紫の縁
紫の縁 【むらさきのゆかり】 ひとつの関わりから愛情がほかにもおよぶこと。
“落人群”という集落がある。浮浪者の吹き溜まりというか、要するにその名の通り、人生というやつに落伍した人間たちが集まっている場所だ。人生だの柵だのから逃げ出して陽気にふっ切れている者、生きる目的や自分の命より大切なものを失って廃人同様になっている者、そしてそれら全てを乗り越えて最早“悟りの境地”とやらに達している者。それぞれ抱えている事情の数だけ、様々な性質の住人がいる。
此処に流れ着いて、どれくらい経つのだろう、と雪代縁はふと思った。此処にいると、日にちの概念が失われてしまう。否、縁自身が日にちの概念を失ってしまっているのか。
姉の敵を討つ、というのがこれまでの彼の生きる理由だった。姉の許婚を斬殺し、そして姉自身もを斬殺した人斬り抜刀斎に復讐すること―――――その為だけに死肉を喰らい、泥水を啜って生き抜いて、そして上海闇社会の頭目にまで登りつめた。
それなのに姉は復讐など望んではおらず、許婚の仇であった男を心から愛していたのだということを知って、その生きる理由さえも失ってしまった。これからどうやって生きていけば良いのか分からない。けれど死ぬことも出来ない。それは彼女を最も悲しませてしまうことだから。
此処の人間は誰も他人に関わろうとしないから、今の縁には居心地が良い。時折“オイボレ”と呼ばれる老人が食事を置いていってくれるのを除けば、誰も彼には近付かない―――――はずだった。
「あらー。君、新入り?」
いつものように地面に蹲っていると、頭の上から若い女が声を掛けてきた。こんな所で若い女が声をかけてくるなど、珍しいことだ。否、そもそも若い女の存在自体、珍しい。
女は縁の前にしゃがみこむと、まだ血の跡も生々しい左耳に手を伸ばす。
「酷い怪我………。この時季はきちんと手当てをしないとすぐ膿んじゃうのよ」
ごそごそと荷物を漁る音がしたかと思うと、不意に縁の耳に冷たいものが触れた。水で濡らした布で、血で汚れた部分を拭いてくれているらしい。次に消毒液の強烈な臭いがしたかと思うと、湿った脱脂綿のようなものが耳の中に突っ込まれた。
女の手つきは手馴れていて、もしかしたら医療に従事している人間なのかもしれない。貧民窟の住人の病気や怪我の手当てをする慈善事業があるというのを聞いたことがある。それにしても、若い女というのは珍しいのだが。こういう所にはどんな人間がいるのか判らないのだから、女が一人で歩き回るというのは危険である。
慈善事業とはいえ、こんなところに一人でやってくる女というのはどんな顔をしているのだろう。声だけ聞くとそこそこに綺麗な女が想像できるが、こんなところに出入りしているくらいだから、相撲取りか柔術家のような厳つい姿をした女なのかもしれない。
それまでされるがままになっていた縁が、ゆっくりと顔を上げた。こんな所まで来て、一文にもならぬお節介を焼く人間がどんな顔をしているのか、見てやろうと思ったのだ。
そして縁が見たのは―――――
「―――――姉さん………?」
そこにいたのは、11年前に死んだ巴と瓜二つの女だったのだ。あの頃の巴よりもいくらか年上のようだが、それが余計に本物の巴なのではないかと錯覚させてしまう。
驚きで大きく目を瞠る縁の顔を見て、女は治療をする手を止めて小さく笑う。
「綺麗な白髪だから歳取ってるかと思ったけれど、若かったのね」
顔が瓜二つなら、微笑む顔も瓜二つ。ずっと縁が望んでいた姉の笑顔が、そこにあった。
姉の緋村巴は、11年前に緋村剣心に斬殺された。それは縁の目の前で起こったことであるから、紛れもない事実だ。だからこそ彼は、巴のいない日本を捨てて上海に渡り、緋村剣心への復讐のためだけに生きてきたのだ。目の前にいる女は、巴ではない。
頭ではそう解っているが、目の前の女の姿は縁の理性を吹き飛ばすほどの威力を持っていた。
「姉さんっっ!!」
激情のまま、縁は女の身体を抱き締めた。
