ドレス

「息を吐いて力を抜け」
 肩で息をしながら、斎藤は背後からの肩越しに低く言う。いつもは顔色一つ変えない彼だが、この時ばかりは薄っすらと頬が紅潮している
 こうするのはは初めてではないけれど、久々であるからコツを忘れたというか、しょっちゅうしていた頃に比べると妙に手間取ってしまうのだ。今だって身体の力を抜けばすんなりとうまくいくのに、緊張のせいか妙なところに力が入ってうまくいかない。
 実はさっきから何度も姿勢を変えて挑戦しているのだが、なかなかうまくいかない。すんなりといけると思っていただけに、そろそろ斎藤の手つきにも苛立ちの色が感じられてきて、それにもは気まずくなってしまう。
「………うん」
 今度は箪笥に掴まっては大きく息を吐いた。こういうのは十人十色のやり方があるらしいけれど、は何かに掴まっていると安心感があってうまく行くような気がするのだ。
 の身体から力が抜けたことを確認すると、斎藤も気合を入れるように大きく息を吐いた。
「いくぞ」
 そう言うと同時に、斎藤はの腰に片足をあてがって、コルセットの紐を思いっきり引っ張った。
「ぐぅうううう〜〜〜〜〜っっ!!」
 踏み潰されたヒキガエルのような色気もへったくれもない呻き声を上げて、は大きく仰け反る。
 ドレスを着るたびに思うのだが、西洋人というのはどうしてこんなもので腰をぎゅうぎゅうに締め上げるのだろう。こんなものを付けたら気分が悪くなるし、一寸走ると倒れそうになってしまう。西洋の女は一寸したことで気絶すると聞くけれど、このコルセットのせいではないかとは睨んでいるくらいだ。
 おまけに西洋では腰が細ければ細いほど美しいとされているから、男の手で締め上げてもらわないといけないのだ。下着姿で男の前に立たなければならないというのも、には信じられないことだ。西洋の女には羞恥心というのが無いのだろうか。
「ま、こんなもんだろ」
 全力で締め上げて紐を結ぶと、斎藤は両手をぷるぷると振りながら肩で息をして言った。締められるも大変だが、絞める斎藤も手は真っ赤になるし頭の血管が切そうなくらい力を使わなければならないのだから、結構大変なのだ。コルセットというのは、男にも女にも重労働である。
「あ……ありがと………」
 もくったりと箪笥に寄りかかって、息も絶え絶えに礼を言う。慣れれば苦しさも軽くなるものなのだが、久々のコルセットは胃が圧迫されて声を出すのも一苦労だ。暫くの間は水も飲めそうにない。
 けれどその甲斐あって、の身体は後ろから見ると砂時計のようになっている。西洋の価値観で言えば、最高に美しい体形だ。日本人の斎藤から見れば、不自然すぎて色気を感じる前に健康を心配してやりたくなる体形なのだが。確かに寸胴ずんどうよりはくびれのある腰が良いに決まっているが、何事にも程度というものがある。
「しかし、お前も大変だなあ。着物で行くわけにはいかんのか?」
「異人も来る園遊会らしいからね。ダンスもあるらしいし、着物じゃ無理よ。ま、一時間もすれば慣れるから大丈夫よ」
 実はは、これからある政治家が主催する園遊会に出席しなければならないのだ。今回は護衛ではなく、招待客としてである。
 ただの警部補に過ぎないが何故招待客として園遊会に出席する羽目になったのかというと、その理由は三日前に遡る。





 が九州にいた頃に親しくしていた石岡が上京して来た。何でも、叔父の代わりにある政治家の園遊会に出席するためだという。
 石岡は今はまだ地方で警部をやっているが、実は彼は薩長閥の上層に食い込んでいる一族の御曹司なのだ。今は現場を知るための下積み生活というやつで、ゆくゆくは中央に戻って警視庁の上の方の地位を約束されている男なのである。
 そんなわけで、政治家や実業家が出席する園遊会に顔見世を兼ねて出席することになったのだが、困ったことに石岡には同伴する婦人がいない。こういう席では婦人同伴が鉄則なので、金を出して芸者をそれらしく着飾らせて連れて行く独身者もいたりするのだが、それもどうかと思われるので、に白羽の矢が立てられたのだ。九州にいた時もには何度か同伴を頼んだことがあるし、多少は場馴れをしているから安心ということなのだろう。
「手袋からドレスまで全部用意してあるんだ。レースの手袋にボルドー色のドレスだぞ? 今年の最新のドレスを用意させたんだから、頼むよ」
