背中

 蒼紫と喧嘩をした。二人が付き合ってそろそろ半年近く経つが、朝から口を利かないほどの大喧嘩というのは初めてのことだ。
 きっかけは本当にどうでも良い、馬鹿馬鹿しいことだった。昨日の夜、二人であんころ餅を食べていたのだが、その時に蒼紫が後で食べようと残していた餅の部分を、もう食べないものと思ってが食べてしまったのだ。それで蒼紫が珍しく激怒して、売り言葉に買い言葉で翌日になっても口を利かないという状態になってしまったのである。
 自分でも大人気ないとも思うが、でも自分から謝るのは癪だ。大体、あんころ餅を食べるのに、先に餡子をどかして食べて、後で餅を食べるなんて変な食べ方をする蒼紫が悪いのだ。先に甘い餡子を食べて、口直しに餅を食べるのだと主張していたけど、そんな食べ方をすれば餅はいらないのだと思うに決まってる。勿体無いから食べてあげようと思ったのに、他人の皿に手を付けるなんて非常識だなんて、いかにもが育ちが悪いような言い方をするなんて。餅一個でギャアギャア騒ぐ蒼紫だって、お育ちが良いとは言えないじゃないか。
 まあ、そんな大喧嘩をしても蒼紫は『葵屋』に帰らずにそのままの家に泊まって(流石に別の布団で背中を向け合って寝たけれど)、無言で朝ご飯まで食べているのだから、今すぐ別れる別れないという深刻な事態まではいっていないのだが。というか、あんころ餅が原因で別れたりしたら、大人気無いを通り越して馬鹿である。
 それにしても、あんころ餅であんなに激怒するとは。いつものように縁側に座っている蒼紫の後ろ姿を見ながら、は小さく溜息をつく。年に一度食べられるか食べられないかという貴重な食べ物ならともかく、あんころ餅である。あんなもの、今日買い物に行ったついでにでも買えるようなものなのに。そんなものを取られたから激怒するなんて、そんなに器の小さな男だっただろうかと、今までのことを思い出してみる。
 付き合い始めの頃は、の好きなものを自分の皿からも分けてくれるような男だったはずだ。あれも食べなさい、これもあげます、なんて、を太らせたいのかと思うほどいろいろな物を食べさせてくれた。それなのに、一寸付き合いが長くなると、あんころ餅ごときで大激怒である。もしかして蒼紫は釣った魚に餌はやらないという主義なのだろうか。そういえば最近、何処にも連れて行ってもらっていない。
 この人のどこを好きになったんだろう、とはふと疑問に思った。許婚だった“あの人”の月命日のお参りに行った時に後をつけられて、の方から声を掛けた。悪い人ではなさそうだったし、あの人と同じ密偵っぽかったから話しかけられたのだと思う。今思えば胡散臭いことこの上ないし、下手したら事件に巻き込まれていてもおかしくない出会い方だった。それでも今もこうやって続いているのだから、人の縁とは奇妙なものだ。
 最初は、雰囲気が一寸“あの人”に似ていると思っていた。歩き方とか話し方も似ていて、何より後ろ姿がそっくりだった。今こうやって縁側に座っている後ろ姿も本当によく似ている。ふとした時に、“あの人”が帰って来たのかと思うくらいだ。
 は“あの人”の背中が好きだった。少女だった頃の目にはとても頼り甲斐があるように見えたものだ。昔のことだから美化されていると思わないでもないが、とにかく当時はそう見えたのだ。“あの人”の後ろ姿に似ていたから、蒼紫のことを好きになったのだろうか。ということは、蒼紫が“あの人”に似ていなかったら、好きにはならなかったのだろうか。
 はチラッと蒼紫の方を見る。蒼紫は相変わらず座ったままで、微動だにしない。何を考えているのやら、蒼紫はが呼ぶまで日がな一日こうやって動かないことが結構あるのだ。そこは“あの人”とは違う。“あの人”はいつでもどんな時でものことを構ってくれた。のことをいつも優先してくれて、あんころ餅のことで激怒するなんてことの無い、立派な大人だった。
 最近になって気付いたが、蒼紫は自分より大人だと思っていたけれど、案外子供っぽいところも沢山ある。昨日から引き続いている喧嘩もそうだし、が文鳥にかまけているとすぐに不機嫌になるし、それどころか文鳥相手に本気で喧嘩をするような男だ。きっと“あの人”だったら絶対しないことばかりだと思う。そんな子供みたいな男を、どうして好きになったのだろう。今更ながら、自分でも不思議でたまらない。
