デート
鈴を振るような下駄の音を響かせ、桃割れ髪の娘が高台寺の坂道を上がっていく。年の頃は16、7歳ほどだろうか。山吹色の着物を着た、まだ幼さの残る愛らしい少女だ。誰か親しい人に会いに行くのか、脇目もふらず楽しげに、小気味良く下駄を鳴らしている。
此処にある月真院には、新選組から分離した御陵衛士が屯所を構えている。京の街では、御陵衛士と新選組の間で大きな戦が始まるのではないかと噂されているが、寺周辺はとても静かだ。武器を持ち込まれている様子も無く、すれ違う人間の表情にも、今日明日にでも戦が始まるような緊迫感は無い。
坂道を上っても息を切らせることなく、少女は月真院の門番に声をかけた。
「すみませんが、こちらにいらっしゃる御陵衛士の斎藤さんという方を呼んで欲しいのですが」
「“斎藤さん”というと、斎藤一先生のことか?」
若い門番が、興味深そうに少女を見ながら尋ねる。若い女がこんな所に人を訪ねて来ることなど殆ど無いのだから、斎藤とどんな関係の娘なのか興味をそそられるのだろう。
そんな不躾な男の視線など気にもならない様子で、少女は子供じみた動作でこっくりと頷く。
「“が来た”と言っていただければ、解ると思います」
「あんた、斎藤先生とはどんな知り合いだ?」
「どんな、って………」
門番の問いに口ごもって、は頬を染めた。その表情は恋を知ったばかりの少女の初々しさに溢れていて、門番は全てを察したようにニヤニヤと笑う。
かつて在籍した新選組でも一、二を争う剣の使い手で、“鬼斎藤”とまで呼ばれたあの男の“いい女”がこんな少女のような女だと、誰が想像するだろう。これは、他の者にも教えてやらなければならない。
「一寸待ってな。すぐ呼んでくるから」
門番は楽しげにそう言うと、建物の方に走って行った。
さほど待ちもしないうちに、斎藤がやって来た。が、遠巻きに、数人の男たちの影も見える。門番がどういう伝え方をしたのか判らないが、どうやら斎藤を訪ねてきた女の品定めをしているらしい。
斎藤も見物人の存在に気付いているらしく、苦々しい顔をして無言でを隅のほうに引っ張る。
「何しに来た?」
声を押し殺して、斎藤はに顔を近づけて問う。
斎藤の陰に隠れて見物人から自分の姿が見えないことを確認すると、の顔から少女のあどけなさが消え、別人のように大人びた表情になる。そして低い声で、
「副長からの伝言を伝えに」
実はは、新選組の監察方なのだ。そして斎藤も、表向きは新選組を抜けて御陵衛士になったことになっているが、未だに新選組に繋がっている間諜なのである。
勿論、これが高台寺の連中に知れれば、斎藤の命は無い。いつもなら島原で、天神に扮しているを通して情報を通しているのだが、今日に限ってはそれでは間に合わない用件らしい。
斎藤はさり気なく、後ろの見物人たちの様子を窺う。
庭の隅で二人でぼそぼそとやっている様は、どうやら彼らには二人でいちゃいちゃしているように見えているらしい。彼らの目が、笑いを堪えるような半月型になっている。全く疑われていないのは好都合なのだが、斎藤は複雑な気分だ。
も見物人たちの方をちらりと見て、はにかむように頭を下げる。一見あどけない姿が最大の武器であることを心得ている彼女は、こうすることで周りが油断することを知っているのだ。こんな童女のような娘を、誰が密偵だと思うだろう。
屯所にいる時は、は一握りの幹部以外には姿を見せないし、姿を出さなければならない時は常に男装している。新選組で彼女の本当の姿を知っているのは、近藤局長と土方副長、監察方の山崎、そして共に仕事をする斎藤だけだ。見物人の中には元隊士もいるが、誰もが新選組の隊士だとは気付いていない。
