空気

 穏やかな日常、というのは自分には無縁のものだと思っていた。子供の頃からずっと御庭番衆として修行と戦いの中に身を投じて、温かな家庭というものすら知らぬ自分が、穏やかな日常など送れるとは思ってもいなかった。というより、穏やかな生活というものがどういうものかも、この歳まで想像もできなかった。
 想像もできない未知のものだけど、こういうことが穏やかな日常というのだろうと、蒼紫は思う。縁側ではが文鳥の籠を掃除している。それを壁に寄りかかって茶を飲みながら眺めている自分の姿というのは、一寸前からは想像もできなかったことだ。完全に“普通の生活”に埋没していると思う。
 と出会うずっと前、まだ“御頭”だった頃は、ともすれば切れてしまいそうなほどに緊張感を漲らせていた。気を緩めることも、誰かに本心をさらけ出すことも許されなかった御頭としての生き方が蒼紫のこれまでの全てであったはずなのに、それさえも今では遠い昔のことのように感じられる。
 こんな緊張感の無い生活は、堕落そのものだと思っていた。今までは。戦うことも無く、無為に日々を過ごすというのは自分には耐え難いことだと思っていた。敵がいない生活、戦いの無い生活というのは、自分にとっては死んだも同然の生活だと思っていた。に出会うまでは。
 戦いの無い生活を死んだも同然と思っていたということは、戦っている瞬間、つまり生と死のギリギリの瞬間しか生きている実感を持てなかったということだ。それこそが死んでいたも同然の人生だったのではないのだろうか。
 と一緒にいる、昔だったら退屈だったに違いないこの穏やかな時間が、今の蒼紫には一番心地良い。あの肌を刺すような緊張感は無いけれど、と一緒にいるだけで凄く嬉しいとか凄く楽しいとか、今まで感じたことの無い甘くて柔らかな感情が生まれてきて、それが何よりも心地良い。そういうのがきっと、世間で言うところの“幸せ”というものなのだろうと蒼紫は思う。
「どうしました? さっきからぼんやりした顔をして」
 番の文鳥の籠に餌を入れてやりながら、が怪訝な顔で尋ねた。その声にはっとしたように、蒼紫は瞬きをする。
「あ、ああ……いや、何でもないです」
「今日は朝から暑いから、少しバテちゃいました?」
「いやあ………」
 可笑しそうにくすくす笑うに、蒼紫は困ったように曖昧に笑った。
 そういえば、こうやって笑って誤魔化すという芸当も、昔はできなかったことだ。部下を鼓舞するためや周りを威圧するために笑うことはあったけれど、楽しいから笑うとか嬉しいから笑うとか、さっきのように何となく笑うということは今まで無かった。と出会って何が変わったかと訊かれれば、これが一番の変化ではないだろうか。
「ちぃちゃん、おいで」
 一羽だけ入れている手乗り文鳥の籠を開けて、は我が子を呼ぶように優しく呼びかけた。と、文鳥は自分から籠を出ての掌に乗る。以前からよく慣れていると思っていたが、此処まで仕込んだとは大したものである。
 掌にさらさらと粟の粒を零すと、文鳥は嬉しそうに小さく羽ばたいて早速掌の上の粟を啄ばみ始める。この文鳥だけは、生まれた時からの掌で餌を食べるように躾けているのだそうだ。『葵屋』にいた時も、朝と晩にこうやって餌をやっていた。
 掌を嘴で突付かれてくすぐったそうにしながらも、可愛くて堪らないといった様子で、は文鳥の姿を見つめている。そんな姿が少女だった頃のを想像させて、蒼紫も目を細める。
 以前は文鳥に構うに苛々して、あんな小さな生き物に本気で焼きもちを焼いていた蒼紫だったが、今は普通にほのぼのとした光景だと思えるようになった。きっと蒼紫の心に余裕が出たからなのだろう。あの頃はまだ、口づけ一つするにしても滑稽なくらい気負っていた。あの頃のような初々しい感情はもう無いけれど、その代わりにが自分のものであるという自信のようなものが、蒼紫の中にはある。
 の家に遊びに行くようになった最初の頃は沈黙が怖くて、とにかく何かを話さなければと内心いつも焦っていたような気がする。いつもに触れたいと思っていて、何とかその機会が無いかと様子を窺ったり、今思えばかなり挙動不審だったと思う。あの頃の自分に何か言ってやれるとしたら、「とりあえずお前は落ち着け」と肩を叩いてやるだろう。そんなことを考えられるくらい、今の蒼紫は心に余裕がある。
 こうやって何も言わずにの姿を眺めているだけでも楽しいと思えるし、触れることが無くても彼女がそこにいるというだけで満たされた気分になる。の気配を感じるだけで十分だと思えるなんて、あの頃に比べたら驚くほどの成長ぶりだ。そんなことを言いながら、今でも、衝動的にぎゅっと抱き締めたくなる瞬間があったりするけれど。
「そこにいて暑くないですか?」
 陽の当たる縁側で餌をやっているに尋ねる。まだ昼前とはいえ、陽射しはきつそうだ。
 けれど、は文鳥に視線を落としたまま、何でもないように、
