マフラー
北海道の冬は厳しい。特に斎藤が転属した処は海と山に挟まれて、きつい潮風と豪雪に見舞われることで有名な土地だ。かつて流された斗南も自然の厳しい土地だったが、此処もそれに勝るとも劣らない。時尾と子供を連れてこなくて良かったと、斎藤は毎朝思う。時尾とは月に数回の手紙の遣り取りしかないけれど、それを寂しいとは思わない。独りの時間には慣れているし、慣れない土地で小さな子供を抱えて時尾に苦労させるよりは、こうやって単身赴任生活をしている方がお互いにとっても一番良い事だろう。この前の手紙で無事に男の子が生まれたと書いてあったし、近いうちに休暇を取って東京に戻ろうかと思う。
簡単な朝食の後、時尾からの手紙を読み返しながら食後の煙草を吸うのが、最近の斎藤の日課だ。寂しくはないと思いながらも、何度も妻からの手紙を読み返すというのは、やはり幾許かの寂しさを感じているのだろう。一通り手紙を読んだ後は、玄関と屋根の雪かきである。自分で家事をやるのは慣れたこともあって苦にならないけれど、毎日の雪かきは流石に骨が折れる。
手紙を封筒に戻すと、斎藤は大儀そうに立ち上がった。今日は非番であるが、仕事に非番はあっても雪かきには非番は無い。せめて非番の日は外に出たくないと思うのだが、一日怠けると雪で玄関は塞がれるわ、屋根が軋むわで大変なことになるのだ。一度、あまりの寒さに一日だけ雪かきを怠けたら、次の日に玄関から外に出ることができなくなったということもあった。その苦い経験があるから、寒かろうと腰が痛かろうと、毎朝の雪かきだけは欠かさない。
「しかしまあ………」
玄関を開けて、斎藤は呆れたように嘆息した。
毎日のことであるが、よくもまあ飽きもせずに降り積もるものである。此処に来たばかりの頃は、久々に見る銀世界に思わず目を細めてしまったものだが、今はもう鬱陶しいだけである。斗南にいた頃は今ほど鬱陶しいとは思わなかったが、あれは当時はまだ若くて体力があったのと、男手の無い時尾の家に雪かきを口実に通っていたから、それほど苦にならなかったのかもしれない。女所帯で大変だと思って通い始めたのか、最初から時尾が目当てで通っていたのか、今となってはもう記憶も曖昧になってしまっているが、あれが二人の馴れ初めだった。
あの頃の雪かきは“お目当て”がいたからあまり辛い記憶は無いが、今はもう雪かきのための雪かきであるから、面白くも何とも無い。おまけに嫌がらせのようにまた雪が降り始めて、斎藤はまたうんざりと溜息をついてしまった。
「藤田警部補!」
同じ敷地内に住む若い警官が、大声で呼びながら小走りでこちらにやって来た。本来ならもう職場に出勤している時間であるはずなのに、と訝しく思っていると、足許を気にしながらゆっくりと彼の後ろをついてくる人影を認めた。
厚手のコートに防寒用の耳当て付き帽子、ぐるぐると巻かれた襟巻きに防寒用の長靴と、まるで露西亜兵のようないでたちの小柄な人間だ。顔の半分が帽子と襟巻きに隠されて人相も判別できないが、斎藤にはすぐに相手の正体が判った。
「よう。久し振りだな。捕縛された露西亜兵かと思ったぞ」
警官が取り次ぐ前に、斎藤が軽口を叩いた。
いつも無口で無愛想な斎藤が相好を崩す様を信じられないような目で見る警官をちらりと見て、“捕縛された露西亜兵”は可笑しそうに小さく笑った。そして襟巻きを解きながら、
「お久し振りです、藤田警部補」
捕縛された露西亜兵―――――はにっこりと微笑んで敬礼をした。
東京で別れてまだ2ヶ月ほどしか経っていないはずだが、目の前でストーブに当たっているの顔は、斎藤が知っていた頃よりもずっと穏やかに女らしくなったと思う。髪が少し伸びたせいなのか、化粧をしているせいなのか、それとも石岡との生活のせいなのか、斎藤には分からない。