こういうの姿を見ると、女は恐ろしいと斎藤は思う。屯所にいる時の男装姿も、島原の天神の装束も、今の娘装束も、同一人物とは思えない変わりっぷりなのだ。
「で、何と?」
「此処で言えるわけないでしょ。二人きりになれないの?」
性急に話を促す斎藤に、がぴしゃりと窘める。
確かに、周りが油断しているとはいえ、此処で伝言を言うのは危険だ。かといって、二人きりになるというのは、この状況では難しい。追っ払ったところで、彼らが大人しく去るとは思えないのだ。
無口で無表情な斎藤に、こんな童女のような女が訪ねてきたということだけで、彼らに娯楽の種を提供したも同然なのだ。暫くこのことでからかわれることになるだろうと思うと、斎藤は一寸頭が痛い。
「………一芝居、打つか」
斎藤がぽつりと言って、促すようにを見た。了解したように、も目で頷く。
そして、斎藤の背後の見物人たちに聞こえよがしに、子供のような声を張り上げた。
「えー、折角此処まできたのにぃー!」
「しょうがないだろ。俺だって仕事なんだから。ほら、これで鍵善のくずきりでも食って帰れ」
斎藤も聞こえよがしに言いながら、小銭を渡すふりをする。
「一人で食べてもつまんないよぅ。じゃあ、いつだったら良いの?」
「知らん」
駄々をこねると、それに対して全くつれない様子の斎藤を遠巻きに見ていた男たちの一人が、斎藤に手招きをした。一番年かさらしい大男だ。
芝居が成功したらしい。二人は一瞬だけ視線を交わしてニヤリと笑うと、斎藤だけ呼びつけた男の方に駆け出した。
「いやあ、斎藤君も涼しい顔して、なかなかお盛んのようだねぇ」
太い腕を斎藤の首に回し、自分のほうに引き寄せて、男がニヤニヤ笑いながら冷やかす。
「いえいえ、あれはそういう女じゃありませんよ」
作り笑い顔で斎藤は否定するが、周りの男たちもニヤニヤ笑って、
「いやあ、斎藤先生があんな童女のような女がお好みとは、意外ですなあ」
「源氏の君のように、自分好みに仕立て上げたところで戴くという算段ですかな?」
ああ見えて、実はもう18歳になるのだが………と突っ込みたくなるが、そこはぐっと堪えて、斎藤は曖昧に笑う。
「しかし、君が入れ揚げている天神とは正反対の女だねぇ。あの天神は大人の色香があるが、あの娘は………」
“君が入れ揚げている天神”と“あの娘”は同一人物なのだが、知らないというのは幸せである。知ったら、この面々は暫く女性不信になるだろう。少なくとも斎藤は、どんなに美しく着飾った太夫を見ても、素顔を想像せずにはいられなくなっている。
計算通りの男たちの反応に、斎藤は照れたように額に汗をかきつつ、
「もう勘弁してくださいよ。あれは皆さんが想像しているような女じゃありませんって。すぐ帰らせますから」
「いやいや。折角此処まで来てくれたんだ。今日は伊東先生も夜まで留守だし、清水寺にでも連れて行ってやったらどうだね? あそこは縁結びの神さんもいるし、何より人目につかない場所が多いから、丁度良いだろう」
何がどう丁度良いのか突っ込んでやりたいが、まあ良い。計算通り、外出許可は取れたのだ。この調子だと、帰ってきてから根掘り葉掘り聞かれそうだが、まさか彼らも尾行するような野暮な真似はしないだろう。何しろ二人は、“逢引き”をするのである。
斎藤は困ったような苦笑いを浮かべながら、それでいてそこはかと嬉しそうな雰囲気を漂わせて言った。
「では、お言葉に甘えて………」
「案外ちょろいもんねぇ」
産寧坂を上りながら、は呆れたように呟いた。
あんな見え見えの芝居に引っかかるとは、御陵衛士というのはどういう集団なのだろうと、は思う。新選組もそうだが、男の集団というのは、若い女には必要以上に甘いような気がする。
