檸檬色

檸檬色 【れもんいろ】 鮮やかな緑みの黄色。レモンには「愛嬌のない女」という意味も。
 会話が無くても楽しい食事というものも世の中には確かに存在するが、大抵の場合は息が詰まるものだ。それは無口で自他共に認める陰気な性格の蒼紫も例外ではない。
 『葵屋別館』の常連である郁に誘われて座敷席に上がったまでは良かったが、早くも蒼紫は居心地が悪い。それもこれも、対面に座るが原因だ。
 何が面白くないのか、はむっつりと押し黙って、ひたすら食べることに没頭している。最初は自分と同じ人見知りする性質なのかと蒼紫も好意的に見ていたが、どうも様子が違う。友人である郁にも同じように愛想が無いし、どうも今日は不機嫌なようだ。
「あらー、何だか二人とも黙り込んじゃって、もしかして緊張してるのかしら〜?」
 この気まずい雰囲気を何とか盛り上げようと気を遣っているのか、郁が白々しいほどに明るい声を上げた。が、その努力も空しく、は不機嫌に郁を一瞥しただけで、無言で小鉢の中身を食べ続ける。
 不機嫌なの様子を見ていると、蒼紫は何故自分が此処にいるのか判らなくなってきた。彼から押しかけてきたわけではなく、逆に強引に席に着かされたのに、この扱いは一体何なのか。別に郁たちに接待しろと言うわけではないが、誘った方がそれなりに話を振ったり気を遣うのが礼儀ではないか。
 それともこの二人は、蒼紫を太鼓持ちか何かだと思っているのだろうか。確かに太鼓持ちが場を盛り上げなければ客は不機嫌になるかもしれないが、残念ながら彼はそういう仕事はしていないし、第一そういうのは料亭に呼ぶのであって、小料理屋ではやらない。
 考えていたら、蒼紫までむかむかしてきた。こうやって目の前の女のことで思いを巡らすのも腹立たしくて、彼は視界からを締め出すように目を伏せて、汁物の椀に口を付けた。
 お互いが相手の存在を無視するかのように目線を合わせず、蒼紫にいたっては眉間に皺まで寄せている。これで困ったのは、郁と『葵屋別館』の面々だ。折角お見合いの席を用意したというのに、これではお互いに立場が無い。相手が気に入らないならそれでも構わないのだが、その場限りでもそれなりに会話をしてもらわないと、お互いに次の相手を斡旋してもらえなくなってしまうではないか。
 郁はそっと厨房を振り返って、板前に目配せをする。と、板前があらかじめ用意していたの好物を持ってきた。
「鮎の甘露煮です。こちらはうちの奢りなんで、遠慮なく」
 鮎というと塩焼きだが、は甘露煮が大好物なのだ。これと甘口の酒があれば、大抵の場合は機嫌が直る。こういうこともあろうかと郁が用意させていたのだが、やはり役に立った。
 が、そう思ったのも束の間、は相変わらず無言で会釈をしただけで、不機嫌な様子も変わらない。余程突然の見合いが気に入らなかったらしい。まあ、手放しで喜ぶとも思ってはいなかったが、これはいくらなんでも大人気ないというものだ。
「若旦那の分は今焼いてますんで、もう少し待っていてください」
「ああ」
 板前の言葉に、蒼紫は不機嫌なまま返事をする。
「あら、四乃森さんも鮎がお好きなんですか?」
 会話の糸口が出来たとばかりに、郁が食いつく。蒼紫も鮎が好きなら、そこから会話が広がっていきそうだ。
「この人も鮎の甘露煮が大好きなんですよぉ。ねぇ、さん?」
 まるで仲人おばさんのような話の展開であるが、この気まずい雰囲気を打開するためなら仕方が無い。これで話が広がって、普通の会話が出来るようになれば、しめたものだ。
 けれどは、郁の心労を知ってか知らずか、冷ややかな口調で、
「ま、嫌いじゃないけど」
さんは甘露煮とお酒があれば、この時季はご機嫌なんですよ。あ、四乃森さんはお酒は?」
「飲みません」
 蒼紫に話題を振ってみたものの、案の定取り付く島も無い。気難しい性格だとは郁も聞いていたがなかなか手強い相手である。
 再び気まずい静寂が戻る。尤も、気まずいと思っているのは最早郁だけで、も蒼紫も相手の存在を完全に遮断しているから、全く気にならないようなのだが。
 しかしここまで頑なになられると、郁とて面白くない。板前たちに話を通して都合を付けてもらって、この日のために彼女を始めとする周りがどれだけ動いたか。勝手に動いたんだろうと言われればそれまでだし、余計な世話だったのかもしれないが、郁はが心配でたまらないのだ。
 2年前の失恋がにどれだけ深い傷を残したか、郁も知らないわけではない。けれど相手の男は既にのことを忘れて他の女と幸せにやっているのに、だけが傷付いたまま動けないというのが、郁には悔しいのだ。傷付けた人間だけが幸せになる結末なんて、許せない。
