運命が引き寄せる<後編>
その日、蒼紫は新しい主人に会うために洋館の一室で待たされていた。屋敷の主人は、世が世ならやんごとない身分の人間であったというが、新時代においては既に忘れ去られてしまった人物だ。徳川が瓦解した時のことは、明治を10年過ぎた今でも鮮明に憶えている。の夫であった家茂が大阪で亡くなった後、“和宮”がなかなか薙髪しない事を天璋院が怒って大奥が騒然としたことも、大政奉還で“表”も“奥”も騒然としたことも、江戸城の無血開城で大奥の女たちが出て行った日のことも、昨日のことのように憶えている。
大奥が炎上したあの夜から、蒼紫がの姿を見ることは無かった。が大奥から出て行く時は、せめて一目だけでもと自分の持ち場を離れてまで正門に走ったのだが、は隙間無くぴったりと閉じられた輿に乗せられていて、その影すらも見ることが出来なかった。
その後、がどんな生活をしているのか蒼紫は知らない。一旦は京都に帰ったものの、日本の首都が東京になったことで再び東京に戻ったと聞いているだけだ。新時代になっても、はあっちにやられ、こっちにやられと、周りに振り回されているらしかった。
大奥を出ることはできたけれど、きっとは一生自由の身になることは無いのだろう。徳川が瓦解してお役御免になっても、御所と大奥の秘密を握っているを御所も旧幕臣も手離すはずがない。噂では、“和宮”は外界との接触を一切断って、亡き家茂の菩提を弔って生活していると聞くけれど、自分の意思で閉じこもっているのではなく、きっと周りに閉じ込められているのだろう。
一方蒼紫は、江戸城を出てから10年、部下を連れて日本中を放浪していた。仕官の話が無かったわけではない。徳川が倒れた後、どこから聞きつけたのか分からないが“御庭番衆御頭”には山のように仕官話が持ち込まれた。けれどその話は、“御頭”にだけで、他の者は次の職を見つけられないまま江戸城を放り出されてしまったのだ。彼らを守るためにも、蒼紫は全ての仕官話を蹴った。
それから、御庭番衆を引き取ってくれるところでなら、どんなところでも働いた。殆どが政治家や実業家の護衛の仕事で、昔暗殺しかけた人間の護衛もしたことがある。引く手あまたの御庭番衆御頭とはいえ負け組の人間であるから、屈辱的な思いをしたことも何度もある。それでもどこにも仕官せずに放浪を続けたのは、部下たちがいたからだ。彼らが次の人生を見つけるまで面倒を見る、というのが上に立つ者の責任だ。何もかもを放り出して逃げ出した最後の将軍のような真似はしたくなかった。
そして今、かつては何十人もいた部下たちもそれぞれに新しい人生を見つけて、蒼紫の許に残ったのは四人。様々な理由でまともに生きてはいけない者たちばかりだ。多分これからも、この四人と生きていくことになるだろう。今でも時々やってくる仕官の話を蹴る度に一寸惜しいことをしたかなと思うこともあるけれど、絶対的な主を持たない放浪生活も悪くはない。主人のために何もかもを諦めるようなことは、旧時代のうちだけで沢山だ。
そんなことを考えていると、漸く女中頭が部屋に入ってきた。上品ではあるけれど、人を見下したような印象を受ける中年の女だ。
「お待たせいたしました。それでは奥様に挨拶をしていただきましょうか」
「ああ………」
大奥にもこういう上臈はいたなあ、と内心苦笑しながら、蒼紫は無表情で立ち上がった。
今回の仕事は女しかいないこの家の護衛―――――というのは建前で、本当の仕事はこの家の女主人が勝手に外に出て行かないように監視することなのだそうだ。使用人を監視するというのはよくあることだが、主人を監視しろと言われるのは初めてのことだ。