「根は単純な奴らが多いからな。伊東がいたらこうはうまく行かなかったかもしれないが。
それより、帰ってからが大変だ。やること無いから、根掘り葉掘り追求されるぞ」
今夜のことを考えると、斉藤は今からげんなりしてしまう。
溜息をつく斎藤を横で見ながら、は可笑しそうにくすくす笑う。
「適当に誤魔化せば良いじゃない。『清水の舞台から京都の街を見ました』とか『二人でお参りしました』とか」
「それで済めば苦労はしないさ」
月真院を出る時に、“人気の無い所に連れ込んで、一発ヤッてこい”などととんでもないことを言うような連中である。そんな子供のようなことを言って満足するわけがない。当然、作り話で誤魔化すことになるのだが、そういうことを微に入り細に入り話すのが嫌なのだ。
男の集団だと、こういうことを自慢げに仲間に話す輩が多いのだが、斉藤はどうもそういうことに対して妙な恥じらいがある。男女のことは、出来るだけ隠したいと思うのだ。
が、は斉藤のそんな面には気付いていない様子で、
「作り話が出来ないなら、それらしいこと、する?」
彼女が何を指して“それらしいこと”と言っているのかは知らないが、食事でも誘うような気軽さで言う。その表情は男女のことなど思いもよらないような無邪気さで、斉藤は思わず溜息をついてしまった。
18にもなって、ここまで男に対して警戒心が無いというのも如何なものかと、斉藤は思う。相手が彼でなければ、その一言ですぐさま人気の無い所に連れ込まれて、戴かれているところだ。山崎も、仕事のことは教えても、そういうことは全く教えていないらしい。
無事に屯所に戻れたら山崎と一度話し合ってみようと、斎藤はひそかに決心した。
産寧坂を上って左に曲がり、更に坂道を上がっていくと、清水寺だ。有名な“清水の舞台”は、寺に入ってすぐの所にある。
「うわあ、此処から飛び降りたら、本当に死んじゃうねぇ」
下を覗き込みながら、は暢気な口調で言う。桜や紅葉の時期であれば、舞台から眺める風景もさぞかし美しいものであろうが、残念ながら時期を外しているので殺風景なものだ。その代わり人が少ないので、ゆっくりすることが出来る。
上洛してからこっち、仕事に追われて、なかなかこうやって京都見物をする暇が無かった。島原や祇園に行く暇はあっても、名所巡りをする暇は無いというのはおかしな話だが、まあそこが男の集団というものである。
「だから“清水の舞台から飛び降りたつもりで”と言うんだろ。しかし、釘を一本も使わないでこれだけのものが建てられるのだから、大したもんだな。
この奥に、縁結びの神様があるらしいが、行くか?」
有名な清水の舞台に立ったというのに、斎藤は感動が薄いらしい。景色などろくすっぽ見ずに、奥の方で奉納されている他人様の絵馬を読んでいる。
この男の性格は解っているつもりだったが、こういう姿を見せられると、も呆れて言葉が出ない。折角来たんだから景色くらい見ろよ、と言いたいが、多分言っても無駄だろう。
そんなの冷たい視線には気付かない様子で、
「どうする?」
「………その前に、他人様の絵馬読むなんて、悪趣味なことやめなよ」
「他人の願いというのは、結構面白いもんでな。たまにムカつくのもあるが。
で、縁結びはどうする? お前も18なんだから、結びたい縁の一つや二つあるだろ?」
「そりゃあ、あるけどさあ………」
ごにょごにょと口の中で呟きながら、はちらっと斎藤を見た。彼女の結びたい縁は、此処にある。
