自分の居場所

 新聞の付いてくる借家の広告を見るのが、最近の蒼紫の日課になっている。
 休みの前日以外にもの家に泊まる日が増えて、あの家が手狭に感じるようになってきたのだ。蒼紫が頻繁に通うようになって、彼の物をの家に常備しておくようになったのだから、狭くなって当然である。そもそもあの家は独居用の家なのだ。
 今は通いだから決定的な不便は無いけれど、これから一緒に暮らすことになったら引っ越さなくてはならないことは確実。いつ引っ越すかはともかくとして、借家の相場というか、どういったものがあるのかを知っておいて損は無いだろう。広告に載っている間取りを見ながら、その家での二人の生活を想像するのも楽しい。
 二人は知り合ってまだ1年経っていないが、多分そのうち一緒に暮らすことになるだろうと蒼紫は思っている。今が一番楽しい時期だからそう思うのだと言われるかもしれないけれど、でもここ数ヶ月は毎日のように会って、過ごした時間の密度は2、3年付き合ってきた男女と同じくらいだと思っている。何より蒼紫自身が、『葵屋』にいる時より此処にいる時の方が心地良いと思えるのだ。
 長年一緒に過ごしてきた御庭番衆の仲間といるよりもと一緒にいる時のほうが落ち着くと思えるようになったのは、いつ頃からだっただろう。つい最近まで、行動の一つ一つにも滑稽なくらい緊張していたのに。話すのも、ほんの少し前までは丁寧語だった。を“”と呼び捨てで呼べるようになったのも、最近だ。
 馴染むまでは、どうすればとの距離を縮められるかと、今思えば滑稽なくらい必死になっていたくせに。一旦きっかけを掴んだらあっという間に馴染んでしまえたなんて、自分でも不思議なくらいだ。
「どうしたの? にやにやして」
 蒼紫の隣で茶を淹れていたが、怪訝な顔をして尋ねた。無表情で考えているつもりだったが、いつの間にやらにやにやしていたらしい。
「何でもない」
 慌てて表情を引き締めると、蒼紫は湯呑みを受け取った。これは客用のものではなく、蒼紫専用のものだ。これのいつの間にか自然にの家にあって、当たり前のように使っている。
 他にも食器や着替えやらの日用品から本まで、色々なものがの家にある。此処に寝泊りするようになってから買ったものもあるし、『葵屋』から持ってきたものもあって、此処に連泊しても問題ないくらいだ。道理で以前に比べての家が手狭に感じるわけである。
 手狭だけれど、いつもの気配を感じていられるこの家はとても居心地が良くて、時々此処が本当は蒼紫の家なのではないかと錯覚してしまうことがあるくらいだ。こういう時に、世の男は相手の女との結婚を考えるのだろうかと、蒼紫は想像する。今も通い婚のような状態だけど、此処より広い家に引っ越してと一緒に暮らすようになったら、もっと蒼紫の生活は楽しくなるだろう。も同じように思ってくれるだろうか。
「あら、借家の広告?」
 物思いに耽っていた蒼紫の手元を覗き込んで、が興味深そうに声を掛けた。その声に、蒼紫は思わず持っていた湯呑みを落としそうになる。
 いつの間にこんなに身体が触れ合いそうなくらい近付かれたのか、全く気付かなかった。『葵屋』では絶対にしない失態である。それだけの前では気が緩んでいるということなのだろう。他人の前でこんなにも油断するなんて、今までの人生で一度も無かった。
「うん……借家の相場というものも知っておこうかと思って。しかし、借家というのは、意外と高いものだな」
 広告を見ながら、との生活を想像していたとは言いにくくて、蒼紫は言い訳のように口の中でもごもごと呟く。
「そりゃあ、これは家族住まい用の家だもの。それに立地条件も良いみたいだし。うちみたいな独り暮らし用だったら、もっと安くてあるわよ。蒼紫、『葵屋』を出るの?」
「まあ、そのうちには。いつかは出て行かないといけないだろうからな」
 の問いに、蒼紫は曖昧に言葉を濁す。
 『葵屋』を出て行くのは、と所帯を持つ時だ。所帯を持ったら出て行けとはっきり言われたわけではないが、多分出て行くことになるだろうと思う。だって他人との同居は気を遣うだろうし、何より新婚生活に他人の目があるというのは蒼紫が落ち着かない。
 と二人きりの生活というのは、きっと楽しいだろうと蒼紫は思う。別に何をするというわけでもなく、ただこうやって新聞広告を見ながらつまらない話をするのだって楽しいくらいなのだから、当然だ。
 しかし―――――新聞広告に再び目を落として蒼紫は考える。家族住まい用の借家の家賃がこんなにするとは予想外だった。所帯を持つというのは何かと金がかかるものらしい。
 結婚したら、今までのようにあちこち遊びに行ったり、外食できなくなることは確実だ。遊び歩けなくなるのはつまらないけれど、それを差し引いてもとの生活というのは魅力的に思える。そう思えることがきっと、世に言う“結婚の決め手”というやつなのだろう。
「家の間取りを見るのって、そんなに楽しい?」
 腕組みをして広告に目を落としている蒼紫に、は不思議そうな顔をする。広告を見ながらにやにやしたり真剣に考え込んでいるのだから、当然だろう。
 その声にはっとして、蒼紫は誤魔化すように広告を丁寧に折り畳みながら応える。
「間取りを見ながら、此処に箪笥を置いて、とか考えていると案外面白い」
「なぁに、それ? 女の人みたいよ」