斎藤が転勤してからすぐ、は警視庁を辞めたと聞いていた。本人からは今日まで何の連絡も無かったが、すぐに入籍したのだろう。先日、石岡の大阪への栄転が突然取り消されたと、風の便りに聞いた。親の意に副わぬ結婚をした罰なのだろう。このまま地方で燻り続けるのか、後でまた返り咲けるのか斎藤には判らないが、このことでが石岡に対して引け目を感じていないだろうかと、それだけが気がかりだ。
「石岡さんとはうまくいっているのか?」
今のの顔を見れば一目瞭然であろうに、それでも訊かずにはいられない。しかも尋ねる口調が娘の行く末を案じる父親のようで、斎藤は小さく苦笑してしまった。
も同じことを思ったのか、可笑しそうにふふっと笑う。
「心配しなくても、うまくいってるよ。石岡、優しい人だし。私のせいで実家と絶縁状態だけど、何も言わないし。かえって、私が気にしないように、気を遣ってもらってるくらいよ」
「そうか………」
の石岡に対する呼び方が“石岡君”から“石岡”に変わったことで、本当に人妻になったのだと、斎藤は改めて思った。
「で、石岡さんはどうしたんだ? 一人で来たわけじゃないだろう?」
「署長さんと何処かに行っちゃった。絶縁されても石岡の家の人だからね。いろいろ付き合いがあるみたい」
「ふーん」
絶縁された息子とはいえ、いつ復縁するか分からないから、とりあえず何がしかの縁を作っておこうと目論む輩はまだいるということか。こういう輩がいるうちはまだ、復縁して石岡が再び出世街道に乗ることもありえるのかもしれない。そうなればは警察幹部の奥様だ。ますます斎藤の手の届かない存在になってしまう。
ストーブの上の薬缶が沸騰したので、斎藤は茶を淹れた。
「斎藤さんにお茶を淹れてもらうなんて、初めてだね」
湯呑みを受け取りながら、は何故か照れ臭そうにくすくすと笑う。
今日のはやたらとよく笑う。久々に自分に会うのが嬉しいのかと、少し調子の良いことを考えそうになってしまった斎藤だが、座ったまま湯呑みを受け取るの姿を見て、その考えも消し飛んでしまった。
「お前、その腹………」
いつもの倍は目を見開いて、斎藤は絶句してしまった。
あからさまに動揺している斎藤が可笑しかったのか、は少し膨れた腹を抱えてケタケタ笑う。
「………それ、便秘じゃないよな?」
「んなわけあるかっ!!」
現実逃避的な斎藤の間抜けな問いに、は益々爆笑する。
「そうだよなあ………」
手足は細いままなのに、腹だけ不自然に膨れているの身体を見ながら、斎藤は信じられない思いでしみじみと呟いた。
まだ臨月ではないようだが、既に6、7ヶ月は過ぎていそうな腹だ。斎藤が東京を離れたのは大体2ヶ月くらい前で、二人の入籍はその後なのだが、その時には既に腹の子は存在していたことになる。それどころか更に逆算すると、園遊会の時には既に身重だったということになるわけで―――――
「お前ら、いつの間にっ?!」
赤くなるやら青くなるやら、斎藤はどんな顔をして良いのか分からない。あの頃初めて二人の仲を知ったのに、もう既に種付けをされていたのかと思うと、腹立たしいやら情けないやら。斎藤にはまだ娘はいないが、娘が何処の馬の骨とも知れぬ男に掻っ攫われた父親の気持ちもかくやと思うほどだ。
確かに斎藤はもう、の人生において完全な部外者であるが、それでも一言相談して欲しかった。まさかあの頃に既に妊娠していたとは。
ということは―――――あの頃のことを思い返して、斎藤は今度は真っ青になった。
「お前、あの時コルセットでっ………」
「そうなのよ。あの時はまだ全然気付いてなくてぇ。あんなに締め上げて、今更ながらぞっとするわ」
まるで他人事のように呑気に言うと、は可笑しそうに豪快に笑った。一頻り笑った後、今度は腹を擦りながらしみじみと、
