃった。診療所の道具と、そこの卓袱台だけは売れなかったから持ってきたんだけどね」
縁の問いに、はあっけらかんと答える。
そういえば治療中の世間話の中で、父親が作った借金を今も返しているという話を、縁もちらりと聞いたことがあるのを思い出した。落人群での診療資金と、その時に感染した病気の治療費で何度も細かい借金を作り、父親が死んだ時には利息分も含めて莫大な金額に膨れ上がっていたらしい。
人助けをして自分と娘が借金地獄になってはどうしようもないだろうと縁は冷ややかに思うのだが、自身は自分の境遇を特に辛いとは思っていないようだ。残りは順調に返しているし、贅沢をしなければ普通に生活が出来るのだから幸せだと、何処まで本気かは判らないがいつも言っている。
確かに、いつも相手している落人群の連中よりは、は少なくとも人間的な生活をしているだから、幸せかもしれない。“幸せ”の基準が低すぎると縁は思わないでもないが、まあその辺りは外野がどうこう言うことではない。
少々豪快すぎるというか、女にしては破天荒なところがあるだが、こういう小さなところに感じる幸せを大切にしている健気なところは、巴に似ていないこともない。巴も、一見幸薄い人生だったけれど、一生懸命その中に幸せを見出そうとしていた。
漸くの中に巴の面影を見出して感慨に耽る縁を無視して、は言葉を続ける。
「ほんと、父が死んだ時は借金取りが押しかけてきて、まともにお葬式もできなかったもんねぇ。家財道具と一緒に、私まで売り飛ばされそうになったし。あれは参ったわぁ」
何が可笑しいのか、はげらげらと大笑いする。そこは笑うところではないだろうと縁は突っ込みかけたが、もしかしたら自棄くその笑いかもしれないと思い直して言葉を飲み込んだ。
の口から断片的に聞く過去は、縁ほどではないにしても壮絶だ。そのくせこうやって笑いながら話せるのだから、大したものだと思う。大人物か馬鹿かのどちらかだろう。
と巴は似ているけれど、やっぱり違う。その違いは縁を失望させるものだったり、逆に感心させるものだったりと様々だけれど、そういうのを観察するのは意外と面白い。
「どうしたの?」
じっと自分を見る縁の視線に気付いて、は笑うのを止めて不思議そうに見上げた。こういう表情は、巴に似ているような気がする。
「何でもナイ」
の真っ直ぐな目が妙に気恥ずかしくて、縁はふいっと視線を逸らした。
も風呂に入った後、行きつけだという近所の居酒屋に連れて行かれた。
彼女は見かけによらず大食漢らしく、男並みによく飲み、よく食べる。どうでも良い世間話などしながら食べているのだが、いつの間にか皿が空になっているという具合で、縁など見ているだけで腹一杯になってしまいそうだ。
さっきは「全ての女は料理をする(技術に関わらず)」という認識を改めさせられたが、今度は「全ての女は小食である」という認識も改めなければならないらしい。のお陰で、縁の女性観は大きく変わってしまいそうである。
気持ち良いくらいに飲み食いして外に出ると、既に満天の星空になっていた。店に入った時にはまだ黄昏時だったが、秋が近くなると暗くなるのもあっという間だ。
「ふぅ………。夜になると、やっぱり涼しいわねぇ」
満腹になって少し膨れた腹を擦りながら、は気持ち良さそうに目を細める。好きなものを好きなだけ食べて、おまけに良い感じに酔いが回っているせいか、随分と上機嫌だ。
今日一日、のことを観察していたけれど、本当に彼女はよく喋り、よく笑い、よく飲み食いをする。いい歳をした大人のくせに、女学生のように落ち着き無くくるくる変わる表情は、縁も見ていて興味深い。生前の巴は人形のように表情のない女だったけれど、もし彼女に表情があったらこんな顔になるのだろうかと思うのだ。
縁の中の巴は未だに微笑んではくれないけれど、目の前のは常に楽しそうに笑っている。美味しいものを食べれば“幸せ”、美味しい酒を飲んで気持ちよく酔っ払えば“幸せ”―――――随分な“幸せ”の大安売りだが、そういう風にいつも幸せを感じられるのは、皮肉でも何でもなく羨ましい。巴がの半分でも楽観的な性格だったら、また違う人生があったのではないかと思う。
じっと観察している縁の視線に気付いて、は怪訝そうに首を傾げた。
「どうしたの?」
「うん……いや、何でもなイ」
巴とを較べていたとは言えなくて、縁は慌てて視線を逸らす。はただの同居人で大家だけれど、やはり死んだ姉と較べられていると知ったら、内心面白くないだろう。
「変なのー」
それ以上追求するのを避けたのか、単に酔っ払ってそこまで頭が回らなかったのか、は可笑しそうにけらけらと笑うだけだ。そういう風に笑う顔も、巴ももしかしたらこんな風に笑うのだろうかと、縁に思わせる。
二人で並んで歩いていると、何処からともなくすんだ虫の音が聞こえてきた。もう秋の虫が鳴く頃なのだ。この何ヶ月か、縁の身には色々なことがありすぎて、こういう季節の移り変わりに目を向ける余裕も無かった。
「もう秋だねぇ。年取ると、時間が過ぎるのが早いわ」
そう言って、はあははーと豪快に笑う。一頻り笑った後、こんどはふっと寂しげな顔になって、
「ここのところ、色んなことがありすぎたからねぇ………。とにかく一日を乗り切るのに必死で、夏が終わるのも気付かなかったわ」
