桜の季節

 子どもが生まれたので是非遊びに来てくださいと、石岡から手紙が来た。一月ほど早産したが、母子共に元気なのだそうだ。
 早く見に来いと書かれていたが、日々の雑事に追われているうちに4月になってしまった。斎藤のところはまだ雪深いが、のところは桜が見頃を迎えていることだろう。時尾からの手紙では、東京でも桜が開花したらしい。
 そういうわけで、東京の家族に会うのと花見も兼ねて、長期の休暇を取った。最近碌に休んでなかったし、北方からの不審船情報も入ってこないので、まとめて休むならいましかない。
 一旦九州まで南下してたちの顔を見てから、東京の家族の許へ行くことにした。九州行きを先にしたのは別にたちを優先したわけではなく、そうした方が旅費が安いからだ。それに、石岡の手紙にくどいほど“早く来てくれ”と書かれていたことも、少し気になっていた。





 が待ち合わせに指定したのは、外国人居留区近くの公園だった。緩やかな坂道の途中にあって、眼下には海を、後ろには洋館を見渡すことが出来る。
 以前二人が北海道に来た時、石岡は大使館警護の任を負っていると言っていた。その都合で外国人居留区の中に住んで、日本にいるのに家の外は異人ばかりだとがこぼしていたのを思い出す。確かに目の前を通るのは、日本人よりも紅毛碧眼の外国人が多い。周りも洋館ばかりで、日本にいるのに外国にいるような気分になって落ち着かない。
 気を紛らわすために煙草を吸っていると、赤子を抱いた和服の婦人が近付いてきた。それがであることに気付いて、斎藤は慌てて煙草を揉み消す。
「ごめんなさい。出掛けにこの子にお乳をあげていたら、遅くなっちゃって」
「………いや、別に………」
 穏やかに微笑んで申し訳無さそうに言うに、斎藤は唖然としたような間抜けな顔をして応える。
 が赤子に乳をやるというということにも驚いたのだが、それ以上に彼女がすっかり“母親”の顔になっていて、そっちの方が衝撃的だった。子どもが生まれれば乳をやるのが当然だし、いつまでも娘のままではいられないことくらい、時尾の様子を思い出せば納得できるのだが、それにしても娘時代の姿が強烈に残っている斎藤には衝撃的な姿だった。
 勿論、その姿は不快なものではない。子どもが生まれたことで落ち着きが出て、きちんと母親をやっているというのは、他人事ながらほっとする姿だ。これがまだ独身だった頃のままだったら、石岡の代わりに叱り付けてやっていたことだろう。
 出掛けに腹一杯にしてもらったお陰か、赤子はすやすやと眠っている。小さくてふにゃふにゃした、いかにも頼りない生き物で、これをが生んだというのが斎藤にはまだ不思議な感じだ。
「月足らずで生まれたと聞いていたが………」
 何から話しかければ良いのか思いつかなくて、斎藤はどうでも良いようなことを言ってしまう。
「うん。一寸周りがごたごたしてたから、この子もびっくりして出てきちゃったみたい。でも小さい以外は特に問題は無いって」
「ごたごた?」
 石岡からの手紙には早産したとは書いてあったが、そんなことは一言も書かれていなかった。石岡が勘当されてからも、まだ向こうの実家と何かあったのだろうか、と斎藤は反射的に考えた。生まれるた子が男だったら跡取りとして子供だけ寄越せ、と石岡家が騒ぎ立てることは、十分にありえる。
 険しい顔をする斎藤に気付いて、は安心させようとするように慌てて笑顔を作った。
「石岡の家は関係無いよ。相変わらず絶縁中で、この子が生まれたのも教えてないくらいなんだから。向こうも噂で知っていると思うけど、何も言ってこないし」
「じゃあ、何がごたごたしていたんだ?」
「うん………」
 急に、は言いにくそうに表情を曇らせて俯いた。躊躇うように目を伏せて子供の寝顔を見詰めるその表情が、斎藤の想像力を掻き立てる。
 に早産させるほどの精神的な打撃を与えられるものなど、そうあるものではないと思う。石岡の家が関係無いというのなら、もしかして石岡そのものに何かあったということなのだろうか。そういえば、手紙にあれほど「早く会いに来い」と書いていたくせに、石岡本人の姿が無い。
