白雨
白雨 【しらさめ】 夕立のこと。
止む気配を全く見せない土砂降りの空を見上げて、は困ってしまって小さく溜息をついた。仕事の帰りに突然夕立に見舞われて、店の軒先で雨宿りをしているのだが、もうかれこれ一時間は過ぎている。夕立だからすぐに止むだろうと高を括っていたのだが、こんなにも長く降り続くのは予想外だった。
せめて雨足が弱くなったらとも思ったのだが、この分では暫くはこの調子のようだ。辺りも暗くなってきているし、もう土砂降りの中を走って帰るしかないのだろうか。しかし此処からの家までは、全速力で走っても20分はかかる。家に着く頃には下着までびしょ濡れだ。
「さん……ですよね?」
もう一つ盛大に溜息をついて項垂れるの頭上から、聞き憶えのある男の声がした。顔を上げると、そこにいたのは―――――
「四乃森……さん?」
そこにいたのは、蛇の目傘を差した蒼紫だった。『葵屋別館』へ向かう途中なのか、帳簿を包んでいると思しき風呂敷包みを小脇に抱えている。
まさかこんなところで蒼紫に会うとは思わなかった。先日のこともあり、は何となく気まずくて顔を逸らしてしまう。
それは蒼紫も同じだったらしく、自分の方から声を掛けておきながら、微妙にの顔から視線を逸らしている。
「雨宿り、ですか?」
「ええ、まあ………」
蒼紫の間抜けな問いに、は微妙な苦笑いを浮かべる。土砂降りの雨の中、庇の下で所在無げに立っていれば、どこから見ても雨宿りにしか見えないだろう。少なくとも、仕事や食事をしているようには見えない。
しかし、口下手の蒼紫が必死に探した会話の糸口かと思うと、としても「当たり前のことを訊くな、この馬鹿」という気持ちになるわけにもいかない。話題に困るような間柄なら最初から声を掛けるな、という考えもあるかもしれないが、顔見知りだから仕方なく声を掛けたというところもあるだろうし。仕組まれたとはいえ、一緒に食事をした相手を見て素通りするというのは、やはりやりにくい。特には、お得意様の友人である。
礼儀としての方からも話題を振らなければならないだろうが、大して知り合いでもないのに話を振るというのは難しい。下手に話しかけると、蒼紫と同じように間抜けなことしか言えないし、そういう話題を振られても相手も答えに困ってしまうだろう。実際、は反応に困ってしまった。
こちらから振る話題を考えてて黙り込んでいると、蒼紫の方が口を開いた。
「お近くでしたら、家までお送りしましょうか? この分だと、暫く止まないでしょうし」
「へ?」
蒼紫の申し出に、はびっくりして軽く目を見開いた。
本人は親切のつもりで言っているのかもしれないが、顔見知り程度の仲で家まで送るというのは少々不躾だ。身元もしっかりしているし、悪い人ではないとは思うけれど、若い男に自宅を知られるというのは色々な意味で抵抗がある。
無下に断るのも失礼だが、かといって送ってもらうのもまた困る。何か良い口実はないかと考えていると、蒼紫もの考えていることを察したのか、慌てて訂正した。
「あ、それよりも傘をお貸しした方が良いですね。少し歩きますが、本館に来ていただければお貸しできますが」
「ああ………」
それならありがたい。傘は、そのうち郁と『葵屋別館』行くついでに返せば良いだろう。
「ありがとうございます」
小さく微笑んで、は礼を言う。
の微笑みに、今度は蒼紫が軽く目を見開いた。先日の食事の時はずっと無表情か不機嫌しか見せなかったから、自分と同じ笑わない女だと思っていただけに、こういう風にふわっと微笑むこともできるというのは意外だった。
いつもそういう風に笑っていた方が良いですよ、と言おうかと思ったが、流石にそれは失礼だろうと蒼紫は思い直す。けれど、こういう風に控え目に微笑むの顔は、『葵屋』の元気一杯の女衆の笑顔とはまた違って新鮮だ。こういう静かな笑顔というのも悪くない。
「どうぞ」
蒼紫もつられるように口許を僅かにほころばせると、傘を軽くの方に傾けた。
一つの傘に入って並んで歩いていると、蒼紫の背の高さがよく判る。も女にしては背の高い部類に入るが、そんな彼女の目から見ても蒼紫は見上げるほど背が高い。
相手が男であっても殆ど相手を見上げることが無いだけに、こういう風に相手を見るのはには新鮮だ。自分が小さくて庇護されるべき存在になったようで、背が高いというだけで強い女と思われがちな彼女は、世界が一気に変わったような錯覚を覚えてしまう。
「どうしました?」
無意識のうちにじっくりと見上げていたらしく、蒼紫が怪訝な顔をした。その声にはっとして、は慌てて顔を逸らす。