この家の主人ということになっている女は、一寸訳ありの女らしい。“世が世ならやんごとない身分”の女だと女中頭は説明したが、言葉の端々に例の見下す様子が窺われて、本当にやんごとない高貴な女であるかも蒼紫には疑わしく思われた。けれど重大な秘密を握っているらしいことは確かで、蒼紫が女主人について質問をするとそれには全く答えない。
女中頭の話を聞いていると、彼女の主人はこの屋敷の主人の女ではなく、別の人間のようだ。そういえば、蒼紫にこの話を持ちかけてきた人間も、女主人の筋の者ではない、胡散臭い男だった。この家は一体どうなっているのだろうと奇妙に思わないわけではなかったが、裏にどんな事情があろうと蒼紫の知ったことではない。蒼紫と、彼が引き連れている四人をまとめて引き受けてくれるのなら、本当の主人が誰であろうと関係無かった。
「奥様はとても気難しい方でいらっしゃいますから、言動にはくれぐれも注意してくださいね。これまでも奥様がご機嫌を損ねられて何人も護衛を辞めさせていますから」
「ほう………」
前を歩く女中頭の注意に、蒼紫は面白そうに声を上げた。
大人しく閉じ込められている女かと思ったら、なかなか骨のある女らしい。護衛を辞めさせるほどの機嫌の損ね方というのがどういうものかは想像がつかないが、面白そうな女である。
にもそれくらいの強さがあったなら、もしかしたら自分たちはもっと違う今を生きていたかもしれないと、蒼紫はふと思った。勿論、だけのせいで二人が離れ離れになってしまったわけではないけれど。でもあの大奥炎上の夜、が何もかもを捨てて一緒に逃げてくれていたなら、きっと違う今があったと思うのだ。
は今頃どうしているのだろうかと思う。此処の女主人のように外に出ない生活をしていると聞いているが、此処の女主人と違って大人しく閉じ込められているのだろうか。最後の夜、「外のことは考えんようにした」と言っていたが、今も外の世界のことは考えずにひっそりと生きているのだろうか。最後の夜に一瞬だけ見せた凍りついたような無表情で過ごしているのだろうか。
もう一度会いたい、と蒼紫は発作的に思った。大人になったを、一目で良いから見たい。一目で良いから、あの笑顔を見たい。
此処の女主人は身分は高いそうだから、その周辺からの情報が入らないだろうか。この東京にいるのは確かなのだし、彼らの世界はひどく狭いものだから、どこかで“和宮”に繋がるはずだ。
そう思ったら、今すぐにでも知りたくなった。いつもなら思いつきで言葉を発しないのに、蒼紫は衝動的に女中頭に言葉をかけた。
「一つ訊きたいことがある」
それでもどうにか落ち着いた口調を装う蒼紫に、女中頭が咎めるように一瞥した。
「あなたは何も知らなくて結構。与えられた仕事にだけ専念していただきます」
質問の内容も聞かずに突っ撥ねられるとは思わなかった。どうやらこの屋敷には、蒼紫の予想以上の秘密があるらしい。
女中頭は続けて、
「それからあなたが連れてきたあの四人のことですけど」
「ああ、彼らは優秀な隠密だ。給金以上の働きはする」
それまで無表情だった蒼紫が、あからさまにムッとしたように眉を顰めた。
どこへ行っても、四人の部下たちは蒼紫の荷物のように扱われる。確かに異形の者ばかりで、まともな働きをするのだろうかと不審がられても仕方が無いところはあるが、けれど働きも見ずにそう見下すような言い方をされて蒼紫も面白かろうはずはない。異形異様の姿をしていても、王城・江戸城を守った隠密なのだ。その誇りだけは、明治の世になった今でも譲れない。
蒼紫の表情の変化に一瞬怯んだ表情を見せたが、女中頭はそれでもすぐに元の見下すような表情に戻る。その表情はともかく、何があっても平素の態度を崩さないのは大したものだと、蒼紫は見当外れな感心をした。いついかなる時でもこの表情を崩さないのが、彼女の矜持なのだろう。
