運命が引き寄せる<中編>
和宮は替え玉だった―――――の口から真実を聞かされた後、どうやって御庭番衆の詰所に戻ったか憶えていない。がそう遠くないうちに将軍に嫁ぐのだということで頭が一杯になって、それ以外のことを考えられなくなってしまっていたのだ。
御台所になってしまったら、一生大奥の外には出られない。大奥の最も奥にあるという御台所の部屋には流石の蒼紫も忍び込めないし、第一御台所の許へ忍んで行ったことが知れたら、蒼紫だけでなく御頭や他の仲間まで打ち首になるだろう。
けれど、もう二度とに会えなくなるのは嫌だ。あの柔らかな声も可愛らしい笑顔も、自分以外の誰かに独占されるのは、たとえ相手が将軍であっても許せない。
だって、大奥が嫌いと言っていた。周りはみんな敵だから、いつか此処から連れ出してくれと目に涙を溜めて蒼紫に頼むくらい、大奥が嫌いなのだ。そんなところに一生閉じ込められたら、きっともうあんな風に笑えなくなってしまう。
“いつか”ではなく、今すぐにでも連れ出そう、と蒼紫は突然思った。婚儀までもう十日もない。御台所になったら物理的にももう蒼紫の手の届かないところに行ってしまうのだから、連れ出すなら今しかないのだ。
そう思ったら、居ても立っても居られなくなってきた。一旦は詰所まで戻ったものの、蒼紫は再びの部屋に戻った。今度は持ち出せるだけの金と愛用の小太刀を持って。
「」
既に布団の中に入っていたに、蒼紫が天井裏から呼びかけた。
まだ眠ってはいなかったのか、その声にはびっくりしたように飛び起きた。
「どないしたん?」
「今から出よう。今だったらまだ警備も手薄だし、きっと逃げられる。二人で京都に行こう」
そう言って蒼紫は天井から降りてくると、の手を取る。その手を、もきゅっと強く握り返した。
先の将軍の御台所であった天璋院の部屋には常に女の隠密が控えて警護をしているのだが、“和宮”の周辺には誰も付いていなかったらしく、二人は易々と大奥を囲む塀まで出ることができた。京方は関東方の申し出をことごとく撥ねつけていたというが、警護まで撥ねつけていたらしい。警護まで撥ねつけるとはとんでもない話だと蒼紫は今更のように思ったが、しかしそれが二人には幸いした。
このまま宵闇に紛れて江戸城を出て、夜を徹して行けるところまで行こう。関所は勿論通れないから、街道とは違う山道を通らなければならなくなるだろう。が付いてこれるかが心配だったが、でも捕まらないためにはその道を通るしかないのだ。
これからの旅は、きっと今迄で一番辛い旅になると思う。一人で行くのの二倍どころか三倍も四倍も大変なことになるだろう。でも一緒にいるのはだから、どんなに大変でもきっと我慢できる。蒼紫は繋いでいる手をぎゅっと握り直した。
「本当に良いのか? 此処の外に出たら、もう御所や大奥みたいな何不自由無い生活は出来ないんだぞ。碌に食べることもできなくなるだろうし、京都まで行くのだってまともな道は通らないんだ。途中で帰りたいって泣いても戻れないけど、それでも良いのか?」
石塀の前で、蒼紫はもう一度念を押す。には出来るだけ不自由な思いはさせたくないけれど、いくら優秀な隠密でもまだ13歳の子供なのだから限界がある。碌に歩いたことも無いだろうには過酷な旅になることは必至だ。
けれど、はにっこりと微笑んで、
「平気。うち、こう見えても去年の今頃まではお末の仕事をしてたんよ。ついこの間まで碌に食べられん生活もしてたし、平気や」
の意外な言葉に、蒼紫は驚いて握っていた手を見た。の手は白くて柔らかくて、箸より重いものを持ったことが無いように見える。たった1年やそこら御所で過ごしただけでお末の手がこんなになるなんて、禁裏の中というのはどんな世界なのだろう。