「あ、いえ………。背が高いなあと思って」
「ああ………」
納得したような小さな声を上げた後、蒼紫は目元だけで苦笑する。
「あまり高すぎるのも困りものですよ。着物を作るのも大変だし、ぼんやりしていると鴨居に頭をぶつけそうになるし」
「えぇ?!」
真面目な顔をして冗談のようなことを言うのが可笑しくて、はころころと笑う。仮に本気で言っているにしても、しっかり者のように見える蒼紫が鴨居に頭をぶつけるところを想像すると可笑しい。やはりぶつけても、無表情で額を擦るのだろうか。
笑いが止まらないを、蒼紫は初めて会う女を見るような目でまじまじと見下ろす。愛想が無くて陰気な女だと思っていたのに、こんな笑い上戸だとは思わなかった。
考えてみれば、いきなり知らない男との見合いの席に出されれば、いくら明るくて社交的な女でも、むっつりとしてしまうものなのかもしれない。特には自分の意思をはっきりと表明する女のようだから、嫌だと思ったら表面を取り繕うことも出来ないくらい、とことん嫌になるのだろう。
ということはあの日、最初から最後まで一切笑顔を見せなかったということは、蒼紫は嫌われたということなのだろうか。しかし、こうやって同じ傘に入って歩いているところを見ると、そうでもないような気がするが、蒼紫にはよく判らない。かといって自分のことを好きか嫌いかと訊けるような仲でもないし、胸の中がもやもやするような微妙な気持ちになってしまう。
「どうしました?」
一頻り笑った後、は目の縁に溜まった涙を指先で拭って、蒼紫を見る。
「いえ……そういう風に笑う人だとは思わなかったので………」
「ああ、あの時は………」
あの夜の自分を改めて思い返すと、あまりの大人気なさに今更ながら恥ずかしくなる。きっとあの時、蒼紫はのことを非常識な女だと思ったに違いない。
それでもこうやって傘に入れてくれて、おまけに別に傘を貸してくれるというのだから、本当に良い人だと思う。こんなに良い人だったのなら、もう少し愛想良くしておけばよかったと思う。
「あの時は済みませんでした。いきなりのことで私、びっくりしちゃって………」
「いえ、こちらこそ。どうもうちの店の者が暴走してしまったようで」
頬を染めて恐縮するに、蒼紫は穏やかに微笑んで応える。続けて、
「この歳まで独りでいると、本人よりも周りが焦るようです。こういうのは縁のものだから、周りが騒いだところでどうしようもないと思うのですが、なかなか………」
「ですよねー。解ります、すっごく解ります。本当、どうして放っておいてくれないんでしょうねぇ。無理矢理引き合わせたって、本人にその気が無ければ上手くいかないのに」
食事の時も感じていたけれど、やはり蒼紫もと同じことを思っていたのだ。この歳で新しい恋に興味を持てない自分はおかしいのだろうかと少し不安に思っていただけに、同類を見つけた喜びでは思わず身を乗り出して力強く言ってしまう。
いきなり勢いよく食いつかれて、蒼紫は圧倒されて思わず一寸身を引いてしまった。
初対面では愛想が無くて陰気な女だと思い、さっきまでは少し大人しいけれどそこそこ社交的な女らしいと思っていたが、こんな威勢の良い一面もあったとは。こんな短時間で印象が二転三転するとは、第一印象は当てにならない。
引き気味の蒼紫に気付いて、はぱっと顔を赤くする。そして彼との距離を元に戻して、
「四乃森さんは特にお店があるから、周りも気が気じゃないんですよ。でも、こういうことってそっとしておいて欲しいですよね。時期が来ればきっと、自分から何とかするでしょうし」
言いながら、そんな時期が自分にも来るのだろうかと、ふとは疑問に思った。単に恋愛に興味が無いだけなら、そのうち恋人が欲しいと思う日が来るかもしれないけれど、前の恋で深い傷を負ってしまった自分でも、同じように恋をしたいと思う日が来るのだろうか。過去の傷を乗り越えられるほどの好きな相手に出会える日が来るのだろうか。
黙り込んでしまったに、蒼紫もただならぬものを感じたが、気付かない振りをする。何を考えているのか蒼紫には解らないが、顔見知り程度の人間が首を突っ込むことではない。
そのまま二人とも口を利かないうちに、『葵屋』に着いた。勝手口に回ってを中に招き入れると、蒼紫は彼女に貸せそうな傘を物色する。
「あら、蒼紫様。もうお戻りですか?」
物音に気付いたらしく、奥から使用人らしい女がひょっこりと顔を出した。が、の存在に気付くと、大きく目を瞠ったまま硬直する。どうやら、蒼紫が女を連れてくるというのは、『葵屋』ではとんでもない出来事らしい。