「あの四人は、奥様の前には姿を見せないようにしていただきたいのです。あのような者たちを奥様の目に触れさせるわけにはいきませんからね。それは徹底してください」
“あのような者たち”―――――これまで何度も蒼紫に投げつけられてきた言葉だ。最初のうちこそ、大事な部下を馬鹿にされたと憤っていたものだが、10年も過ぎると慣れた。御庭番衆としての蒼紫たちを知らない雇い主たちにとっては、他人とは違う姿をしているというだけで四人の部下は賤しむべき存在なのだ。まあ4人の実力を知れば大人しくなるのだから、今ではどんな言葉も軽く聞き流せるようになったのだが。
「了解した。出来るだけ彼らには表に出ないようにさせる」
「“できるだけ”ではありません。“必ず”お願いします」
厳しい声で強く念押しすると、女中頭は扉の前で足を止めた。そしてそれまでの見下すような声とは別人のような慇懃な声で、
「奥様。新しく入った護衛の者が挨拶に参りました」
「お入り」
少し訛りのある凛とした声で、中から返事があった。まだ若い女の声だ。
その声を耳にした瞬間、蒼紫は心臓が跳ね上がる思いがした。声音は違うけれど、これと同じ声質の女を知っている。
今すぐ扉を開けて確かめたい衝動を必死に堪えて、蒼紫は女中頭が扉を開けるのを待つ。
勿体ぶるようなゆるゆるとした動きに苛立ちを思えたが、中の人物の姿を認めた瞬間、此処に来て感じた不快な感情が一瞬にして消し飛んだ思いがした。
それまで刺繍をしていた手を止めて椅子から立ち上がった女主人は―――――
<―――――!>
思わず叫びそうになったが、蒼紫は寸でのところでどうにか押し止めた。
最後に会ったあの頃に比べると背が伸びたし、顔の輪郭も少し細くなったようだが、間違いない。あの頃は御所風の装いをしていたが、今は新しい時代に合わせてか西洋風に髪を結い上げてドレスを着ている。
は何の感情も表さない無表情で蒼紫を一瞥すると、女主人の貫禄で女中頭に言った。
「もうええ。お下がり」
「は?」
何を言われたのか理解できないようなきょとんとした顔をして、女中頭は頓狂な声を上げた。今日初めて顔を合わせた使用人と、主人が二人きりで話をするということは通常ありえないから当然だ。
が、は不快そうに僅かに眉を顰めて強い口調でもう一度言う。
「お下がり言うたんや。うちはこの人と二人で話がしたい」
「しかし………」
「何回言わせるんや。お下がり!」
食い下がろうとする女中頭に、は痺れを切らしたように突き刺さるような鋭い声を上げた。
二人の遣り取りを興味深く眺めながら、昔のだったらこんな声は上げなかっただろうと蒼紫はちらりと思った。大奥の百戦錬磨の女たちに揉まれて、強くなったのだろうか。今のなら確かに、護衛を次々と辞めさせられるかもしれない。
の剣幕に恐縮したように出て行く女中頭を横目で見送ると、蒼紫は再びを見た。
「びっくりしたやろ?」
漸く口許を綻ばせて、は悪戯っぽく笑った。その顔は蒼紫が知っている少女の頃のままで、蒼紫も思わず口許を綻ばせる。変わってしまったと思ったけれど、は何も変わってはいないらしい。
「ああ、いろいろな意味でびっくりした。しかし、随分と強くなったもんだな」
皮肉でも嫌味でもなく、素直にそう思った。今のにはあの頃のような少しおどおどした様子は微塵も無く、傅かれるのが当たり前の人間だけが持つ堂々とした雰囲気を纏っている。
十余年の大奥生活のうちに、は“和宮”になりきることが出来たのだろう。蒼紫が戸惑いながらも“御頭”になれたように、与えられた役を演じ続ければ、人間というものはその役に順応できるものらしい。