 だからにはあの男以上の男と幸せになって欲しいし、だからこそ老舗料亭の若旦那である蒼紫を用意したのだ。少々陰気な嫌いがあるが、見た目も持っている条件も良いし、何より真面目で誠実らしいし、全ての面であの男に勝っている。彼とくっ付けば、あの男を見返すことが出来るのに。
さん」
 遂に我慢が出来なくなって、郁は低い声で呼びかける。
「折角なんだから、少しは自分からも話題を振りなさいよ。話してみないといいも悪いも判らないでしょう」
 自発的に話さないなら、強制である。はこの話を無かったことにしようと目論んでいるようだが、こんな良い話を蹴るなど勿体無い。ここまで好条件の男が独りでいるなど、そうあることではないのだ。
 けれどは心の底から面倒臭そうに、
「いいんじゃないの? 向こうも喋る気は無さそうだし」
「無口な人なのよ。あんたから話題を振ってあげないと」
「え〜?」
 あからさまには嫌な顔をする。頼んで設定してもらった席でもないのに、自身が盛り上げろと言われるのだから当然だ。
 ぼそぼそと小声で話し合っている女二人を見て、蒼紫はうんざりと溜息をつく。
 郁はともかくとして、の方にはどうやら歓迎されていないことは判った。歓迎されていない席に長居するほど、蒼紫も暇ではない。
「お邪魔のようなので、失礼させていただきます」
「お邪魔だなんて、そんな! 一寸この人が気難し屋さんなんですよ」
 腰を上げようとする蒼紫を制するように、郁は早口でまくし立てる。続けてに、
「ほら、さんからも何か言って!」
「えー? 私は別に………」
 まるっきりやる気の無い態度のである。
 本人が帰りたいというのなら、帰らせてやれば良いのだ。もともととしても乗り気の話ではないのだし、向こうも同じならお互いに時間の無駄ではないか。
 としては蒼紫の意思を尊重したつもりの意見だったのだが、これが郁の怒りの決定打になってしまったらしい。それまでは引き攣りながらも笑顔を保っていた郁の目が一気に吊り上がった。
「あんたね、いい加減にしなさい! 折角『葵屋』さんに席を用意してもらったのに、そんな態度はないでしょう!」
「っていうか、別に頼んでないし」
 憤る郁とは対照的に、は冷めた声で答える。それがますます郁の神経を逆撫でしてしまったようで、彼女は「くぅ〜」と呻くような甲高い声を上げた。
 そんな二人の様子を見て、蒼紫はまた溜息をついた。そして、厨房にいる板前たちを一瞥する。
「そういうことか……。その気の無い人間まで巻き込むとは、どういうつもりだ?」
 睨み付けるというわけではないが、その冷ややかな目には相手を凍りつかせるほどの迫力があった。
 うっかり目を合わせてしまった板長が、びくっと身体を震わせる。そして、蒼紫の顔色を窺うように恐る恐る、
「いや、あの……大旦那様が、少しでもそういう話があれば、すぐに席を用意しろと仰るので………」
「あの爺………」
 蒼紫は片手で顔を覆って、大袈裟な溜息をついた。
 このところずっと、“大旦那様”こと“翁”は蒼紫に「早く若女将候補を」とせっついている。そろそろ代替わりをしなければならないから、蒼紫の代わりに『葵屋』の切り盛りを任せられる“若女将”を見つけて欲しいという気持ちも解るが、こればかりは縁のものである。無理やり顔合わせをしたところで、上手くいくわけがない。
 それ以前に、いくら“若女将急募”という状況とはいえ、こんな愛想の無い女を引き合わせるというのはどういうことなのか。万が一、蒼紫とが晴れて夫婦になってしまっても、どちらも客商売には向かないと思う。特に“若女将”は店の看板なのだし、はその器ではない。
 の様子を見ると、相変わらずぶすっとしてそっぽを向いている。こんな席にいるのがいかに不本意か、全身で表現しているようだ。
 その表情を見て、蒼紫は不本意にも口許を僅かに緩ませてしまった。若女将には向いていないようだが、嫌なものは嫌だとここまではっきり意思表示できるというのは面白い女だ。大抵の人間は、その場限りは相手に合わせて穏便に済ませようとするというのに。
 そういう意味では興味深い相手ではあるが、だからといって付き合うとかそういう対象にはならない。蒼紫とは根本的なところでは似ていると思うから、余計に男女の関係にはなれないと思う。
 蒼紫はに向き直って居住まいを正すと、深々と頭を下げる。
「今回は内輪のことに巻き込んでしまい、大変申し訳ないことをしました。お詫びといっては何ですが、今夜は当店からご馳走させていただくということで、ご容赦願いたいのですが」
「え………?」