父親が死んだことや、無一文で家を追い出されたことを言っているのだろう。手に職を持っているとはいえ、財産も何もかもを失った女が独りで生きていくのは並大抵のことではなかっただろうと、縁にも容易に想像できる。
話を聞く限りでは、には縁者も頼れる後見人もいないようだし、そんな状況で生きていくには、巴のように淑やかにしてはいられない。彼女が人並み以上に豪快で逞しいのも、ひょっとしたら世間を渡り歩くために身に付けた技術なのかもしれない。そう思うと、最初は呆れ返っていたの様子も、健気に思えてくるから不思議だ。
初めて見るのしんみりとした様子に、縁は何と声をかけて良いのか分からない。こういう時に何を言えば良いのか教えてくれるような人間は、彼の周りにはいなかったのだ。
仕方がないので一緒になって黙っていると、のほうが気まずくなったのか、急に作ったような明るい声を上げた。
「やだ、何か暗くなっちゃったね。折角御飯食べて良い気分になってたのに、ごめんねー」
「いヤ、別に………」
明るく振舞おうとするの笑顔が痛々しく感じられて、縁はつい視線を逸らしてしまった。そうした後、こういう時は無理にでも一緒に笑ってやるべきだったのではないかと、少し後悔する。
子供の頃はずっと巴にべったりくっ付いていて、大陸に渡ってからは周りはみんな敵だと思って生きてきたから、こういう“敵ではない他人”に対してどう振舞って良いのか、縁は戸惑ってしまう。巴はそういうことは教えてくれなかったし、彼女自身そういう人間関係の作り方が判らない女だったから、そんな姉に育てられた縁が対人関係に迷うのは当然のことなのかもしれない。
そこまで思って、そういえば今までは他人にどう振舞えば良いかなど考えたことも無かったことに気付いた。どういう心境の変化でそんなことを考えるようになったのか縁自身も判らない。巴からは得られなかった何かを、が与えようとしているのだろうか。
と、突然、袖に不自然な重みを感じた。見ると、が穏やかな笑みを浮かべて縁の着物の袖を握っている。
「今日は久し振りにお喋りしながら御飯を食べられて、楽しかったよ。ありがとう」
「…………………」
縁が望む“巴にそっくりな表情”に、彼は思わず息を呑んだ。そういう表情をして話すと、声まで巴に似ている。
“楽しかったよ”と巴に言って欲しかった。こうやって微笑んで“ありがとう”と言って欲しかった。巴は自分と一緒にいて、のように楽しいと思ってくれたことがあるだろうかと、縁は生前の姉の姿を思い返す。
巴はもともと笑わない女ではあったけれど、だからこそ生きているうちに縁の手で、のように笑わせてやりたかった。死んでしまった後も、彼の中の巴が微笑ってくれるように色々なことをしたけれど、結局今も微笑ってはくれない。何がいけないのか、何が悪いのか、落人群に流れ着いてからもずっと考えていたけれど、未だに答えは出ない。
微笑むの顔を見ていたら、急に胸が苦しくなってきた。胸から何か大きな塊がせり上がって来る感覚に襲われて、縁は慌てて片手で口を覆う。塊は次第に大きくなって、それを無理矢理飲み下そうとすると、今度は涙が出てきた。
「どうしたの? 気分悪いの?」
潤んだ目を見られたくなくて顔を背ける縁に、が心配そうに尋ねる。が、彼の異変に気付くと、少し背伸びして白髪頭に手を伸ばした。
「貴方も色々あったんだもんねぇ」
子供にするように頭を撫でられて、縁はびっくりしてを見下ろした。頭を撫でられるなど、何年振りだろう。上海黒社会の首領だった頃には絶対に許さないことだったが、今はそうされると頑なになっていた心が解れていくような気がした。
巴のように家庭的でも奥ゆかしくも淑やかでもないけれど、はそれを補って余りあるものを持っているような気がする。それが何なのか縁には判らないけれど。けれど少なくとも彼女の手は、彼の心にまで触れている。
また一寸涙が出そうになって、縁は慌てて顔を逸らした。その姿が可笑しかったのか、は小さくくすくす笑う。
「これからは、毎日一緒に御飯を食べようね。二人だったら、きっと楽しいわ」
に頭を撫でられながらそう言われると、本当に楽しくなれるような気がしてきた。いつも楽しそうに振舞っている彼女と一緒にいたら、縁にも“楽しい”が伝染するような気がする。
何か言わなくてはと思うけれど、口を開くと一旦飲み込んだ塊が出てきそうで、縁はきゅっと口を閉じたまま小さく頷いた。
“大和撫子”の定義って何だ? いや、上記の意味で良いのでしたら、巴さんは“大和撫子”でしょうけど。
どうも世間で言われる“大和撫子”って、「奥ゆかしくて淑やかで、僕の後ろを黙ってついてきてくれて、でもか弱いだけじゃ僕が困った時に頼れないから芯の強さも持っていて、でも自己主張なんかしない、都合の良いママみたいな人」ってな感じがしてならないんですけど(曲解しすぎ?)。そんな都合の良い女、エロゲーの中しかいないって。
というわけで、この主人公さんなんですけど、独りで世間の荒波を渡っていって、何があってもへこたれない強さと、同時に母親的な優しさも持ち合わせていて、これはこれで形を変えた“大和撫子”じゃないかと。ちゃんと縁を支えてあげてるしね。ま、料理が出来なくて“片付けられない女”っていうのは、ご愛嬌ということで(笑)。
これから“姉サン”と“主人公さん”を縁の中で完全に切り離して、主人公さんという独立した一女性とラブラブにしなきゃいけないんですけど、さてどうするかな。