「きっと、私に似たのね。生の強い子なんだわ」
「まったくだ。普通なら流れてるぞ」
「そうそう。石岡もびっくりして、妊娠が分かった時には土下座されたわよ。お腹に子供がいると分かっていたら、園遊会なんか連れて行かなかったのに、って。そんなこと言われても、私も気付かないくらいだったからねぇ」
「へーえ」
土下座している石岡の姿を想像すると、悪いと思いながらも斎藤は笑いを禁じえない。本人は真剣なのだろうが、なんとも滑稽な図である。
しかし、土下座はやりすぎだが、そうやってすぐに自分の非を認めて謝るというのは、見習うべき姿勢だと思う。自分を振り返っても、時尾が何も言わないのを良いことに、なあなあで済ませてしまうことが多いのだ。まあ、は時尾と違って物事を追求する性格だから、それが恐くて石岡が謝っているという説も捨て難いけれど。
実際のところはともかくとして、石岡が折れてくれるのなら、衝突は少ないだろう。がそれに胡坐をかかなければだが。けれどまあ、「石岡は優しい」と照れも無く言うくらいだから、二人はうまくいっているのだろう。
「まあ良かったじゃないか、子供も早々に出来て。で、いつ生まれるんだ?」
「多分4月くらいかな。いい時期に生まれてくれるよ。私に似て親孝行なんだ」
「お前が親孝行かどうかは知らんがな」
おどけて言っているものの、半ば本気のの言い草に、斎藤は苦笑する。笑った後、しみじみと、
「お前も母親か………」
「実感無いんだけどね。まだこう、なんていうか、違う生き物に身体を貸してるって感じ? そのうち身体が乗っ取られるかも、って恐くなる時もあるの」
ずっとにこにこしていたの表情が、初めて曇った。初めての妊娠でどんどん変わっていく自分の身体に、頭が付いていけないのだろう。そういえば時尾も最初の子を身籠った時に似たようなことを言っていたと、斎藤はふと思い出した。
自分の身体に違う生き物が寄生している感覚というのは、男の斎藤には分からない。しかも身体の中で動くというのだから、分からないどころか想像を絶する。今更ながら、二回も妊娠した時尾は凄いと、しみじみ感心した。
「まあ、あと何ヶ月かの辛抱だ。化け物が入っているわけじゃなし」
もう少し気の利いたことを言ってやるべきだったと後悔したが、こういう時に何を言ってやれば良いのか、二児の父になった今でも分からない。
斎藤の言葉に、は不満そうに顔を顰めて、
「みんな同じこと言うね。石岡にも同じこと言われたから、“こんな身体にしたの誰よ?!”って怒鳴っちゃった」
「何言ってるんだ。半分はお前の責任だろうが。無理矢理やられたわけじゃなし」
「そりゃそうだけどさあ………」
実も蓋も無いことを言われて、は困ったように照れ笑いを浮べた。その反応が妙に生々しくて、斎藤も反応に困ってしまって、視線を落として茶を啜る。
そのまま何となく会話が途切れてしまい、二人とも無言で茶を啜った。煮立った薬缶が小さく音を立てるのが、白々しく響く。
何か話題を振らないと、と斎藤が考えていると、の方から口を開いた。
「雪かき、途中だったんでしょ?」
「ああ………」
がいきなり来たことにびっくりして、すっかり忘れていた。
「別に後ででも構わんさ。今日は非番だから、時間は腐るほどある」
「雪かきするの、見せてよ。多分一生見られないと思うから」
「あまり面白いものでもないと思うがなあ」
好奇心で目を輝かせて、身を乗り出さんばかりにしているに、斎藤は困ったように呟く。は昔から、それがどんなにつまらないものであっても、自分が見たことの無いものに対しては、子供のように強い関心を持っていた。まあそれだけ探究心が強いというか、好奇心が強いというか、それは悪いことではないのだろうが、どうも“雪かき”に対して過剰な期待を持っているようで、斎藤としては一寸心苦しい。単に雪をどかすだけの作業であるから、すぐに白けてしまうのは目に見えているのだ。