蒼紫の言葉に、はあの頃と同じ心から楽しそうな笑顔を見せた。
「強うならんといかんよって、公方さんにずっと言われてたんや。うちらは周りの人形やけど、それでも強うなったらいつか、周りを従わせることが出来るて。天璋院さんがそうやったって。そやからうち、周りを窺うん止めた。だって、うちが宮さんやし、御台さんやもんな」
「将軍が………」
あの頃、将軍と“和宮”は中睦まじい様子だと聞いていたが、本当だったらしい。その睦まじさは、夫婦のものというよりも、同じ境遇で励まし合っている同志のようなものであったが。
けれど自分がいない間に将軍がを励まして守ってきたのだと思うと、蒼紫は胸に棘が刺さったような小さな痛みを覚えた。嫉妬ではないけれど、自分がやりたかった役割を横取りされたようで悔しい。
蒼紫の気持ちを察したのか、は微笑を浮べたまま彼の方に踏み出した。そして宥めるように蒼紫の頬に手を伸ばす。
「うち、蒼紫のこと忘れたこと、一度もあらへん。公方さんは優しゅうしてくれはったけど、でもうちにはあんたしか居らんから………。我が儘言うて護衛を何人も辞めさせたんも、いつか蒼紫に会えるかもしれんて思うたからやもん」
「………」
頬に当てられた手に、蒼紫は自分の手を重ねる。
一度も忘れたことが無いのは、蒼紫も同じだ。大政が奉還された時も、江戸城が無血開城された時も、蒼紫が一番気がかりだったのは将軍のことでも御庭番衆のことでもなく、のことだったのだ。京に戻ったと聞いた時だって、自分が一人であったなら追いかけたかった。
一度は「うちのことは忘れて」と言われたけれど、そんなことできるわけがない。初めて会ったあの日、に見つけられてからずっと、蒼紫はのものだったのだから。との約束を守ることだけが、蒼紫の全ての行動の理由だったのだから。
“運命の出会い”なんて信じてなかったけれど、もしそんなものがあるのなら、あの日のあの出会いがそうだろうと蒼紫は思っている。そうでなければ、大奥を逃げ出そうとして失敗した夜でもう二度と会えなくなっていたはずの二人が、こうやって二度も再会できるはずがない。
「―――――」
大奥炎上のあの夜と同じように蒼紫はの身体を強く抱き締めた。あの時は夢でないことを確かめるための抱擁だったけれど、今は違う。もう二度と離れ離れにならないことを誓う抱擁だ。
「これからは、ずっと俺が守るから。この家の外の人間からも、中の人間からも………」
「蒼紫………」
苦しげに息を漏らしながらも、それでもは嬉しそうに呟く。息も出来ないほど苦しいけれど、でも苦しいくらい抱き締めてくれるのが、蒼紫の気持ちの強さを表してくれているようで嬉しい。初めて抱き締められた時も、嬉しい気持ちをに伝えたくて抱き締めてくれたことを思い出した。
同じように嬉しい気持ちを伝えたくて、も蒼紫の背中に腕を伸ばして、負けないくらい強く抱き締めた。
やっと終わりました。いやあ、長かったですねぇ。自分でもこんなに長い話になるとは思ってなかったですよ。
史実無視のご都合主義ドリームになってしまいましたが、これを書きながら和宮偽者説をきちんと勉強したいなあと思いました。勉強するには面白そうなテーマじゃないですか?
全部読み返してみると、何というかストーリー展開が韓国ドラマの影響を受けてますね(笑)。主役に大きな秘密があって、二人の関係に何かが起こる時は大きな事件があって、一旦別れがあってそれでも大団円という。私、今一番好きなものの影響を受けやすいみたいなんですよね(笑)。
こんな話になりましたが、アイディアを下さったみわさま、ありがとうございました。それと、ここまで読んでくださった皆様もありがとうございました。