 ひょっとして石岡との間に何かあったのだろうかと、斎藤は縁起でもないことを考える。しかし北海道の時はあんなに仲が良さそうだったし、石岡からの出産の知らせの手紙にも、産後のに対する気遣いが端々に感じられていて、仲違いしたとは思えない。
 これ以上深く追求していいものかと迷っていると、は取り繕うように小さく微笑んで言った。
「此処で立ち話もアレだから、歩きながら話そう。上の方に景色が良い所があるのよ」





 曲がりくねった坂道を、二人並んで歩いていく。“歩きながら話そう”と言っていたくせに、は一言も口を利かなくて、斎藤も何となく押し黙ってしまう。彼女の方から話してくれるならともかく、そういった話は最早“他人”になってしまった斎藤からは聞き出しづらいものだ。
 この辺りはもともと坂が多い土地ではあるが、この辺りは特に傾斜がきつい。子どもを抱えて歩くなど大丈夫なのだろうかと斎藤は心配したが、は平気なようだ。大して苦でもないようにすたすたと歩いている。
 東京にいた頃は、これよりも緩い坂道でも、きついだの何だの言っていたものだが、此処に住み着いて慣れてしまったのだろう。人間というものは、どんな環境でもきちんと適応できるものなのだと、我が身を振り返りつつ、斎藤は妙に感心してしまった。
 それはともかくとして―――――斎藤は無言で歩くをちらりと見る。
 が言っていた“ごたごた”とは一体何だったのだろう。駆け落ち同然の結婚でも、石岡と二人、幸せにやっていると思っていたのに。30年も別々に生きてきた人間が一緒に暮らすのだから、多少の諍いがあるのは当然のことだが、それにしたって早産してしまうほどの諍いなんて、そうあるものではない。
 もう何の関係もなくなってしまった相手でも、“昔の女”には幸せになっていて欲しい。いつも楽しそうに笑っていて欲しいし、自分と一緒にいたときと同じくらい、否それ以上に幸せになって欲しいと思っている。それなのに石岡がを悲しませているとしたら、斎藤が彼女に代わって抗議してやりたいくらいだ。石岡には、斎藤に代わって、を幸せにする義務があるのだから。
「さっきの話だが―――――」
「上の方にね、海が見える公園があるの。まあ、海といっても湾だし、造船所しか見えないんだけどね。でも桜の木とか西洋の花が植えてあって、この子が生まれる前までは、いつも石岡と一緒に行っていたのよ」
 話を蒸し返そうとする斎藤を遮って、は一気にまくし立てるように言った。
 そういうふうにされると、ますます石岡と何かあったのではないかと斎藤は勘繰りたくなってしまう。歩きながら話すと言っていたくせに何も言わないし、斎藤の方から切り出そうとすれば話を逸らすような真似をして、そんなに話しづらいことがあったというのだろうか。
 そういえば、“この子が生まれる前までは、いつも石岡と一緒に行っていた”という言い方も引っかかる。“生まれる前までは”ということは、“生まれてからは”どうなったというのか。そういう所は、子どもが生まれてからこそ一緒に行きそうなものなのに。
「今は一緒に行かないのか?」
「………うん」
 斎藤の問いに、は躊躇いがちに小さく頷いた。続けて、
「石岡、今、台湾にいるの。急に転勤が決まっちゃって………。それで準備とかごたごたしているうちに無理しちゃったみたいで、早産しちゃったんだ」
「え………」
 あまりのことに、斎藤は唖然として絶句してしまった。
 そんな話、手紙には一言も書いてなかった。ただ、“早く来て欲しい”ということがくどいほど書かれていただけで、単に初めての子どもに浮かれているだけだと思っていたのだが、そんな理由が隠されていたとは。石岡とすれば、官報で転勤のことは伝わっていると思っていたのかもしれないが、斎藤はそんなものに目を通す暇など無いのだ。
 こんなことだったら、もっと早く来れば良かったと斎藤は後悔した。ゆくゆくは日本になるかもしれないとはいえ、外国で生活しなければならないとなったら、会いに行くことは難しい。石岡とは男同士、ゆっくりと語り合いたいこともあったのだが。
「じゃあ、おまえもそのうち………?」