変な方向に話が進まなければ良いなあ、とが思った瞬間、女は彼女の心配を読み取ったかのように奥に向かって声を張り上げた。
「みんなー!! 蒼紫様が女の人を連れてきたわよ――――っっ!!」
「こ……こら! お近っっ!!」
蒼紫の引き留めも空しく、奥からわらわらと使用人が出てきた。此処の主人と思しき老人まで混じっている。
女っ気の無い若旦那が女を連れてきたということで大騒ぎをするというのは、も気持ちは解らないではないが、自分がやられると流石に引いてしまう。好奇心たっぷりの視線も、何だか痛い。
何となく色々なことを期待されていそうな視線に居た堪れなくなって、は蒼紫の後ろにそっと隠れた。が、その様子も『葵屋』の使用人たちにただならぬ関係であると誤解させてしまったようで、彼らはますますを品定めするような目で見る。
蒼紫もこの視線には居た堪れなくなったらしく、急に不機嫌な顔になって使用人たちに宣言する。
「この人は別館の常連さんのご友人で、傘を借りに来ただけだ。お前たちの考えているような人じゃない」
「えー………」
蒼紫の言葉に、全員が気落ちしたような暗い声を上げる。どうやら『葵屋』の人間たちは、を“若女将候補”として見ていたらしい。傘を借りに来ただけでそんな目で見られるとは、『葵屋』の“若女将急募”は本当に切羽詰っているようだ。蒼紫も大変だと、は気の毒に思う。
蒼紫に否定されても『葵屋』の者たちはまだに未練があるらしく、雨が上がるまで此処にいるように言われたり、中で茶を飲んでいくように勧められた。土砂降りの雨の中を帰るよりは、と一瞬も思ってしまったが、中に入ったら最後、また見合いの席を作られそうで、それは丁寧に断った。そういう席を設けられたら、蒼紫だって困ってしまうだろう。
は郁一人を相手にしていれば良いけれど、蒼紫は『葵屋』本店と別館の全員からせっつかれているのだから、彼女とは比較にならないほど大変な目に遭っているのだろう。同類相憐れむというわけではないが、今の蒼紫の様子を見たら、は急に親近感が沸いてきた。
「何だか、私よりも大変みたいですね。頑張ってください」
臙脂色の蛇の目傘を受け取る際に、はそっと蒼紫に囁いた。
「ありがとうございます」
蒼紫も苦笑して、小声で応えた。
蒼紫とその後ろに控える面々に丁寧に礼を言って、は『葵屋』を出て行った。
「茶くらい飲んでいけばよかったろうに………」
小さくなっていくの後ろ姿を未練がましく見遣って、翁が独りごちる。
折角蒼紫が妙齢の婦人を連れてきたのだ。本人たちは傘を借りに来ただけと言っているが、それが縁で結ばれるということもあるではないか。雨宿りが縁で、というのは芝居でも流行小説でもよくある話だ。
が、蒼紫はさっさと中に上がって鬱陶しげに、
「茶なんか飲んでたら、帰る頃には暗くなる。それに、あんな品定めするような目で見られたら、さんだって気分が悪くなるというものだ」
「暗くなったら、家まで送れば良いじゃろう。相手の家を押さえておくというのは基本ではないか」
「大して親しくもない男に送られたくないから、わざわざ傘を借りに来たんだ。大体何だ、“家を押さえる”とは。さんは標的でも追跡対象でもない」
翁の不躾な言葉に、蒼紫はあからさまに不愉快な顔をした。
こんなことになるのだったら、に傘を押し付けて濡れて帰れば良かった。あんなにじろじろ見られれば彼女も不愉快だろうし、実際居た堪れないような様子を見せていたではないか。あれで警戒するようになって、店に来なくなったらどうするつもりなのか。
そろそろ若女将を迎えたいという皆の気持ちは、蒼紫も理解している。けれど彼一人に圧力をかけるなら兎も角、連れてきた女まで見境無く“若女将候補”に仕立て上げようとする姿勢が気に食わない。そんなことをされるから、ますます蒼紫も意地になって態度を硬化させてしまうのだ。
「さんが傘を返しに来ても、変なことを言うんじゃないぞ。あの人だって、そういう気は全然無いんだ」
あの短い会話の中で、も蒼紫と同じくらい恋愛に興味が無いことが解った。否、興味が無いというより、腰が引けているというか、臆病になっているという表現が正しいか。女としてまだ良い時期だと思うのに、何故そう思っているのかは蒼紫には解らないが、そんな彼女を若女将探しに巻き込んだら、あの郁も絡んできて追い詰めてしまうだろう。
蒼紫が外野からやいやい言われるのは、『葵屋』を背負っているのだから、ある程度仕方が無い。けれどは柵の無い自由な身の上なのだから、そっとしてやって欲しいと思う。蒼紫のせいでおかしな方向に囲い込まれてしまったら、目も当てられない。