 の執務机の上にビロードのドレスを広げて、石岡は一生懸命説得する。長崎の異人館街で手に入れた、今年の秋冬最新のドレスだ。ビロードを使ったドレスなど、東京でも持っている者はまだ何人もいないだろう。
 気乗りはしない顔をしながらも、初めて見るビロードの手触りは気になるものらしく、は生地を何度も撫でながらぶつぶつと口の中で呟くように言う。
「またあのコルセットするの嫌だよ。それにああいう席って苦手」
「黙ってにこにこしていれば良いから。社交は全部俺がやるし、ダンスだって俺としかしなくて良いし、終わったら何でも好きなもの食わせてやる。洋食でも懐石でも食わせてやるぞ。だからな、頼むよ」
「でもぉ………」
「じゃあ、お前が欲しがってた金剛石ダイヤモンドの指輪を買ってやる。だから―――――」
「邪魔」
 身を乗り出して説得する石岡にわざとらしく体当たりをして、両手で資料を抱えた斎藤が不機嫌な声で言った。さっきからこんな遣り取りが30分以上続いているのだから、鬱陶しくて堪らない。それよりも、妙に親しげなベタベタとした二人の喋り方が、斎藤を苛立たせていた。
 長身の斎藤に体当たりを食らわせられて、小柄な石岡は前につんのめってしまったが、すぐに体勢を立て直す。わざとぶつかられたことには気付いていたから、挑戦的に口の端を吊り上げて石岡は斎藤を見上げた。
「失礼。ああそうだ。斎藤さんからも君を説得していただけませんか? どうしても彼女に一緒に出席してもらわないと、私の立場がないんですよ」
 言葉使いは丁寧だが、その口調は慇懃で、石岡も斎藤にあまり良い感情を持っていないことは明らかだ。斎藤も石岡のことがあまり好きにはなれないので、まあお互い様なのだが。
 石岡がのことを好いていることは、斎藤も薄々知っていた。以前盗み見た石岡からの絵葉書を見てもそれは察することが出来たし、今の彼のに対する態度を見て確信した。は石岡のことをただの友人と言っているけれど、少なくとも石岡はを友人ではなく女として見ている。
 も石岡も独身者同士であるから、好いた惚れたの仲になっても何の不思議も無い。自由恋愛を楽しむのも、仕事に支障が出ない範囲であれば、大いに結構だ。外野が口出しすることではないことも解っているし、既に妻帯者の斎藤に口出しをする権利すらないことも解っている。それでも二人の態度に不愉快な思いしてしまうのは、斎藤の中で昔のことがまだ燻っているからなのだろうか。
 もう10年以上前のことであるが、斎藤とは恋仲だった頃がある。幕末の動乱で離れ離れになってしまい、その後斎藤も所帯を持ってすっかり終わってしまった関係ではあるが、それでもに男が言い寄っているというのは不愉快なことこの上ない。はいつまでも斎藤の傍にいるのが当たり前だと思っていたし、他の男に言い寄られても耳など貸さないと、何の根拠も無く思い込んでいた。にはの人生があって、そんなに調子の良いことがあろうはずも無いのに。
「部下の私生活のことは口出ししない主義でしてね。上司といえども、仕事以外のことを無理強いするわけにはいかないでしょう」
 小柄な石岡を更に見下ろすように、斎藤はわざとらしく顎を上げて冷ややかに答える。斎藤が一言言えばも園遊会に出席するだろうが、それは絶対にしたくなかった。そんなことをしたら、石岡がを自分の妻のように会場内を連れまわすに決まっているのだ。石岡の態度を見れば、その様子は容易く想像できる。
 先入観無しに見れば、多分石岡は悪い男ではないのだろう。よりも頭一つ分高いだけでそれほど背は高くないが、おっとりとした優しい顔をしている。薩長閥の出であるから先々は確実に出世するだろうし、そんな男がを好いてくれているというのは、喜ばしいことなのだろうとは思う。そう頭では解っていても、が他の男と仲良くするのは、斎藤には面白くない。
 金剛石の指輪に心が動いたのか、ドレスが気になって仕方が無いのか、はじっと考えるようにドレスを撫でている。いかにも物につられている様子なのが、30を超えたいい大人のくせに情けない。その様子にも、斎藤は舌打ちをしたい気分だった。
「断るにしろ受けるにしろ、早く返事をしてやることだな。でないと、石岡さんも別の相手を手配せんとならんだろ」
 断ることを前提にに言ってやると、斎藤はいつもよりも不機嫌な顔で席に着いた。