それに、遠出が出来るくらいに安定しているとはいえ、は身重なのである。斎藤の雪かきを見物して風邪でも引かれたら、今度は彼が石岡に土下座をする羽目になってしまうではないか。
斎藤の考えを察したのか、は椅子にかけていたコートを取って、
「大丈夫だよ。私、ちゃんと厚着しているし。石岡が心配してあんまり重ね着させるから、外にいても少し暑いくらいなんだから」
「うーん………」
軽い調子で言うに対し、斎藤の返事はまだ重い。が、はさっさとコートを着て襟巻きと帽子を取ると、外に出て行ってしまった。
「結構大変そうだねぇ。毎日やってるの?」
玄関の庇の下にしゃがみこんで雪かきの様子を眺めているが、感心したように言った。
さっきまで降っていた雪は今のところ止んでいるが、それでも空はどんよりと重く曇っていて、今にもまた降り出しそうだ。風が無いのが幸いであるが、やはり肌を刺すように空気は冷たい。手袋で露出した顔部分を覆って、は熱が外に逃げないように小さく縮こまった。
新しく積もった雪をスコップでさくさくと脇にどけながら、斎藤はの方も見ずに応える。
「毎日やらないと、玄関の戸が開かなくなるからな。それに、屋根の雪下ろしもしないと、家が潰れる」
「へーえ。雪国って大変。私、絶対住めないわ。
あれ? 斎藤さん、襟巻きしないの?」
じっと斎藤の様子を観察していて、は今更のように気付いた。
雪かきをする斎藤は、と同じく厚手のコートに手袋と長靴を履いているが、襟巻きはしていない。帽子も被っていないから首から上は全部剥き出しで、いかにも寒そうだ。斎藤は斗南に流されたことがあるから、よりも寒さには慣れているだろうが、それでも耳など赤くなっていて、見ているほうが寒くなる。
の指摘に、斎藤も思い出したように自分の首に手を当てた。
「ああ………。この前、飲みに行った時に酔っ払って忘れてな。そのうち買いに行こうと思ってたんだが………」
なかなか休みが取れない上に、こんな雪深い辺鄙な場所から町に出るのも一苦労ということで、襟巻きを買う機会を逃し続けていたのだ。確かに襟巻きがあるのと無いのでは体感温度が違うし、次の休みこそ買いに行こうとは思っているのだが、別に無くても凍死するわけでもなし、と放置状態のまま今に至るのである。神経質なところがあるようで、案外普通の男と同じようにずぼらな所もあるのだ。
腹が重いのか、は大儀そうに立ち上がると、転ばないように足許を気にしながら斎藤の方に歩み寄る。そして巻いていた襟巻きを解くと、ふわりと斎藤の首にかけた。
「これ、あげる。あるのと無いのでは全然違うでしょ。独りだと、風邪を引いても看病してくれる人もいないだろうしさ」
「しかし………」
襟巻きを掛けられて、斎藤は戸惑ったような表情を見せた。襟巻きをくれるというのはありがたいが、身体を冷やすのは厳禁の妊婦から貰うというのは、少々調子が悪い。
いつもは無表情な斎藤のそんな顔が可笑しかったのか、は爪先立ちで襟巻きを巻いてやりながらくすくすと笑う。
「私は厚着をしてるから大丈夫よ。そういえば、斎藤さんからは色んなものを貰ったけれど、あげるのは初めてだね」
「そうだな………」
思い返してみれば、斎藤は若い頃、よくに色々なものを買ってやっていた。簪とか細工箱とか、決して高価なものではなかったけれど、はいつも嬉しそうに満面の笑みを浮べていて、それを見るのが斎藤は嬉しかった。もう遠い昔のことである。