釘を刺すように蒼紫は翁を睨みつけるが、翁はまったく応えていない様子で飄々と、
「お前の押しが弱いだけじゃないのか? あの人はお前に釣り合うくらい背が高いし、雰囲気もまあ悪くはないし、料亭の若女将も出来ると思うんじゃがのう」
「だから、さんには最初からその気は無いと言ってるだろう! あまりしつこいと、こっちにも考えがあるぞ」
「おお、怖い怖い」
怒鳴られても軽く受け流し、翁はからからと笑いながら自室へと戻って行った。
「あら、さん、こんな傘持ってた?」
机に立てかけてある傘を目ざとく見つけて、書類を抱えた郁が首を傾げた。
「あ、これ………」
疚しいことは何も無いけれど、は一瞬どきりとする。
今日の帰りにでも『葵屋』へ傘を返しに行こうと思って持ってきたのだが、よく考えれば職場に持って来れば郁の目にも当然触れ、詮索される危険性も一気に高くなるのだ。早く返そうと思って持ってきたが、休みの日にこっそり返しに行った方が良かったかもしれない。そうしたとしても、『葵屋』の方から郁に話が伝わってしまうだろうが。
適当に誤魔化そうかとも思ったが、どうせ『葵屋』から話が伝わるのなら、隠している方が誤解されそうだ。正直に言って冷やかされるのと、誤解されて暴走されるのはどちらがマシかといえば、冷やかされる方がマシなような気がする。
妙な想像をさせないように、は出来るだけ素っ気無く言う。
「昨日、夕立に遭って、四乃森さんから傘を借りたのよ」
「あらあら、まあまあ」
口許に手を当ててわざとらしい驚きの表情を作りながら、郁の目はカマボコ型になっている。妙な想像をさせないために正直に言ったのだが、それでも十分に彼女の想像力を刺激してしまったらしい。
郁は書類をの机に置くと、ぐっと身を乗り出す。
「それって、四乃森さんが差していた傘を借りたの? 自分がずぶ濡れになっても女に傘を貸すなんて、相当あんたのこと気に入ってるわよ」
「違うわよ。『葵屋』まで行って、違う傘を借りたの」
「えっ?! それって相合傘じゃない! なぁんだ、うまくいってるんじゃないの」
「や……別にそれは………」
頬を紅潮させて異様な盛り上がりを見せる郁に、は一寸引いてしまう。
傘に入れてもらうのは確かに相合傘だが、でもそれは郁が想像しているようなものとは違う。話だって世間話くらいのものだったし、それでさえ大して盛り上がらずに沈黙の時間が多かったくらいなのだ。
けれど郁は“いかにも”な相合傘を想像しているらしく、はしゃいだ声を上げる。
「あの時はあんまり盛り上がらなかったから、もう駄目かと思ったけど、そっか………上手くいってるんだぁ。良かったぁ。あの若旦那さんほどの優良物件なんて、そうそうあるもんじゃないからねぇ。うーん、良かった、良かった」
「や……あのね、別にそういうわけじゃ………」
否定しようとするけれど、郁の勢いに圧されて、の声は何となく弱腰になってしまう。
別に“上手くいっている”というわけではない。たまたま傘を借りて、お互い今は恋愛には興味は無いという話をしただけで、郁が期待しているようなことは何一つ無かった。これからも、それは無いと思う。
けれど郁はそうは思っていないようで、きっと『葵屋別館』の人間にの話を報告するだろう。それも郁の想像を交えた、事実とは全く違う話として。郁が勝手に盛り上がるのはもう仕方が無いと諦めるが、これが巡り巡って蒼紫の耳に入ったら困る。まるでが、外堀から埋め立てて蒼紫をカタに嵌めているようではないか。
とはいえ、今の状況はも同時にカタに嵌められつつあるようで、我がことのように浮かれる郁をちらりと見遣って、そっと溜息をつくのだった。
微妙に距離が近付きつつある二人ですが、周りが騒ぎすぎて、また一寸引き気味です。周りが盛り上げて二人がくっ付くっていうパターンも勿論ありますけど、あんまり騒がれすぎると引いちゃいますよね。ま、周囲はほどほどにサポートっていうのが理想的です。
“3歩進んで2歩下がる”っていいますけど、この二人の場合は1歩進んで2歩下がってそう………。お互い、その気が無いのを確認し合ってるくらいだしなあ(苦笑)。どうやってこの二人をくっつけよう?
でもお互い、積極的にくっ付こうとはしないけれど親近感は芽生えたようで、それはそれで大いなる第一歩ではないかと。始めの一歩がなきゃ、先には進めないですからね。もどかしくても、生温かく見守ってやって下さい。