けれど、が貴人ではないと知って、蒼紫は何だかとてもほっとした。和宮の替え玉をやるくらいだからそれなりの家の娘なのだろうと勝手に思い込んでいて、心のどこかに引け目を感じていたのだろう。でも自分と同じような生まれなのだと知って、今まで以上に親近感を覚えた。は蒼紫が好きになってはいけない娘じゃない。そう思えるのが嬉しかった。
「じゃあ………」
「ぅわっ………?!」
いきなり蒼紫に横抱きに抱え上げられて、は小さく悲鳴を上げた。
「塀を飛び越えるから、しっかりつかまってろ」
目の前にそびえ立つ白壁を真っ直ぐに見据えて、蒼紫は硬い声で言う。一人でだったら簡単に飛び越えられる高さだが、を抱えてとなると助走が必要だ。
蒼紫は一つ深呼吸すると、地面を蹴って走り出した。が―――――
「そこまでっ!!」
男の鋭い声に、蒼紫の脚が固まった。
声の方を見ると、いつから潜んでいたのか、大木の陰から壮年の男が現れた。その男が誰かということに気付いて、蒼紫の顔が強張る。
「“翁”」
翁は御頭と同等の能力を持つ隠密だ。蒼紫も御庭番衆の中ではかなりの使い手で、次の御頭は確実と言われているけれど、でも今の時点ではまだ翁に勝つことは難しい。稽古の時は三回に一回は勝てるようになってきたけれど、実戦で、しかもを守りながら戦うとなったら、多分勝てない。
けれど―――――蒼紫はを抱く手に力を込める。けれど翁を倒さなければを連れ出せないのなら、戦うしかない。
強い視線で睨みつける蒼紫に、翁がゆっくりと近付きながら言う。
「蒼紫。今だったらまだ何も無かったことにしてやる。御頭も、毎晩大奥に忍び込んでいたことは大目に見てやると言っている。だから、宮様を部屋へ帰せ」
その声は説得するような優しい声音だが、逆らえない強さを帯びている。いつもだったらこう言われたら渋々ながらも従う蒼紫であるが、今日だけは違う。のことだけは、相手が翁でも御頭でも、将軍であったとしても譲れない。
蒼紫はをそっと地面に下ろすと、翁から隠すように背後に立たせて小太刀を抜いた。
「断る。それにこの子は和宮じゃない。偽者なんだ。だからこの子を逃がしてやるんだ」
「蒼紫………」
刀を向けられているというのに、翁は聞き分けの無い子供を見るような目で深い溜息をついた。その少女が“本物の”和宮であるかどうかなど、今は問題ではないのだ。大奥から女を連れ出すということ自体が、打ち首ものの大罪なのである。
自分の感情よりも与えられた任務を優先するように育てられたはずだし、実際に今まで一度も我が儘をいったことの無い少年だった。何かを望んだり求めたりすることも無く、この歳の少年として大丈夫なのだろうかと翁自身も少し心配していたくらいだったのに、否、だからこそなのか、これほどまでに儘ならぬものを欲しがるとは。
蒼紫にとっては初恋なのだろう。できることなら翁だって、蒼紫の初恋を成就させてやりたい。けれど今回は相手が悪すぎるのだ。
今にも飛び掛りそうな目をしている蒼紫に、翁は言葉を続ける。
「その子が偽者なのは、公方様もご存知だ。あの二人が報告してくれたからな」
翁の視線が自分を通り過ぎているのに気付いて、蒼紫は慌てて振り向いた。そこにいたのは二人の腰元で、勿論その二人も隠密だ。
“和宮”の部屋周辺からは江戸の人間を遠ざけていると聞いていたのに、と蒼紫は舌打ちをした。が、考えてみれば蒼紫が造作も無くの部屋に忍び込んで行けたのだから、同じ隠密の二人があの周辺を探れないはずはないのだ。
翁だけでなく、あの二人まで相手にするとなると、流石に蒼紫の表情にも怯んだ様子が窺えた。そこを畳み掛けるように、翁は更に言う。
「今更偽者と騒ぎ立てたところで、いらぬ混乱を招くだけだ。下手をすると、そのまま公武合体の流れまで壊れてしまう。それならば、このまま騙された振りをして婚儀を進めようと“表”が決めたんだ。幸いその子は、本物の宮様と違って健康そうだし、御世継ぎも期待できそうだしな」
「そんな………」