これまで一度も微笑んでくれなかった巴が、漸く微笑んでくれたのだ。しかも幻ではなく、こうやって触れることの出来る肉体を持って。
やはり巴は、他の誰のところでもなく、自分のところに来てくれたのだ。一度は夫婦として愛し合ったのに、それをすっかり忘れて新しい女と一緒に暮らしている緋村剣心のところではなく、ずっと彼女のことを想い続けていた自分のところに来てくれたのだ。
これまでの無気力が嘘のように、縁の中に喜びが溢れる。巴が目の前に現われて、こうやって笑顔を見せてくれただけで、これまでの地獄の苦しみが一瞬で報われたような気がした。
「姉さん、俺―――――」
「なぁにすんのよっっ!! この痴漢っっ!!」
強く抱き締めたまま感極まって目を潤ませる縁の傷口を抉るように、女は拳で思いっきり彼の左耳を殴りつけた。
「ごめんなさい。いきなりだったからびっくりしちゃって………」
ぱっくりと口を開けた傷口に止血を施しながら、女は顔を紅くして弁解する。
女の拳は実に的確で、血が固まって塞がっていた傷口を、ものの見事に開いてしまったのだ。お陰で再び血が噴き出すし、傷口を抉られた激痛で縁は悲鳴を上げながらのた打ち回るしで、このあたりは一寸した騒ぎだった。
けれど、いくら相手は普通の精神状態ではない怪我人とはいえ、いきなり抱きつかれたら驚くというものだ。医者たるもの、多少のことで動揺していては勤まらないとは思うものの、彼女だってまだ若い女。男に抱き付かれて平静でいられるほど肝は据わっていない。
此処にいる人間は、なにか大きなものを失って、そのせいで心が壊れてしまった者も多い。若い女であるというだけで、“娘”やら“恋人”やら“妻”の面影を勝手に重ねられることは日常茶飯事だ。それを軽くあしらって、時にはそれを利用して治療を施すのが彼女の仕事なのだが、流石にいきなり抱きつかれたことは一度も無かった。
あんな激しい反応を見せたということは、目の前の男が失った女性は彼にとって余程大きな存在だったのだろうと思う。“姉さん”と呼びかけていたことから察するに、姉かそれに似た関係だったと思われるが、彼にとってはそれ以上の存在だったのだろう。
「貴方が私を誰と間違えたのかは知らないけれど、私はっていう医者。貴方が思っている人とは別人よ。
差し支えなければ貴方の名前を教えてくれないかしら。カルテを作るのに必要なだけだから、別に本当の名前でなくても良いわ」
「………雪代縁」
歯切れの良い口調で喋るの勢いに圧されるように、縁はうっかり答えてしまった。
よくよく見れば、と巴は顔立ちの系統は似てはいるが、“瓜二つ”というほどは似てはいない。声は少し似ているかもしれないが、喋り方も雰囲気も全くの別人で、何故巴と間違えてしまったのか、今更ながら縁自身も不思議に思うくらいだ。
「それ、本名? 綺麗な名前ね」
はにっこりと微笑む。こういう表情をすると少し巴に似ているかもしれない、と縁は思った。
一通りの治療を済ませると、は道具を往診用の薬箱に片付けながら、怪我の様子と今後の治療計画を簡単に説明する。
縁の耳は一時的に完全に潰れた状態になっているが、根気良く治療をすれば元通りにはならなくても多少は聴こえるようになる。ただし今の季節は傷口が膿みやすく、膿が溜まって黴菌が神経にまで回ると完全に聞こえなくなってしまうから、毎日消毒をしなければならないというのが、の診断だった。
「私も此処以外の仕事があるから毎日来れないし、耳以外の怪我もきちんと診たいから、できれば診療所に来て欲しいんだけど、来れるかしら? 私の診療所は此処からそう遠い所じゃないし、10分もあれば終わるんだけど」
「…………………」
その質問には答えずに、縁はを視界から締め出すように俯いた。その無気力な拒絶に、は小さく溜息をつく。
こういう反応はもう慣れてしまったけれど、やはり良い気持ちはしない。此処に流れ着くまでに縁の身の上にどんなことが降りかかってきたのかには分からないし、知ろうとも思わないが、医者として治せる怪我はきちんと治してやりたい。心の傷の治療は出来ないけれど、せめて身体の傷は綺麗に直してやりたいと思うのだ。