「うん。この子が船旅に耐えられるようになったら―――――梅雨明け頃に行けたら良いなあって思ってる。石岡は、もう少し先でも良いって言ってるけど、やっぱり親子揃って暮らした方が何かと良いしね。
 あ、あそこよ。大きい桜でしょう」
 の視線の先を見上げると、立派な桜の木があった。今が盛りといった感じで、ひらひらと花びらを散らしている。
 そう広くない公園であるが、色とりどりの珍しい花が植えられていて、西洋風の手入れが行き届いている。そんな洋風の公園に桜の大木があるというのは妙な感じだが、今流行の和洋折衷というものなのだろう。此処にいる人間も西洋人と日本人が入り混じっていて、今のこの国そのものだと斎藤は思った。
「此処に来たばかりの頃、休みの度に石岡と来ていたの。いつも一緒に桜を見に行こうねって言ってたんだけど、もう駄目になっちゃった」
 満開の桜の木を見上げて、は少し悲しそうに言った。
「桜は今年だけじゃないさ。戻ってきたら見に来ればいい」
「戻れれば良いけど………。最悪、一生あっちで暮らすことになるかもしれないって」
「………え?」
 予想外の答えに、斎藤は耳を疑った。一生外国暮らしだなんて、もう二度と会えないということではないか。石岡が早く来いと言っていたのは、そういう理由もあったのかと改めて思い知らされた。
 国内であれば、北海道と九州に離れていても、いつでも会えると思えた。お互い家庭を持っていても、“友人”として行き来が出来れば良いと思っていた。けれど外国となると、そうはいかない。
「そうか………」
 何故かの顔を見ることが出来なくて、斎藤はあらぬ方を向いて呟く。
 結局、斎藤とはこうなる運命だったのだろう。どうやっても縁が無いというか、何度会っても別れてしまうようにできてしまっている。此処まで徹底されていると、悲しいというよりも笑いが出てしまう。
「よほど縁が無いんだなあ」
 斎藤が苦笑すると、もつられるように小さく笑った。
「今更縁があっても困るよ。考えようによっては、これで良かったのかも。此処まで徹底的に離れてしまったら、もう昔のことを思い出すことも無いし」
「そうだな」
 言われてみれば、そういう考え方もある。できればこのままずっと家族ぐるみの付き合いを、などと調子の良いことを望んでいたが、考えてみればそれは石岡も面白かろうはずがない。時尾だって昔のことを知れば、表面上は何とも無いように装っていても、いろいろと思うことがあるだろう。中途半端に離れて互いのことを気にするよりも、とことん離れてしまう方が、全ての人間にとって一番良いことなのかもしれない。
 二度と会えないくらいに離れてしまえば、また相手のことを思い出すことの無い日常に戻るのだろうか。が初めて警視庁に登庁したあの日まで、斎藤は彼女を思い出すことは無かった。またあの日以前の気持ちに戻ることは出来るのだろうか。
 のことを思い出さなくなることを想像すると、斎藤は一抹の寂しさを覚えた。勿論、“寂しい”という感情の出所は未練ではないのだが、それでも自分の中で何かが欠落していくような寂しさを覚える。
 そんなことを考えながらを見ると、赤子が目を醒ましたらしく、あやすように小さく身体を揺すっている。機嫌が良いのか、全身をもそもそさせながら小さな手を振っているのが見えた。
 もしも維新が起こらずに、新選組もそのまま存続していたら、の腕の中にいる赤子は自分の子だったのだろうかと、斎藤は詮無いことを想像してみる。一つ違っていたら、そういう“今”があったのだと思うと、不思議な感じだ。もしもそうなっていたら、二人はどんな家族を作っていたのだろう。
「ご主人、旅の思い出に家族写真は如何ですか?」
 ぼんやりと考えていると、後ろから写真機を持った男に声をかけられた。最近、写真館で写真を撮るというのが流行っているとは流行に疎い斎藤も耳にしていたが、こうやって観光客相手に商売しているというのは珍しい。流石は外国人が住んでいるだけあってハイカラな商売があるものである。
 しかし、知らない人間とはいえ、家族連れと間違われてしまうとは。妙な想像をしていただけに、斎藤は苦笑してしまう。
「ごめんなさい。この人、“家族”じゃないから」