偽者であることを暴露すれば少しは翁の態度も変わると思ったのに、逆に偽者相手でも婚儀を強行すると宣言され、蒼紫は呆然としてしまった。“表”の事情というのは蒼紫には全く判らないが、偽者でも婚儀を進めるなんて信じられない。確かにこの結婚は本人たちの意思を全く無視した政治的なものだけど、それは御所と幕府の問題で、が巻き込まれることではないはずだ。
後ろに立っていたが、縋るように蒼紫の忍装束の袖を掴んだ。翁の視線から隠れようとしているのか、蒼紫の背中に回って身体を小さくしている。
「国のためだ。その子のことは諦めろ」
「嫌だ!」
翁の言葉を最後まで聞かず、蒼紫は叫んだ。国のためとか幕府のためとか、そう言い聞かされて蒼紫はこれまで色々なことを我慢してきた。だけどだけは、国のためであっても譲れない。に犠牲を強いる国なんて、どうなっても知ったことではない。
こうなったら強行突破しかない。蒼紫は小太刀を構え直した。
それを見て翁は諦めたように小さく息を吐いた。今の蒼紫にはもう、しか見えないのだろう。思い込んだら一直線という傾向は昔からあったが、こんなところでそれが発揮されるとは。
蒼紫は将来有望な隠密だ。出来ることならこんな所で、こんなことで潰したくはない。適当に痛めつけたところで偽和宮から引き離すしかないな、と翁も腕に仕込んでいた鉤棍を構えた。
恐らく、決着は一瞬。二人が動いたら終わりだということは、武道のことを何も知らないにも判った。
「………蒼紫」
震える硬い声で、が囁いた。
「もう、ええよ。うち、大奥に戻るから」
蒼紫と二人で此処から逃げ出したかった。昔の貧しい生活に逆戻りをしてしまうのは分かっていたけれど、でも二人ならきっとやって行けると思った。辛い旅も、食うや食わずの生活も我慢できる。でも、蒼紫が自分のために傷付くのは我慢できなかった。
これから待っている大奥の生活は、きっとにとって辛いものになるだろう。将軍は全てを知っているらしいけれど、大奥四百人の女たちを一生騙し続けなければならないのだ。御所での一年近くの生活も気が狂いそうだったのに、それが一生続くのだと思うと本当に気が狂ってしまうのではないかと思うけれど、でも目の前で蒼紫があの隠密に傷付けられるのを見たら、きっと気が狂うどころではないだろう。
自分さえ我慢すればこの場が収まるのなら、いくらでも我慢する。そもそも、「いつか此処から連れ出して」という約束をが強要したからこんなことになってしまったのだ。
「此処まで連れて行ってもらって、うち、とっても嬉しかった。今日のこと、一生忘れへんから。蒼紫と一生会えんくなっても、忘れへんから。だから蒼紫も、うちのこと忘れんといて。な?」
そう言いながら涙が出そうになるけれど、は必死に笑顔を作る。ここで泣いたら、蒼紫はきっとのために戦うから。それに、蒼紫に最後に見せる顔は、泣き顔ではなく笑顔を見せたかった。
「………」
途方にくれたように、蒼紫はゆっくりと小太刀を下ろした。笑ってはいるけれど目には涙を溜めていて、そういう表情を作るしかないと思っているの気持ちが痛々しかった。そんな顔を作られるくらいだったら、泣かれる方がずっとマシだ。
どんなことがあってもを守ると約束したばかりなのに、それさえも出来ない自分が情けなくて腹立たしかった。自分が子供であることを、こんなに憎んだことはない。大人だったら、もっと偉くなっていたら、もしかしたらもっとちゃんとを守ってあげられたのかもしれないのに。
悔しそうに唇を噛み締めている蒼紫の顔を見上げたまま、はそっと袖を掴んだ手を離した。そしてもう一度晴れやかな笑顔を見せると、後ろの腰元たちの方へ歩いていく。
「面倒おかけしました。御免なしておくれやす」
深々と頭を下げるに女たちは一言も口を利かず、無表情のままの手を取って大奥の方へ歩いて行った。