「今はまだ此処から動く気にはなれないかもしれないけれど、怪我の治療だけはきちんとしましょう。貴方はまだ若いんだし、こんなところで終わるには、残りの人生は長すぎるわ。此処を出て行く時に困らないように、治せるところは全部治した方が良いからね」
説得するようにそう言うと、はすっと立ち上がった。
その後もは、殆ど毎日のように縁の治療に通ってきた。勿論、縁の治療だけではなく、此処に住む全ての病人や怪我人の治療のために通っているのだが。
治療の際にするの一方的な話によると、彼女は代々医者の家で、父親の代から此処の住人の無料診療を行っているのだという。明治に入ってからは、外国の慈善団体を通しての活動という形にして微々たる収入を得ることができるようになったというが、それでも薬代にすら届かないので、午前中と夕方は金持ち相手の往診もしていると言っていた。
持ち出しばかりだから本当は止めたいけれど、今更引っ込みがつかないから止められない、とは笑って話していたが、止める気などさらさら無いだろうと縁は思う。世の中にはお節介が好きな人間というのがいるのだ。
初めて顔を見たあの一瞬こそ巴に瓜二つだと思ったが、こうやって毎日顔を合わせているとやはり別人だと縁は思う。巴は優しいけれど控え目な女で、こんなお節介焼きではなかった。話し方も少し早口で歯切れが良いし、何より巴なら怪我をしている部分を狙い撃ちで殴るような真似はしない。
けれど、口許を少しだけ綻ばせるような笑い方をする時だけは、巴に少しだけ似ている。そんな表情を見せるのはほんの一瞬であるけれど、その一瞬を見るためだけに縁は大人しくの治療を受けているのかもしれない。
そうやって縁の耳の傷が塞がりかけた頃―――――
「離しなさいっっ!! 離しなさいって言ってるでしょっっ?!」
耳を劈くようなの怒声に、縁はゆっくりと顔を上げた。
見ると、いつものように往診用の薬箱を下げたが、チンピラ崩れのような二人の男に絡まれている。こんなところでこざっぱりとした形の女が一人歩きをしていれば、こういう輩に絡まれるのは当然だ。大方、金か煙草をたかられているのだろう。
しかしもこういう処を一人歩きするだけあって、相当気の強い女らしい。あんなのに絡まれたら並みの女なら怯えて金を差し出しそうなものだが、威嚇するような大声を上げて薬箱を振り回しているくらいなのだ。やはりは、巴とは違う。
暫く様子を見ていると、が振り回していた薬箱がチンピラの片割れの脇腹にぶつかった。角の部分が一番弱いところに入ったらしく、男は大袈裟なほどに悲鳴を上げて蹲る。以前縁が殴られた時もそうだが、狙っているのか天然なのか、の攻撃は的確だ。
「このアマァッ!!」
連れの男が拳を振りかぶる。
「…………っ!!」
頭部を守るように、は薬箱を持ち上げた。同時に、骨と骨がぶつかり合うような鈍い音がする。
が、襲ってくるはずの鈍い痛みは無く、男の呻き声しか聞こえない。。
不審に思って恐る恐る薬箱を下ろすと、の目の前にいるはずのチンピラの姿は無く、代わりにチンピラを殴りつける縁の姿があった。
「雪代君っ?!」
「行クぞ」
驚きで目を見開いたまま固まっているの手を掴むと、縁は早足でその場を離れる。逃げるわけではないが、が一緒なのだからごたごたすると面倒だ。
チンピラの姿が見えなくなったところで手を離すと、縁はを振り返って一気にまくし立てる。
「こんな処を女が一人でふらふら歩いていたら、こうなるのは判っているダろう! 慈善事業も結構だガ、自分の身も守れないならこんな処には来るなっっ!!」
反論するかと思いきや、は唖然とした顔のまま縁を見上げている。昨日まで碌に口も利かずに蹲っていた男が、急に活動的になったのだから、当然と言えば当然だ。
目玉が乾いてしまうのではないかと思うほど目を大きく見開いていただったが、漸くはっとしたようにパチパチと瞬きをした。そしてにっこりと微笑むと、何を思ったのか縁の二の腕をぺちぺちと叩く。