 そして今、ボルドー色のドレスを着ているの右手の薬指には、金剛石の指輪が光っている。石岡に買ってもらったのだろう。石自体は小さなものだが存在感のある輝きを放っていて、質は良いもののようだ。
 コルセットが苦しいだのパーティーは苦手だの言っていたくせに、綺麗なドレスを着て金剛石の指輪を買ってもらって、はとても嬉しそうだ。こういうところはやはり女である。
「その指輪―――――」
 手の角度を様々に変えて楽しそうに金剛石を眺めているに、斎藤が面白くなさそうに声を掛ける。
「あの男に買ってもらったのか?」
 その言い方がいかにも嫉妬をしているようで、言ってしまった後に斎藤は不快そうに僅かに顔を顰めた。園遊会に出る礼で買ってもらっただけで、それ以上の意味は無いことは解っていても、こんな高価なものを石岡に買ってもらったという事実に腹が立つ。
 大体指輪というのは、恋人とか夫婦とか、そういう男から買ってもらうものらしいではないか。この指輪は単なる礼で、そんな深い意味などあるはずはないのだが、それでも男から貰った指輪を嬉しそうに嵌めているの姿には苛々してくる。斎藤の目の前でこれ見よがしにきらきらさせているのも、無神経ではないか。
 が男から貰った指輪をきらきらさせても、斎藤がどうこう言う筋合いではないことは解っている。昔はともかく、今の斎藤は妻帯者で、は独身なのだから、男から指輪を貰おうが一緒にダンスを踊ろうが、斎藤が口出しする権利は全く無い。今は右手で輝いている指輪が左手に移動したとしてもだ。
 斎藤の不快そうな顔には全く気付いていないのか、は相変わらず嬉しそうに指輪を眺めている。
「そう。昨日買ってもらったの。綺麗でしょ?」
 その表情は遠い昔、斎藤がに初めてかんざしを買ってやった時の嬉しそうな顔と同じで、それがまた斎藤には面白くない。石岡との仲はまだ一寸親しい友人止まりのようだが、このまま放っておけばそれ以上の仲になるのは間違いない。あんな高価な指輪を買ってもらっているくらいなのだ。だってまんざらではないのだろう。それはその表情を見たら解る。
 もう終わってしまったこととはいえ、かつては恋仲であった斎藤の前で男から貰った指輪をきらきらさせているの神経が解らない。斎藤が不快になるかもしれないと、少しは思わないのだろうか。もしかしたら、自分と同じように斎藤の中でも終わったことだと思っているのかもしれないが。
「どうせ手袋をしたら見えなくなるんだから、外したらどうだ? 邪魔だろう」
 指輪に罪は無いけれど、石岡が買った指輪がの指で輝いているのを見るのは、非常に面白くない。やっぱり嫉妬しているのだろう。
 漸く斎藤が不機嫌なことに気付いて、は怪訝な顔をする。斎藤の不機嫌な理由が全く解らないようだ。
「何で? 別に邪魔じゃないよ。それに石岡君も、絶対付けて来てって言ってたし」
「それはお前―――――」
「こんにちわー。ー、準備できたか?」
 苛立ちが頂点に達したような斎藤の声を、石岡の暢気な声が遮った。馬車で迎えに来るといっていたが、もうそんな時間になっていたらしい。
 の返事を待たずに靴を脱ぐような音がして、燕尾服を着た石岡が姿を現した。日本人には洋装は似合わないと斎藤は常々思っていたが、腹が立つことに石岡は小柄なくせに洋装姿が板についている。それだけ着慣れているということなのだろう。
 そんなことよりも、今の石岡の行動である。“”と呼び捨てにすることもだが、此処はの官舎だというのに我が家の如く勝手に上がり込むとは。しかもも言っていたが、買ってやった指輪を絶対付けて来いなど、一体何様のつもりなのか。公式の席で、自分が買った指輪を女に付けさせて連れ回すなど、亭主を気取りたいのかと問い詰めたいくらいだ。
 むかむかして腕を組んで立っている斎藤に気付いて、石岡は意外そうな顔をした。斎藤が此処にいるとは思っていなかったらしい。
「どうして藤田警部補が此処にいるんだ?」
 斎藤を指差して、石岡はに尋ねる。斎藤に直接訊かないところも腹立たしい。
「コルセットを締めてもらったの。どう? 良い感じに絞まってるでしょ?」
 ぎゅっと括れた腰に手を当てて、は得意げに言う。そんなことを言えば石岡も不愉快になるだろうに、そんなことには全くお構いなしだ。二人の男の反応を楽しんでいるのか、何も考えていないのか、判断に苦しむところである。