「風があるからそうでもないですよ」
「ふーん………」
 暑いですねぇ、なんて言いながらこちらに来ないかと思っていたが、には全くその様子が無い。文鳥が餌を食べ終わるまでは、このまま縁側にいるつもりらしい。
 の姿を見ているだけでも楽しいと思うけれど、でも折角傍にいるなら構って欲しいと思うのも人情だ。これまで自分は他人に構われるのは鬱陶しいと感じる性格だと思っていたが、に関しては例外らしい。にだけは、定期的に構われないと面白くない。
 文鳥が食べ終わるまで待っていようかと思っていたが、こういうときに限って食べ遊びというか、一寸食べたかと思うと粟をほじってみたりして、なかなか終わらせる様子を見せない。まるで、蒼紫の思惑に気付いて、わざと時間稼ぎをしているみたいだ。やっぱりこの文鳥は嫌いだと、蒼紫は思う。
 がこっちに来ないなら、こっちから行くまでだ。蒼紫は大儀そうに腰を上げると、の隣に座った。
「ああ、確かに風は涼しいですね」
「もう秋が近いですから。でも、午後になったらまた暑くなりますよ。
 あら?」
 微笑みながら蒼紫に応えた後、再び文鳥に目をやったが可笑しそうな声を上げた。
 蒼紫が傍に来たのを警戒してか、文鳥は餌を食べるのを止めて、身体を丸々と膨らませている。以前、蒼紫から叩かれたのをまだ憶えているのだろう。鳥というのは3歩歩けばすぐ忘れるというけれど、苛められたことというのは案外忘れないものらしい。
「また苛められると思ってるみたい。それとも、四乃森さんが“鳥肉”って言ったから、食べられると思ってるのかしら」
「食べませんよ、そんなの」
 くすくすと笑いながら言うに、蒼紫はばつが悪そうに低く応える。こんなところで文鳥を“鳥肉”呼ばわりして苛めていたことを蒸し返されるとは思わなかった。
「四乃森さんに食べられるといけないから、ちぃちゃんはおうちに戻ろうねぇ」
 蒼紫をからかうように笑いながらそう言うと、は文鳥を籠の中に入れた。蒼紫を追い払わずに自分を狭い籠の中に閉じ込めることに、文鳥は抗議するようにちいちい鳴いたが、出してもらえないことを悟ると面白くなさそうに籠の中を跳ね回る。
 掌に残った餌を庭の方で払うと、そのまま手水鉢のところに行って手を洗う。そして手を拭きながら、
「そろそろ人間のご飯の用意もしなきゃいけませんね。お昼、何を食べたいですか?」
「そうですねぇ………」
 最近、の家に泊まった翌日は昼食まで食べていくようになっている。日によっては夕飯まで食べて帰ることもあったりして、その日だけは何だか本当の夫婦みたいだと思う。
 台所には食材もあまり無かったようだし、今から買い物に行くとなると昼食の時間も遅くなるし、あるもので作るとしたら何があるだろうと蒼紫は腕組をして考える。そういえば蒼紫は、『葵屋』の厨房よりも、の家の厨房にあるものの方がよく把握している。自分の家よりも他人の家の食材の在庫に詳しいなんて、考えてみればおかしな話だ。
素麺そうめんにしましょうか。この前買ったの、まだ残ってますよね?」
「素麺の他には?」
「素麺だけで良いですよ。作るのも暑いでしょう」
「じゃあ、今朝の残りご飯でおにぎりも作りましょうか。四乃森さん、朝もあんまり食べなかったから」
 そう言うと、は軽い足取りで厨房に入っていった。
 一人になって、蒼紫はさっきの会話を思い返す。当たり前のように台所に素麺が残っていることを訊いたり、も当たり前のように残りご飯でおにぎりを作ると言ったり、良い意味で遠慮が無くなってきていると思う。こうやって馴染んでいって、最終的には一緒に暮らすようになるのだろうか。
 20年以上、全く違う環境で育った二人がどうやって一緒に暮らしていけるのだろうと、蒼紫は夫婦者を見る度に不思議に思っていたものだが、自分が現在進行形で相手の生活環境に馴染んでいる今になって漸く納得できたような気がする。同じ時間を過ごして同じものを食べて、そして肌を合わせているうちに、男と女というのは20年以上の空白も埋めることが出来るものらしい。よく出来ているものだ。
 そうやって時間を過ごして馴染んでいくうちに、世間の夫婦者が言う“空気のような存在”になっていくのだろう。遠慮や気取ることが無くなって、相手の存在を特別意識することはなくなるけれど、でもいなくなってしまえば生きていけなくなるような、そういう関係になるのだろうか。まだそこまでの境地には達していないから、よく解らないけれど。
「あっ! いけない!」
 そんなことをつらつら考えていると、厨房からの大きな声が聞こえてきた。
小葱こねぎを切らしちゃってるから、薬味は茗荷みょうがで良いですか?」
 厨房から顔を出して、が申し訳なさそうに尋ねる。
「葱くらい買ってきますよ。ついでに何かいるものがあるなら、一緒に買ってきますけど」