 穏やかに微笑んで、は柔らかく断る。写真屋は怪訝そうな顔をしたが、それ以上は何も言わずに新しい客を求めて何処かへ行ってしまった。
 写真屋はすぐに次の客を捕まえたのか、海を背景に外国人の夫婦らしい二人組みを撮影し始める。その様子を横目で見ながら、も少し困ったように苦笑した。
「“家族写真”だって。そういう風に見えたのかな」
「まあ、赤ん坊がいればな。普通、子連れで他所の男と会うとは思わんだろう」
「そっか………」
 そう言ったきり、は何か考え込むように俯いた。そうやって暫く、もぞもぞしている赤子を見詰めていたが、思い切ったように口を開く。
「もしも維新が無かったら、そうなってたのかな」
「え………?」
 自分と同じことを想像していたことに驚いて、斎藤は小さく目を瞠った。それに気付いて、は取り繕うように慌てて言う。
「べ…別に今更あんたのことをどうこう思ってるわけじゃないよ。そうじゃなくて、そういう可能性があったのかな、って話なんだから」
「ああ………。それは―――――」
「あ、でも、多分それは無かったかもね。維新があっても無くても、多分こうはなってないわ」
 斎藤の言葉を待たずに、は勝手に納得したように独り言のように言う。取り繕っているわけでもなく、未練を断ち切るようでもなく、本心からの言葉のようだ。
 思わせぶりな言葉を言ったかと思うと、相手の意見も待たずにいきなり否定されて、斎藤の心情は複雑だ。今更「どんな家族になっていたかしら」などと言って欲しいわけでもないが、頭ごなしに否定されてもあまり良い気分ではない。
 斎藤は困ったように苦笑して、
「まあ、今更想像できないのは解るがな」
「ううん。あの頃からずっと思ってたの。斎藤さん、一緒にいるだけならとてもいい人だけど、私の子供の父親としてはあまり良い人じゃないわ」
「おいおい………」
 今更な告白に、流石の斎藤も唖然としてしまった。
 あの頃、口にこそ出してはいなかったが、と所帯を持つということを考えてはいたのだ。それをの方では、そうではなかったとは。こうなってしまった今では、もうどうでも良いことなのかもしれないが、それにしたって斎藤にとっては衝撃的な告白だった。
 言葉も出ない斎藤を見て、は悪びれる様子も無くくすくすと笑う。そして、不意に真顔になって斎藤を真っ直ぐに見上げた。
「私は時尾さんのように強い人じゃないから、石岡みたいな“普通の人”じゃないと駄目なのよ。何事も無く無事に帰ってくるのが当たり前の人じゃないと、きっと耐えられないもん」
「ああ………」
 のような“普通”ではない女が“普通の家庭”を求めるというのは妙な感じだが、自分が普通ではなかったからこそ、“普通”を求めるものなのかもしれない。
 確かに斎藤が相手では、“普通の家庭”とやらを築くことは難しいだろう。彼の家庭が一応“普通”の形を取れているのは、時尾の力によるところが大きいと彼自身も思っている。
「あ、でも斎藤さんとのことを後悔しているわけじゃないよ。斎藤さんのことは何回出会っても好きになると思う。だけど何回出会っても、最後は駄目になる相性なのよ」
「うーん………」
 妙に悟りきったの言葉に、斎藤は難しい顔をして唸ることしかできない。
 子ども場生まれてすっかり“母親”の顔になって、こんな悟ったようなことを言うなど、斎藤の知っていたとは全く違う。の姿をした知らない女と会っているような不思議な感覚に襲われて、斎藤は彼女の顔を凝視する。
 そんな視線には気付いていないのか、は海の方を見詰めて言葉を続ける。
「石岡のことは、若い頃みたいに脇目も降らずに突っ走るような“好き”じゃないけど、でも傍にいると安心できるの。あの人はずっと、私とこの子の傍にいてくれるから。だから石岡とはきっと、生まれ変わっても一緒になると思うよ」
 斎藤のことは、何度出会っても好きになるけど一緒の人生は送らない。石岡は“もの凄く好き”というわけではないけれど、傍にいて安心できるから一緒に生きていく。の言い分はとても身勝手だけれど、とても正直だと斎藤は思う。それぞれ種類の違う“好き”だけど、どちらにも全力でその気持ちを注いできたし、注ぎ続けているのだろう。