その後ろ姿を見ながら、蒼紫は誰よりも強くなろうと決心した。誰よりも強くなって、絶対に御頭になって、のいるこの江戸城を守り抜こう。もう二度と会えなくても、を守るためだけに此処にいようと、蒼紫は思った。
それから二年が過ぎた。大奥のことは蒼紫には殆ど伝わってこなかったが、“宮様”に御懐妊の兆しがあるらしい、否それは間違いだったらしい、ということは何度も伝わってきて、その度に一喜一憂していた。が将軍の世継を孕むなど、考えたくもなかった。
噂によると、将軍は“宮様”だけを妻として、側室を置いていないという。偽者とはいえ、一応御所に遠慮しているということもあるのだろう。しかし上洛する度に“宮様”が喜びそうな土産を山ほど持ち帰り、それはそれは夫婦仲睦まじい様子だと聞く。きっと将軍も昔の蒼紫と同じように、のあの笑顔を見たくて一生懸命なのだろうと思う。
そしてこの年、蒼紫は御庭番衆の御頭になった。15歳の御頭というのは、史上最年少だという。を守るために誰よりも強くなりたいと脇目も振らず修行に勤しんだ結果だ。それでも、大奥にいるを直接守ることは出来なかったのだが。
この二年間、ずっとのことを考えていた。初めて会った日、「少進も能登も嫌い。みんなうちの敵」と言っていたけれど、今もそうなのだろうかとか、御所から付いてきた侍女たちのように無表情の女になっていないだろうかと心配したり、自分だけに話してくれた京都の話を将軍にも話しているのだろうかと嫉妬してみたり、会えないだけに色々と考えてしまう。
そして何より一番気になるのは、今もまだ自分のことを憶えていてくれているだろうかということ。のために何でも買い与えてくれる将軍に心を移して、蒼紫のことなどすっかり忘れてしまっているのではないかと不安になる。御頭になった自分を見せたいけれどそれも叶わないし、今のがどうなっているかも蒼紫には判らない。大奥の屋根を見るたびに、会いたいと切なく思う。
そうやってその夜も詰所の窓から大奥の方を眺めていると、急に空が明るくなるのが見えた。
「何だ?!」
空が朱色に染まっていく。大奥の何処かが炎上しているらしいと考えが到った刹那、蒼紫は寝巻きのまま大奥に走り出した。
詰所から見た時はそうでもないように見えたが、近くで見ると火の回りは思いの外早いらしい。白壁の向こうからは女たちの悲鳴が聞こえて、駕籠を用意しろだの何だの聞こえてくる。大奥では火災の避難の時も貴人は駕籠で動くという馬鹿げた規則があるとは聞いていたが、この火の勢いでは駕籠を用意しているうちに御台所の部屋まで火の手が回ってしまう。
蒼紫は白壁を飛び越えると、なるべく火の回りの遅そうな所から建物の中に入った。御台所の部屋は、大奥の図面を一度見せてもらったことがあるから大体判る。
御台所の部屋に行くまでに何人かの腰元や中臈と擦れ違ったが、誰も蒼紫を見咎める者はいなかった。みんな自分のことで精一杯な上に、蒼紫自身がまだ大人の男の身体に出来上がっていないことが幸いしたのだろう。御頭にはなったものの、まだ少年の華奢な骨格のままで髪も長く下ろしていたから、上臈の侍女と勘違いされたのかもしれない。いつもは早く大人の骨格になりたいと思っていたのだが、今回はこの身体で幸いだった。
火の手はまだ来ていないけれど、もう煙で前が見えない。こんなに煙が充満していると、焼け死ぬより先に煙に撒かれて死んでしまいそうだ。はまだ大丈夫だろうか。
煙を吸い込まないように手で鼻と口を覆って、蒼紫はの部屋に走った。
「っっ!!」
襖を乱暴に開けると、そこも既に煙が充満していた。
邪魔な几帳や調度品を蹴散らしながら部屋に入っていくと、御簾の向こうから小さく咳き込む声が聞こえた。の声だ。
「っっ!!」
御簾を捲ると、布団の上に蹲っているの姿があった。おそらく、駕籠を持ってくるから待っていろと言われて、逃げもせずに素直に待っていたのだろう。