 蒼紫の答えには心底可笑しそうにころころと笑う。蒼紫のような男がそんな生活感のあることを想像することがあるなど、思ってもみなかったのだろう。
 まあ確かに蒼紫は生活感が無いというか、浮世離れしているけれど、そこまで笑われると彼だってムッとする。その表情に気付いて、は笑うのを止めて蒼紫の顔をじっと見た。
「そんなに怒らないで。蒼紫がそんなことを考えるなんて意外だったから、一寸びっくりしちゃったの」
 そう言いながらもやっぱり可笑しいのか、はくすくす笑っている。それでも宥めるように頬を撫でられると、何だか機嫌を損ねているのが大人気無いような気がして、蒼紫は釈然としない思いでから視線を逸らした。何だか最近、こうやって誤魔化されることが結構ある。
 もしかして自分はに良いように扱われているのではないかと最近感じるけれど、意外とこの状態は不愉快ではない。きっと扱うのがだから、そう思えるのだろう。女が仕切っていると家の中は上手くいくというし、これはこれで良いことなのかもしれない。
「別に怒ってはいないけど………」
 このまますんなりと機嫌を直すのは癪なので、蒼紫はわざと拗ねた声を出してみる。こんな大人気無いことをするのは、の前でだけだ。
 蒼紫がそういう風にすると、はいつも一寸困ったような顔をして、彼の顔を覗き込むように軽く首を傾げる。その表情も少しわざとらしくて、蒼紫がもう機嫌を直しているのもお見通しのようだ。それでもちゃんと蒼紫に調子を合わせてくれるのが嬉しい。
「どうしたら機嫌直してくれるのかなあ」
 独り言のような小さな声だけど、明らかに蒼紫に聞かせるようには甘ったるく呟く。そう言いながら反応を窺うようにちらっと見る時のの目が、蒼紫は好きだ。蠱惑的というか、ちょっとぞくっとする。
 そういう風に見詰められると、面白くなさそうな顔を作り続けるのは難しくて、蒼紫はつい口許が緩んでしまう。でもそんな顔をしたらこれで話が終わってしまうので、の方をなるべく見ないようにして不機嫌な声を作る。
「悪いと思っているのを態度で表すなら、許してやっても良いが?」
「態度?」
 そう言いながら、はくすっと小さく笑った。蒼紫がそう言う時はどうして欲しいのか、いつだって決まっている。
 くすくす笑いながらは蒼紫の肩に手を置いて身体を擦り寄せる。そして、そっぽを向いている蒼紫の口の端に、ちゅっと口付けた。
「これでご機嫌直してくれる?」
「うーん、どうしようかなあ………」
 そんなことを言う蒼紫の声は、もう嬉しそうに弾んでいる。
「でもどうせだったら、これくらいはして欲しかったな」
 楽しそうな声でそう言いながら、今度は蒼紫の方から身体が密着するほど抱き寄せて、接吻した。
「文鳥だって口にしてもらえるんだから、人間様にはそれ以上しないと不公平だろう?」
「ちぃちゃんにするのと蒼紫にするのとじゃ、気持ちが全然違うわよ」
 ここで文鳥が出てくるとは思わなくて、はまたころころと笑う。の一番は蒼紫だということは彼が一番よく知っているくせに、それでも文鳥を引き合いに出すのが子供みたいで可笑しい。
 につられるように、蒼紫も小さく笑う。
「それなら良いけど」
 こうやってしょうもないことを言いながら女と戯れるなど、去年の今頃は想像もつかなかったことだと、蒼紫はふと思った。此処にいると今までとは正反対の自分が次々現われて、そんな自分にも蒼紫自身さえも戸惑ったこともあったけれど、実はこれが“本当の自分”というやつではないかと今は思う。これまでずっと自分を抑えて生きてきたから、今までの分を取り戻すように極端から極端に走っているのではないかと思うのだ。
 でもまあ、こんな自分も蒼紫は嫌いではない。今までよりずっと楽だし、何よりこういう蒼紫をが楽しそうに受け入れてくれるから。こんな楽な自分を出せるようになったのは、のお陰だ。
 今までずっと、自分は普通とは違うのだから、御庭番衆の中でしか生きられないと思い込んでいた。けれど今は、こうやって格好悪い子供じみた姿を見せられるの前こそが、本当の自分の居場所なのではないかと思う。
「いつか―――――」
 いつかもう少し広い家に引っ越して一緒に暮らそう、と言いかけて、蒼紫は慌てて言葉を飲み込んだ。こんなふざけ合っている時に言っても、本気にしてはもらえない。こういうことを言うには、それに相応しい雰囲気というものがあるのだ。
 そのまま口を噤んでしまった蒼紫を、は怪訝そうに見る。
「何でもない」
 続きが気になって仕方がなさそうなに、蒼紫は曖昧に笑って誤魔化した。
<あとがき>
 誰、これ………?(汗) またまたバカップルです。んもう、人目が無いからって、真昼間からこんなべたべたするなんて。こりゃあ、ちぃちゃんも怒るって。
 もうこの二人、回を重ねるごとにベタベタしてるんですけど。どこまでベタベタできるものなのか気になるところですが、お題の数の都合上、次回の“約束”で一応完結の予定です。でもこの二人はなかなか評判も良かったし、私としてもこのまま封印するのは勿体無いような気がするので、拍手小説で細々とやっていけたらと思います。
 しかし、こんな蒼紫を見たら『葵屋』の人々は腰抜かすな。蒼紫、所帯を持ったら『葵屋』を出た方が良いと思うよ。余計な世話だが(笑)。
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