悪趣味で根性が曲がってて、名所旧跡に対する感動も薄い碌でなしだけど、剣を振るえば誰よりも強くて格好いい男だと思う。隊士の粛清のような汚れ仕事も、危険な密偵の仕事も飄々とこなして、仕事の上でも尊敬できる男だ。尊敬が恋心に変わるのは、案外容易い。
が、斎藤はの視線になど全く気付かずに、
「じゃ、行くか」
清水寺ににある地主神社は、因幡の白兎の話で有名な大国主命を祀った神社である。寺の中に神社があるというのは不思議な話だが、縁結びの神様としては出雲大社と並んで有名なところである。
この神社の名物というか、一度はやっておきたいのが、“恋占いの石”。本殿の前にある二つの石の片方から片方へ、目を閉じて辿り着ければ恋が叶うという石である。二つの石の距離は長くはないのだが、目を閉じてまっすぐ歩くというのは案外難しいもので、辿り着けない者も結構いるらしい。
「ま、実際に叶うかどうかは別として、面白そうだろ?」
「………いきなり夢を壊す発言は、どうかと思うけどね」
“恋占いの石”の前でニヤニヤと笑いながら醒めた発言をする斎藤に、は低く突っ込みを入れる。
こんな石で恋が叶うと思うほど、も夢を持っているわけではないが、いきなり否定されては面白くない。片思い中の人間は、こんな石にでも縋りたい気分なのだ。
「やるだろ?」
「勿論!」
気合を入れて、は答える。決して信じているわけではないが、それでも真剣になってしまうのは、やはり何かに縋りつきたい気持ちの表れだろうか。
鼻息も荒いを横目で見下ろして、斎藤は可笑しげに喉の奥で笑う。
「そこまで真剣に結びたい縁の相手は、山崎さんか?」
「は?」
斎藤の口から出た意外な名前に、はきょとんとして彼を見上げる。
「なんだ、違うのか? お前、山崎さんにやたら懐いてるから、てっきり………」
「別に懐いちゃいないけど。あの人は師匠で上司だから、一緒にいるけどさ」
「じゃ、土方副長か? 近藤局長はありえんだろ。あとは男前というと、原田さんか……」
「副長も原田先生も男前だけど、違うってば」
「じゃ、誰だ?」
「…………………っ!」
何気に訊いてくる斎藤に、は顔を真っ赤にして黙り込む。本命は誰かなんて、本命を前にして言えるわけがない。言えるようだったら、こんな石には最初から頼らない。
「別に良いでしょっ、誰でもっっ!!」
照れ隠しに怒鳴りつけると、は大きく深呼吸をして目を閉じた。そして、ゆっくりと一歩踏み出す。
目を閉じて歩くというのは、意外と難しい。目を開けて歩いている時は全く気付かないが、どうも体がフラフラしていけない。真っ直ぐ歩いているつもりだが、歩けているだろうか。
掌を低い位置にやって、摺り足で歩きながら石を探すが、それらしいものになかなか触れない。距離的にいって、そろそろ石に当たってもおかしくないのだが………。
そう思った刹那、不意に右手が掴まれ、強い力で右に引っ張られた。
「あっ………!」
足の均衡を崩して転びそうになったが、寸でのところで硬いものに両手を突いた。
目を開けると、もう一つの“恋占いの石”がそこにあった。
「お前、全然違う方に行くから」
腕を掴んだまま、斎藤が笑いを堪えて言う。
「だって―――――」
目をつぶって歩くのは、思ったより難しいのだ。反論しようと斎藤の方を向いただったが、そのまま絶句してしまった。
鼻先が触れ合いそうなくらい斎藤の顔が近くて、は心臓が止まりそうになる。というか、絶対一瞬止まったと思う。それから、止まった一瞬を取り戻すように、早鐘のように胸が鳴る。
動揺してはいけない。動揺したら、気持ちが知られてしまう。とにかく落ち着こうと自分に言い聞かせるが、そう思うと余計に焦ってしまって、顔どころか、耳まで熱くなってしまう。
「これで―――――」