「凄い筋肉。ねぇ、私の用心棒にならない? 最近、この辺りもああいう手合いが増えちゃって、結構危ないのよねー」
縁の説教など全く堪えていないように、は能天気な声で提案する。続けて、
「別に何もしなくて良いのよ。後ろに立っててくれれば、その見た目だけでああいう手合いは逃げちゃうんだから」
「………他人の話聞け」
「あ、でも私もあんまりお金ないから、給料は払えないのよね〜………。そうだ、うちに住み込めば良いわ。家と食事を提供するから、どう?」
「だから俺の話を………」
「欲しいものがある時は、言ってくれればお金を渡すし、悪い条件じゃないと思うわ。そこからまた別の仕事を探してもらっても良いし。住所不定じゃ、碌な仕事もないでしょ?」
本当に、どこまでも縁の話を聞く気は無いらしい。此処まで徹底されると、腹が立つのを通り越して、ある意味清々しいくらいだ。
それにしても、いくら毎日のように会っているとはいえ、氏素性の知れぬ男を家に引き入れようとするのは、お節介を通り越して少し頭が足りないのではないかと、縁は心配してしまう。そうやって転がり込んだ男が、自分を殺して金目の物を持って逃げるとは考えないのだろうか。金目の物が無くても、自身が狙われるという可能性もあるというのに。
縁も実際、上海で自分を拾ってくれた日本人一家を斬殺して、金目の物を奪って逃走したことがあるのだ。にそうする気はさらさら無いけれど、少しは警戒しろと言いたい。
「此処に流れてくるような人間を、そうやって易々と拾って帰るのカ?」
「うぅん。拾うのは初めてよ。貴方、いい人そうだし。それに折角のその筋肉を遊ばせとくなんて、勿体無いでしょ?」
「………いい人?」
一瞬、言われた意味が解らなくて、縁は呆けた顔をしてしまった。
いつから“いい人”という日本語は、自分のような人間を指す言葉になったのだろう。言葉は生き物だというけれど、長い上海生活の間に真逆の意味に変質してしまったのだろうか。
けれどを見ると、心から縁のことを信用しているかのように、にこにこと屈託の無い笑みを浮かべている。一寸チンピラ崩れに絡まれているのを助けてやっただけなのに、こんなにも簡単に他人を信用するなど、余程楽な人生を送って来たに違いない。
こういう人間には痛い目を見せてやりたくなるが、ほんの少しだけ巴に似ていることに免じて、それは勘弁してやろうと縁は思う。もしかしたら、新しい人生の出発にが絡もうとしているのも、巴の導きかもしれないのだ。
お節介焼きで他人の話を全く聞かない女と暮らすのは此処にいるより疲れそうだが、気に入らなければ出て行けば良い。此処にいても縁の中の巴は微笑んではくれないし、それならばこの話に乗ってみるのも一興かもしれない。
「わかった」
「よかった。じゃあ、早速今日からお願いね」
そう言うと、は巴によく似た笑顔を見せた。
以前から書く書くと日記で連発していた、縁ドリームです。とりあえず出会い編。これからどれだけ続くのか、自分でも判りません(←おいっ!)。こちらも、ある程度数が集まったらシリーズ名をつけてまとめ読みできるようにしたいと思います。
………っていうか、うち、斎藤と蒼紫のドリームだったはず………(汗)。いえね、以前チャットで「縁は蒼紫以上のヘタレ。っていうか、『るろ剣』一のヘタレ」という話で妙に盛り上がり(縁好きの方、すみません)、縁の恋話妄想が即興で出来上がって、「じゃあ書いてみよう」ということになったのです。縁ドリームの需要は、とりあえず二の次(笑)。
で、主人公さんは外見は巴に似た天然さんが……とあの時は話してたんですけど、天然ではなくマイペース、しかも一寸暴力も振るっちゃう人になってしまいました。縁、これから苦労するんだろうなあ………。
あと、縁がいたのは京都の貧民窟でしたが、地名が特に無かったので、東京の“落人群”の名前をそのまま流用。適当な名前が思い浮かばなかったんでね。
あの時チャットでネタを提供してくださった草薙様、ありがとうございました。あのネタのまま突き進んで生きたいと思いますので、気長に見守ってやってください。