 突然の申し出に、はびっくりして目を円くしてしまう。
 確かにいきなりこういう席を設定されて腹が立ったけれど、考えてみれば蒼紫もと同じく被害者のようなものである。しかも彼女の方だって、“内輪のこと”に蒼紫を巻き込んでいるのだ。彼の方だけが詫びを入れなければならないということは無い。
 も慌てて居住まいを正して、頭を下げる。
「いえ、こちらこそ………。巻き込んだのはお互い様なのですから、そんなお気になさらないで下さい」
 『葵屋別館』の人間も暴走気味であったのかもしれないが、どう考えても今回は郁の方が暴走している。謝るべきは、郁との方だ。
 それに、“お詫び”としてにしてもご馳走をされるというのは、何となく“借り”を作るようで嫌だ。謝るだけ謝って、普通に客として食事をして帰る方が、この場で繋がりがなくなるのだから気が楽である。
 が、それでは蒼紫の気が済まないのか、
「いえいえ。こんなことにお客様を巻き込んでしまったのですから、当然のことです。どうかお気になさらずに。私は本館に戻りますが、この後もお好きなものをご注文ください」
「でも………」
「まあ、ありがとうございます。なんだか、かえって悪いみたい!」
 なおも断ろうとするを遮って、郁がはしゃいだ声を上げた。自分が原因を作ったくせに、そんなことはすっかり忘れているようだ。
 普段からちゃっかりしたところがあるとは思っていたが、流石にこれはも図々しいと思う。これではまるでタカリではないか。
 嬉しそうににこにこ笑っている郁を咎めるように、は控え目に睨みつけるが、郁には全く通じていないらしい。にこにこ笑ったまま、郁はにそっと耳打ちをする。
「こういう時は、素直に受けた方が丸く収まるのよ」
「う………」
 それは郁の言う通りかもしれない。申し訳ないから、と断っていても今更蒼紫も引っ込みがつかないだろうし、ここでぐずぐずしてしまうだろう。それなら図々しいようでも、すぱっと受ける方が見苦しくないだろう。
 そう思ってはみても、借りを作るようでは居心地が悪い。蒼紫にはそういうつもりは無いのかもしれないし、逆に不快な思いをさせたのを帳消しにするために申し出ているのだろうが、それでも彼女には気が重い。郁のように無邪気に受け入れることが出来れば良いのだろうが、これは性分なのだろう。
 そういう自分の性分も面白くなくて、はむっつりと黙り込む。こういう時は笑った方が好感を得られるのは解っているし、そうするのが“大人のやり方”だというのは頭では解っているのだが、やっぱり笑えない。もう蒼紫に会うことは無いだろうが、嫌な女だと思われてるだろうなあと思うと、胃が痛くなってしまう。
 そんなとは対照的に、郁は上機嫌に言葉を続ける。
「それに、これをきっかけに、こっちから御礼をしたりして、次に繋げることが出来るでしょ?」
 この状況を見ても、まだ郁は諦めていないらしい。それどころかまだ次に繋げようと企んでいるのだから、大したものである。ここまで前向きだと怒るのも忘れて、羨ましく思うくらいだ。
 しかし、まだ続きがあるのかと思うと、は些かうんざりしてしまう。これが嫌だから、蒼紫の申し出を断っているというのに。
 確かに蒼紫は悪い人ではない。少ししか話していないけれど、真面目で誠実で、きっとには勿体無いくらいに良い人なのだろうとは思う。けれど―――――
 だからこそこれ以上近付きたくない。いい人だと思うから、近付いて裏切られた時が怖い。
 そういうところが郁にしてみれば苛立たしいのだろうし、過去に囚われていると言われるのだろうということも解っている。あの男のことを忘れられないわけではないけれど、でも次に進むことに臆病になってしまうのだ。
 次回のことを考えると今からは胃が痛くなってしまうが、郁は早くも作戦を練っているのか上機嫌である。そんな郁の横顔を見て、はそっと溜息をつくのだった。
<あとがき>
 恋に腰が引けている二人のお見合いは、やっぱり失敗でした。いやあ、どうしましょうかねぇ(←他人事かよっ?!)。
 いや、少しずつですが、ちゃんと距離を縮めていきますよ? 他人行儀シリーズが遅いようで早くくっ付いちゃったので、今回はもっとじっくりねっとり“恋愛以前”を楽しみたいなあと。や、ドリームだから恋愛本番を楽しまなきゃいけないですけどね(笑)。
 まあなんというか、『電車男』のように周りのサポートを受けながら結ばれれば良いなあと思っていますので、鈍行列車な二人の恋を見守っていただければと。
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