今頃になってから物を貰うなど、何だか妙な感じだ。しかも、さっきまで身に着けていたものである。まるで慣れ親しんだ恋人同士みたいだと一瞬思って、斎藤は密かに苦笑した。そんなことを考えるなど、まるでまだに未練があるみたいではないか。勿論そんなものは、逆さに振っても出てきはしないのだが。
の襟巻きは高級品らしく、薄い割には斎藤が持っていたものよりも暖かくて、肌触りも良い。それこそ、石岡が長崎の外国人居住区で買ってきた舶来品かもしれない。
「随分と高そうなものだな。こんなものは貰えんよ。雪かきが終わったら返す」
巻かれた襟巻きを撫でながら、斎藤は言った。が、は小さく笑って、
「いいよ。襟巻きは他にも持ってるし」
「いや、しかし―――――」
「じゃあ、春になったら返しに来て。その頃には赤ちゃんも生まれているだろうし」
斎藤の言葉を強引に遮って、は襟巻きを解こうとする手を制した。続けて、
「今度は斎藤さんが会いに来て」
さっきまでふざけるように笑っていたの目が、不意に真剣になった。その目に、斎藤はどきりとする。
の目にも言葉にも深い意味は無いのだろうが、それでももしかしてまだ自分に心を残しているのだろうかと、斎藤はつい調子の良いことを考えてしまう。昔の相手がまだ今でも自分のことを忘れていないかもしれないと思うのは、男特有の気持ちだと聞いたことがある。女は新しい相手が出来ると、昔の相手のことは跡形も無く忘れてしまうらしいから、の「斎藤さんが会いに来て」という言葉も、ただ単に遊びに来いと言っているだけで、深い意味は無いのだろう。
それでもうっかりドキドキしてしまう自分が情けないやら恥ずかしいやら、斎藤はから視線を逸らしてしまった。照れているのに気付いたのか、はまた可笑しそうに微笑む。
が何か言おうと口を開きかけた時、男の声が重なった。
「!」
声の方を見ると、ほど着こんではいないが、厚手のコートを着た石岡が立っていた。漸く署長から解放されて、迎えに来たのだろう。
石岡はの方に小走りに駆け寄ると、襟巻きをしていないことに気付いてすぐに自分がしていたものを巻いてやる。その仕草がとても自然で、いつもこうやって世話を焼いているのだろうと、斎藤にも容易に想像させた。
「駄目じゃないか、ちゃんと防寒してないと。襟巻きはどうしたんだ?」
「斎藤さんが持ってないって言ったから、貸してあげたの。こんなに着てるから寒くないし」
斎藤と喋っていた時とは全然違う、少し甘えた子供っぽい口調では応える。お前は一体幾つだ、と斎藤は突っ込みたくなったが、歳を言わなければそんな甘えた口調にも違和感を与えない姿をしているから、とりあえず黙っている。そういえば斎藤と付き合っていた時も、はこうやって少し甘えた声で喋っていた。それに応えるように斎藤もを甘やかしていたし、今は石岡が存分に甘えさせているのだろう。
幸せそうで何よりだと思いながらも、斎藤は少しだけ寂しくなる。焼き餅を焼くわけではないが、昔の女が目の前で違う男と睦まじい姿を見せているのは、少し切ない。
斎藤の首にの襟巻きが巻かれているのを見て、石岡は一瞬だけ片眉を上げたが、すぐに人の良さそうな笑顔を見せた。以前だったらあからさまに不愉快そうな表情を見せていただろうに、大した余裕である。結婚するというのは、つまりそういう心の余裕ももたらしてくれるのだろう。
「お久し振りです。どうです、こちらの生活は?」
「いやあ、寒いのはともかく、この雪には困りものですね。雪かきをしてもキリが無い。
ところで、もうすぐお子さんが生まれるそうで。おめでとうございます」
「ありがとうございます。生まれたら見に来てやってください。4月に生まれる予定だから、ちょうど桜の時期ですし、花見がてらにでも」
「そうですね………」