 しかもよくよく考えてみれば、蒼紫は女を引っ張ってくれるという男ではなく、何をするにしてもいちいちお伺いを立てるような男だ。話し方を変えたり呼び方を変えたりするのにもお伺いを立てて、考えようによっては頼り甲斐がある大人の男どころか、かなりヘタレな男かもしれない。しかも酔っ払ったらベタベタ触ってくるし、とんでもない甘ったるいことを言ったりして。
「あれ………?」
 は思わず頓狂な声を上げてしまった。それに気付いて蒼紫も振り返るが、すぐに気まずそうに庭に目を向ける。
 よくよく考えてみたら、本当に蒼紫にはが好きになる要素が何も無いではないか。“あの人”のような立派で頼り甲斐のある大人の男が理想だったのに、どうして蒼紫みたいな男と付き合っているのだろう。今までに言い寄ってきた男たちの方がずっと大人だったのに、どうして彼らを拒絶したのに蒼紫は受け入れたのだろう。改めて考えると、自分でも納得できない。
 やっぱり後ろ姿が“あの人”に似ていたからだろうか、とは蒼紫の背中を見ながら考える。でも、後ろ姿が似ているというだけで、こんな理想とかけ離れた男と付き合ってしまったのだろうか。それじゃあただの馬鹿だ。
 それまで動かなかった蒼紫が、ふと文鳥の籠を見た。文鳥も小さく鳴きながら蒼紫を見上げる。
 蒼紫が文鳥に関心を持つなんて珍しいことだ。いつも文鳥なんかいないもののように振舞っているのに、今日はどういう風の吹き回しか、鳥籠に指を突っ込んで文鳥を構おうとしている。が何も話しかけないから、文鳥を相手にして気を紛らわせようとしているのだろうか。
 けれどいつもしないことをするものだから、文鳥は蒼紫の指から逃げるように狭い籠を飛び回って、威嚇するような甲高い声を上げている。いつも自分を叩いたりして苛めている指が入ってきたのだから当然だ。けれど蒼紫は文鳥の反応に動じる様子は無く、無表情で籠の中を追い掛け回す。
 そんな風に追い詰めたら余計に警戒するのに、とは冷ややかに観察する。いつも苛めているくせに、こういう時だけ構ってもらおうなんて虫が良すぎるのだ。
 そういえば“あの人”はよく動物に懐かれていたなあ、とは思い出した。餌付けをしているわけでもないのに近所の野良犬や野良猫に懐かれていて、が動物好きになったのもその影響だと思う。こうやって毎日のように会っている文鳥にも懐かれない蒼紫とは正反対だ。
 気が付けば、色々なことを“あの人”と比べている。死んでしまった人と比べても仕方の無いことなのに。それとも、死んでしまった人と比べてしまわずにはいられないほど、蒼紫への気持ちが冷めてしまったのだろうか。ついこの間まで、“あの人”のことを思い出すことも殆ど無かったというのに。
 やっぱり昨日のことのせいだろうか。たかだかあんころ餅で、とは自分でも呆れるが、食い物の恨みは恐ろしいと昔から言うから、自分では気付かないところで根深く怒っているのかもしれない。しかし、あんころ餅で気持ちが冷めてしまうなんて情けない。もしこのまま蒼紫に対する疑問が大きくなって、その流れで別れてしまうことになったら、別れた理由はあんころ餅になるのだろうか。それはいくらなんでも情けない。
「痛っ………!!」
 いつの間にやら別れた時のことまで考えが至ってしまっていただったが、蒼紫の声で思索は中断されてしまった。どうやら毎度の如く、文鳥に噛み付かれたらしい。蒼紫が文鳥にちょっかいを出して噛み付かれるというのは、今では毎度のお約束だから、も今更驚かない。
 驚きはしないけれど、手当てはしてやらないといけないだろう。動物はばい菌を持っているから、噛み付かれたらすぐに消毒しないと傷が化膿することがあると“あの人”に言われたことがある。
 喧嘩してから一度も口を利いていない状態で、こっちから手当てをしてやるのも癪だが、でもこれが原因で傷口が化膿したらそれはそれで寝覚めが悪い。は仕方なく立ち上がると、薬箱を持って蒼紫の隣に座った。
 わざとらしく音を立てて隣に座られ、蒼紫は驚いたように一瞬身を引いた。が、はそんな蒼紫の様子など目に入らないように不機嫌そうな無表情で薬箱を開けて、無言で彼の手を掴むとぺたぺたと消毒を始める。