 案の定、石岡は面白くなさそうな顔をして鼻を鳴らす。が、すぐに穏やかな微笑を作って、の腰に手を伸ばす。
「随分と細く締め上げられたもんだな。苦しくないか?」
 労わるように言いながら、石岡は片手での腰を撫でようとした。が、寸でのところで斎藤が石岡の手を掴みあげた。
「石岡さん、官舎の敷地内に馬車を止められると非常に迷惑なんですがね。出かけるなら、さっさと出かけてもらえませんか?」
「ああ、それは失礼。じゃあ、行こうか」
 にっこりと慇懃に微笑んで石岡は斎藤の手を振り払うと、その手をに差し出した。西洋人のような気障な仕草が、これまた斎藤の鼻についた。
 けれどは嬉しそうにその手を取る。女というのは概してお姫様扱いというのが好きだが、もそうであるらしい。しかも自分がお姫様のようなドレスを着て、相手も洋装をしているのだから、お姫様気分も最高潮といったところだろう。
 我が物顔の石岡の態度にも腹が立つが、彼が用意したドレスと指輪を喜んで身に付けているにも腹が立つ。けれど何よりも腹が立つのは、それらのことに腹を立てている斎藤自身だ。こんなことに腹を立てているなど、まるでまだに未練があるようではないか。もう何もかも終わってしまったことなのに。今更やり直すことなど出来ないし、やり直そうとも思ってはいけないのだから、せめて二人のことを温かく見守るのが斎藤の取るべき姿勢なのに。
 自分の中のもやもやとした感情を振り払うように、斎藤は小さく頭を振った。と再会してからずっと一定の距離を取っていられたのに、一寸親しい男が現われただけでこんな風になるなんて、どうかしている。
 改めて目の前の二人の姿を見てみると、二人とも洋装をしているせいか、なかなか似合いの二人に見える。石岡を見るの表情も、かつて斎藤を見上げていた頃の表情と同じで、きっといつか石岡がかつての斎藤の役になるのだろうと思わせた。そうなったとしても、斎藤には止める権利も邪魔する権利も無い。
 目の前にいるのに随分と遠くに行ってしまったものだと、の姿を見遣りながら斎藤は少し胸が痛むような寂しい気持ちになった。ドレスを着たいつもと違う装いにも距離を感じるけれど、それよりも距離を感じるのはきっと、の心が石岡に傾きかけているのを感じているからだろう。随分女々しいものだと、斎藤は自嘲するように小さく口許を歪めた。
 と、玄関で靴を履いていたが思い出したように斎藤を振り返った。
「斎藤さんも園遊会は護衛で行くんでしょ? 一緒に行く?」
「そうだな………」
 口の中で呟きながら石岡の顔をちらりと見遣ると、どうやらあまり歓迎されていない雰囲気である。折角二人きりになれるのに、邪魔者がいたら台無しといったところだろう。斎藤にも身に憶えのある感情だ。
 身に憶えがあるから、それを邪魔したらどれだけ恨まれるかも解っている。別に石岡に恨まれるのは怖くはないが、何もかもを承知の上で相乗りするというのは、自分に対してみっともない。
「いや、やめておこう。客人と一緒に護衛の警官が会場に行くというのはまずいからな」
 その言葉を聞いた瞬間、石岡がほっとしたように息を吐いたのがあからさまに判って、斎藤は思わず笑い出しそうになってしまった。が、それをぐっと堪えてどうにか面白くなさそうな無表情を作る。
「じゃ、後でな」
 斎藤も靴を履くと、きょとんとした顔をしたに軽く言い残して先に出て行った。
<あとがき>
 一寸コントが入っていたこのシリーズですが、一転して主人公さんに第三の男が現われて動揺する斎藤です。“健康的”で初登場だった石岡君を何かに使おうと思って色々考えた結果が、斎藤の嫉妬の対象という役柄です。
 もともと、この『虹の入り江』はメロドラマ中心のドリームサイトということで立ち上げたのですが、管理人もすっかり忘れ去っていまして。で、これはいけないと、初心を思い出して少しメロドラマ風味のドリームです。斎藤視点で、嫉妬したり動揺したり大変です。私としてはこんな斎藤もアリではないかと思うのですが、如何でしょう? つか、いつもは余裕をかましている男が嫉妬したり動揺したりするのを見るのは楽しいですよね(悪趣味だなあ……)。
 このドリームはこのまま“ダンス”に続きます。多分斎藤視点で。
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