の様子に全く気付いていないのか、そ知らぬ振りをしているだけなのか、斎藤は相変わらず淡々とした口調で言う。
「縁が結べると良いな」
「…………そ…だね……」
縁を結びたい相手から縁結びの応援をされるなんて、非常に間抜けな感じだ。この間抜けさが自分の恋そのもののようで、は一寸悲しくなる。
知られたくないけれど、でも解って欲しい。切なくて、もどかしくて、は斎藤の顔を見詰めたまま、硬い声で応える。
今、もし斎藤に「好き」といったら、彼はどうするだろうか。密偵の仕事も山場を迎えて、好きだの何だの言っている場合ではないことは、にだって解っている。だけど、今言わなければ、二度と伝える機会が無いかもしれない。
「―――――縁結びの相手………」
声帯が強張っているようで、の声は別人のように掠れている。縁結びの相手はあなただと、それだけのことが言えない。
と、の腕を掴んでいた斎藤の手に力が込められた。
「“それらしいこと”してみるか?」
「え………?」
産寧坂で言った、「作り話が出来ないなら、それらしいこと、する?」という言葉を受けて言っているのだろう。冗談かと思って斎藤を見るが、その顔は真剣だ。
斎藤が言う“それらしいこと”がどの辺りまでのことを指しているのか、には判らない。判らないけれど、は目を見開いたまま、小さく頷いた。
緊張で顔を強張らせたままのを見て、斎藤は困ったように苦笑する。
「そんな大きな目で見られては、やりにくい」
「だって………」
「こういう時は、目は閉じるもんだ」
「ああ………」
思い出したように、は小さく声を上げた。
言われてみれば、その通りだ。驚きと緊張で、目を閉じることも忘れていた。
は言われるままに、きゅっと目を閉じる。
その顔は、接吻を待つというよりは、ぶたれる直前の子供のようで、斎藤は何だか可笑しくなってしまう。一応18歳の大人だが、中身は見かけ同様、まだまだ子供らしい。
自分の容姿を十分に仕事に活用し、島原で天神に扮して潜伏しているくせに、男と女のことに関してここまで無菌状態で育ったというのは、ある意味大したものである。若い男だらけの屯所で、完全にを隔離し続けた山崎の努力の賜物であろうか。さっきも思ったが、屯所に戻れたら絶対に山崎と話し合おうと、斎藤は再び決心する。
本当は“もっと大人のやり方”をしたかったのだが、この分ではまだ無理らしい。斎藤はの顎を持ち上げ、ちょん、と触れるか触れないかくらいの接吻をした。
あまりにも一瞬のことすぎて、はきょとんとして目を開けた。
「え? 今の………?」
「帰るぞ」
の腕を掴んでいた手を離し、斎藤はいつもの無愛想な調子で背を向ける。一瞬見えた横顔が、一寸赤くなっているように見えたのは、の気のせいか、光の加減か。
さっさと階段を下りていく斎藤を慌てて追いかけて、は怒ったような口調で言う。
「一寸ぉ、何、今の? あんなの――――」
「お子様には、あれで十分だろう」
「子供じゃないもん!」
「そういうところが、子供なんだよ」
むきになって甲高い声を上げるを、斎藤は軽くあしらう。そして、階段を降りきった時、の方を振り返って、
「俺が戻るまで、子供でいてくれよ」
懇願するようにそう言う斎藤の顔は、これまで見たこともないくらい優しくて、は何故か恥ずかしくなって俯いてしまった。
には男と女のことを受け入れられるくらいに大人になって欲しいと思う反面、いつまでもそういうことを知らない子供のままでいて欲しいという気持ちも、斎藤の中にはある。どうせ大人になるのなら、他の人間に教えられるのではなく、自分が教えたいと思う。だから、にはまだ子供でいて欲しいと、勝手なことを思ってしまうのだ。