 本当ならこれを話しかけるきっかけにするべきだったのだろうが、自分の方から話しかけるのは、にはいかにも癪だった。こちらから話しかけたら、まるでが悪かったみたいではないか。こういう時、男は意地を張るから女から折れてあげないといけないと友達は言うけれど、自分は悪くないのに形だけとはいえこちらから謝るなんてことは、には出来ない。
「……………」
 無言で手当てをしていると、蒼紫がもそもそと何かを呟いた。聞き取れなくて、は怪訝な顔で蒼紫を見る。蒼紫の顔をちゃんと見たのは、今日では初めてだ。
 真っ直ぐに見詰められて、蒼紫は一瞬たじろいだ様子を見せた。が、から一寸視線をずらしてぶっきらぼうに小さく言う。
「………ごめん」
 何を言われたのか解らなくて、はきょとんとした顔をした。が、すぐに元の無表情に戻って、
「私じゃなくて、ちぃちゃんに謝ったら? あんな風に指を突っ込んだら、怖がるに決まってるでしょ」
「そうじゃなくて、昨日の………」
「あー………」
 納得したような声を上げて、はそのまま黙り込んでしまった。そんなに、蒼紫は気まずそうに言葉を続ける。
「一寸言い過ぎたから、昨日からずっと謝ろうと思っていたんだが………。どうも話しかけにくい雰囲気だったから………。………昨日は悪かった」
 珍しく文鳥にちょっかいを出したのも、どうやらに話しかけるきっかけを掴むためだったらしい。文鳥には災難な話だし、呆れてしまうくらい子供っぽい作戦だけど、でもそんなところが思わず笑いがこみ上げてしまうほどには愛しい。

<ああ、そうか………>

 どうして蒼紫のことを好きになったのか、答えが見つかったような気がした。
 しっかりしているように見えるけれど、子供っぽくてヘタレなところがあって、“あの人”に比べたら全然頼り甲斐は無いけれど、でも自分が悪いと思ったらきちんと謝ってくれる素直な人だ。変に意地を張って女が折れるべきだとか思ってないし、いつでもと対等でいようと思ってくれている。何をするにしてもにお伺いを立てるのは、ヘタレなのではなくて、の意見も聞いてみようという気持ちの表れなのだ。
 大体、子供の目から見れば、既に大人の仲間入りをしていた“あの人”が頼り甲斐のある大人に見えるのは当然のことではないか。同い年の蒼紫に年上の男と同じ頼り甲斐を求める方が間違っている。上からの目線ではなくて、同じ目線の男の人と付き合うのがこんなにも楽しいということを教えてくれたのも、蒼紫だった。
 まだ気まずそうにもじもじしている蒼紫が急に可愛らしく思えて、は思わず抱きついてしまった。の方から抱きつくのは初めてのことで、蒼紫は驚いたように反射的に身を硬くする。
「私も、ごめんなさい」
 昨日のこともそうだけど、“あの人”と比べてしまったことも、蒼紫に対する気持ちを疑ったことも。“あの人”には“あの人”の良いところも悪いところもあって、蒼紫には蒼紫の良いところも悪いところもある。二人は別の人間で、比べられるものではないのだ。だって、蒼紫が昔付き合っていた女と比べられたら嫌に決まっている。
「蒼紫、好き」
 自分の気持ちが揺ぎ無いものであることを確認するように、は囁く。
 これから先、またくだらないことで喧嘩をすることもあるだろうし、どうしてこんな人を好きになったのだろうと疑問に思うこともあるだろう。けれど、きっと今日みたいにちゃんと思い出せれば大丈夫だ。
 珍しく積極的にに抱きつかれ、蒼紫は落ち着かないようにもぞもぞしている。いつも蒼紫の方から抱きついているから、いつもと勝手が違ってどうして良いのか分からないのだろう。こういうところが一寸ヘタレかなと思うけれど、でも一寸可愛いとも思う。
 いつもと立場が逆転しているのがおかしくて、はくすくす笑いながらますます強く抱きつくのだった。
<あとがき>
 まあ、食い物の恨みは恐ろしい、ということで。あんころ餅を食べながら思いついたネタです。たまに食べると凄く美味しいんですよね、あんころ餅。
 まあそれはともかくとして、喧嘩をきっかけに「どうしてこんな人と付き合ってるんだろう?」なんて深く考え出す主人公さんです。深く考えすぎて、そのまま別れに到るケースもあるのですが(私のいつものパターン……)、まあ主人公さんは“好き”の理由を思い出したんで仲直りできて良かったです。
 しかしこのシリーズの蒼紫、回を重ねる毎にヘタレ度が高くなってるなあ……。もじもじ君だし。こんな人のはずでは………。そろそろ格好良い蒼紫を書かないとなあ。何とかしなきゃ。
戻る