夫婦揃って同じことを言われて、斎藤は苦笑してしまった。はともかく、以前の石岡であれば何だかんだ言いながら距離を置こうとしていただろうに、彼の方から歩み寄られるとは思わなかった。そうされると今度は斎藤が、及び腰になってしまう。
にとっても石岡にとっても、斎藤の存在は既に過去のものになってしまったということなのだろう。少しの間とはいえと二人きりでいたのに、石岡にはまったく警戒する様子が無いのが、それを表している。それだけ斎藤が信頼されているということなのだろうが、逆にの心が完全に石岡のものになっているのだと見せ付けられているようで、何だか気持ちは複雑だ。まあ、痛くない腹を探られるよりは、数百倍は良いことなのだが。
「ねー、お腹すいたー」
二人の会話を遮るように、が子供のような声を上げた。その声に、石岡が苦笑して窘めるように言う。
「さっき食べたばかりだろう? まだ昼前だぞ」
「だってぇ………」
親に叱られた子供のように、はしょんぼりとする。その様子が可笑しくて、斎藤は思わず吹き出してしまった。
これから母親になろうというのに、は何一つ変わらない。このままでは子供が生まれても、本気で子供と菓子を取り合うようになるのではないかと思うくらいだ。菓子を取り合うくらいならまだ良いが、石岡を取り合うようになったら大変である。はあっさりしているように見えて、意外と独占欲が強い女なのだ。好きな相手に見せる子供っぽい態度も、相手の関心を自分だけに惹き付けようとする無意識の戦略だと斎藤は思っている。
面白くなさそうに俯いて口を尖らせているに歩み寄って、石岡は機嫌を取るように小さな声で何やら言う。何を言っているのか斎藤には聞き取れないが、言われているうちには機嫌を直したように少しだけ口許を綻ばせた。
何だか見せ付けられているような気がしないでもないが、ちゃんと仲睦まじい夫婦をやっているのだと、斎藤は安心した。最初にもから「うまくいっているよ」と言われていたし、それを疑っていたわけではないのだが、こうやって目の当たりにすると、本当に良かったと思う。
仲睦まじい二人の様子に疎外感を感じるが、これで良いのだろうと斎藤は自分に言い聞かせる。は斎藤から完全に切り離されて石岡と対になり、斎藤には時尾と子供たちがいる。収まるところに収まって、それでこうやって時々お互いに行き来が出来るようになると良いと、首に巻かれたの襟巻きを軽く撫でながら、斎藤は思った。
「サヨナラは言わない」で最終回か思われた方が多かったこのシリーズ、実はもう一回続きます。前回で終わらせた方が綺麗だったのでは? という意見もおありでしょうが、“マフラー”と“桜の季節”、これといってネタが無かったんで………(おいっ!)。
主人公さん、いつの間にやら赤ちゃんが出来てたんですね。っていうか、いつの間に石岡とそんな関係になっていたのやら。“困らせたい”で手紙の遣り取りをしている描写があったので、多分その頃辺りからイイ仲になっていたんでしょうね。で、ほぼ駆け落ち状態で結婚。結構波乱万丈な人生だな、主人公さん。でも幸せそうだから許してやってください。
斎藤の北海道転勤、原作の中では結局家族は連れて行ったんでしょうかねぇ? 『剣心華伝』の5年後設定の短編ではまだ北海道にいることになっていたんで、その頃にはもう家族は呼び寄せていたと思うんですけど。この時点ではまだそんなに長くいるとは思っていないと思うから、勝手に単身赴任設定にさせていただきました。小さい子供がいる愛妻を、自然の厳しい慣れない土地にいきなり連れて行くより、自分が先に行って地ならししてから家族を呼び寄せるんじゃないかなあ、って思ったんで。結構家族思いみたいだし、斎藤。いや、何となく。
次回でこのシリーズも本当の最終回&50のお題も終了です。あと少しだけお付き合いくださいませ。