 照れも無く“好き”という感情を出せるところは昔と同じだと、斎藤は少しほっとして口許を綻ばせた。こういう変わらないでいてくれる一面を発見できると、少し嬉しい。
 石岡の傍にいて、ほっとできるというなら、それが何よりだ。夫婦生活には燃えるような情熱なんかよりも、流れるような静かな感情というか、の言うところの“安心”が大切だ。そういう意味では、と石岡の夫婦生活は、非常にうまく行っているのだろう。
「―――――って、もしかしてのろけか?」
 さっきから黙って聞いていれば、「斎藤よりも石岡の方が良い」という話ではないか。今更そんなことを言われても痛くも痒くもないが、でも何となく面白くは無い。
 憮然とする斎藤に漸く目を向けて、は花が綻ぶように微笑んだ。
「そうよ。だって、私の大事な旦那様なんだもん」
 そうやって頬を染めてくすくす笑うその表情は幕末の頃そのままで、斎藤は不覚にもどきりとしてしまった。
 そういう風に笑うのは、今がとても幸せだということなのだろう。北海道で会った時もそうだったが、もしかしたらは、斎藤と一緒にいた時よりも幸せなのかもしれない。幸せの基準は人それぞれ違うけれど、心の平安を得られているというのはとても幸せなことだ。
 考えてみれば、昔の斎藤はをそういう風に笑わせることが出来たけれど、今の彼にはそれは出来なかった。をそうやって笑わせるのは、もう石岡の役割になったしまったのだろう。そう思うと、少しだけ寂しい。
「………そうだな」
 内心を悟られないように俯いて、斎藤は苦笑する。
 と、突風のように潮風が吹いて、二人の上に花びらの雨が降った。
「綺麗………」
 ひらひらと舞い散る花びらを見上げて、はうっとりするように目を細めた。腕の中の赤子も、何が起きたのかよく解らないように、じっと凝視している。
 台湾に桜があるのかどうか斎藤は知らないが、たとえあったとしても日本の桜には敵わないと思う。じっと凝視している赤子の顔を眺めながら、この国の花を忘れないで欲しいと思う。異国で一生を終えるとしても、この国で生まれたことは忘れないで欲しい。
 そして斎藤も、桜吹雪の中のの姿を忘れないようにじっと見詰めた。これで本当に、もう二度と会うことは無いだろうから、決して忘れることの無いようにしっかりと目に焼き付ける。
「斎藤さん」
 斎藤の視線に気付いたのか、不意にが彼の方を見た。そして娘だった頃のように、にっこりと屈託無く微笑む。
「私、今日のことは一生忘れないよ。この桜も、この海も―――――斎藤さんのことも」
「………ああ」
 幕末の頃、月夜の晩に別れた時は、は今にも泣きそうな顔をしていた。けれど今は、こうやって明るく微笑んでいる。最後に見る顔が泣き顔ではなく笑顔であることは、少し寂しいけれど、それ以上に嬉しい。何だかんだ言っても、は笑っているときの顔が一番良い。
 今日見た桜も、の姿も、一生忘れない。日常に埋没して思い出すことは少なくなるだろうけれど、絶対に忘れない。
「そうだな」
 明るく笑うに、斎藤も心からの笑顔を見せた。
<あとがき>
 これにて本当に、上司と部下シリーズは終了です。どういう終わり方にしようかとかなり悩んで、結局こういう結果。ずるずると会い続けるより、スパッと別れてしまったほうが良いかなって。
 実際問題として、自分の配偶者が昔の恋人と会うのって、やっぱり厭ですよね。何も無いとは思っていても、生理的な問題というか。
 過去はともかくとして、今は斎藤は時尾さんが一番だし、主人公さんも石岡君が一番です。燃えるような情熱は無くても、一緒にいることで和むというか、傍にいるだけで安心感が得られるというのは、夫婦をやっていく上ではとても大事な要素ではないかと。燃えるような情熱なんて、一緒に“生活”する上では邪魔臭いですしね(←え?)。
 ぐだぐだしていて、ドリームとしてはいかがなものかと思われるシリーズでしたが、何とか終わらせることが出来て良かったです。ドリームの定義から著しく外れたお話でしたが、此処までお付き合いいただきまして、ありがとうございました。
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