本当の名前を呼ばれて、は両手で口と鼻を覆ったまま驚いたように跳ね起きた。
「………蒼紫?!」
信じられないものを見るような目で、は蒼紫を見上げる。大奥はこんな非常事態でも男子禁制を守っているはずなのに、蒼紫が此処まで来るなんてありえないことだから当然だ。
「なんで此処に………?」
「話は後だ!」
驚きで惚けた顔をしているの手を引っ張ると、傍に掛けてあった着物を引っ掴んで頭から被せた。そして軽々と抱き上げて、
「駕籠なんて待ってたら焼け死ぬぞ。一体何を考えてるんだ」
独り言のように此処にいない侍女たちに悪態をつくと、蒼紫はそのまま走り出した。
火の手はもうこの周辺にも回っていて、もう女たちが避難している正門辺りまで行くのは無理だ。を運ぶはずの駕籠も、どこかで立ち往生していることだろう。こうなるから避難用の駕籠など無意味なのだ。蒼紫が駆けつけなければ、は煙に撒かれて死んでいたか焼け死んでいたところだろう。此処を脱出したら、絶対に避難体制の改善を進言しようと、蒼紫は密かに思った。
まあ今はそんなことよりも、外に出ることが先決だ。焼け落ちる梁や柱を避けながら、蒼紫は縁側のある部屋に走った。
縁側から庭に下りると、建物から離れたところまで走って、漸くを下ろした。頭から被っていた着物を取ってやると、煤で汚れているけれど、あの頃と変わらないの顔があった。煙で目をやられたのか、それとも怖ろしくて泣いていたのか、兎のように目が充血している。二年前と同じ野兎のままだと、こんな時なのに蒼紫は嬉しくなった。
「大丈夫か? どこも怪我してないか? もう大丈夫だからな」
安心させるように優しく言いながら、蒼紫は着物の端での顔を拭ってやる。そうしてやることで漸く自分が助かったのだということを理解したのか、それまで唖然とした表情のまま固まっていたの顔が一気にくしゃくしゃになった。
ぽろぽろと大粒の涙を流して、は蒼紫に抱きついた。今までの緊張が一気に解けたかのように声を上げて泣くの背中を、蒼紫は何度も優しく擦ってやる。
「もう……会えへんと思うとった………」
「俺も……。こんなことがなければ、一生会えなかった」
がそこにいることを確かめるように、蒼紫は彼女の身体を強く抱き締める。こんなことがなければ、こうやってを抱き締めることもできなかった。
今頃、大奥の上臈や中臈たちは“和宮”を避難させられなかったことで大騒ぎをしているだろう。まさか此処に逃げ出しているとは思っていないだろうから、暫くはこうやって二人でいられる。これを最後に本当にもう会えなくなるだろうから、せめてこの間だけはこうやってを抱いていたい。
一旦身体を離すと、蒼紫はの顔を両手で包み込むようにして自分の方を向かせた。涙に濡れたその顔を真っ直ぐに見詰めて、蒼紫は意を決したように硬い声で言った。
「今度こそ二人で逃げよう。今なら混乱に乗じて逃げられる」
火事の騒ぎで、“奥”は勿論“表”だって警護は薄くなっている。この隙に逃げ出せば、今度こそ誰にも邪魔されないはずだ。上手くすれば、“和宮”は火災で死んだと思われるかもしれない。そうすれば、は完全に自由になれる。
けれどは喜ぶどころか、悲しそうに目を伏せて小さく首を振る。
「うちが居んようになったら、困る人が一杯いるもん。うちに何かあったら今上さんに死んで詫びなあかんて、少進たちが言うとった。うちが此処から逃げ出したら、少進も能登も自害するって」
「そんなの、脅しに決まってるだろ! お前が逃げないようにそう言ってるんだ」
「脅しやない。少進が袂に薬を忍ばせてるの、見たことあるもん。京都から来たみんなが同じの持ってるて言うてた」
「そんなの―――――」
そんなの気にしないで逃げれば良いじゃないか、と言いかけて、蒼紫は口を噤んだ。そんなことが出来るくらいだったら、はもう蒼紫と大奥の外に出ている。