 腰を上げながら、蒼紫は当たり前のように言う。八百屋まで使い走りなんて『葵屋』では絶対にしないし、誰もさせないけれど、此処ではよくやっているのだ。
 が、は遠慮しているのか、胸の前で片手を振って、
「良いですよ。もう外も暑くなっていますし」
「いや、茗荷は嫌いなんですよ。ああいう癖のあるものはどうも苦手で………」
 余程嫌いなのか、蒼紫は軽く顔を顰めて応える。以前だったら嫌いと言うのも遠慮して無理して食べていたけれど、今では嫌いなものを嫌いと言えるようになった。こういう風に食べ物の好き嫌いを主張できるようになったのは、いつ頃からだっただろう。
 あからさまに嫌そうな顔をする蒼紫が可笑しかったのか、は小さく笑って、
「じゃあ、お願いします」
「他に買うものは?」
「そうですねぇ………今日は夕御飯はどうします?」
「ああ………」
 玄関で草履を履きながら、蒼紫は一寸考える。最近『葵屋』では、の家に泊まった次の日は蒼紫の分の夕食を用意してくれていないことが多い。夕食まで食べて帰ることがちょくちょくあるから、どうせ食べてくると思っているのだろう。多分今日も、蒼紫の分は用意されていないと思う。
「お願いします」
「じゃあ、葱だけで良いです。夕御飯の分は、後で一緒に買いに行きましょう」
「はい。じゃあ、一寸行ってきます」
 そう言うと、蒼紫は外に出て行った。
 蒼紫が出て行って、も厨房に戻る。温め直していた残り御飯を蒸し器から取り出すと、おにぎりを握り始めた。
 以前だったら蒼紫にお使いを頼むなんて考えもしなかったなあ、とはおにぎりを握りながら思う。以前だったらきっと、が八百屋に走っていたはずだ。蒼紫が当たり前のように使い走りをするようになったのは、いつ頃からだっただろう。
 それに蒼紫も、以前だったら、あれが嫌いこれが嫌いなんて言わなかった。好き嫌いを言うようになったのは、最近になってからだ。別に偏食家というわけではないが、一寸癖のある食べ物が苦手らしいというのを、は最近になって漸く知った。逆には茗荷とか鰯のつくねとか癖のある食べ物が好きだから、よく蒼紫との食卓にも出していたのだが、最初の頃は相当無理して食べていたのだろう。その時の蒼紫の気持ちを考えると、可哀想だけど可笑しくて堪らない。
 使い走りをさせたり、残り物の御飯を温め直して出したり、いつの間にやら蒼紫は“お客様”ではなくなっている。こうやって少しずつ二人の間に境目が無くなって、いつかは家族になるのだろうか。
 許婚を失ってから、誰かと一緒に暮らす生活なんて想像もできなかったけれど、今は蒼紫と暮らすことがとても自然に想像できる。死んだ彼を忘れてしまったわけではないけれど、でもいつかは蒼紫と一緒に暮らせるようになれればいいなあと思う。好きな人には、「また来ます」と帰られるより、「ただいま」と自分のところに帰って来てくれる方が良いに決まっている。
 出来上がったおにぎりに海苔を巻いていると、からりととが開く音がした。
「ただいま」
 丁度そんなことを考えている時に「ただいま」なんて蒼紫が帰ってきて、は思わずドキッとしてしまった。今まで買い物をしての家に戻ってきた時は、「買ってきましたよ」としか言わなかったのに。
 けれど蒼紫のその声はとても自然で、多分本人も意識せずに言ったのだろう。意識せずにその言葉が出てきたということは、蒼紫が此処を自分が帰って来る所の一つだと思ってくれているということなのだろうか。もしかしたらただの言い間違いかもしれないけれど、言い間違いでも「ただいま」と言ってくれたのは嬉しい。
 そういえば、蒼紫が食べ物の好き嫌いを言うようになったのも、が蒼紫に使い走りを頼むようになったのも、何かきっかけがあったわけではなくて、今みたいな意識しない一言だったような気がする。こんな何気無い言葉から、少しずつ二人の距離は縮まっていくのだろう。
 そんな何気無く出た言葉にいちいち反応していたら、きっと蒼紫も意識してしまうだろう。だから、はにやついてしまう口元を必死に引き締めて、何気無い表情を作って厨房から顔を出して言った。
「おかえりなさい。すぐに素麺の用意もしますから」
 こうやって世の恋人たちは、もしかして一緒に暮らすかもしれない日のための予行演習をしていくのだろうかと、はふと思った。
<あとがき>
 “空気”ということで、何も無い日常風景を書こうと思ったんですが、何も無いだけに盛り上がりもこれといって無く、タルい話になってしまいました。すみません。
 “何も無い日常”を書くというのは難しいですねぇ。流れるような文章というか、時間が止まったかのような穏やかな空気を表現できるような文章を書けるようになりたいです。
 読んでる人の忍耐力を試すようなタルい話でしたが、ここまで読んでくださいまして、ありがとうございました。
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