くだらない独占欲だということは、斎藤にも解っている。けれど、そんなくだらない独占欲を持たせるくらい、のことが可愛いのだ。
「近いうちに戻ることになるんだろ?」
そう言った斎藤の顔は、既に密偵の顔になっている。
がわざわざ危険を冒してまで月真院まで来たということは、土方からの伝言はそのことについてだろう。
さっきまで初々しい少女の顔だったも、その言葉で本来の目的を思い出し、仕事の時の大人びた冷たい表情になる。
「来月にでも決着を付けるって。早いうちに引き上げろって、副長が」
“決着を付ける”とは、つまり御陵衛士の頭である伊東甲子太郎を暗殺するということ。人一人の命を左右することだというのに、の表情は少しも変わらない。彼女にとって暗殺や粛清は、既に日常になっている。
「そうか………」
「早く帰ってきてね。局長はともかく、副長は御陵衛士を皆殺しにするつもりだから。あの人、新選組を壊した御陵衛士を心底憎んでる。引き上げ損ねたら、きっとあんたも殺すよ」
「だろうな」
応えながら斎藤は、近藤と土方の顔を思い浮かべる。
あの二人は、見かけも中身も対照的だ。鬼瓦のような顔をして、一見恐ろしげに見える近藤だが、あの人には最後の最後で捨てきれない“人の情”というものがある。逆に土方は、女のようなもの優しい顔とは裏腹に、新選組にとって邪魔だと判断したら近藤にでさえ詰め腹を切らせかねない、冷酷な男だ。当然、斎藤が御陵衛士から抜け損ねたら、顔色一つ変えずに斬り捨てることくらいやってのけるだろう。たとえ味方でも、その場にいて邪魔な存在であれば斬って捨てる、そういう強さを持っている。そしてその強さを、斎藤は尊敬している。
不意に、が斎藤の着物の袂を掴んだ。
「お願いだから、早く帰ってきて」
彼を見詰めるその顔は酷く不安げで、幼子じみていて、斎藤は思わずの身体を強く抱き締める。
「心配するな。できるだけ早く抜ける」
その約束が果たされるのは、11月10日。伊東甲子太郎暗殺の8日前のことである。
残された資料によると、斎藤の脱走の理由は“女にだらしない彼が公金を使い込んだため”ということになってるんだけど、スパイ活動がバレないようにするためとはいえ、一体どんな生活をやっていたのか気になる今日この頃。007みたいに、30分おきくらいに女を口説いてたんだろうか(笑)。史実によると、斎藤はこの後、紀州藩士・三浦休太郎のもとで潜伏し、“山口次郎(二郎)”として新選組に復帰することになります。
この話に出てくる清水寺と地主神社、それと名前だけ出てきた“鍵善”こと“鍵善良房”は、私が実際行ったところです。話の中では便宜上、時期を外しているので人がいないということになっていますが、そんなことはないです。時期を外して行ったにも拘らず、人多すぎ。恋占いの石なんて、やれる状態じゃないから。鍵善良房は、くずきりで有名なお店で、祇園にあります。京都に行く機会があったら、ぜひ行ってみてください。白蜜と黒蜜がありますが、私は黒蜜が好き。
今回の斎藤も何だか変な奴になってしまっていますが、もう生暖かく見てやってください。“斎藤は他人様の絵馬を覘き見るような悪趣味野郎じゃないよ!”というご意見もありましょうが(この悪趣味野郎、実は私だったりするのだが)、私のイメージではそれくらいやりそうな気がするんですよ。すみません。ついでに言うと、初めてのキスでもいきなり舌入れてきそうだよな、この男。いや、何となく。
皆さんの斎藤イメージと私の斎藤イメージがどうも乖離しているような気がしないでもないですが、ここまで読んでくださってありがとうございました。