二年前もそうだった。自分さえ我慢すれば全てが丸く収まると思って、蒼紫と翁が戦わないように自分から大奥に戻るような娘なのだ。が出て行くならみんなで自害すると脅されれば、また自分さえ我慢すればと思うのは当然だ。
そうやって、は一生我慢して生きていくつもりなのだろうか。自分のことは全部押し殺して、周りの意向を伺って生きていくのだろうか。
黙り込んだまま呆然としている蒼紫に、は二年前の別れの時と同じように柔らかく微笑んだ。
「うちな、もう外のことは考えんようにしたんや。だからもう、一生此処に居ってもええ。蒼紫も御庭番衆の御頭になったんやろ? 隠密の人から聞いた。御頭が江戸城を離れたらあかんよ」
「………」
「また蒼紫に会えただけで、うちは満足してる。きっと今日で一生分の幸せ、使い果たしたんやろうな」
その言葉とは対照的に、は本当に晴れやかな顔をしている。二年前、毎晩の部屋に通っていた時にも見られなかったほどの、幸せそうな明るい笑顔だ。
は自分の顔を包んでいる蒼紫の手に、自分の手を重ねた。そして、その手の温もりや形を忘れまいとしているかのように何度も撫でて、
「だからもう、うちのことは忘れて」
「なっ………?!」
の言葉に、蒼紫は絶句した。
「うちのために蒼紫が危ない目に遭うのは嫌やもん。だからもう、うちのことは忘れて」
そう言って自分の顔から蒼紫の手を離していると、遠くで女たちの声が聞こえた。炎が静まってきて、漸く“和宮”を救出に来たのだろう。
は慌てて立ち上がると、さっきまで泣いていたのが嘘のような無表情になる。きっとそれが“和宮”の顔なのだろう。大奥の中では蒼紫に見せるようには笑わないのだろうかと思うと、蒼紫は少し寂しい気持ちになった。
「人が来るから、はよ帰り」
のものとは思えない感情のこもらない冷たい声に、蒼紫は一瞬ぞっとした。けれどその仮面のような無表情と冷たい声の下には、さっきの泣きじゃくったり可愛らしい笑顔があって、それを必死で押し隠そうとするの姿が痛々しい。
やっぱり外に連れて行こう。蒼紫は声のする方に行こうとするの手を掴んだ。が、はその手を強く振り払う。
「うちのことは忘れてって言うてるやないの! もう二度と此処には来んといて!」
突き放すような無表情で冷たく言い放つけれど、それでもの目には零れ落ちそうなほどの涙が溜まっているのを、蒼紫は見逃さなかった。
「!」
蒼紫はもう一度の手を掴もうと腕を伸ばした。あんな顔をして突き放されても、そのまま放っておけるわけがない。何が何でも此処から救い出してやろう。
が、は間一髪のところで蒼紫の手をすり抜けると、そのまま人の声がする方へ走って行った。
全ての思いを断ち切るかのように全力で走るの後ろ姿を見ていたら、蒼紫は追いかけることすら出来なかった。折角御頭になったのに。を守りたくて、を助けたくて、その一心で誰よりも強くなったのに。それなのにやっと再会できたと思ったら、「うちのことは忘れて」だなんて。
あんな泣きそうな顔で「忘れて」と言われても、忘れられるわけがない。否、憎々しげな顔で言われたとしても、きっと忘れられない。
「勝手なこと言うなよ………」
振り向きもせず走るの後ろ姿を見詰めながら、蒼紫は小さく呟いた。
前後編で話をまとめると言ってたくせに、中編が入ってしまいました。こんなに長い話になるはずじゃなかったんだけどなあ………。次回で必ず完結させます。
相変わらず史実無視の話ですが、まあ“和宮”が偽者って時点でパラレルと思ってやってください。今回は突っ込みどころ満載なので、どこから突っ込んでいいのやら自分でも分かりません(汗)。
何だか暗いまま話が進んでいってますが、ラストは絶対ハッピーエンドなんで。ええ、“運命が引き寄せる”だからハッピーエンドにしますとも!(と、自分に言い聞かせてみる)
ではもう一話、お付き合いください。